2025年3月18日火曜日

【古事記】天照大御神・建速須佐之男命:宇氣比 〔714〕

天照大御神・建速須佐之男命:宇氣比


古事記原文[武田祐吉訳]…、

故於是、速須佐之男命言「然者、請天照大御神、將罷。」乃參上天時、山川悉動、國土皆震。爾天照大御神、聞驚而詔「我那勢命之上來由者、必不善心。欲奪我國耳。」卽解御髮、纒御美豆羅而、乃於左右御美豆羅、亦於御𦆅、亦於左右御手、各纒持八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠而自美至流四字以音、下效此曾毘良邇者、負千入之靫訓入云能理、下效此。自曾至邇以音比良邇者、附五百入之靫、亦所取佩伊都此二字以音之竹鞆而、弓腹振立而、堅庭者、於向股蹈那豆美三字以音如沫雪蹶散而、伊都二字以音之男建訓建云多祁蹈建而待問「何故上來。」
爾速須佐之男命答白「僕者無邪心、唯大御神之命以、問賜僕之哭伊佐知流之事。故、白都良久三字以音僕欲往妣國以哭。爾大御神詔、汝者不可在此國而、神夜良比夜良比賜。故、以爲請將罷往之狀、參上耳。無異心。」爾天照大御神詔「然者、汝心之淸明、何以知。」於是、速須佐之男命答白「各宇氣比而生子。」自宇以下三字以音、下效此。
故爾各中置天安河而、宇氣布時、天照大御神、先乞度建速須佐之男命所佩十拳劒、打折三段而、奴那登母母由良邇、振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、多紀理毘賣命、亦御名、謂奧津嶋比賣命。次市寸嶋比賣命、亦御名、謂狹依毘賣命。次多岐都比賣命。
須佐之男命、乞度天照大御神所纒左御美豆良八尺勾璁之五百津之美須麻流珠而、奴那登母母由良爾、振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命。亦乞度所纒右御美豆良之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、天之菩卑能命。自菩下三字以音。亦乞度所纒御𦆅之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、天津日子根命。又乞度所纒左御手之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、活津日子根命。亦乞度所纒右御手之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、熊野久須毘命。自久下三字以音。幷五柱。
於是天照大御神、告速須佐之男命「是後所生五柱男子者、物實因我物所成、故、自吾子也。先所生之三柱女子者、物實因汝物所成、故、乃汝子也。」如此詔別也。
故、其先所生之神、多紀理毘賣命者、坐胸形之奧津宮。次市寸嶋比賣命者、坐胸形之中津宮。次田寸津比賣命者、坐胸形之邊津宮。此三柱神者、胸形君等之以伊都久三前大神者也。故、此後所生五柱子之中、天菩比命之子、建比良鳥命此出雲國造・无邪志國造・上菟上國造・下菟上國造・伊自牟國造・津嶋縣直・遠江國造等之祖也次天津日子根命者。凡川國造・額田部湯坐連・茨木國造・倭田中直・山代國造・馬來田國造・道尻岐閇國造・周芳國造・倭淹知造・高市縣主・蒲生稻寸・三枝部造等之祖也。
爾速須佐之男命、白于天照大御神「我心淸明、故、我所生子、得手弱女。因此言者、自我勝。」云而、於勝佐備此二字以音離天照大御神之營田之阿阿字以音埋其溝、亦其於聞看大嘗之殿、屎麻理此二字以音散。故、雖然爲、天照大御神者、登賀米受而告「如屎、醉而吐散登許曾此三字以音我那勢之命爲如此。又離田之阿・埋溝者、地矣阿多良斯登許曾自阿以下七字以音我那勢之命爲如此。」登此一字以音詔雖直、猶其惡態不止而轉。天照大御神、坐忌服屋而、令織神御衣之時、穿其服屋之頂、逆剥天斑馬剥而、所墮入時、天服織女見驚而、於梭衝陰上而死。訓陰上云富登。
[そこでスサノヲの命が仰せになるには、「それなら天照大神に申しあげて黄泉國に行きましよう」と仰せられて天にお上りになる時に、山や川が悉く鳴り騷ぎ國土が皆振動しました。それですから天照大神が驚かれて、「わたしの弟が天に上つて來られるわけは立派な心で來るのではありますまい。わたしの國を奪おうと思つておられるのかも知れない」と仰せられて、髮をお解きになり、左右に分けて耳のところに輪にお纏きになり、その左右の髮の輪にも、頭に戴かれる鬘にも、左右の御手にも、皆大きな勾玉の澤山ついている玉の緒を纏き持たれて、背には矢が千本も入る靱を負われ、胸にも五百本入りの靱をつけ、また威勢のよい音を立てる鞆をお帶びになり、弓を振り立てて力強く大庭をお踏みつけになり、泡雪のように大地を蹴散らかして勢いよく叫びの聲をお擧げになつて待ち問われるのには、「どういうわけで上つて來られたか」とお尋ねになりました。
そこでスサノヲの命の申されるには、「わたくしは穢ない心はございません。ただ父上の仰せでわたくしが哭きわめいていることをお尋ねになりましたから、わたくしは母上の國に行きたいと思つて泣いておりますと申しましたところ、父上はそれではこの國に住んではならないと仰せられて追い拂いましたのでお暇乞いに參りました。變つた心は持つておりません」と申されました。そこで天照らす大神は、「それならあなたの心の正しいことはどうしたらわかるでしよう」と仰せになつたので、スサノヲの命は、「誓約を立てて子を生みましよう」と申されました。
よって天のヤスの河を中に置いておいて誓約を立てる時に、天照大神はまずスサノヲの命の佩いている長い劒をお取りになって三段に打ち折って、音もさらさらと天の眞名井の水で滌そそいで囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神の名はタギリヒメの命またの名はオキツシマ姫の命でした。次にイチキシマヒメの命またの名はサヨリビメの命、次にタギツヒメの命のお三方でした。
次にスサノヲの命が天照らす大神の左の御髮に纏いておいでになつた大きな勾玉の澤山ついている玉の緒をお請けになつて、音もさらさらと天の眞名井の水に滌いで囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はマサカアカツカチハヤビアメノオシホミミの命、次に右の御髮の輪に纏かれていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はアメノホヒの命、次に鬘に纏いておいでになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はアマツヒコネの命、次に左の御手にお纏きになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はイクツヒコネの命、次に右の御手に纏いておいでになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はクマノクスビの命、合わせて五方の男神が御出現になりました。
ここに天照らす大神はスサノヲの命に仰せになつて、「この後から生まれた五人の男神はわたしの身につけた珠によつてあらわれた神ですから自然わたしの子です。先に生まれた三人の姫御子はあなたの身につけたものによつてあらわれたのですから、やはりあなたの子です」と仰せられました。
の先にお生まれになつた神のうちタギリヒメの命は、九州の胸形の沖つ宮においでになります。次にイチキシマヒメの命は胸形の中つ宮においでになります。次にタギツヒメの命は胸形の邊へつ宮においでになります。この三人の神は、胸形の君たちが大切にお祭りする神樣であります。そこでこの後でお生まれになつた五人の子の中に、アメノホヒの命の子のタケヒラドリの命、これは出雲の國の造・ムザシの國の造・カミツウナカミの國の造・シモツウナカミの國の造・イジムの國の造・津島の縣の直・遠江の國の造たちの祖先です。次にアマツヒコネの命は、凡川内の國の造・額田部の湯坐の連・木の國の造・倭の田中の直・山代の國の造・ウマクタの國の造・道ノシリキベの國の造・スハの國の造・倭のアムチの造・高市の縣主・蒲生の稻寸・三枝部の造たちの祖先です
そこでスサノヲの命は、天照大神に申されるには「わたくしの心が清らかだつたので、わたくしの生んだ子が女だつたのです。これに依つて言えば當然わたくしが勝つたのです」といつて、勝つた勢いに任せて亂暴を働きました。天照大神が田を作つておられたその田の畔を毀したり溝を埋めたりし、また食事をなさる御殿に屎をし散らしました。このようなことをなさいましたけれども天照大神はお咎めにならないで、仰せになるには、「屎のようなのは酒に醉つて吐き散らすとてこんなになつたのでしよう。それから田の畔を毀し溝を埋めたのは地面を惜しまれてこのようになされたのです」と善いようにと仰せられましたけれども、その亂暴なしわざは止みませんでした。天照大神が清らかな機織場においでになつて神樣の御衣服を織らせておいでになる時に、その機織場の屋根に穴をあけて斑駒の皮をむいて墮し入れたので、機織女が驚いて機織りに使う板で陰をついて死んでしまいました]
 
天照大御神:所知高天原 伊邪那岐命に突き放された建速須佐之男命は、「天」に暇乞いに来たのだが、天照大御神は、それは「天」を乗っ取りに来たと思い、完全防衛態勢を敷いたと述べている。天照大御神自身が身に纏ったような記述であるが、國の防衛なら自身一人武装しても致し方ないのではなかろうか・・・「纏」とは、”所知(所領)”の目印を表しているのであろう。

<天照大御神:所知高天原>
①左右美豆羅左右にある谷間の広がった(美)地で高台(豆)が連なっている(羅)ところ

𦆅(縵)山稜が[蔓草]のように延びているところ

八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠[く]の字形(勾)に連なった玉のような丸く小高い地(璁)を跨るように延びた山稜がある谷間(八)で丸く小高い地が連なった山稜(百)が交差するように(五)寄り集まって(津)隙間を束ねられた擦り潰されたような(麻)州(須)が流れ出る(流)のを玉が断ち切っている(珠)ところ(詳細は下記参照)。

④曾毘良邇積み重なった(曾)山稜の麓で窪んだ地がくっ付いて(毘)なだらかに(良)広がっている(邇)ところ負千入之靫束ねられた谷間(千)の前にある隙間(負)のような地に筒のような窪んだ(靫)地がすっぽりと納まっている(入)ところ

⑤比良邇なだらかな(良)山稜がくっ付いて(比)広がっている(邇)ところ五百入之靫丸く小高い地が連なって(百)交差するような(五)地に筒のような窪んだ(靫)地がすっぽりと納まっている(入)ところ

⑥伊都之竹鞆[伊都]の地にある山稜の端が二つに岐れて(鞆)竹のように真っ直ぐ延びているところ(「伊都」はこちら参照。以下同様)

⑦弓腹振立弓なりに広がる[酒樽]のような(腹)地が貝が舌を出したように山稜が延びている(振)地と並んでいる(立)ところ

⑧堅庭谷間にある手のような山稜(堅)の麓で広がり延びている(庭)ところ向股蹈那豆美北に向かって二つに岐れた(股)山稜の端がゆったりとした(那)高台(豆)の麓の谷間が広がっている(美)窪んだ地に延び出ている()ところ

伊都之男建[伊都]の地にある突き出た[筆]のようなところ

各々の地形が示す場所を図に示した。「美豆羅」は天照大御神の坐す神岳を頭と見做した配置となっている。「𦆅」は、その頭の上にある飾りであり、左右の手と「美須麻流之珠」を共有したようになっている。初見の文字も見られるが、別途に述べることにする。

図から分るように、既に登場した多くの神々の居処を避けたものとなっている。伊邪那岐命から授けられた天照大御神の統治領域を表してることが解る。「伊都」は、勿論、混在となっているが、見事に住み分けられている(こちら参照)。これだけ「纏」を立てられたら、速須佐之男命も、おいそれとは侵出できなかったであろう。

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『那勢』 「那勢命」=「須佐之男命」を示すことは文脈からも明らかであるが、「那勢」はどんな意味であろうか?…「勢」=「男性」を意味するようである。「勢」=「押し上げられて小高くなっている様」と解釈する。「去勢」でも用いられている。女神が男神を親しみを持って呼ぶ時に用いられた、とある。余談だが、男神が女神を呼ぶ時は「那邇」と言うそうである…「邇」=「広がり延びる様」と地形は解釈するのだが・・・。

『曾毘良・比良』 「曾毘良」=「背平」とされ、「比良」=「胸、腹」の反対側、背中を意味するとのことである。「手のひら(平)」「手のこう(甲:背面)」と類似する使い方であろう。黄泉比良坂も「手のひら」の地形象形と思われる。平坦でたいらな形状よりも「花びら」のような内側に凹んだ状態を示していると解釈される。上図に示したように”背中”と”腹”の配置のようである。

『纏』 江戸時代の町火消が用いたものであるが、そもそもは戦国時代の戰さにおいて陣地を示すのに使われた印と解説されている。案外、上記が起源となったのかもしれない。どうみても、大将が身動き取れないくらいに武装することはあり得ないであろう。神話の記述、故にあり得る?・・・。

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天安河・天之眞名井 「宇氣布(比)」が行われた場所である。天照大御神所領の周辺と推測される。「天安河」の「安」、「河」が地形象形表記として用いられた最初の例である。文字解釈を行うと、「安」=「宀+女」と分解される。地形として、「安」=「山稜に挟まれた谷間が嫋やかに曲がって延びている様」と解釈される。

<天安河・天之眞名井・宇氣布(比)>
「河」は「大きな川」とされるが、「河」=「氵+可」と分解される。地形として「河」=「
川が流れる谷間の出口の様」と解釈される。

纏めると天安河=頭部のような(天)山稜の麓で嫋やかに曲がる谷間(安)の出口(河)から川が流れ出ているところと紐解ける。

図に示した、現在の後川川を表していることが解る。尚、「天」は、「訓天如天」として、「天」=「頭部」と解釈する。

少し後に「天香山」と記載される。香山之畝尾木本で登場した「香山」のことであろう。この場合もまた「訓天如天」と解釈され、天香山=山稜の頭部が[香]の形になっている山と紐解ける。

