神沼河耳命(綏靖天皇)の決断
「欠史八代」と言われる天皇の段で読み残したところを埋めてみよう。かつても述べたように事績の記述は少ないものの、娶った比賣の出自である父親の在所と御子達の活躍は各々の名前から推測することができる。そして倭国の拡がりが見えてくるのである。
神沼河耳命(綏靖天皇)は祖父の「「三嶋湟咋」の在所近隣で育った。現在の福岡県京都郡みやこ町勝山松田御手水近隣あったと紐解いた。倭の都とは大坂山山塊を隔てたところであり、都にできるところではなかった。
彼の信頼する兄、神八井耳命が奔走するも父親の神倭伊波禮毘古命の坐した畝火之白檮原宮の周辺は財を成すには不適な地形であり、また周囲は未だ信頼に足る連中ばかりでもなく、むしろ隙あらば、と狙われる危惧もあったのであろう。
何せ北は金属資源の採鉱/精錬場所、南西の開けた地は既に多くの人が棲み、割り込む隙は殆どない。「師木」「長谷」に坐することができるのはずっと後になってからである。そんなおっとりした物語だと古事記は伝えているように思える。
更にこの地に先陣を切った「邇藝速日命」の場合のこともある。「春日」現在の同県田川郡赤村にある戸城山に拠点を置き、その周辺の地に入り込み地元住民との融和施策も引き連れて来た一族の繁栄には程遠い結果を招いた。彼らが敬意を払う「邇藝速日命」は地元に吸収されてしまったかのようである。
赤村周辺は豊かではなく、これから豊かになるところであった。地元社会に埋没してしまったことへの反省が二代目の挙動の根本動機と思われる。「邇藝速日命」ばかりではなく「高天原」一族の祖先達も何度もこの地元への埋没を経験している。「天菩比神」「天若日子」事件の度に高木神がシャシャリ出る、パターンである。
侵略、略奪戦略でなく「言向和」という極めて稀な戦略をとる「高天原」一族の悩みであった。では、どんな施策を採るのか、綏靖天皇が採った戦略はある意味とんでもない迂回作戦であった。深謀遠慮なのか、いや単に勇気のない、やる気のない戦略なのかそれは歴史が示すこととなる。
前記で彼が採った戦略は未開の土地「葛城」の開拓であることを述べた。留まることを知らない河川の流れ、干からびてしまいそうな急斜面の山麓、がしかし、山塊からの豊富な水を制御し「茨田」を作ることができれば、河川氾濫水害の危険のないところとなり、作付けする植物の種類も一気に豊かになる。水田を河口付近に求める発想とは真逆である。
「三嶋湟咋」の技術を知る神沼河耳命だからこその発想とも言える。「茨田」の技術、後の「筒木」の技術及び「水門」の技術を古事記は伝えているのである。より急斜面の土地を如何に利用し豊かにして来たか、これを読み解すことができなかったことに対して忸怩たる思いである。
古事記原文…
神沼河耳命、坐葛城高岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・河俣毘賣、生御子、師木津日子玉手見命。一柱天皇御年、肆拾伍歲。御陵在衝田岡也。
なんとも簡明な記述で終わる。そして短命であった。だが、古事記の中で彼が果たした役割は特筆すべきことである。「邇藝速日命」及び「高天原」一族が果たせなかった倭国建国の戦略転換を行ったのである。そしてそれは単なる思い付きではなく、国を豊かにする「技術」に裏付けられたものであった。
「葛城高岡宮:同県田川郡福智町弁城にある須佐神社辺り。山麓の小高い丘の上にある」と紐解いた。後の天皇達の坐したところと併せるとこの地が葛城の中心地となるところである。現存する神社等もそれを支持していると思われる。「玉手岡」の背後、山麓中腹にある岩屋神社の前面である。
御陵は「衝田岡」とある。「田を突き動かす」と「田を掘る」とは同義と見做せる。「高岡宮」の西方、現在の同町上野堀田辺りではなかろうか。その山麓側を「衝田岡」と称したと思われる。堀田稲荷神社、興国寺の並びの山麓である。他の天皇の寿命からしてかなり短命であったろう。
「師木」との繋がりを保ちつつ地道な努力を続けたと思われる。系譜が切れなかっただけでも立派な事績と評価できるであろう。通説の「葛城」比定地を放棄しない限り古事記からは何も伝わって来ないと断じる。言わずもながの通説「神武東征」も、である。
未開の地「葛城」に着目し、それを開拓していった神武一家の発展に「欠史八代」の天皇達が果たした役割に称賛の拍手を捧げよう。そして安萬侶くんが伝えようとしたこの一大転機の背景と意味を読み解せなかった日本の歴史家に鉄槌を下そう。
…と、まぁ、落ち着いて、落ち着いて・・・。