2017年12月16日土曜日

葛城忍海之高木角刺宮 〔137〕

葛城忍海之高木角刺宮


異常ではないが尋常とも言えない雄略天皇が逝って、争いが起こる数の御子も無く、白髮大倭根子命が即位する。都夫良意富美之女・韓比賣を娶って誕生した御子であるが、名前の通りに病弱な天皇であったようである。后も娶らず、当然御子も無く崩御されたと記述される。

既に紐解いた経緯があるが(参照)、今一度見直してみた。少々異なる結果となったが・・・古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…

御子、白髮大倭根子命、坐伊波禮之甕栗宮、治天下也。此天皇、無皇后、亦無御子、故御名代定白髮部。故、天皇崩後、無可治天下之王也。於是、問日繼所知之王、市邊忍齒別王之妹・忍海郎女・亦名飯豐王、坐葛城忍海之高木角刺宮也。
[御子のシラガノオホヤマトネコの命、大和の磐余の甕栗の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇は皇后がおありでなく、御子もございませんでした。それで御名の記念として白髮部をお定めになりました。そこで天皇がお隱れになりました後に、天下をお治めなさるべき御子がありませんので、帝位につくべき御子を尋ねて、イチノベノオシハワケの王の妹のオシヌミの
郎女、またの名はイヒトヨの王が、葛城のオシヌミの高木のツノサシの宮においでになりました]

急遽、市邊忍齒別王之妹・忍海郎女(亦名飯豐王)が「葛城忍海之高木角刺宮」で執政した。他の人選もあったのでは?…と前記したがやはり古事記は無口で不詳である。葛城氏がしっかり国政に関わっていたことに間違いはないであろうが・・・。

「葛城忍海之高木角刺宮」の場所について紐解いてみよう。


葛城|忍海=葛城|海を忍ばせている

ところ、ここまでは変わりようがなく紐解ける。海と川とが入り混じる場所、決して内陸部にあるところではない。葛城の地は古遠賀湾に隣接する場所にあったと既述した

市邊忍齒別王が居た「市辺」は現在の福岡県田川郡福智町市場辺り、その近辺であろうと思われた。宮の名前に含まれる「刺」=「刺さる」と解釈してみたが場所の特定には極めて曖昧であった。この文字の見直しである。


刺=棘(トゲ)

と解釈する。纏めてみると…、


高木|角刺=高木(高い山=福智山)|角(山稜)|刺(棘)

…と紐解けば、「福智山から延びた山稜にある棘のような形をしているところ」を示していると思われる。現地名は福智町上野上里の福智下宮神社辺り(下図)と推定される。


伊邪那岐・伊邪那美が生んだ佐度嶋にあった「刺国」を「棘」の地形象形として紐解いた。類似する表現と思われる。前記の引用を示す。



天之冬衣神が刺國大神之女・名刺國若比賣を娶って生まれたのが「大国主神」である。

彼の母親の出自の場所である。「刺」=「棘」と解釈する。

刺国=棘のような国

一見で特定できる。国生みされた島、「佐度嶋」現在の小呂島(福岡市西区)である。


「棘」=「小さな尖った突起」の地形象形である。興味のある方はとあるサイトに挙げられた写真を参照願う。


<追記>

亦名飯豐王」を紐解いてみよう。「讚岐國謂飯依比古」の「飯」と同様に解釈して「飯」=「食+反」、更に「食」=「山+良」と分解すると…「良」=「なだらかな(緩慢な)」として…、

飯=なだらかな山麓


…と読み解ける。「飯豐王」=「なだらかな山麓で豊かな(ところの)王」と解釈される。上図の地形と矛盾しない表現であろう。「飯」の文字解釈が検証されたようである。(2018.03.11)

葛城の地に居た「欠史八代」と俗称される天皇達に付随する文字は海と川との混在の場所を示す。上記したように決して内陸にある地ではない。況やその地に忍海なんていう地はあり得ないのである。また、この地が「欠史八代」の彼らによって開拓された地であること、当然それを実行した葛城一族の権勢は揺るぎ難いものであったろう。加えて建内宿禰の子孫達の倭国に羽ばたいた活躍もあったと古事記は伝える。

日嗣が途切れて、針間に逃げた市邊忍齒別王の御子達の説話に入る。事の真偽は別としても皇統存続の危機的状況には変わりはない。継続するには大変な力が要る、ということである。志毘臣を排除する説話もこれまでの古事記の記述とは、少々感じが異なる。が、古事記史上特異な位置付けにあった忍海郎女の「高木角刺宮」と思われる。

…全体を通しては「古事記新釈」清寧天皇・顕宗天皇の項を参照願う。