「天之眞名井」の「眞」、「名」も地形象形表記として初見である。「眞」=「鼎+匕」と分解される。地形として、「眞」=「窪んだ地に多くの山稜が寄り集まっている様」と解釈される。また、「名」=「夕+囗」と分解される。表す地形は、「名」=「山稜の端が三角州になっている様」と解釈される。

纏めると、天之眞名井=[天]にある山稜の端の三角州(名)が多く寄り集まって四角く(井)窪んでいる(眞)ところと紐解ける。これから流れ出る川と「天安河」が合流地点が「宇氣布」の場所であったと推測される。

宇氣布=谷間にゆらゆらと延び広がった山稜の麓が布を敷いたように平らに広がっているところと紐解ける。「宇氣比」(自宇以下三字以音。武田氏訳「誓約」)とも記載される。宇氣比=谷間にゆらゆらと延び広がった山稜がくっ付いて並んでいるところとなる。共にその場所の地形を表現していることが解る。

胸形三柱神 「宇氣比」のよって建速須佐之男命の十挙劒から三人の女神が誕生したと記載している。少し後に…、故、其先所生之神、多紀理毘賣命者、坐胸形之奧津宮。次市寸嶋比賣命者、坐胸形之中津宮。次田寸津比賣命者、坐胸形之邊津宮。此三柱神者、胸形君等之以伊都久三前大神者也…と追記されて、各々の居処が示されている。即ち、名前が表す地形の場所が示されているのである。

❶多紀理毘賣命(奧津嶋比賣命) 別名が併記されている。「奥津」の文字列は、前出の竺紫日向での伊邪那岐命の禊祓で誕生した神々に含まれていた(こちら参照)。再掲すると「奥津」=「奥深い地の水辺で[筆]のように山稜が延びているところ」であった。

<多紀理毘賣命(奥津嶋比賣命)>
更に「奥」=「於伎」と訓すると記載されていた。即ち「於伎」=「旗を靡かせたように広がる山稜が谷間を岐けているところ」の地形の場所である。

名前の文字列は、既出であり、多紀理毘賣命=山稜の端の三角州(多)が曲がりくねって(紀)区切られている(理)地に坐す毘賣命と紐解ける。

図に示した場所を表していることが解る。現地名は、宗像市曲辺り、釣川と朝町川・高瀬川が合流する地点である。

当時の海水面を推測すると、この辺りは汽水湖のような状態(古事記は”忍海”と表記する)であったのではなかろうか。縄文海進に加えて、沖積の少ない状態によって、現在の海水面とは大きく異なっていたと思われる。別名の奧津嶋比賣命は、”嶋”に坐していたことになる。

坐した奥津宮の場所は定かではないが、現在の高見神社辺りだったのではなかろうか。尚、当時の海水面(推測)や「胸形」の地形象形は、下記に他の二柱神と共に纏めて記載する。蛇足だが、古事記中に「宗像」、「宗形」の表記は登場しない。

❷市寸嶋比賣命(狹依毘賣命) 「市寸嶋」に含まれる「市」及び「寸」は初見のもじである。「市」は文字要素に分解するのが極めて難しい文字のようである。象形として、「集まる様」を表すと解説されている。地形としても、そのまま「市」=「集まっている様」と解釈する。

<市寸嶋比賣命>
「寸」=「又+一」と分解される。「手を開いて長さを計る様」と解説されている。これもそのまま地形として「寸」=「山稜が手を広げたような様」と解釈する。

纏めると、市寸嶋比賣命=手を広げたように延びている山稜(寸)が集まっている(市)嶋に坐す比賣命と紐解ける。図に示した、現地名の宗像市河東にある場所を表していると思われる。

謂れは「狹依毘賣命」と記述される。前出の「狹」=「犬+夾」=「平らな頂の山稜に挟まれた様」、「依」=「人+衣」=「谷間にある山稜の端の三角の地が小高く盛り上がっている様」と解釈する。

纏めると、狹依毘賣命=平らな頂の山稜に挟まれた谷間にある山稜の端の三角の地が小高く盛り上がっているところに坐す毘賣命と紐解ける。「市寸嶋」の地形を表していることが解る。また、中津宮に坐したと記載されている。中津宮=真ん中を突き通すように水辺の[筆]のような山稜が延びているところの宮と紐解ける。

<多岐都比賣命>
❸多岐都比賣命(田寸津比賣命) 後に邊津宮に坐したと記載されている。「邊津」は、上記の「奥津」と同様に竺紫日向で誕生した神々に用いられた文字列である。

邊津=広がり延びている山稜の端(邊)が水辺で[筆]の形をしている(津)ところと解釈した。その地形を現地名の宗像市深田辺りに見出せる。宗像大社辺津宮が鎮座する場所である。

既出の文字列である多岐都比賣命=端にある三角州(多)が岐れている(岐)山稜が交差するように集まっている(都)ところに坐す比賣命と解釈される。その宮の背後の地形を表していることが解る。

別名として「田寸津比賣命」の表記があったようで、田寸津比賣命=山稜の端が手を広げたように延びた(寸)麓にある水辺で[筆]の形をした(津)地の前が平らに整えられている(田)ところに坐す比賣命と紐解ける。現在の辺津宮の西側の山稜の端辺りを示しているのであろう。

<胸形三柱神>
上記の三柱神が坐した場所を「胸形」と記載されている。勿論、初見の文字列である。但し、後に大國主神が
胸形奧津宮神に坐す多紀理毘賣命を娶る記述以外には登場しない。

書紀では三度、續紀では一度で「宗形」の表記に変わっている。歴史の表舞台から遠ざかった場所だったようである。

それは兎も角として、「胸形」の文字列が表す地形を求めてみよう。「胸」=「月+匈」と分解される。更に「匈」=「凶+勹」から成る文字である。「凶」=「空隙がある様」を表す文字と知られ、「胸」は「包まれた中に隙間がある」状態を表す文字である。正に「胸」の象形であり、そのまま地形として解釈される。

「形」も初見であり、「形」=「井+彡」と分解される。地形象形としては、「形」=「四角く取り囲まれている様」と解釈される。纏めると、胸形=四角く取り囲まれた地に隙間があるところと紐解ける。上図に示したように、当時は、海水が奥深く入り込んだ地形であったと推測される。”胸の形”そのものの地形なのである。

胸形三柱神を纏めて図に示した。「奥津嶋」は、沖ノ島ではなく、更に「中津宮」は、大島にあったのではない。歴史的”不動地点”は、どうやらこの邊津宮だけなのかもしれない。勿論、現在の宗像大社辺津宮の場所は、水面下だったのだが・・・古事記に沖ノ島は登場しない。

天之五柱神 続いて天照大御神の左右御美豆羅・御𦆅・左右御手の珠から五柱神が誕生したと記載されている。また、天照大御神が先の胸形三柱神(女子)は、「汝(建速須佐之男命)子」であり、この五柱神(男子)は「吾子」と告げている。

①正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命 後に「天之忍穗耳命」は、「此御子者、御合高木神之女・萬幡豐秋津師比賣命、生子、天火明命、次日子番能邇邇藝命二柱也」と記載されている。現在の天皇家の祖神の位置付けとなっている。長ったらしい名前は、その正統性を強調していのかもしれないが、それはそれとして、詳細な出自場所を表していると思われる。

<正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命>
「正勝吾勝勝速日」に含まれている初見の文字である「勝」=「朕+力」と分解される。「舟が浮かび上がった様」を示し、際立っている状態を表す文字と解説される。

地形象形的には「勝」=「小高く盛り上がっている様」と解釈される。また、「吾」=「五+囗」と分解される。

「五」の古文字を参照すると、地形として、「吾」=「区切られた地で山稜が交差するように延びている様」と解釈される。「正」=「足を揃えている様」、「速」=「束ねる様」等は既出の文字である。

纏めると、正勝吾勝勝速日=山稜が足を揃えているような(正)小高く盛り上がった(勝)地と交差するように山稜が延びている(吾)小高く盛り上がっている(勝)地と[炎]のように延びている山稜(日)を束ねるような(速)小高く盛り上がった(勝)地が並んでいるところと紐解ける。図に示した場所にその地形を見出せる。現地名の勝本町北触・新城東触に跨る場所と推定される。

「天之忍穗耳命」の「忍」=「奥まった地に多くの山稜が突き出てギザギザとしている様」と解釈した。即ち、天之忍穗耳命=[阿麻](天)の地で[稲穂]のように延びた山稜の前で多くの山稜が突き出てギザギザとした奥まった谷間(忍)にある[耳]の形をしたところに坐す命と紐解ける。現在の新城神社のある高台を表していることが解る。「速日」の「日」と「忍穗」の「忍」が重ねられている。

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『耳』 人名に「耳」が用いられた最初の例である。この後幾人かの皇族名に含まれることになる。橘豐日命(用明天皇)の御子である上宮之厩戸豐聰耳命(聖徳太子)にも用いられ、多くの逸話が残されている。「耳」は、古代の尊称と解説されているようである。耳族なんていう解釈もあるとか。

御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に、まつろ(服)わぬ一族の長の名前として「玖賀耳之御笠」が登場する。賊の人名が記載されるという極めて特異な例なのであるが、果たして「耳」は尊称なのであろうか?・・・。

この「玖賀耳」も含めて、”地域的首長”を表すとして、幾つかの例示があるが、「耳」のつかない場合は…勿論、それが多数である…何と解釈するのであろうか?・・・都合の良い事例のみを並べて論じるのが、歴史学のようである。

地形象形表記として、耳=山稜の端が[耳]の形をしている様と解釈する。多分、耳の窪んだところを居処とした人物だったのであろう。住居の地形として好ましい場所には違いなかろう。

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②天之菩卑能命 初見の文字が用いられた名前である。「菩」は、この命以外には見られず、希少である。文字解析をすると、「菩」=「艸+咅」と分解される。更に「咅」=「不+囗」から成る文字と知られている。地形として、「菩」=「山稜が三つに岐れて並んでいる様」と解釈される。

「卑」の字源は定かでないようだが、文字の上部は「鬼」に類似したものと考えられている。地形的には、「卑」=「丸く平たい様」と解釈される。”卑字”を使うか?…などとしては、意味不明となろう・・・いや、それも込められた表記のようでもある。

纏めると、天之菩卑能命=[阿麻](天)の地で三つに岐れて並んだ山稜(菩)の端が丸く平たくなっている(卑)隅(能)に坐す命と紐解ける。少し後に「天菩比命」と表記される。天菩比命=[菩]の頭部(天)がくっ付いて並んでいる(比)ところに坐す命と紐解ける。三つに岐れた山稜が湾曲して再び寄り集まっている地形を表している。

<天之菩卑能命・天津日子根命・熊久須毘命>
余談だが、別書では、天穂日命や天乃夫比命などと記載されて、各々類似の地形を表すが、やはり「菩」の文字が最も適切なものであろう。

他の表現では曖昧であり、彼の出自場所を求めることは叶わないと思われる。古事記表記の”正直さ”であろう。

また、「菩」の文字要素は、「倍」に含まれ、後に多くの人材が登場する「阿倍」一族に用いられている。

この命は、出雲に降臨したのだが、梨の礫の行動を取り、天照大御神等の天神達は、お気に召されなかった様子である。「卑」は、これも籠めた表記かもしれない。その代りに息子の「建比良鳥命」(後に詳述)の活躍が記載されるが、結局のところ、その息子も同じ運命を辿るのである。天神達の不満が爆発したと述べている。

③天津日子根命 既出の文字列である天津日子根命=山稜の頂き(天)が水辺で[筆]のように延びている(津)[太陽]のような(日)地から生え出た(子)山稜が細かく岐れている(根)ところに坐す命と紐解ける。図に示した場所、現在の谷江川と後川川・初尾川が合流する地に隣接するところが出自と推定される。

この命は、極めて広範囲の地域の祖となったと記載されている。後に天神一族が支配した領域を表している。彼の子孫が倭國に蔓延って行ったことを示し、地政学的に興味深い記述と思われる。この段階では、各々の場所を特定することは難しいが、後の記述も併せて読み解いた結果を下記する。

⑤熊野久須毘命 作図の都合上、先に述べる。既出の文字列である熊野久須毘命=[炎]のような山稜が延びている隅(熊)にある野で[く]の字形に曲がる(久)州(須)が窪んだ地にくっ付いている(毘)ところに坐す命と紐解ける。図に示した場所を表し、「毘」は「宇氣比」が行われた場所と思われる。

<活津日子根命>
この命は、ここでの登場のみである。限られた情報故に、従来より、「熊野」とくれば、出雲國やら紀伊國の祖神だとか、様々に語られている。要するに定かではない、のであろう。

④活津日子根命 上記と同様に既出の文字列であり、「日子根命」は「天津日子根命」に重なる文字列である。

活津日子根命=水辺で「舌」のように延び出た山稜と[筆]のような山稜が並んでいる[日子根]に坐す命と紐解ける。

その地形を図に示した場所に確認できる。前出の火之迦具土神の北側に当たる場所である。この命もこの場限りの登場であり、詳細は定かではないようである。

後に天手力男神が天石屋事件の際に多くの神々の一人として登場する。天手力男=頭部が[手]の形をした山稜が押し拡げる[男]のように延びているところと紐解ける。図に示した場所の地形を表していることが解る。本命と「天之忍穗耳命」との狭間が出自と推定される。

