2018年8月10日金曜日

天之日矛 〔245〕

天之日矛


応神天皇紀の説話部分の見直しに突入したが、概ね手を加えるところも少なく、微調整で済まされるようである。難解な歌に溢れるところ、また何度か見直しを必要とするのであろうが、この度は先に進めようと思う。微調整のところ、こちらを参照願う。

さて、これも何度も登場の新羅の王子、天之日矛さん、必要にかられて彼の後裔達の紐解きはかなり進んだようでもあるが、今一度整理をしておこうかと思う。また、現在の比定地近くが大幅に地形変化しているところと思われる「伊豆志」関連、どうにか紐解いたので併せて述べるつもりである。

ところで、新羅の王子と言いながら、「天」が付く。大国主命の子孫達の娶りの記述から、当時は日常の出来事として新羅(韓国慶尚南道金海市・昌原市)⇄天(壱岐市)の往来があったことを伺わせる記述と紐解いた、勿論限られた人々だけであったろうが・・・。


<天之日矛>
ならば本籍「新羅」、現住所「天」、またその逆もあり得たかもしれない。それが「天之日矛」の名称の背景かと推測される。

それで天の現住所(本籍)を求めてみたくなった、という訳である。

と言っても簡単ではない、何と解釈するのか?…やはり「日」=「火、炎」、「矛」は「比古」とできそうだが、ここでは通用しないようである。

取り敢えず、それぞれが地形を示すとして並べてみると…、

日([火]の地形)|矛([矛]の地形)

…「三つの[火]の頭のように並んだ[矛]の地形」と紐解いてみる。現地名壱岐市勝本町本宮仲触に見出だせる。実はこの地、新羅の王子、布忍富鳥鳴海神の御子「天日腹大科度美神」が坐したところに隣接する。余程「火」がお好きなのか・・・余談です。

壱岐島の西~北側には現在も多くの湊が見受けられる。対馬を経由して距離的にも最適な上陸地点であっただろう。朧気ながら描いて来た朝鮮半島南端と九州北端の交流が具体的に浮かび上がって来たようである。まだまだ古事記の中に潜められていると信じて先に進んでみよう。


難波之比賣碁曾社

祖先の故郷、倭国へ逃げ帰った阿加流比賣神を追いかけた天之日矛が受け入れて貰えなかったところ「難波之比賣碁曾社」は現在の行橋市沓尾にある沓尾山、当時は難波津の入り口にある島であったと推測した。後には「日女嶋」とも呼ばれる。


<難波之比賣碁曾社>
その文字解釈を改めてみた。度々登場の「箕」(三野、美濃と表記される)の地形である。「碁曾」は…、


[箕]の形のように
石が重なっている

…ところと紐解ける。難波津にある巨石が重なる山の麓の神社が「難波之比賣碁曾社」である。

難波波の入口にあったとされる「日女嶋」は「難波」は何処か?…という話題で色々議論されたようであるが、「難波」は到るところに、勿論数はしれているが、あって良し、なのである。

当然浪速の難波も結構である。固有名詞と考えるから話がややこしくなる、のであろう・・・という訳で、一件落着である。


天之日矛の後裔

これは息長帶比賣命の素性を求める上で何度か述べたのであるが、登場人物の地名比定をあらためて見直してみた。若干比定地が異なる場合が発生したが、概ね納まるところに納まったと思われる。少々過去ログと重なるが、纏めて述べてみよう。

古事記原文…、

故更還泊多遲摩國、卽留其國而、娶多遲摩之俣尾之女・名前津見、生子、多遲摩母呂須玖。此之子、多遲摩斐泥、此之子、多遲摩比那良岐、此之子、多遲麻毛理、次多遲摩比多訶、次淸日子。三柱。此淸日子、娶當摩之咩斐、生子、酢鹿之諸男、次妹菅竈上由良度美。此四字以音。
故、上云多遲摩比多訶、娶其姪・由良度美、生子、葛城之高額比賣命。此者息長帶比賣命之御祖。故其天之日矛持渡來物者、玉津寶云而、珠二貫・又振浪比禮比禮二字以音、下效此・切浪比禮・振風比禮・切風比禮、又奧津鏡・邊津鏡、幷八種也。此者伊豆志之八前大神也。

