2018年4月3日火曜日

伊須氣余理比賣之家:狹井河之上 〔193〕

伊須氣余理比賣之家:狹井河之上


美和之大物主神が三嶋湟咋の比賣、頗る美人の勢夜陀多良比賣に赤い矢で迫って伊須須岐比賣命が誕生する。別名が伊須氣余理比賣と言う。その比賣を神倭伊波禮毘古が見初める話が縷々と記述される。神話なのかそうでないのか、実に曖昧な表現が頻出する件である。通説にとってはある意味都合の良いところで、意味不明となれば神話に逃げ込むことができる場面でもある。

本ブログは全てリアルに紐解く以上、可能な限り登場人物の居場所を突き止めることから作業を始める。決して楽な作業ではないが、そうした上で古事記が伝えることを紐解こう、と日長一日、一つ一つで進めている有様である。

伊須氣余理比賣は皇統に絡む極めて重要な人物なのであるが、不詳とされてきた部分が多々ある。既報で伊須須岐比賣命と名乗っていた時の場所はかなりの確度で求められたと思われるが、別名とされるこの名前については重要なヒント「狭井河之上」以外は見当たらないようであった。

今回、もう一度関連するところを抜き出して調べてみようかと思う。古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…、

故、其孃子、白之「仕奉也。」於是其伊須氣余理比賣命之家、在狹井河之上。天皇幸行其伊須氣余理比賣之許、一宿御寢坐也。其河謂佐韋河由者、於其河邊山由理草多在。故、取其山由理草之名、號佐韋河也。山由理草之本名云佐韋也。
[そのイスケヨリ姫のお家はサヰ河のほとりにありました。この姫のもとにおいでになって一夜お寢みになりました。その河をサヰ河というわけは、河のほとりに山百合草が澤山ありましたから、その名を取って名づけたのです。山百合草のもとの名はサヰと言つたのです]


佐(助くる)|韋(皮を鞣す)

百合(根)が皮の鞣しに利用されていたことを示すと紐解いた。おそらく鹿皮であろう。


食用であり、薬効にも優れた食材であり、それに含まれるタンニン(苦味)を取り出して皮の鞣しに利用する。前記で少し詳しく述べたところである。

狹井河」の場所を不詳とする解釈はあり得ない、と思われるが、それが現実である。

上記の一文に直ぐに続いて、下記の原文が記される。サラリと読み飛ばせば他愛ない歌が挿入されるので、勢いスルーするところである。

伊須氣余理比賣」の居場所を突き止めようする意思がない限り、きっと見逃されてしまっていたことであろう。極めて重要な内容であることが判った。

後、其伊須氣余理比賣、參入宮之時、天皇御歌曰、
阿斯波良能 志祁志岐袁夜邇 須賀多多美 伊夜佐夜斯岐弖 和賀布多理泥斯
然而阿禮坐之御子名、日子八井命、次神八井耳命、次神沼河耳命、三柱。
[後にその姫が宮中に參上した時に、天皇のお詠みになつた歌は、 
アシ原のアシの繁つた小屋にスゲの蓆(むしろ)を清らかに敷いて、二人で寢たことだつたね。 
かくしてお生まれになつた御子は、ヒコヤヰの命・カムヤヰミミの命・カムヌナカハミミの命のお三方です]

従来の解釈は上記の武田氏の訳であろう。軽く読んで…少々引っかるのが「袁夜=小屋」「伊夜佐夜斯岐弖=清らかに敷いて」和賀布多理泥斯=二人で寢たことだつたね」であるが、細かいところを見なければ、受け入れられるものであろう。事実そうされて来たようである。

だが当たり前のことを当たり前に歌う時は要注意である。「阿斯波良能=葦原の」より以下の文字列を通説に囚われずに診てみよう。安萬侶コード(「古事記のルール」改め)に従うことにする。

❶志祁志岐袁夜邇
 「志」=「之:蛇行した川」 「祁」=「大きく、多様に」 「岐」=「分岐:二つに分ける
 「袁」=「ゆったりした衣(山麓の州)」 「夜」=「谷」 「邇」=「近く」

→大きく蛇行した川が山麓のゆったりとした州のある谷を二つに分けるところ近く

❷須賀多多美
 「須」=「州」 「賀」=「が」 「多多美」=「畳む:閉じる、終わる」

→州が閉じて

❸伊夜佐夜斯岐弖
 「伊」=「小ぶりな」 「佐」=「促す、助くる」 「斯」=「之:蛇行する川」

→小ぶりな谷が蛇行する川の分岐を促して

❹和賀布多理泥斯
 「和」=「輪の地形:和邇の和」 「布」=「布を敷いたように一面に」 「多」=「田」
 「理」=「整える」 「泥」=「滞らせる」

→輪の地形が布を敷いたように一面に田を整えることを滞らせている

これを纏めてみると…、

…葦原の 大きく蛇行した川が山麓のゆったりとした州のある谷を二つに分けているところ近く 州が閉じて 小ぶりな谷が蛇行する川の分岐を促して 輪の地形が布を敷いたように一面に田を整えることを滞らせている…