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<建比良鳥命>
建比良鳥命 本来は父親の「天菩比命」が出雲国に遣わされて「祖」となる筈なのだが、少々曰くがあって息子になってしまった。

後日に記述することになろうが、神話なのだが、俗ぽくって面白いところ。いや、神話ではないかもしれない…。因みに本来の名前は、天菩比(全てに秀でた)命と読めそうである。

さて、この命の出自場所は何処であろうか?…前出の文字列である建比良鳥命=[鳥]の形の山稜がある手のひらのような(比良)山麓に[筆]のように山稜が延びている(建)ところに坐す命と紐解ける。「比良」は黃泉比良坂で用いられた文字列である。

図に示した場所、現在の戸ノ上山の北麓に当たる。この地は、肥國謂建日向日豐久士比泥別と記載されたところと推定した。それに含まれる「建」の一部を共有していることが解る。肥國(出雲國)に降臨した父親が現地で儲けた子だったようである。

さて、その子孫が様々な地に蔓延っていったようである。古事記の”祖”の記述の始まりである。天皇家の統治領域を表すのであるが、幾多の変遷を経るようでもある。肥國(出雲國)もその一つの地域だったことが記載されることになる。

<出雲國造>
出雲國造 既に出雲國之伊賦夜坂として登場した國であるが、「肥國」や「葦原中國」の表記もあり、混乱しているように思われる。

古代の「出雲國」に関する認識は、根本から改められるべきであろう。日本書紀の記述に振り回されている、と言える。あらためて、その名称が表す地形を解き明かしていみよう。

「出」は、地名・人名における初見である。「出」=「止+凵」に分解される。「止」は”足”の象形であり、「窪みんだところから足が出て行く様」を表している。

地形としては、「出」=「谷間から山稜が延び出ている様」と解釈される。前出の「雲」と合わせて、出雲=谷間から山稜がゆらゆらと覆い被さるように(雲)延び出て広がっている(出)ところと紐解ける。國造の場所は、現在の柳西中学校辺りだったではなかろうか(「造」に関しては下記を参照)。

即ち、現在の戸ノ上山山塊に取り囲まれた地は、北から肥國(建日向日豐久士比泥別)・「出雲國」・葦原中國の三つに別れていたと記載しているのである。そして、後に大騒乱が勃発し、壊滅的な状態に陥ることになる。その騒乱の主役は、大國主神であるが、彼の子孫は皇統に関わることなく表舞台から引き下がってしまうのである。

<无邪志國造>
无邪志國造 「无邪志(ムザシ)國」は、後の「武藏國」と表記される場所であることは容易に思い付くことができるが、やはり、名前がその場所の地形を表してるのであろう。

初見の文字である「无」=「尢+一」と分解される。「尢」=「折れ曲がった足の様」を表す文字と知られる。地形象形として、「无」=「折れ曲がった足のような山稜の端が途切れる様」と読み解ける。

また、より詳細な地形としては、「无」=「[]の文字形のように折れ曲がった山稜の端が途切れる様」表していると思われる。

この特異な地形を求めると、図に示した場所、現地名の北九州市小倉南区吉田に見出せる。高蔵山東麓の地形を示していると思われる。纏めると、无邪志=[]の文字形のように折れ曲がった山稜の端が途切れた(无)麓でギザギザと牙が並ぶように(邪)蛇行した川(志)が流れているところと紐解ける。

尚、前記で「邪」=「折れ曲がって連なる様」としたが、重なった表現を避けた解釈にした。國造の場所は、”足の股”辺りのように思われる。また、後に「天津日子根命」が祖となった馬來田國造が登場する。併せて図に示したが、詳細は下記する。

上菟上國造・④下菟上國造 見慣れぬ文字「菟上」が現れている。「菟」は初見であり、この後幾度か用いられている。通常は、「菟(ウ)」と読み下すとされるが、漢字には、その読みはない(呉音:ツ(ズ)、漢音:ト)。「菟上」=「海上(ウナカミ)」と解釈されている。

<上菟上國造・下菟上國造>
「菟」=「艸+免」と分解される。「免」=「娩(出産)」の原字である。地形象形的には、「菟」=「谷間の奥から山稜が抜け出ている様」と解釈される。

前出の上津綿津見神の「上」は、「訓上云宇閇」と注記されていた。「宇閇」=「谷間に延び出た山稜で閉じ込められたようなところ」と解釈した。

纏めると、菟上=谷間の奥から抜け出た(菟)山稜が閉じ込める(上)ように延びているところと紐解ける。図に示したように、「无邪志國造」の南側の地形を表していることが解る。

もう一つの「上」は「下」に対する「上」を表していると思われる。図に示したような配置に上下並んでいる様子を表記したものであろう。「菟上」の表記は、古事記中、この後に登場することはないようである。

書紀・續紀中では、上總(総)國・下總(総)國と表現される國となる。「國造」の場所は、地形変形が凄まじく、ここでは割愛するが、この地の住人が登場した時にでも追記することになろう(国土地理院航空写真1961~9年参照こちら)。

<伊自牟國造>
伊自牟國造 この場限りの登場であり、「伊自牟」の文字列も二度と記載されることはないようである。上記の二國のように別名で記述されることもなく、極めて情報が限られている國のように思われる。

地名・人名における初見の文字である「自」=「鼻の象形」と知られている。地形として、「自」=「端にある様」と解釈する。

また、「牟」=「ム+牛」と分解される。「ム」=「区切られた様」を表す文字要素と知られている。地形として、「牟」=「[牛]の角のような山稜に挟まれた谷間に小高い地がある様」と解釈する。

纏めると、伊自牟=谷間で区切られた(伊)山稜の端(自)に[牛]の角のような山稜に挟まれた谷間に小高い地がある(牟)ところと紐解ける。現地名の北九州市門司区猿喰である。”猿喰”の地はこの山稜に囲まれたところ(入江)に水門を作り、巧みに水田開発を行ったと知られている(猿喰新田参照)。「喰」は「牟」=「貪る」に繋がるのかも入れない。國造の場所は、「牟」の谷間であろう。

余談になるが、後の續紀によると、この地の周辺は一時”蝦夷”に支配され、それを取り戻したことを述べている。即ち、「伊自牟國」は一旦消滅したようである。

<津嶋縣直>
”蝦夷”との確執は、極めて長期にわたって天皇家を苦しめていたことを記紀・續紀は伝えているのである。

津嶋縣直 前出の津嶋を示すのだが、「縣直」が詳細な地形を表していると思われる。勿論、「津嶋」における中心の地であろう。

謂れの「天之狹手依比賣」が表す場所との関係は如何であろうか?…「縣」=「県+系」と分解され、「糸に首をぶら下げた様」を表す文字と解説される。地形象形的には、「縣」=「尾根に山稜がぶら下がったような様」と解釈される。

また、「直」=「|+目」から成る文字である。「目」=「隙間」=「谷間」とすると「真っ直ぐな谷間」を象ったと読み解ける。

即ち、津嶋縣直=津嶋にある尾根からぶら下がったような山稜の麓で谷間が真っ直ぐに延びているところと紐解ける。現地名、対馬市厳原町にある成相山の東麓の谷間である。「狹手依比賣」の南側が津嶋の中心地、現在もそうであるように、であったことが伺える。
 
⑦遠江國造 古事記には「近江」と言う表記は存在せず、いわゆる”遠・近”を示す文字使いではあり得ない。初見の「遠」の文字は、この後しばしば用いられている。「遠」=「辶+袁」と分解される。訓食云袁須で用いられた「袁」=「山稜の端がゆったりと延びている様」と解釈した。即ち、「遠」=「山稜の端がゆったりと延び広がっている様」と解釈される。
 
<遠江國造>
纏めると、遠江=
山稜の端がゆったりと延び広がっている麓が水辺で窪んでいるところと紐解ける。残念ながら、この記述のみでは場所の特定には至らず、後に「遠江國」は、現在の遠賀川東岸一帯の地域を示すと求めることになる(下記参照)。

言い換えると、國造の場所の地形を拡大解釈して國名としたようである。現在はタムに沈んでしまった場所であるが、北九州市八幡西区畑の黒川流域を表していると思われる。

この「遠江(オンガ)」が現在の「遠賀」の由来かもしれないが、定かではない。どう転んでも「トオトオミ」とは読めない。「遠」=「遠い」の意味では記されていないのである。

後の穴穗命(安康天皇)紀に淡海之久多綿之蚊屋野が登場する。尾根がなだらかに広がり延びた場所、現在の北九州市八幡西区と遠賀郡水巻町の境となっているところと推定した。「遠江國」は、この地の周辺を示す地域であったと推測される。

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『造・直』 前記の「連」と同様に古代の姓として解釈されている。そして、元来は文字が表す地形の場所を示していると思われる。文字解釈を行うと、造=辶+牛+囗=山稜が[牛]の角のように延びている様、上記したように直=|+目=谷間が真っ直ぐに延びている様となる。

後の身分制度における名称は、それらの文字を巧みに取り入れて構成されたと考えれる。そう考えると古事記の表記は実に貴重な文字を提供していたと思われる。日本人の几帳面さは、既にこの時にも発揮されていたのであろう。

尚、國造の表記は、この時点、即ち行政区分としての國・郡などが確立していない時代であり、極めて曖昧なものである。律令制後には國守・郡守が行政上の役職となるが、「國造」も用いられている。直轄しきれない地方の統治のために設置されてのであろう。

引き続きもう一人の命、「天津日子根命」について祖となった場所を紐解いてみよう。

天津日子根命 天照大御神の第三子であり、多くの國造等の祖となったと記載されている。前記でわかったことの一つに後に登場する國名とは異なるものが多々あること、また、消滅してしまったと思える地域名があるようで、その変遷も興味深いものがある。

<凡川內國造>
凡川内國造 初見の「川内國」は、古事記中、この後に頻出する名称である(河内國とも表記)。現地名の京都郡みやこ町勝山〇〇及び行橋市の西部一帯を占める広大な領域であったと推定した。北から小波瀬川・長峡川・井尻川に挟まれた場所である。

地名・人名に関して初見である「凡」は、通常では”およそ・すべて”を意味するのであるが、そんな曖昧な表記ではなかろう。

「凡」=「帆(巾+凡)の象形」と知られている。すると、地形象形的には、「凡」=「谷間が[凡]の形をしている様」と解釈される。

その地形を図に示した場所、現在の勝山浦河内に見出せる。初見の「内(內)」=「冂+入」と分解され、「隙間に入る様」を表している。地形としては、「内」=「山稜に挟まれた隙間の奥にある様」と解釈される。

纏めると、凡川内國=[凡]の形の谷間が山稜に挟まれた隙間を流れ出る川の奥にある(内)ところと紐解ける。國造の場所は図に示した辺りと推定される。川内(河内)國の中で、最初に開かれた地であり、開拓されるに従って國域を拡大させたのであろう。現地名の勝山浦河内は、紛うことなく、残存地名と思われる。

額田部湯坐連 「額田」は、初見の文字列であり、勿論、固有の地名でもない。「額」=「ヒタイ」を表す文字と知られている。地形としては、そのままで「額」=「山の斜面が額のように突き出ている様」と解釈する。即ち、「額田」=「[額]の麓で平らに整えられている様」と読み解ける。

<額田部湯坐連>
「部」も極めて多用される文字である。「部」=「咅+邑」と分解される。前出の「咅」から、「[不]の形に岐れている様」と解釈される。即ち、”〇〇部”の表記は、「[〇〇]から岐れた様」であり、地形として、「〇〇部」=「〇〇近隣」と読み解ける。

「湯坐」の「湯」は既出、地名・人名に用いられた「坐」は初見である。「坐」=「人+人+土」と分解される。地形として、「坐」=「二つの谷間に挟まれて盛り上がっている様」と解釈される。

纏めると、額田部湯坐連=[額]のように突き出た山稜の麓にある平らに整えられている(田)地の近隣(部)で水が飛び散るような川が流れる(湯)谷間に挟まれて盛り上がって(坐)連なる延びている(連)ところと紐解ける。

大坂山~愛宕山から延びる山稜にある椿台と呼ばれるところ、それを「額」と見做したのであろう。現在の田川郡香春町高野である。「(字)湯山」という地名が残っている。「国譲り」されずに残っている地名ではなかろうか。と言うか、”温泉”を譲る場所は奈良大和には存在しない、であろう。

「湯坐」は、通常「貴人の産児に湯をつかわせる役の女性。また、皇子・皇女の養育者をもいう。湯殿に奉仕する人の意ともいう」と解説される。後の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に記載されている・・・命詔「何爲日足奉。」答白「取御母、定大湯坐・若湯坐、宜日足奉。」故、隨其后白以日足奉也・・・に基づく解釈であろう。

<茨木國造・道尻岐閇國造>
茨木國造・④道尻岐閇國造 「茨木」に含まれる「茨」は初見である。この文字が表す地形は、古事記において極めて明快かつ重要と思われるが、通説は曖昧なままである。

それは兎も角として、「茨」=「艸+次(二+欠)」と分解される。即ち、「茨」=「揃って並ぶ様」と解釈される。地形としても同様である。纏めると、茨木=[木]のように延びた山稜が揃って並んでいる(茨)ところと紐解ける。

「道尻岐閇國造」の「尻」は初見である。「尻」=「尸+九」と分解される。「九」=「[く]に曲がる様」と解説されている。即ち。「尻」=「山稜の尾根が[く]の形に曲がっている様」と解釈される。

