2018年6月6日水曜日

阿邪美能伊理毘賣命の御子 〔218〕

阿邪美能伊理毘賣命の御子


伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の娶りの中に阿邪美能伊理毘賣が登場する。この比賣は旦波比古多多須美知宇斯王と丹波之河上之摩須郎女の三姉妹(多分?)の末娘と述べられている。既に紐解いたのだが、貴重な残存地名ということもあり、もう一歩踏み込んでみようかと・・・。

それには彼女が生んだ御子達の居場所などをあからさまにできればと…丹波国の隅々を散策することになった。山稜の端で凹凸の少ない地形、果たして古事記表記と繋げられるかどうか、である。

少々遡って阿邪美能伊理毘賣の居場所から述べてみよう・・・。

阿邪美能伊理毘賣命

三姉妹の最後の比賣、「阿邪美」とは何処であろうか?…残存地名がある。現在の…、


<摩須郎女の御子四柱>

京都郡みやこ町呰見(アザミ)

…が該当すると思われる。図<摩須郎女の御子四柱>を参照願う。

阿邪美」は…、


阿(台地)|邪(曲がる)|美(谷間の大地)

…「谷と谷の間の台地が曲がったところ」となるが、「邪」は「伊邪河宮」のように「畝って曲がる様」を表現していると解釈される。「美」=「羊+大」羊の甲骨文字の使った象形である。羊の上部の三角を山、下部を谷間の地と見做す。
<羊>


現地名、呰見(アザミ)と見事に一致するのだが、偶然であろうか…数少ない残存地名であろう・・・川の氾濫、山の崩落、火山の噴火等々地形も時と共に変化をすることは重々承知のこととは言え、本来の形が残る場合もあろうか・・・と前記で推察した。

御子が二人、「伊許婆夜和氣命、次阿邪美都比賣命」と記載される。この兄妹の居場所から紐解いてみよう。

伊許婆夜和氣命・阿邪美都比賣

<阿邪美能伊理毘賣の御子二柱+良人>
解りやすそうな比賣の名前の「都」=「諸々集まるところ」と紐解くと、古くからの交通の要所であったところを示すのであろう。

祓川を渡渉する地点であったと思われる。古代から近代に至るまで渡渉地点は栄えた場所となっていたと推察される。

現在の地図からではあるが、みやこ豊津インターチェンジ近隣の十字路(呰見交差点)辺りと推定される。図を参照願う。

伊許婆夜和氣命の「伊許婆夜」は一気に紐解いてみると…、


伊(小ぶりな)|許(麓)|婆(端)|夜(谷)
 
…「小ぶりな山麓の端の谷」と解釈される。「許(モト)」=「元、下」だが山の麓(ふもと)と解釈する。建内宿禰の御子許勢小柄宿禰の場合と同様である。この平坦な地形のところに?…些か「谷」に引っ掛かるが、よく眺めると周囲と比べて段差が大きく、川に沿った地が見つかる。


<阿邪美能伊理毘賣の御子三柱3D>
おそらくは当時は沖積の進行が小さく谷もより深くなっていたのではなかろうか。図に示した場所と思われる。

3Dマップも併せて参照願うが、「阿邪美」の地形がより明確に読み取れる。

祓川の土堤の上にさらに…標高差約10m程度ではあるが…一段高くなった台地が広がり、「伊許婆夜和氣命」の場所も谷筋を示していろことが判る。

現在は水田が敷き詰められている様子、当時はまだ山稜の端で凹凸のある地表のままであったかと推察される。

その縁が「邪」を示し、畝った台地を象形したものであろう。古事記の表記が残存する貴重な地名として、あらためて喚起したく思う場所である。


<丹波の由碁理一家>

開化天皇紀に登場した旦波之大縣主の名由碁理の比賣、竹野比賣及びその御子、比古由牟須美命らの住まった場所に次いで山稜の端、即ち川下に当たる。

祓川と音無川に挟まれた地域は隈なく開拓されていたことを伝えていると思われる。

少し話が飛ぶが、「伊許婆夜和氣王者、沙本穴太部之別祖也」と記述される。

後に登場する沙本毘古が謀反を起こして天皇に征伐され、その後釜に入った、と推測される。急激に台頭してきた丸邇一族、彼らの力を削ぐ為に丸邇以外の人材の投入である。

説話は共謀した后である沙本毘賣の提案事項として記述されるが、なんとも凝ったストーリーである。

上記の旦波の由碁理も丸邇一族ほどではないにしろ次第にその勢力範囲を削がれていったのであろう。

国替えのような人事異動が行われる。がしかし、よくできた内容のように思われる。いずれにしても天皇家は「言向和」を基本戦略とする以上、時に力を付けた一族の台頭に悩まされることになる。決して殲滅することなく、そんな一族をも「言向和」を原則にして立ち向かうのである。真偽は確かめようもないが、古事記はそれを貫いていると読み解ける。

日子國意祁都命から派生する丸邇一族の時代が暫く続くことになる。「稲」から世界を彩る「辰砂=丹」の話題が多くなって来るのである。その初っ端に発生した事件に対して打たれた手がこの阿邪美の和氣命の派遣であった。続きは垂仁天皇紀の説話に譲ろう。

ところで沙本穴太部の「穴太部」(アノウブ?)とはどんな意味であろうか?…ネットで検索すると石垣作りの穴太衆が最もヒットする確率が高い。古事記の「穴太」については真面に解釈された例は見出せなかった。では、文字そのものから読み解いてみよう。

「穴太」=「穴が太い、広く大きい」文字通りとすると、沙本にいた丹の採掘をする部隊として素直に紐解ける。後代になるが志賀之高穴穂宮の「穴穂」(アノウ)「洞窟が表面に出て目立っている」と解釈することができた。沙=丹とした解釈がなければ意味不明になる、当たり前かもしれないが・・・。


稻瀬毘古王

「阿邪美都比賣」は「稻瀬毘古王」に嫁ぐとあるが、ここで登場した以後出番はない。事実の報告に止まるのであろうか…。居場所の推定は何の修飾もなく表現されるから、おそらくは近場にいたとして…、


稲瀬=稲穂が途切れるところ

…と読み解ける。近隣に袋迫(現地名行橋市袋迫)という地名が見える。一段高くなった丘陵地帯で水利が好ましくないのであろうか、水田の形成が見られない。そこを途切れたところと表したと推測される。袋迫の「迫」も「行き止まる」の意味を持つ。関連する表記のように思われる。

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古事記表記と現地名との類似性、それに加えて安萬侶コードで紐解ける地形象形、それらが満たされた数少ない記述に該当すると思われる。登場人物の名前が告げる丹波の地の詳細、ほぼ行き渡ったような感じである。