2018年9月27日木曜日

袁本杼命の后:三尾之倭比賣・阿倍之波延比賣 〔263〕

袁本杼命の后:三尾之倭比賣・阿倍之波延比賣


袁本杼王(継体天皇)、何はともあれ元気に子孫繁栄の道に勤しまれた、失礼ながらそんな記述が続く。病弱で早逝の天皇では皇統維持は難しい、当たり前のことではあるが・・・。最後の娶り関連を述べてみよう。


三尾君加多夫之妹・倭比賣

垂仁天皇が山代大国之淵之女・弟苅羽田刀辨を娶って産まれた石衝別王が祖となったところである。現在の同県京都郡みやこ町光富辺りと比定した。
 
三(三つの)|尾(山稜の端)


<三尾>
…「山稜の端が三つに分かれたところ」と解釈した。図に示したように旦波国を流れる祓川の中流域に当たるところである。

かつては開化天皇紀に旦波之大縣主・名由碁理が住まっていたところとした。草創期に開かれていたが、その後登場の機会がなかった
地である。

古事記はあからさまには語らないが、間違いなくこの「大懸」の解体を画策したと思われる。幾人かの御子を派遣するのであるが、皇統に絡む人材は出て来なかったようである。

開かれた地にはその地なりの歴史が刻まれているのであろうが、ここで再度「三尾」として登場する。下記の通り三尾の地を開拓した人の妹を娶ったのである。「加多夫」は…、
 
加(増やす)|多(田)|夫(連なる川の合流点)

…「連なる川の合流点で田を増やす」君と紐解ける。開化天皇の御子、日子坐王が山代之荏名津比賣・亦名苅幡戸辨を娶って誕生した志夫美宿禰王の「夫」の解釈に類似する。多くの川が合流する様を表した表現であろう。
 
<三尾の御子>
この三尾君の名前から大河の中流域の開拓が進んだことが伺えるのである。

山間の狭い谷間から広々とした領域を、氾濫し蛇行する川の側で大面積の水田にできるようになったのであろう。

この量的拡大は豪族達の質を大きく変えることに関連する。

極言すれば天皇家を凌ぐばかりの勢力を保ち得る財力を生み出すことになる。古事記は大きな時代の変節点に向かうことになる。

蛇行する川…比賣の名前も「倭」=「曲がり畝る」であろう・・・いえいえ、「倭」=「従順で慎ましい」という本来の意味がある・・・両意の解釈を狙った表記であろう。

まさかのまさか、「大和」に置き換えることは無い筈なのだが・・・。


<現在の航空写真>
御子に「大郎女、次丸高王、次耳王、次赤比賣郎女」と記される。男女の区別は難しいが全て三尾で住まうことができたのではなかろうか。

「大郎女」は…、
 
[大]の字の山稜(谷)の郎女

「丸高王」は…、
 
丸く高いところの王

「耳王」は…、
 
耳の地形のところの王

「赤比賣郎女」は、美和河の赤猪子と同様に「赤」を解釈して…、
 
山腹に突き出た複数の稜線の麓で田畑を並べて生み出す郎女

…と紐解ける。上図に纏めて示した。御子達の命名が見事にこの地の地形を表していることが解る。現在は写真のように再生エネルギー利用の施設などで山容は大きく変わっているようである。
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余談だが…日本書紀等から継体天皇の母方の先祖は上記の「石衝別王」とのことである。「三尾」からの娶りが増えることとは繋がる話である。古事記記述の空白部が埋まる?…継体ができればより古代が豊かになるかもしれない。
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阿倍之波延比賣

「阿倍」は孝元天皇の御子大毘古命の子、建沼河別命が祖となる「阿倍臣」で登場したところと思われる。御子「若屋郎女、次都夫良郎女、次阿豆王」の名前からもほぼ確実であろう。とりわけ「都夫良」は既出で安康天皇を亡き者にした目弱王が逃げ込んだ「都夫良意富美」が居たところである。現在の北九州市門司区畑、鹿喰峠辺りと推定した。

「阿倍」はその近隣にあると見て調べると、「大里桜ヶ丘」として開発され団地を形成しているところが浮かび上がって来た。
 
阿(台地)|倍(離れて二つになる)

<阿倍>
…台地が峠に向かう道によって遮られて二つに分かれた様子を示していると思われる。更に…「阿豆」は…、
 
阿(台地)|豆(凹凸のある地)

…団地の対面を表していると思われる。

この地は峠に向かう山間のところ、その後に開拓され繁栄始めた場所だったのであろう。

若屋郎女の「若屋」は…「屋」=「尸+至」=「崖が尽きるところ」と解釈すると…、
 
若(成りかけ)|屋(崖が尽きる)

…「崖が尽きかけるところ」と紐解ける。「阿豆」の更に先に進んだところではなかろうか。「都夫良郎女」は「都夫良」の近隣、都夫良意富美の居た場所と思われる。

倭国の各地が盛んに開拓されている。がしかし、大国を支えるまでには至っていない現状であったと推測される。急速な社会環境の変化に旧の統治体制が追い付いていない、これが様々なジレンマを生じていたのではなかろうか。
 
上記阿倍之波延比賣の「波延」は「都久波」と関連し、美和山(竹和山:現足立山)~戸ノ上山山稜の「端」を示すことに繋がる。関連する記述が全て整合していることが読取れるのである。

継体天皇は上記の波延比賣及び前記した手白髪命と、現在の鹿喰峠を挟んだ地の比賣を娶ったと告げられる。些か影の薄かった「若狭国」に足繁く通ったことになる。これが袁本杼王は即位前に越前を統治していた、と言う、あらぬ解釈を生んだのではなかろうか。