纏めると、道尻岐閇=[首]の付け根のように窪んだ(道)地の背後ある[く]の形に曲がって(尻)岐れた山稜が閉じるように延びているところと紐解ける。

現地名の北九州市門司区吉志にそれらの地形を見出すことができる。それぞれの國造の場所も併せて示した。土地開発によって大きく変形している場所もあり、国土地理院航空写真(1945~50年)を参照(こちら)して特定した。

<倭田中直>
倭田中直 「倭」の文字は大倭豐秋津嶋に用いられていた。全体としてみれば「大(平らな頂の山稜)」なのであるが、局所的には平らではない、のであろう。

いずれにせよ、「豐秋津嶋」の地で「田中」の文字列が表す地形を求めてみよう。

勿論、各文字は既出だが、初見の文字列である。田中=平らに整えられた地(田)の真ん中を突き通すように山稜が延びている(中)ところと紐解ける。

若干特定し辛い地形ではあるが、図に示した場所を表しているように思われる。「國造」ではなく、「直」と記載されている。即ち、「國」として領域が定められていない場所だったのであろう。

地名の田川郡香春町五徳、曲がりくねる五徳川に沿った谷間である。「中」は単に中ほどを示すのではなく、突き通して半分に切り分けられたような状態を表していると思われる。一見ありふれた名称「田中」も丁寧に地形象形された表記である。「中」と「直」それらの地形条件を満たすところは、図に示した場所であることが解る。

<山代國造>
⑥山代國造 「山代」の文字列の初見である。この後に幾度も登場する主要な國である。また、上記の川内國と比肩するほどの広域の地でもある。それ故に「山代」表記のみから場所を求めることは不可である。

ずっと後代になるが、續日本紀で文武天皇の難波行幸の際に山背國造外從八位上山背忌寸品遲等の位階を進めたと記載されている(こちら参照)。「山代」=「山背」であり、「國造」の居処を表すものとして貴重な記述と思われる。

文字解釈を行うと、山代の「代」=「人+弋」と分解される。地形象形として、「代」=「谷間に[杙]のような山稜が延びている様」と解釈する。「山」=「[山]の文字形に山稜が延びている様」である。

纏めると、山代=谷間で[杙]のような山稜が延びている前が[山]の文字形になっているところと紐解ける。因みに山背=[山]の形の山稜が延びた地が背になっているところと簡明に読める表記である。図に示した場所、現地名は京都郡みやこ町犀川大坂である。

<馬來田國造>
馬來田國造 「馬來田」の文字列は、勿論、初見であるが、更に後代に引き継がれた名称でもないようである。

調べると、續紀の聖武天皇紀に登場している上総國望陀郡の領域がこの國を含んでいたと解説されている。

文字列が表す地形は、馬來田=[馬]の古文字形の地で山稜が延び広がった(來)麓に平らに整えられた(田)ところと紐解ける。

図に示した場所、現在の小倉池及びその東側の山稜を表していることが解る(地形図は上記の无邪志國造を参照)。

この地形は、「望陀郡」の地形ではなく、その北側の「朝夷郡」(一時安房國として分離)に合致する場所を示しているのである(こちら参照)。朝夷=山稜の端に囲まれた丸く小高い地(朝)の麓で平らな頂の山稜が弓なりに曲がっている(夷)ところと解釈され、正に”馬の古文字形”の別表記である。

<周芳國造>
周芳國造 調べると、上記の「馬來田國造」と同様に「茨木國造」系列であったようである。と言うことで、その近辺の地が居処だったのであろう。

「周」、「芳」の文字は初見である。「周」=「取り囲まれている様」と解説されている。「芳」=「艸+方」と分解され、前出の「方」として、「芳」=山稜が[耜]のように岐れて並んでいる様」と解釈される。

纏めると、周芳=[耜]のように岐れて並んでいる山稜が取り囲まれているところと読み解ける。読みは、「スワ()」であろう。現地名の北九州市小倉南区葛原の地形を表していることが解る。

陰影起伏図で強調した図を併せると見事に耜(鋤)の形が浮かび上がって来る。國造は、その耜の歯の隙間を表していると思われる。

少し先の段で建御雷男神に追い詰められて建御名方神が命乞いをしたところが「科野國之州羽海」と記載される。「州羽」(川に挟まれた羽のように平坦な地)は、「周芳」の東隣に位置する。「スワ」を二種類の文字列で表し、より精緻に場所を表したものであろう。長野県、山口県に跨る地名では、決してないであろう。

<倭淹知造>
倭淹知造 上記の倭田中直の近辺の地と思われるが、「淹知」の「知」=「矢+口」=「鏃の形」は既出、初見の「淹」が表す地形を求めてみよう。

「淹」=「氵+奄」と分解される。更に「奄」=「大+申」から成る文字である。地形としては、「淹」=「水辺で平らな頂の山稜が引き延ばされて広がっている様」と解釈される。

纏めると、倭淹知=谷間で嫋やかに曲がって延びる山稜の先が水辺で平らに引き延ばされて広がって[鏃]のようになっているところと紐解ける。

その地形を金辺川・御禊川・彦山川に挟まれた英彦山山系の山稜の端に見出せる。現在の田川市夏吉辺りである。の場所は、図に示した谷間辺りと思われる。上記の額田部湯坐連の近縁であったようである。

高市縣主 古事記中「高市」の出現はこれのみだが、書紀・續紀中ではかなりの頻度で登場する。書紀では高市縣主許梅(高市皇子に併記)なる人物も登場している。そのものズバリの名称であるが、あらためて「高市縣主」が表す地形を述べてみよう。

<高市縣主>
全て既出の文字列であり、高市縣主=皺が寄ったような山稜(高)が尾根にぶら下がって(縣)寄り集まった(市)地に真っ直ぐに延びた(主)山稜があるところと紐解ける。現地名は田川郡香春町鏡山である。

大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の「纏向日代宮」のあった場所とも推定され、古事記が記す古代の中心地であったと思われる。

「主」は「高市」の山稜が立ち上がって様を表していると推定される。大長谷若建命(雄略天皇)に宴席で三重の采女の歌に対する后の返歌に「淤斯呂和氣命」の宮の場所を「多氣知(高市)」と表現している。

蒲生稻寸 「蒲生」は初見の文字列であり、また、古事記中ではこの場限りである。一方、書紀の天智天皇紀に帰化した百濟人達を「遷居近江國蒲生郡」と記載されている。「近江國」の郡の一つなのであるが、古事記に”近江國”の表記は存在しない。

<蒲生忌寸>
後に詳細を述べるとして、古事記の「近淡海國」及びその周辺の地域を表すと解釈される。その地で「蒲生」が表す地形を求めてみよう。

初見の「蒲」=「艸+氵+甫」と分解される。「甫」=「平らに広がる様」を表す文字と知られている。地形として、「蒲」=「水辺で山稜が並んで平らに広がっている様」と解釈される。

纏めると、蒲生=生え出た(生)山稜が水辺で並んで平らに広がっている(蒲)ところと紐解ける。現地名の京都郡苅田町新津辺りに、その地形を見出せる。

「稻寸」の「稻」は初見である。「稻」=「禾+爪+臼」と分解される。「爪」=「下向きの手」を表す文字要素である。即ち、地形として「稻」=「稲穂のような山稜の端が三つに岐れて窪んだ地に延びている様」と解釈される。

纏めると、稻寸=稲穂のような山稜の三つに岐れた端が窪んだ地(稻)に延び出て手を広げているような(寸)ところと紐解ける。「寸」は胸形三女神の二人、市寸嶋上比賣命田寸津比賣命に含まれていた。

<三枝部造>
三枝部造 古事記中に「三枝」の文字列として、伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀の「大中津日子命」が祖となった「三枝之別」及び天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)紀の「三枝部穴太部王」が記載されている。

これらから三枝=山稜の端が三つに岐れて並んでいるところの地形は、現地名は京都郡みやこ町犀川喜多良にある特徴的な山稜の麓と推定された。

犀川(現今川)を遡って、飛鳥・師木などに向かうバイパスルート上にあり、その中間点として重要な位置にあったと思われる。犀川沿いの陸上ルートは極めて困難で、むしろ本ルートがメインだったように思われる。

また英彦山信仰が盛んになるに従ってこの地を経由する人々の往来も盛んであったろう。現在はのどかな農村風情を醸し出しているように感じられるが、時のベールに包まれた地としてみるべきであろう。

三枝部=[三枝]の近隣を表している。図に示した場所が造の居処だったと思われる。「三枝」=「三つの枝」=「三叉路」を示すと推察される。師木方面と英彦山方面の追分である。上記したように後の垂仁天皇紀に大中津日子命の祖の記述に再登場する。

<建比良鳥命(祖)・天津日子根命(祖)>
前記の「建比良鳥命」が祖となった場所を併せて示すと、左図のようになる。

伊邪那岐神・伊邪那美神が生んだ筑紫嶋は「身一而有面四」と記載されていた。その面は、反時計回りで北~北西~西~南方に面し、東方が欠落していると解釈した。

即ち、未開の地であった。その地に二人の命の多くの子孫が蔓延ったと述べていることが解る。

後に倭建命が「言向和平東方十二道之荒夫琉神及摩都樓波奴人等」と記載され、天皇家の統治領域となるまで多くの時間を要したことを告げている。更に、その後も幾多の変遷を経ることになるのだが・・・。

「天津日子根命」は、天御虛空豐秋津根別(大倭豐秋津嶋)の地に子孫を残したと記載されている。後の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が新天地を求めて辿り着いた場所(”夜麻登”周辺)であり、倭國の中心地となる。天神一族が支配、統治する國々の「古代」である。

まだまだその体制は脆弱であり、欠けているところを埋めながら大長谷若建命(雄略天皇)の雄叫びに達するまで更に多くの時間を要したのである。その経緯を述べるのが古事記である。

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判ったような判らないような判定で「速須佐之男命」が勝って宇氣比の決着がついたようである。「速須佐之男命」が生ませたのが男子だったということであろうか・・・。調子に乗って(これもやや調子外れ?)暴れて事件が起きるという筋書きである。そして業を煮やした「天照大御神」が天石屋に雲隠れするという有名な件に移る。







 

2025年3月6日木曜日

【古事記】伊邪那岐神:黃泉國・竺紫日向 〔713〕

伊邪那岐神:黄泉國・竺紫日向


1. 比婆之山

古事記原文[武田祐吉訳]…、

故爾伊邪那岐命詔之「愛我那邇妹命乎那邇」謂「易子之一木乎」乃匍匐御枕方、匍匐御足方而哭時、於御淚所成神、坐香山之畝尾木本、名泣澤女神。故、其所神避之伊邪那美神者、葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也。
[そこでイザナギの命の仰せられるには、「わたしの最愛の妻を一人の子に代えたのは殘念だ」と仰せられて、イザナミの命の枕の方や足の方に這はい臥ふしてお泣きになった時に、涙で出現した神は香具山の麓の小高い處の木の下においでになる泣澤女の神です。このお隱れになったイザナミの命は出雲の國と伯耆の國との境にある比婆の山にお葬り申し上げました]

伊邪那岐神・伊邪那美神の二神は次々と神を生んでいくが、火之迦具土神()を「伊邪那美神」が産んだことで事態は急転する。それがもとで亡くなった「伊邪那美神」を手厚く葬ったと記載されている。

香山之畝尾木本 前記で二神が多くの神を生んだ地は、天神等が蔓延った地、現在の壱岐市勝本町・芦辺町周辺とし(こちら参照)、「迦具土神」は勝本町新城西触と推定した。「香山」も、その周辺の場所を表しているのではなかろうか。後に「天香山」とも記載される場所を求めてみよう。

初見の文字である「香」=「黍+甘」と分解される。更に「黍」=「禾+水」及び「甘」=「口に物を含んだ様」と知られ、水分を含んだ穀物を口に含む様を表すと解説されている。これで通常の”かおり”の意味に繋げられている。地形象形としては、文字要素を忠実に再現することである。即ち、香=窪んだ地から稲穂のような山稜が延び出ている様と解釈される。

<香山之畝尾木本・泣澤女神>
この特徴的な地形を勝本町新城西触にある神岳に見出せる。図に示したように、この文字形をそのまま地形に当て嵌めたと思われ。

窪んだ地に繋がってしなやかに曲がる山稜を表していることが解る(図中の甲骨・金文の古文字を参照)。

「香」の文字を含む名称の山と言えば、「香具山」が知られてる。上記の武田氏訳にも見られるように、通説は大和三山と呼称される山名の一つである(こちら参照)。

古事記中に他にも二座ほど登場するが、「香具山」も含めて、それぞれ個別の山々である。名称は、固有ではなく、それぞれの地形に基づく名称なのである。「香具山」は「香」に加えて「具」の地形がある山の名称である。

<神岳>
更に北側からの神岳の俯瞰図を示した。なだらかで、いくつかの山頂からなる、丘陵のような山であることが判る。これを「畝」と表現したのであろう。

畝尾木本=畝の尾根が延びた先(尾)が[木]ように広がって山稜が途切れる(本)ところと解釈される。

「本」が地名・人名に用いられた最初である。「本」=「木+一」と分解され、地形として、「本」=「山稜が途切れた様」を表すと読み解ける。後に多用される文字の一つである。

泣澤女神 「於御淚所成神」と記されて、「伊邪那岐神」の涙から誕生した神である。死者を送る時に不可欠な神であって、「泣き女(泣女)」として後々まで続いた儀式であると言われている。そのまま受け入れらるような記述なのであるが、「澤」は何を表しているのであろうか?・・・”沢山泣く”意味だとか・・・。