全て「多遲摩」は省略して…、

俣尾之女・名前津見→母呂須玖→斐泥→比那良岐→毛理比多訶、淸日子
淸日子(娶當摩之咩斐)→酢鹿之諸男、菅竈上由良度美
比多訶(娶由良度美)→葛城之高額比賣命(息長帶比賣命之御祖)

垂仁天皇紀に登場した「多遲麻毛理」が見える。天之日矛から五世代目に当たる。また葛城之高額比賣もいる。多遲摩国内だけかと思いきやそれなりに他国の比賣などが登場していて盛んな交流の跡が伺える。


・俣(分かれる)|尾(尾根の稜線の端)=尾根の稜線の端が分かれたところ
 前(先の)|津(川の合流点)|見(見張る)=先にある川の合流点を見張る(人)

・母(二つに分けられた大地)|呂(背骨の地形)|須()|玖(くの字の地形)
 =二つに分かれた背骨の地形がある[]の字に曲がった州

・斐(挟まれて隙間の地形)|泥(水田)=挟まれた隙間のような水田

・比(並ぶ)|那良(平らな丘陵)|岐(分岐がある)=分岐がある平らな丘陵が並んでいるところ

・比(並ぶ)|多()|訶(谷間の耕地)=田を並べたところ

・毛(鱗状の地形)|理(区分けされた田)=鱗状の地形で田が区分けされたところ

・淸(未熟な)|日(炎の山稜の地形)=山麓の[]の形に成り切れていないところ


<天之日矛系譜①>
図を参照願う。旦波国の南端は現在の音無川北岸辺りまでとすると、多遲摩国は現在の城井川の北岸までと推定される。

英彦山山塊の稜線が延びた端の辺りが「尾」と名付けられたところと思われる。既出の旦波之由碁理に隣接するところである。残念ながら両者の関係は不詳である。

現在の京都郡と築上郡の境をなす稜線の端が幾つかに分かれたところが「俣尾」と名付けられた場所、現在の築上郡町船迫辺りと推定される。

現在の行政区分もこの辺りで京都郡都町と築上郡築上町の境となっているようである。ある意味微妙なところでもある。

その近隣は多くの池があり、また稜線が延びたところでもあり、背骨のような凹凸のある地形を示している。そこが「母呂須玖」と呼ばれた場所で、現在の同町安武辺りと思われる。

「比那良岐」は実に平坦な頂上部を持つ丘陵が並んでいるところを示したものと思われる。同町上・下深野(簡略に深野と記す)辺りと推定される。

そう見て来ると「斐泥」はもっと上流側に谷の隙間の場所、現在もかなりの人が住み豊かな水田が見られる同町本庄辺りではなかろうか。

城井川が緩やかに大きく曲がり豊かな州を形成していたのであろう。「泥」は川が運ぶ泥を活用した水田と推測される。

「比多訶」は上記の通り、谷間が並ぶところ、であろう。現在の同町弓の師辺りと推定される。この辺りまでが谷間と言える地形ではなかろうか。すっかり稜線は伸び切っており、浅い谷間だが当時の稲作にとっては好適の立地条件を満たしていたのであろう。

その先に居た「毛理」の鱗状の地形は同町上別府(簡略に別府と記す)辺りに見出すことができる。真に多彩な地形に散らばった後裔達と思われる。

寒田で標高230m強で別府で30m弱、およそ200mの標高差を一本の川が谷間を流れる、実に勇壮な地形と思われる。

それに伴って地形象形表現のオンパレードと言った感じである。初見ではなかなか紐解き辛かったのも十分に頷けるのである。

残っているのは「淸日子」であるが、紐解きのポイントは「淸」の解釈であろう。「青い」という表現に気付けるかどうかであろう。



「炎」に成り切れていないところを探すと、意外に特徴的なところが見出だせる。

山間深く入り込んだところでは、山麓は大半が「炎」の地形を有しているが、図に示したところだけ奇妙にも平滑な麓を示しているのである。

「淸」=「爽やか」な意味に加えて「寒い、冷たい(澄んでる様から)」の解釈がある。

現地名の「寒田(サワダ)」が該当するのでは?…これもあながち的を得ているようでもあるが、やはり地形象形しているのである。この一連の地名では城井川の最上流部に当たる。