…と解釈できる。間違いなく「伊須氣余理比賣」が住まう場所の地形そして水田の開発の実情を述べているものと推察される。

これに続く文言が…「然而阿禮坐之御子名、日子八井命、次神八井耳命、次神沼河耳命、三柱」である。「然」=「しかり、その通りに」であろうが、「阿禮坐」の文字が付される。これを調べると、古事記中には二度出現する。上記外のところは…、

故其政未竟之間、其懷妊臨。卽爲鎭御腹、取石以纒御裳之腰而、渡筑紫國、其御子者阿禮坐。阿禮二字以音。故、號其御子生地謂宇美也、亦所纒其御裳之石者、在筑紫國之伊斗村也。
[かような事がまだ終りませんうちに、お腹の中の御子がお生まれになろうとしました。そこでお腹をお鎭めなされるために石をお取りになつて裳の腰におつけになり、筑紫の國にお渡りになつてからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ばされました處をウミと名づけました。またその裳につけておいでになつた石は筑紫の國のイトの村にあります] 

神功皇后が朝鮮半島から帰って応神天皇を産み落とす場面である。「其御子者阿禮坐」通訳は「生まれる」と訳される。「生む」だから「宇美」と繋げられてきたわけである。またそう解釈させようとした記述でもあるが、もっと伝えることが付加されている。


宇美=宇(山麓)|美(豊か、見事な)

…生地は「山麓が豊かに見事に広がる」地形を持つところと告げているのである。そう解釈して現在の北九州市小倉北区富野(行政区分は細分化されているが)と比定した。詳しくはこちらを参照願う。すると「阿禮坐」は…、


<狭井河之上>(拡大)
阿(台地)|禮(祭祀の)|坐(坐する)

…「祭祀の台地に坐する」と解釈して矛盾のない結果となる。

既に紐解いた孝霊天皇紀に登場する意富夜麻登玖邇阿禮比賣命の「阿禮」と同じ解釈である。


要するに・・・「輪の地形」が邪魔をして豊かな水田が広がらないところだから、生まれた御子達はその場所を離れ、台地に坐して居るんだよね・・・と詠っていることになる。

冒頭の図に示した通り、彼らは母親の故郷「茨田=松田」の地に居た。二人の御子に「神=稲妻」が付く。山稜が「稲妻の形」を示す。その麓に坐した命名であり、そして自らの「神倭」の謂れと同じ、と述べているのである。



これで全てが繋がった。「伊須氣余理比賣」が坐した場所は図に示すように「輪になった地形」の傍らにあったと推定される。現地名京都郡みやこ町犀川山鹿である。

歌の中の文字列を地形に当て嵌めたのが上図である。犀川が流れる大きな谷とちょっと小ぶりな大坂川が流れる谷がある。

犀川によって二分される州が閉じたように狭くなるところを「多多美」と表現したのであろう。正に「輪」の形で水田が分断されている様子が伺える。

「伊須氣余理比賣」の意味が漸く紐解ける。前記で「勢い余って分かれる」と訳したが、古事記はそんな記述をしない筈…、


伊(僅か)|須(州)|氣(状態)|余(残り)|理(整えられた田)

…「僅かだが州の状態が残ったところの整えられた田」と紐解ける。「輪」の場所が見えて初めて辿り着ける解釈であろうか…。一応の決着を得た感じである。

勿論当時の地形との相違は否めないが、十分に推定できるものかと思われる。更に推論が許されるなら、この時代では大河の中流域の開拓は困難を極めていたであろう。川の蛇行を抑えた治水事業ができるようになるのは、古事記の最終章になって漸く成し遂げられるようになったと思われる。

後の多藝志美美命の事件に係ることになるこの比賣の立ち位置として申し分のないところであろう。狭井河が古代に果たした役割は真に大きなものがあったと告げている。この川を不詳としては古事記の世界を伺い知ることは全くできないと断じられるであろう。

余談だが・・・由理草」の登場が何かを暗示しているように思われて来た。この文字の中にもう一つ登場願いたいものが見つかった。「百合と鹿」鹿は百合根が好物なのである。「鹿隠百合(ウバユリ)」と名付けられた種類があると言う。現地名に含まれる「鹿」何だか、待ってました!と叫びたいような気分である。大倭豊秋津嶋の対岸にある未開の原野に広がる悠久の時を感じてしまった。

…全体を通しては古事記新釈を参照願う。