先ずは初見の文字である「泣」=「氵+立」と分解される。「立」=「竝(並ぶ)」と解説されている。即ち、「泣」=「川が並んで流れている様」と読み解ける。また、「澤」=「氵+睪」と分解される。「睪」=「手錠の形」と解説されている。地形として、「澤」=「水辺で丸く小高い地が連なっている様」と読み解ける。

纏めると、泣澤=水辺で丸く小高い地が連なっている前で川が並んで流れているところと紐解ける。「畝尾木本」の詳細な地形を表していることが解る。神岳周辺は、後に古事記が記す”大事件”の舞台となるのである。勿論、登場人物(神々)の居処も併せて、である。

出雲國・伯伎國 「故、其所神避之伊邪那美神者、葬出雲國與伯伎國堺比婆之山」と記載されている。この初見の二國名は、如何に解釈されるであろうか?・・・前者の「出雲國」は、後に「速須佐之男命」が降臨する地を「出雲國之肥河上・名鳥髮地」と記載され、「肥河」の流れる國であることが分る。

<出雲國・伯伎國・比婆之山>
即ち、出雲國=肥國であり、別名と思われる(筑紫嶋:こちら参照)。「出雲」の地形象形としての文字解釈は、後に述べる。

後者の「伯伎國」について、「伎」は既出だが、初見の「伯」は、「伯」=「人+白」と分解される。「白」=「団栗の形」である。

前出の「白日別」(西方)の解釈を行ったが、「白」=「くっ付く様」を表す文字と知られている。多くの文字例がある(狛、迫泊他)。

纏めると、伯伎國=谷間がくっ付いた地の先で谷間が岐れているところの國と紐解ける。その地形は筑紫國の地形の別表記であることが解る。即ち、伯伎國=筑紫國である。

國(嶋)生みの「身一而有面四」の記述に従うならば、その二面の「肥國(出雲國)」と「筑紫國(伯伎國)」が隣接することになる。後に「肥國」は「肥前國・肥後國」となり、「筑前國・筑後國(筑紫國)」と接する配置とされ、事なきを得るのであるが、「出雲國」までくっ付けるのは無理だったようである。

比婆之山 既出の文字列である比婆之山=くっ付いて並んでいる山稜が嫋やかに曲がって延びて水辺を覆い被さるように広がっているところの山と読み解ける。「出雲國」と「伯伎國」に跨る山稜を表していることが解る。「伊邪那岐神」は、既に出雲國(後に葦原中國と記載される)へ進出するつもりであり、最愛の妻を傍に留めておきたかったのかもしれない。

それはともかく、現在の行政区分も北九州市の小倉北区と同市門司区の境界である。古代の境界が踏襲された場所が多く見られるようである。まかり間違っても「伯耆國」(伯伎國)は「出雲國」の東にはない、と思われる。

2. 湯津石村・伊都

古事記原文[武田祐吉訳]…、

於是伊邪那岐命、拔所御佩之十拳劒、斬其子迦具土神之頸。爾著其御刀前之血、走就湯津石村、所成神名、石拆神、次根拆神、次石筒之男神。三神次著御刀本血亦、走就湯津石村、所成神名、甕速日神、次樋速日神、次建御雷之男神、亦名建布都神布都二字以音、下效此亦名豐布都神。三神次集御刀之手上血、自手俣漏出、所成神名訓漏云久伎闇淤加美神淤以下三字以音、下效此次闇御津羽神。上件自石拆神以下、闇御津羽神以前、幷八神者、因御刀所生之神者也。
所殺迦具土神之於頭所成神名、正鹿山津見神。次於胸所成神名、淤縢山津見神。淤縢二字以音。次於腹所成神名、奧山津見神。次於陰所成神名、闇山津見神。次於左手所成神名、志藝山津見神。志藝二字以音。次於右手所成神名、羽山津見神。次於左足所成神名、原山津見神。次於右足所成神名、戸山津見神。自正鹿山津見神至戸山津見神、幷八神。故、所斬之刀名、謂天之尾羽張、亦名謂伊都之尾羽張。伊都二字以音。
[ここにイザナギの命は、お佩きになつていた長い劒を拔いて御子のカグツチの神の頸をお斬りになりました。その劒の先についた血が清らかな巖に走りついて出現した神の名は、イハサクの神、次にネサクの神、次にイハヅツノヲの神であります。次にその劒のもとの方についた血も、巖に走りついて出現した神の名は、ミカハヤビの神、次にヒハヤビの神、次にタケミカヅチノヲの神、またの名をタケフツの神、またの名をトヨフツの神という神です。次に劒の柄に集まる血が手のまたからこぼれ出して出現した神の名はクラオカミの神、次にクラミツハの神であります。以上イハサクの神からクラミツハの神まで合わせて八神は、御劒によつて出現した神です。
殺されなさいましたカグツチの神の、頭に出現した神の名はマサカヤマツミの神、胸に出現した神の名はオトヤマツミの神、腹に出現した神の名はオクヤマツミの神、御陰に出現した神の名はクラヤマツミの神、左の手に出現した神の名はシギヤマツミの神、右の手に出現した神の名はハヤマツミの神、左の足に出現した神の名はハラヤマツミの神、右の足に出現した神の名はトヤマツミの神であります。マサカヤマツミの神からトヤマツミの神まで合わせて八神です。そこでお斬りになつた劒の名はアメノヲハバリといい、またの名はイツノヲハバリともいいます]

湯津石村 用いた剣の先に付いた血が「湯津石村」に走り就いたと述べている。初登場の「湯」の文字解釈を行ってみよう。「湯」=「氵+昜」と分解される。更に「昜」=「日+丂+彡」から成る文字であり、「日が空高く昇る様」を表す文字と知られている。地形象形としては、「湯」=「水が飛び散るように流れる様」と解釈される。

また、「村」の文字も初見である。「村」=「木+寸」と分解される。「寸」=「又+一」から成る文字であり、「手を広げて長さを計る様」と解説されている。地形としては、「村」=「山稜の端が[手]を広げたように延びている様」と解釈される。これらの文字は、通常の意味と解釈しては、全く解読することはできないのである。

「石」は、前記の天之石楠船神()で登場した「石」=「山稜が[石]の形をしている様」とし、「津」=「氵+聿」=「水辺で[筆]のような様」として、纏めると、湯津石村=水が飛ぶ跳ねるように流れる(湯)谷間に[筆]のような(津)山稜と[石]の形の地にある山稜の端が[手]を広げたような(村)山稜がのびているところと紐解ける。図に示した通り、前出の大宜都比賣神()の谷間を表していることが解る。

石折神・根折神・石筒之男神 「御刀前之血」から三神が生まれたと記載されている。「湯津石村」の谷間近辺の場所を表しているのであろう。「石」は、上記の通りと解釈して、初見の「折」=「手+斤」と分解される。「斤」=「⺁+⊤」から成る文字要素であって、「斧を打ち付けて折り曲げた様」を象形した文字と知られている。地形的には、そのまま「折」=「折り曲げられた様」と解釈される。

「筒」も初見であり、この後に幾度か用いられる文字である。「筒」=「竹+同」と分解される。「同」=「真ん中を突き通して空洞になっている様」を象形したもじである。地形としては、「筒」=「谷間が[筒]のようになっている様」と解釈される。

石折神=[石]にある山稜が折り曲げられている(折)ところの神根折神=[根]のように細かく岐れて延びている山稜が折り曲げられている(折)ところの神と紐解ける。前者は、図に示した場所に、はっきりと見出すことができる。一方後者は、地形変形があって、些か判別し辛いが、おそらく図に示した場所を表していると思われる。

<湯津石村・十拳劒>
<石折神・根折神・石筒之男神>
<甕速日神・樋速日神・建御雷之男神>
石筒之男神=[石]の地の麓で[筒]形の谷間にある[男]のような山稜が突き出たところの神と紐解ける。

前記の金山毘古神()の「金」の頭に当たる場所と思われる。

三神は、しなやかに曲がりながら延び広がる「大宜都比賣神」の谷間に沿って並んでいる様子が伺える。

その場所は、「御刀前」と記載されているが、詳しくは後に述べることにする。

尚、「折」に文字要素である「斤」は、「近」にも含まれ、極めて重要である。即ち、「チカイ」と解釈するのではなく、上記と同様に「斧で折れ曲げた様」となる。「近淡海(近江)」は、”近い淡海(江)”ではない。

甕速日神・樋速日神・建御雷之男神 同じく「湯津石村」に走り就いた「御刀本血」からも三神が誕生したと記載されている。今度は剣の手元からである。「甕」=「[甕]の形をしている様」、「樋」=「[樋]の形をしている様」と解釈する。

纏めると、甕速日神=[甕]の形をしてる地の麓で炎のような(日)山稜を束ねる(速)ところの神樋速日神=[樋]の形をしている地で炎のような(日)山稜を束ねる(速)ところの神と紐っとける。火之迦具土神()の「火」の場所を「甕」と言い換えている。「樋」は細長い谷間を表していると思われる。

建御雷之男神に含まれる「雷」の本字は「靁」=「雨+畾」である。「畾」=「〇+〇+〇」と解説される。地形としては、「雷」=「三つの丸く小高い地が広がっている様」と解釈される。「建」、「御」、「男」は既出として、建御雷之男神=[筆]のように延びる山稜が三つの丸く小高い地(雷)を束ねている(御)地に[男]のような山稜が延びているところの神と紐解ける。

この神には建布都神、また豐布都神の別名があったと記載されている。布都=[布]のように平らに広がった地が交差するように集まっているところと解釈される。「雷」の地が二つの「布」の交点に当たる。「建」の地が「豐」=「段差のある高台」でもあり、別名として妥当な名称と思われる。

各々の誕生の地を図に示した。「湯」の谷間の奥に坐す神々であることが解る。「建御雷之男神」は、この後に重要な役割を担ったと記載されることになる。どうやら最強の神だったようである。

闇淤加美神闇御津羽神 手の血が「自手俣漏出」となって誕生した神々と記載されている。二神の名前は、既に出現した文字列であり、それに従って読み解くことができる。

即ち、闇淤加美神=山稜に挟まれた奥に閉じ込められた(闇)地で水辺で旗がなびくように延びた(淤)山稜が谷間(美)を押し拡げている(加)ところの神闇御津羽神=山稜に挟まれた奥に閉じ込められた(闇)地で水辺で[筆]の形の(津)山稜を束ねて(御)羽のようになっているところの神と紐解ける。図に示した場所に、これらの地形を満足する場所が見出せる。

十拳 用いた剣の名称である。通説では、十握り(十束)の剣であり、長剣を意味すると解釈されている。だが、これも地形象形表記なのである。図に示したように「石」の”厂”の場所に当たる。そして、握りの部分が「左手」の地形をしていることが解る。

すると、十拳劒=握る拳が十字形になっている劒と紐解ける。古事記らしい表記、であろう。そして、その”指の股”の先に「闇」の二神()が鎮座していることが解る。石折神等の三神()は、”剣先”であり、甕速日神等の三神()は、”手元”となっているのである。

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「迦具土神」の身体から八神が誕生したと記載されている。全て「山津見神」である。前記の大山津見神()と同様に山津見神=山稜が[山]の形をしている地に[筆]のような山稜が延びて麓で谷間が長く延びているところの神と解釈される。火之迦具土神()の「火」の地形を「山」の文字で表記したのであろう。

正鹿山津見神 迦具土神の”頭”から現れた神とされている。初見の文字である「正」=「止+一」と分解される。両足を揃えて立ち止まる姿を表すと解説されている。地形的には、「正」=「[足」のような山稜が延びて並び揃っている様」と解釈される。纏めると、正鹿=[足」のような山稜が延びて鹿の角のように並び揃っているところと紐解ける。

淤縢山津見神 ”胸”から現れた神とされている。初見の文字である「縢」=「朕+糸」と分解される。「朕」=「舟が水に浮かんで進む様」を象形した文字と知られている。類似の文字に「勝」=「朕+力」がある。

地形象形的には、「朕」=「盛り上がっている様」を表すと解釈される。即ち、「縢」=「小ぶりな山稜が盛り上がっている様」と読み解ける。纏めると、淤縢=水辺で旗のように広がっている地の先に小ぶりな山稜が盛り上がっているところと紐解ける。

<正鹿山津見神・淤縢山津見神・奧山津見神>
<闇山津見神・志藝山津見神・羽山津見神>
<原山津見神・戸山津見神>
奧山津見神 ”腹”から現れた神と記されている。奧=奥まったところと解釈される。

闇山津見神 ”陰部”から現れたとされている。前出の闇=門+音=山稜に挟まれた奥まった地に閉じ込められたようなところと解釈される。

志藝山津見神 ”左手”から現れている。「藝」は、「迦具土神」の別名である「火之夜藝速男神」に用いられていた。

その「藝」の場所が”左手”に当たると述べている。「志」=「蛇行する川」であるが、地図上での確認は難しいようである。

羽山津見神 ”右手”から現れている。「志藝」の東側に当たる場所を「羽」で表記したのであろう。

原山津見神 ”左足”から現れている。「原」は既出であるが、ここでは、そもそもの字源に基づいた解釈が必要であろう。「原」=「厂+泉(囟+水)」と分解する。即ち、原=山麓の窪んだところから川が流れ出ているところと解釈される。要するに「源」の原字なのである。

戸山津見神 ”右足”から現れている。上記の「闇」の入口に当たる場所を示したいるのであろう。

八神の生誕の地を図に示した。名前が表す地形を満足する結果となったように思われる。更に「迦具土神」が東を頭にして横たわっている姿から身体の各部位に該当する場所を表していることが解る。
 