多遲麻の地は「比比羅木の新羅国」に極めて類似した地形である。故郷に思いを馳せながら永住したのではなかろうか。中国、朝鮮半島からの渡来人達が開拓し豊かにしていった背景は案外地形の類似性に関連しているようである。「志賀」=「之江」もその部類に入るのではなかろうか。


<天之日矛系譜②>
上記の「淸」(寒田)は修験の山、求菩提山の麓に当たる。

「當麻」は同じく修験の山、福智山の麓にある。これらの地の繋がりに何かを感じさせるが、古事記は語らない。

これらを地図上で当て嵌めてみると…全て築上郡築上町の地名で…


俣尾=船迫
母呂須玖=安武
斐泥=本庄
比那良岐=深野
毛理=別府
比多訶=弓の師
淸日=寒田

當麻関連、そこから誕生する葛城之高額比賣命及び息長帶比賣命については、ほぼ手を加えるところがなく、詳細はこちらを参照願う。
 
伊豆志之八前大神

「八」という縁起の良い数にあわせてもいるのであろうが、半分は「航海」がらみのものと思われる。おそらく八幡神社に関連するものであろう。「多遅摩国」とした辺りには正八幡神社が二社もある。周防灘の航海を祈念して建てられたものであろうが、繋がっているのであろうか。

「伊豆志之八前大神」の「八前」に関連すると思われるところ、「八津田」という地名がある。大きな、あるいは多く、の津という意味にとれるが、やはり八幡宮に関連したと思われる。「西・東八田」と言い、やたら「八」が付く地名が並ぶところである。

<伊豆志⑴>
「伊豆志」とは何を意味するのであろうか?…「豆」=「粒状の凸(突起)」である。嶋の名称は例外なくこの地形象形であった。

求菩提山山塊からの長い稜線が続き周防灘に達する。今は開発が行われ平らな土地となってなっているが、当時はまだまだ幾本もの稜線があったであろう。

そう考えれば城井川下流は蛇行し(志=之)、いくつもの支流を作りながら海に注いだと思われる。

当時の海岸線(図中白破線)は現在より1km強内陸側にあったと思われる。「伊豆志」はその内陸を蛇行しながら流れる川が作る大地であったと推定される。

宮ノ川と言う名前の川が流れているが、JR築上駅付近まで蛇行し、その後は大きく流路変更されたものと思われる。

上記したようにこのような川がいくつも流れていたのであろう。大きく水利が変化した場所と思われる。

<伊豆志⑵>

現在の地名に「塩田」がある。推定した海岸線上に載っているところである。当時の姿を忍ばせる地名ではなかろうか。

図に示した宮ノ川は、現在では辛うじて識別できる程度ではあるが、一応谷筋を流れていることが見て取れる。

稜線は一様に削られて平地になるのではなく、個別的であろう。残った谷筋かと思われる。

このように見て来ると、正八幡神社の現在の位置は海面下ということになる。

後代に航空自衛隊築城基地から移設されたとのことであるが、その基地の位置は、谷筋の先に当たる。しっかりと繋がったようである。


八前大神=谷の前の大神

…を指し示していたのである。そして、いつものことながら「八種」の神宝に重ねられている…いや、目眩ましかも・・・。ほぼ間違いなく「八」は「谷」に関わる地名と思われる。現地名も多分そうであろうが、古事記記載では多くの例が見出だせる。その例から外れた表記ではない、と思われる。