天之尾羽張・伊都之尾羽張 使った「十拳劒」を銘々されて、「所斬之刀名、謂天之尾羽張、亦名謂伊都之尾羽張」と述べている。尾羽張=尾のように延びた山稜の先が羽のように広がっているところと読み解ける。即ち、「十拳劒」の”手元”の地の地形を表してることが解る。

「天」=「阿麻」として、「伊都」は如何なる地形を表そうとしているのであろうか?…既出の文字列である伊都=谷間で区切られた山稜が交差するように集まっているところと読み解ける。「十拳劒」を「尾」と言い換えているわけだから、「伊都」は、湯津石村の「石」の詳細な地形を表していたのである。即ち、図に示したように「石」の中心から放射状に山稜が延びている様子を「伊都」と表現したと思われる。

<伊都之尾羽張>
「伊都(イツ)」と訓する。まかり間違っても「イト」と読むことはない(「都」=「ツ」呉音)。

本文に「伊都二字以音」と記載されている。即ち、「イツ」と発音する文字があることを示している・・・燚(イツ)である。

図に示したように麓を四つの「火」の形に岐れた山稜がぐるりと取り巻いている地形が認められる。

おそらく、壱岐島中至る所に存在する複数の噴火口が寄り集まってできた場所の一つであり、際立って特徴的な地形ではなかろうか(類する場所としては、例えばこちら参照)。

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少々余談になるが、魏志倭人伝中に「伊都國」なる國が登場する。従来より、”イト”と読んで、現在の福岡県の糸島半島周辺の地に比定されている。諸説紛々なのであるが、この比定は確かなものと思われているようである。上記したように「都」は漢音「ト」、呉音「ツ」である。

倭人に関わるならば、呉音であろう。現存する地名の発音から場所を特定するのは危険である。その上に、漢音・呉音を都合よく用いて解釈しては混迷から抜け出すことは叶わないであろう。

では、「伊都國」は何処?・・・壱岐島に類似する地であり、火山に囲まれた場所にある。詳細は、こちら参照。

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3. 黃泉國・葦原中國

古事記原文[武田祐吉訳]…、

於是、欲相見其妹伊邪那美命、追往黃泉國。爾自殿騰戸出向之時、伊邪那岐命語詔之「愛我那邇妹命、吾與汝所作之國、未作竟。故、可還。」爾伊邪那美命答白「悔哉、不速來、吾者爲黃泉戸喫。然、愛我那勢命那勢二字以音下效此入來坐之事恐。故、欲還、且與黃泉神相論。莫視我。」如此白而還入其殿之間、甚久難待、故、刺左之御美豆良三字以音、下效此湯津津間櫛之男柱一箇取闕而、燭一火入見之時、宇士多加禮許呂呂岐弖此十字以音、於頭者大雷居、於胸者火雷居、於腹者黑雷居、於陰者拆雷居、於左手者若雷居、於右手者土雷居、於左足者鳴雷居、於右足者伏雷居、幷八雷神成居。
於是伊邪那岐命、見畏而逃還之時、其妹伊邪那美命言「令見辱吾。」卽遣豫母都志許賣此六字以音令追、爾伊邪那岐命、取黑御𦆅投棄、乃生蒲子。是摭食之間、逃行、猶追、亦刺其右御美豆良之湯津津間櫛引闕而投棄、乃生笋。是拔食之間、逃行。且後者、於其八雷神、副千五百之黃泉軍、令追。爾拔所御佩之十拳劒而、於後手布伎都都此四字以音逃來、猶追、到黃泉比良此二字以音坂之坂本時、取在其坂本桃子三箇待擊者、悉逃迯也。爾伊邪那岐命、告其桃子「汝、如助吾、於葦原中國所有宇都志伎此四字以音青人草之落苦瀬而患惚時、可助。」告、賜名號、意富加牟豆美命。自意至美以音。
最後、其妹伊邪那美命、身自追來焉。爾千引石引塞其黃泉比良坂、其石置中、各對立而、度事戸之時、伊邪那美命言「愛我那勢命、爲如此者、汝國之人草、一日絞殺千頭。」爾伊邪那岐命詔「愛我那邇妹命、汝爲然者、吾一日立千五百屋。」是以、一日必千人死・一日必千五百人生也。故、號其伊邪那美神命、謂黃泉津大神。亦云、以其追斯伎斯此三字以音而、號道敷大神。亦所塞其黃泉坂之石者、號道反大神、亦謂塞坐黃泉戸大神。故、其所謂黃泉比良坂者、今謂出雲國之伊賦夜坂也。
[イザナギの命はお隱れになつた女神にもう一度會いたいと思われて、後を追つて黄泉の國に行かれました。そこで女神が御殿の組んである戸から出てお出迎えになつた時に、イザナギの命は、「最愛のわたしの妻よ、あなたと共に作つた國はまだ作り終らないから還つていらつしやい」と仰せられました。しかるにイザナミの命がお答えになるには、「それは殘念なことを致しました。早くいらつしやらないのでわたくしは黄泉の國の食物を食べてしまいました。しかしあなた樣がわざわざおいで下さつたのですから、何とかして還りたいと思います。黄泉の國の神樣に相談をして參りましよう。その間わたくしを御覽になつてはいけません」とお答えになつて、御殿のうちにお入りになりましたが、なかなか出ておいでになりません。あまり待ち遠だつたので左の耳のあたりにつかねた髮に插していた清らかな櫛の太い齒を一本闕いて一本火を燭ぼして入つて御覽になると蛆が湧いてごろごろと鳴つており、頭には大きな雷が居、胸には火の雷が居、腹には黒い雷が居、陰にはさかんな雷が居、左の手には若い雷が居、右の手には土の雷が居、左の足には鳴る雷が居、右の足にはねている雷が居て、合わせて八種の雷が出現していました。
そこでイザナギの命が驚いて逃げてお還りになる時にイザナミの命は「わたしに辱をお見せになつた」と言つて黄泉の國の魔女を遣つて追わせました。よつてイザナギの命が御髮につけていた黒い木の蔓の輪を取つてお投げになつたので野葡萄が生えてなりました。それを取つてたべている間に逃げておいでになるのをまた追いかけましたから、今度は右の耳の邊につかねた髮に插しておいでになつた清らかな櫛の齒を闕いてお投げになると筍が生えました。それを拔いてたべている間にお逃げになりました。
後にはあの女神の身體中に生じた雷の神たちに澤山の黄泉の國の魔軍を副えて追わしめました。そこでさげておいでになる長い劒を拔いて後の方に振りながら逃げておいでになるのを、なお追つて、黄泉比良坂の坂本まで來た時に、その坂本にあつた桃の實を三つとつてお撃ちになつたから皆逃げて行きました。そこでイザナギの命はその桃の實に、「お前がわたしを助けたように、この葦原の中の國に生活している多くの人間たちが苦しい目にあつて苦しむ時に助けてくれ」と仰せになつてオホカムヅミの命という名を下さいました。
最後には女神イザナミの命が御自身で追つておいでになつたので、大きな巖石をその黄泉比良坂に 塞いでその石を中に置いて兩方で對い合つて離別の言葉を交した時に、イザナミの命が仰せられるには、「あなたがこんなことをなされるなら、わたしはあなたの國の人間を一日に千人も殺してしまいます」といわれました。そこでイザナギの命は「あんたがそうなされるなら、わたしは一日に千五百も産屋を立てて見せる」と仰せられました。こういう次第で一日にかならず千人死に、一日にかならず千五百人生まれるのです。かくしてそのイザナミの命を黄泉津大神と申します。またその追いかけたので、道及の大神とも申すということです。その黄泉の坂に塞がつている巖石は塞いでおいでになる黄泉の入口の大神と申します。その黄泉比良坂というのは、今の出雲の國のイブヤ坂という坂です]

更に諦めきれない伊邪那岐命は、亡き伊邪那美命に会いに「黃泉國」に向かい、会えることは叶ったのだが、還るには黃泉神に相談する必要があり、「莫視我」と言いつけて隠れてしまった・・・と記している。暇な伊邪那岐命は「黃泉國」の様子を伺ったが、なんともおぞましい世界が・・・。

<黄泉國・八雷神>
黃泉國 伊邪那美命を葬った場所は、前記で「出雲國」と「伯伎國」の堺にある「比婆之山」と記載されていた(こちら参照)。ならば、その周辺の地にあった國と推測される。

「黃泉國」に含まれる「黃」は初見である。「黃」=「四方に広がる様」を意味すると解説されている。そのまま地形に適用したと解釈される。

既出の「泉」と合わせると、黃泉=窪んだ地から水が四方に広がっているところと紐解ける。「伯伎國」の谷間の様相を別表現したものであろう。

八雷神 上記で雷(靁)=三つの丸く小高い地(畾)が広がっている(雨)様と解釈した。登場した順に述べると、大雷=平らな頂の麓が[靁]になっているところと紐解ける。”頭部”に当たると記している。”胸”に当たるのが火雷=[火]の形の山稜の先が[靁]になっているところと紐解ける。

”腹”は黑雷と記している。「黑」の文字の初見である。「黑」=「囗+※+灬(炎)」と分解される。地形表記としては、「黑」=「谷間に[炎]のような細かく岐れた山稜が延び出ている様」と解釈される。黑雷=谷間に[炎]のような細かく岐れた山稜が延び出た先が[靁]になっているところと紐解ける。

”陰”部は折雷=折り曲げられた地の麓が[靁]になっているところと紐解ける。黄泉國の「泉」に当たる場所であろう。”左手”は若雷としている。「若」は初見であり、「若」=「叒+囗」と分解される。「叒」=「又+又+又」から成る文字であり、地形として、「若」=「三つに岐れた山稜が延びている様」と解釈される。纏めると、若雷=三つに岐れた山稜が延びている先が[靁]になっているところと紐解ける。

”右手”の土雷の「土」=「豆知」とすると、土雷=[鏃]のような山稜の先が[靁]になっているところと紐解ける。”左足”の鳴雷=鳥の形をした山稜の先が[靁]になっているところと紐解ける。尚、「鳴」=「囗+鳥」と分解される。

”右足”の伏雷の「伏」は初見であり、「伏」=「人+犬」と分解する。「犬」=「犬の象形」として、表す地形は、「犬」=「平らな頂に小高い地がある様」と解釈する。纏めると、伏雷=谷間にある平らな頂に小高い地がある山稜の麓が[靁]になっているところと紐解ける。

図に示したように「黄泉國」の地形を隈なく表現していることが解る。身体の部位の表記も妥当なものであろう。「八雷神」とは、なんとも賑やかなことであろう・・・「伊邪那岐命」は、早々に退散することになる。

少し後に千五百之黃泉軍と記載されている。武田氏訳は”沢山の黃泉國の魔軍”となっているが、地形象形表記であろう。初見の「千」、「五」、「百」の文字は、「千」=「人+一」と分解され、「千」=「谷間を束ねる様」、「五」=「交差する様」、「百」=「一+白」=「丸く小高い地が連なっている様」と解釈される。

纏めると、千五百=谷間を束ねる山稜の麓で交差するように丸く小高い地が連なっているところと紐解ける。「八雷神」の配置を別表現しているのである。これらの文字は、後に頻出することになる。決して”数”だけを表しているのではない。

<豫母都志許賣>
豫母都志許賣 武田氏は「豫母都志許賣(ヨモツシコメ)」=「黄泉の國の魔女」と訳される。通説では、「志許賣」=「醜女」とされているようであるが、全ての文字が既に地形象形表記として用いられている。

豫母都志許賣=[象]のような山稜を横に押し延ばして(豫)母が子を抱くように延ばした両腕(母)が交差して集まる(都)地に蛇行する川(志)が流れる耕地が杵を突くように延びている(許)ところの賣(女)と紐解ける。

図に示した「黃泉國」の中心地を表している。上図の「折雷」の前に当たる場所である。

「黃泉」の訓は不詳であるが、この人物の豫母(ヨモ)から類推されている。古事記編者の太安萬侶にとっては、「天」=「阿麻」とは異なり、「黃泉」の訓は重要ではなかったようである。尚、「黃」の古文字形をそのまま適用したとも思われ、訓を他の文字で表すことが不可だったのかもしれない(こちら参照)。

いずれにせよ、「伊邪那岐命」の逃亡劇が始まるようである。「於其八雷神、副千五百之黃泉軍、令追」と記載されている。黃泉國全軍を相手に・・・十挙劒の威力は凄まじかった、のかもしれない・・・。

黃泉比良坂 黃泉國脱出する際に駆け下る坂があったと記載されている。後にこの坂は「出雲國之伊賦夜坂」と呼称されたと述べている。即ち、黃泉國と出雲國との境にあったことになり、比婆之山を横切る坂であったと思われる。「比良」は音表示と記載されているが、比良=なだらかな地がくっ付いて並んでいるところと読み解ける。簡単なようで場所を特定するには少々曖昧な表記である。

<黃泉比良坂・出雲國之伊賦夜坂>
そこで「比良」=「手の平」と解釈すると、比良坂=なだらかな地がくっ付いて並んで手の平のようになっているところの坂と紐解ける。出雲國へ向かう谷間にその地形を見出せる。

伊賦夜坂に含まれる「賦」は初見である。「賦」=「貝+武」と分解される。更に「武」=「戈+止」から成る文字と知られている。

地形としては、「賦」=「谷間(貝)にある山稜の端(止)が矛(戈)のように延びている様」と解釈される。

纏めると、伊賦夜坂=端が三角州になった山稜で二つに岐れた谷間(夜)の前で谷間で岐れた山稜(伊)の端が矛のように延びている(賦)ところの坂と紐解ける。”夜を与える(賦)ことを統べる(伊)坂”と読み下してみると、それなりに筋が通っているようにも思われる。前記したが、黃泉國は出雲國の西側に位置しているのである。

<桃子三箇・葦原中國>
桃子三箇 「伊邪那岐命」は黃泉比良坂(出雲國之伊賦夜坂)を下って坂本に至り、「桃子三箇」に助けられて、追手は悉く逃げ去ったと述べている。

桃子=[桃]のような山稜から生え出た(子)地に住まう人であろう。その「桃」が三つ寄り集まっている場所であろう。

「桃」=「木+兆」と分解される。「兆」=「二つに割れる様」を表す文字である。地形としては「桃」=「小高く丸い山稜に割れ目がある様」と解釈される。

その地形を坂本の周辺に三つ、大小取り揃えて、確認することができる。霊力がある伝説(桃太郎)と解釈するのも自由であるが、極めて精緻な地形象形を行ているのである。

葦原中國 「桃子三箇」を含む周辺領域を表す表記であろう。「葦」=「艸+韋」と分解される。「韋」=「ぐるりと取り巻かれた様」を表す文字である。すると、葦原中國=ぐるりと取り巻かれた(葦)平らな地(原)で山稜で囲まれた地(國)を突き通すにように延びている(中)ところと紐解ける。「桃」の山稜が途切れずに延びた様を表していることが解る。

前出の比婆之山で述べたように、山稜が水辺を覆い被さるように延びている地域なのである。後に、より詳細な地形を表す表記で登場する。「葦」が示すように限定された地域なのであるが、通説では高天原(上)と黃泉國(下)との間にある國とされ、地上世界を意味するように解釈されている。古事記の”神話風”記述に乗っかっているだけであろう。

意富加牟豆美命 「桃子三箇」に賜ったと記載されている。前出の意富=閉じ込められた地の奥に酒樽のような山稜があるところであり、「桃」=「酒樽」と見做した表記であろう。初見の「牟」=「〇+牛」と分解される。「牛」=「牛の頭部のような様」と解釈すると、地形としては、「牟」=「谷間に挟まれた山稜の端が延びている様」と読み解ける。

纏めると、加牟豆美命=谷間に挟まれた山稜の端(牟)が押し延ばされた(加)高台(豆)の麓の谷間が広がっている(美)ところと紐解ける。三つの「桃」の寄り集まった地を表していることが解る。

<宇都志伎青人草>
宇都志伎青人草 武田氏は「葦原中國で生活している人々(青人草)」と訳されている。文脈からして妥当なような感じであるが、地形象形表記として紐解いてみよう。

初見の文字は「青(靑)」=「生+井」と分解される。「井」から生え出る様で清々しい様を表す文字と知られているが、地形としては、「靑」=「四角く取り囲まれた地が生え出ている様」と読み解ける。

纏めると、宇都志伎青人草=谷間に延び広がった山稜(宇)が交差するように集まっている(都)麓で蛇行する川(志)が流れる谷間が岐れて(伎)四角く区切られた(青)谷間(人)が[草]のように延び広がっているところと紐解ける。その地の住人を表していることが解る。そして、「葦原中國」の詳細な地形を述べているのである。

千引石 「黃泉比良坂」を塞ぐために用いた石、武田氏は”大きな巖石”と解釈されている。辞書には、”千人で引かないと動かない石”と記載されている。勿論、地形象形表記であろう。初見の「引」=「弓+|」と分解され、地形として、「引」=「弓を引いている様」と解釈する。

<千引石>
前出の「千」=「人+一」、「石」=「伊波」として、纏めると、千引石=谷間に区切られて(伊)水辺を覆い被さるように延びている(波)山稜が谷間を束ねて(千)弓を引くような形(引)をしたところと紐解ける。

別名として、道反大神塞坐黃泉戸大神が記載されている。前者の「道反」の「反」=「厂+又」=「山麓に手のような山稜が延びている様」と解釈される。

前出の「道」=「辶+首」として、道反=首の付け根のように窪んだ(道)地の麓に手のような山稜が延びている(反)ところと紐解ける。「道」は「黃泉比良坂」の窪んだ地形を表している。後者は、そのままの表記であろう。図に示した通り、「出雲國之伊賦夜坂」の地形をより詳細に表していることが解る。

「伊邪那美命」を黃泉津大神道敷大神と名付けているが、前出の「津」=「氵+聿」であり、「道敷」は「比良坂」の別称であろう。即ち、「黃泉比良坂」と「出雲國之伊賦夜坂」は、同一の場所ではなく、別称でもない。「黃泉比良坂」は「千引石」で封印されたのだが、”今は”その場所に通じる坂を「出雲國之伊賦夜坂」と呼んでいると述べているのである。

4. 竺紫日向

古事記原文[武田祐吉訳]…、

是以、伊邪那伎大神詔「吾者到於伊那志許米志許米岐此九字以音穢國而在祁理。此二字以音。故、吾者爲御身之禊」而、到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐此三字以音原而、禊祓也。
故、於投棄御杖所成神名、衝立船戸神。次於投棄御帶所成神名、道之長乳齒神。次於投棄御囊所成神名、時量師神。次於投棄御衣所成神名、和豆良比能宇斯能神。此神名以音。次於投棄御褌所成神名、道俣神。次於投棄御冠所成神名、飽咋之宇斯能神。自宇以下三字以音。次於投棄左御手之手纒所成神名、奧疎神。訓奧云於伎。下效此。訓疎云奢加留。下效此。次奧津那藝佐毘古神。自那以下五字以音。下效此。次奧津甲斐辨羅神。自甲以下四字以音。下效此。次於投棄右御手之手纒所成神名、邊疎神。次邊津那藝佐毘古神。次邊津甲斐辨羅神。右件自船戸神以下、邊津甲斐辨羅神以前、十二神者、因脱著身之物、所生神也。
於是詔之「上瀬者瀬速、下瀬者瀬弱。」而、初於中瀬墮迦豆伎而滌時、所成坐神名、八十禍津日神、訓禍云摩賀、下效此。次大禍津日神、此二神者、所到其穢繁國之時、因汚垢而所成神之者也。次爲直其禍而所成神名、神直毘神毘字以音、下效此次大直毘神、次伊豆能賣神。幷三神也。伊以下四字以音。次於水底滌時、所成神名、底津綿津見神、次底筒之男命。於中滌時、所成神名、中津綿津見神、次中筒之男命。於水上滌時、所成神名、上津綿津見神訓上云宇閇次上筒之男命。
此三柱綿津見神者、阿曇連等之祖神以伊都久神也。伊以下三字以音、下效此。故、阿曇連等者、其綿津見神之子、宇都志日金拆命之子孫也。宇都志三字、以音。其底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者、墨江之三前大神也。
[イザナギの命は黄泉の國からお還りになって「わたしは隨分厭な穢ない國に行ったことだった。わたしは禊をしようと思う」と仰せられて、竺紫の日向の橘の小門のアハギ原においでになって禊をなさいました。
その投げ棄てる杖によつてあらわれた神は衝き立つフナドの神、投げ棄てる帶であらわれた神は道のナガチハの神、投げ棄てる袋であらわれた神はトキハカシの神、投げ棄てる衣であらわれた神は煩累の大人の神、投げ棄てる褌であらわれた神はチマタの神、投げ棄てる冠であらわれた神はアキグヒの大人の神、投げ棄てる左の手につけた腕卷であらわれた神はオキザカルの神とオキツナギサビコの神とオキツカヒベラの神、投げ棄てる右の手につけた腕卷であらわれた神はヘザカルの神とヘツナギサビコの神とヘツカヒベラの神とであります。以上フナドの神からヘツカヒベラの神まで十二神は、おからだにつけてあつた物を投げ棄てられたのであらわれた神です。
そこで、「上流の方は瀬が速い、下流の方は瀬が弱い」と仰せられて、眞中の瀬に下りて水中に身をお洗いになつた時にあらわれた神は、ヤソマガツヒの神とオホマガツヒの神とでした。この二神は、あの穢い國においでになつた時の汚垢によつてあらわれた神です。次にその禍を直そうとしてあらわれた神は、カムナホビの神とオホナホビの神とイヅノメです。次に水底でお洗いになつた時にあらわれた神はソコツワタツミの神とソコヅツノヲの命、海中でお洗いになつた時にあらわれた神はナカツワタツミの神とナカヅツノヲの命、水面でお洗いになつた時にあらわれた神はウハツワタツミの神とウハヅツノヲの命です。このうち御三方のワタツミの神は安曇氏の祖先神です。よつて安曇の連たちは、そのワタツミの神の子、ウツシヒガナサクの命の子孫です。また、ソコヅツノヲの命・ナカヅツノヲの命・ウハヅツノヲの命御三方は住吉神社の三座の神樣であります]

<伊那志許米志許米岐穢國>
伊那志許米志許米岐穢國 黃泉國の別称であろう。その地形を表していることを確認してみよう。初見の「米」は古文字形に基づいて、地形として、「米」=「谷間に山稜の端が並んでいる様」と解釈する。

また「穢」=「禾+歲」と分解される。「歲」=「戉+歩」から成る文字と知られている。「戉」は「鉞」の原字である。「歩(步)」=「右足+左足」を表す文字と知られている。

地形として、「穢」=「稲穂のような(禾)山稜にくっ付いた(歩)端が[鉞]の形をしている様」と読み解ける。「志許米」=「蛇行する川が流れる耕地が山稜の端が並ぶ谷間で杵を突くようになっているところ」と紐解ける。

纏めると、伊那志許米志許米岐穢國=谷間で区切られた山稜(伊)の麓の谷間がしなやかに曲がって延び(那)二つに岐れた[志許米]の地が[鉞]のような山稜の前にある國と紐解ける。図に示した通りに「黃泉國」を再現しているように思われる。

竺紫日向之橘小門之阿波岐原 「竺紫日向」は、これが最初の登場であり、後の邇邇藝命が天孫降臨したとされる場所である「竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」にも含まれる。勿論、同じ場所を表すものであろう。古事記中の重要なランドマークの一つと思われる。

その場所は現存する類似地名から比定されているが、確定的ではなく、極めて曖昧な状況であろう。この重要な場所でさえ、歴史学は”ロマン”化しているのである。そんな背景の中で①竺紫日向、②橘小門、③阿波岐原と三つに区切って読み解きを行うことにする。

①竺紫日向 「竺紫」は「筑紫」と同義として置換えられている。いやむしろ「筑紫日向」と表記されるのが通常である。だが、古事記中に「筑紫日向」という表記は存在しない。すべて「竺紫日向」である。要するに”竺紫の(傍らの)日向”であって”筑紫の(傍らの)日向”ではないことが解る。

<筑紫>
明確に区別されるのであれば「竺紫」と「筑紫」は別の場所を示すことになる。一方、日本書紀を参照すると真逆の様相で「竺紫日向」は存在しない。
 
当然本著は古事記に従う方針だから「竺紫日向」を読み解くことになる。では「竺紫」は何と紐解けるのか?…今一度「筑紫」の地形象形を思い起こすことから始める。

再掲した図は伊邪那岐神・伊邪那美神が國(嶋)生みをした筑紫嶋の面四の中の一つ、筑紫國の「筑紫」が地形象形であることを示している(こちらも参照)。現在の足立山山稜が「筑」、そして比婆之山とした並んで延びる稜線を「紫」が示している。

「筑」=「竹+工+
丮」から成る文字である。「竺」=「竹+二」と分解される。「竺」=「真っ直ぐに延びる山稜が二ヶ所で区切られている様」と読み解ける。即ち、山塊が峠道で三つに岐れている場所を表していることが解る。「筑」とは、全く異なる地形である。

<竺紫日向>
前出の「紫」=「此+糸」として、竺紫=二ヶ所で区切られている真っ直ぐに延びる山稜(竺)の麓から折れ曲がった二つの山稜が延びている(紫)ところと紐解ける。

この特徴的な地形を図に示した場所に見出せる。遠賀郡岡垣町と宗像市との端境に横たわる山塊、通称孔大寺山系と呼ばれる場所である。

日向の文字は、筑紫嶋の面一である「肥國」の謂れの建日向日豐久士比泥別に含まれていた。同様に解釈すると、日向=[炎]のような山稜が北に向かって延びているところと紐解ける。「紫」の山稜の端が「炎」のように岐れていることを表している。

「肥國」は、現在の北九州市門司区であり、関門海峡に面する北方が開けた地である。「竺紫日向」は、北側に響灘の大海原が広がる地である。それぞれ背後を長大な山塊に取り囲まれた地形を有している。「向」及びこれを要素に含む文字は、全て”北に向かう”地形を表しているのである。

通説は、「日の(出る)方に向かう」、「日向(ヒナタ)」=「日の当たっている所」などなど、行方定まらずの状況のようである。尚、Wikipediaには、「竺紫日向」、「筑紫日向」の項目は見当たらないようである。

②橘小門 「橘小門」に含まれる「橘」は、勿論初見の文字である。文字解釈を行うと、「橘」=「木+矛+冏」と分解される。「冏」=「末にある様」と解説されている。「裔」などの文字要素である。

<橘小門之阿波岐原>
地形的には、「山稜の端が矛のようになっている様」と解釈されるが、柑橘系樹木の特徴を”三叉矛”で表したものであろう。

即ち、地形象形としては、「橘」=「山稜の端が三叉矛のようになっている様」と読み解ける。

既出の「小」、「門」と合わせて、橘小門=端が三叉矛のようになっている山稜(橘)の先にある丸く小高い地が三角(小)に並んで門のようになっているところと紐解ける。この特徴的な地形を図に示した場所で確認される。

③阿波岐原 既出の文字列である阿波岐原=台地が水辺で覆い被さる広がって岐れて平らに広がっているところと紐解ける。「小門」の北側の場所と推定される。当時の海水面が現在の標高約10m辺りと推定して図示した。当時も汐入川がその中央付近を流れていたのであろう。現在の地図に「門田」という名称の溜池がある。残存地名ではなかろうか。現地名は遠賀郡岡垣町吉水である。

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汐入川が海と混じるところ…松原海岸ではない…「吉木」を過ぎれば海であった。現在の標高からも松原海岸の川の開口部から海水が逆流して混じり合う「汽水湖」と言われる状態であったと推測される。

<汽水湖>
図に現在の標高から推定した当時の海岸線を示した(一部のみ)。標高は漸減しており、些かの曖昧さが残るが、本質的な地形を再現していると思われる。

台地の端には小高いところが複数あり、それに伴って複雑な海岸線の様子が伺える。これらの丘陵の近辺はかなりの確度で再現していると推測される。

余談になるが、「汐入川」という名称は全国に数か所ある。「汐」と共にやって来る魚類の豊かな、遠浅の優れた漁場を形成していたところである。多くは地形の変化(干拓など)、というか生活及び工業排水の影響でその環境は激変した。東にある洞海湾と同じく様々な変遷をして今の姿になったのであろう。

古事記に登場する主要な場所は類稀な地形を有しているところである。だから記述したのである。古代の地形、それを克服して生きて来た人々、その視点に絞って紐解いても極めて有意な、次世代に伝えておくべき内容を示しているように思われる。

出雲國(北九州市門司区藤松)からこの「阿波岐原」(遠賀郡岡垣町吉木)までは、淡海→洞海湾→古遠賀湾を経て上陸し、到達することができる。海士族達にとっては決して困難な経路ではなかったと思われる。時空をワープした神話ではない、と解釈される。

通説は、「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」を探し疲れたのであろうか、これは「場所」を示す言葉ではないという説もある。いや、それが多数であろう。では何の為に場所を暗示する言葉を三つも並べたのであろうか…この三つの言葉が示す「場所」以外の意味の解釈が求められるであろう。

「禊祓」は、古事記が記述する人の生死に関わる出来事に伴うテーマである。その出来事は「禊祓」をもって完結するのである。重要な儀式であり、そして人々が繰り返す生き様を受け入れるための最も有効な手段である。善悪を超越した歴史の重みを感じる。

「竺紫日向」、「橘」の重要な文字(列)が登場した。通説では、雑多の候補地をウロウロしているのが現状である。「竺紫日向」は、勿論、天孫降臨の地として、極めて重要な地点なのである。尚、ずっと後になるが「橘」は、登岐士玖能迦玖能木實」と表記される。この地形象形表記と、上記の「三叉矛」の地形は繋がるのであろうか・・・。

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禊祓を行うためには、身に付けた者を投げ棄てる必要があったようであり、その棄てられた物が各々の神と成ったと記載している。「竺紫日向」の地に多数の子孫が蔓延って行ったことを予見させている。順次神名が表す地形を求めてみよう。

衝立船戸神 「杖」から生まれたとされている。「衝立」はそのままとして、衝立船戸神=[衝立]のように並ぶ[船]の形をした山稜が戸口にあるところの神と紐解ける。「橘小門」の西側にそれらしき山稜が並んでいる。真っ先に投げ棄てるのは、やはり杖であろう。

道之長乳齒神 「帯」から生まれた神である。初見の「乳」の文字解釈については、諸説があって、定まらずのようである。ここでは『説文解字』に従ってみることにする。「乳」=「爪+子+鳦(𠃉)」と分解される。「鳦」の「乙」=「𠃉」であり、”燕返し”を象形した文字と知られている。地形として、「乳」=「手のような山稜から生え出た[燕]の形をしている様」と読み解ける。

纏めると、道之長乳齒神=首の付け根のように窪んだ(道)地に手のような山稜から生え出た[燕]の形と[齒]のような形をしている山稜が並んで長く延びているところの神と紐解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。長く延びた帶の先から生まれたようである。尚、「乳」を地名・人名に用いられるのは、これが最初で最後である(書紀中に一度登場、同様に解釈される)。

時量師神 「袋」から生まれたと記載されている。従来より「時」を司る神様のように解釈されているが、”砂時計”みたいなものなのであろうか・・・。全て初見の文字である。「時」=「日+之+寸」と分解される。日が”行く(之)”と”止まる(寸)”を繰り返す様を表す文字と解釈される。

即ち、”昼(之)”と”夜(寸)”の繰り返しを表す文字である。”時”と言う抽象的な概念を具象的な文字要素を組合わせて表記しているのである。地形を表すには、もう一度具象的なものに還元する必要がある。それを”蛇行する川”の様子としたのではなかろうか。

<衝立船戸神・道之長乳齒神・時量師神>
<和豆良比能宇斯能神・道俣神・飽咋之宇斯能神>
「量」の文字解釈は定まった説がないようであるが、「量」=「曰+重」が最もらしいようである。

「重」=「人+東+土」から成る文字であり、地形としては、「重」=「窪んだ地に突き進む様」と解釈される。

「師」=「𠂤+帀」と分解される。地形としては、「師」=「積み重なった地が寄り集まって広がっている様」と解釈される。

古事記中の重要地点の名称である「師木」に含まれる文字である。この特徴的な地形を示す場所を特定することが肝要となる。詳細は登場の時とする。

纏めると、時量師神=[炎]のような山稜の麓で川が蛇行して流れて(時)窪んだ地に突き進んでいる(量)地が積み重なった地が寄り集まって広がっている(師)ところの神と紐解ける。「阿波岐原」の地形を再現していると思われる。”袋”の形状の場所である。

和豆良比能宇斯能神 衣」から誕生した神と記載されている。既出の文字列である和豆良比能宇斯能神=しなやかに曲がる(和)高台(豆)がなだらかに延びて(良)並んでいる(比)地の隅(能)にある谷間に延び出た山稜(宇)が切り分けられた(斯)隅(能)のところの神と紐解ける。

図に示した場所の地形を表していることが解る。「和豆良比」は”衣”に繋がるように見える。「衝立船戸神」の南西側に当たる場所である。

道俣神 褌」から生まれたとか・・・既出の文字列である道俣神=首の付け根のように窪んだ(道)地の背後に谷間が岐れている(俣)ところの神と紐解ける。「道之長乳齒神」の南側に当たる場所である。”帶”の下にあるのが”褌”、かもしれない。

飽咋之宇斯能神 冠」から生まれた神である。初見の「飽」=「食+包」と分解される。「包」=「勹+巳」から成る文字と知られている。地形として、「飽」=「ぐるりと取り囲まれている谷間になだらかに曲がりくねっている地がある様」と解釈される。

「咋」=「口+乍」で通常は「食らう」という意味であるが、「乍」=「切れ目を入れる」=「ギザギザ(段々)な様」から、地形的には、「咋」=「囲まれた地がギザギザとしている様」と解釈される。纏めると、飽咋之宇斯能神=ぐるりと取り囲まれている(飽)ギザギザとした(咋)谷間にある[宇斯能]のところの神と紐解ける。

「和豆良比能宇斯能神」の西側の場所の地形を表してるように思われる。”冠”は「飽」の形と繋げたのかもしれない。登場の「六神」の居処は、汽水湖の湖畔にずらりと並んだ様相である。「禊祓」の結果として申し分なし、と思われる。

奧疎神奧津那藝佐毘古神奧津甲斐辨羅神 左手の腕巻」から三神が生まれている。共通する「奧」=「於伎」と訓すると注記されている。この表記から於伎=奥まった地に旗をなびかせたような地が谷間を別けている様と解釈される。初見の「疎」=「足+束」と分解される。地形としては、「疎」=「[足]のように延びた山稜の端を束ねる様」と解釈される。

纏めると、奥疎神=「奥まった地に[旗]をなびかせたような(於)地が谷間を別けて(伎)[足]のように延びた山稜の端を束ねている(疎)ところの神と紐解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。また、「疎」=「奢加留」と訓されている。初見の「留」=「卯+田」と分解される。地形として、「留」=「隙間から滑り出る様」と解釈される。

纏めると、奢加留=平らな頂の山稜が交差する(奢)ような隙間から滑り押し出された(加留)ようなところと読み解ける。「疎」の地形の別表現であろう。「奥疎」の場所の確からしさを与えてくれるものと思われる。

既出の文字列である奥津那藝佐毘古神=[奥]が水辺で[筆]の形をしてしなやかに曲がって延びて(那)端が細かく岐れた(藝)山稜が延び出ている地がある左手のような(佐)山稜の麓にある窪んだ地に丸く小高い地がくっ付いている(毘古)ところの神と紐解ける。図に示した場所の地形を表していることが解る。

<奧疎神・奧津那藝佐毘古神・奧津甲斐辨羅神>
<邊疎神・邊津那藝佐毘古神・邊津甲斐辨羅神>
初見の文字である「甲」、「斐」、「羅」について文字解釈をすると、「甲」=「[甲羅]のような形をしている様」、「斐」=「非+文」と分解される。

地形としては、「斐」=「狭い谷間が交差するように延びている様」、「羅」=「网+糸+隹」と分解される。

「鳥を捕らえる網」を表すと解説されている。地形的には、「羅」=「奥まった地で連なっている様」と解釈する。

奥津甲斐辨羅神=[奥津]の地で[甲羅]の形をした山稜で狭い谷間が交差する(斐)ように延びて二つに切り分けられて(辨)連なっている(羅)ところの神と紐解ける。図に示した谷間の最奥に当たる場所の地形を表していると思われる。

邊疎神邊津那藝佐毘古神邊津甲斐辨羅神 次いで「右御手之手纒」から三神が誕生したと記載されている。初見の「邊」=「辶+臱」と分解される。更に「臱」=「自(鼻)+丙+方」から成る文字と知られている。地形としては、「邊」=「山稜の端が広がり延びている端」を表すと解釈される。

即ち、邊疎=広がり延びている山稜の端(邊)が[足]のように延びた山稜を束ねている(疎)ところ邊津=広がり延びている山稜の端(邊)が水辺で[筆]の形をしている(津)ところと紐解ける。「那藝佐毘古」、「甲斐辨羅」は上記と同様とすると、図に示した場所に各々の生誕地を求めることができる。

八十禍津日神大禍津日神 二神に含まれる初見の「禍」=「示+咼」と分解される。「咼」=「丸く回る様」は、骨の関節部を象形した文字と解説される。地形としては、「禍」=「丸い高台が繋がっている様」と解釈される。「十」=「十字形に交差する様」であり、前出の十拳劒に用いられていた。

<八十禍津日神・大禍津日神>
<神直毘神・大直毘神・伊豆能賣神>
纏めると、八十禍津日神=山稜が二つに岐れた(八)谷間が十字形に交差する(十)地に丸い高台が繋がった(禍)水辺で[筆]のような山稜が延びて(津)[炎]のようになっている(日)ところの神と紐解ける。

「八十」を「大」に置換えて、大禍津日神=平らな頂の山稜(大)の麓で[禍津日]のところの神と紐解ける。

各々の名前が表す場所を図に示した。この二神は、黃泉國での”汚垢”から誕生したとされ、「禊祓」を瀬の速い上流域で行ったようである。

「禍」=「摩賀」と訓すると注記されている。摩賀=細かく岐れた山稜が谷間を押し開いているところと読み解ける。真っ当な別表記であろう。更に谷奥に移って次の三神が誕生したと記載されている。

神直毘神大直毘神伊豆能賣神 初見の「直」=「|+目」=「谷間が真っ直ぐに延びている様」と解釈される。すると神直毘神=延びる高台(神)の麓で真っ直ぐな谷間(直)が窪んだ地にくっ付いている(毘)ところの神大直毘神=平らな頂の山稜(大)の麓で[直毘]のところの神と紐解ける。

既出の文字列である伊豆能賣神=谷間に区切られた山稜(伊)が高台になっている(豆)隅(能)で谷間が奥から生え出た(賣)ところの神と紐解ける。三神の名前が表す場所を図に示した。現在の汐入川の上流部に並ぶ神々だったようである。

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底津綿津見神底筒之男命 「水底」で禊祓をして誕生させたと記している。前出の綿津見=山稜が延びた先の丸く小高い地(綿)にある水辺の[筆]のような山稜(津)の麓で谷間が長く延びている(見)ところと解釈した。

初見の「底」=「广+氐」と分解される。地形としては、「底」=「麓で山稜が[匙]のように延びている様」と解釈される。纏めると、底津綿津見神=[綿津見]の地で[匙]のような山麓の水辺で[筆]の形に山稜が延びているところの神と紐解ける。

初見の「筒」=「竹+同」と分解される。「同」は「筒状の形」を象形した文字であり、地形的には、そのままに「筒」=「谷間が[筒]のように延びている様」と解釈する。即ち、底筒之男命=[匙]のような山稜の麓で[筒]の形に延びた谷間にある[男]のように突き出たところの命と紐解ける。

中津綿津見神中筒之男命 上記と同様にして、中津綿津見神=[綿津見]の地で真ん中を突き通すような水辺で[筆]の形に山稜が延びているところの神中筒之男命=真ん中を突き通すような山稜の麓で[筒]の形に延びた谷間にある[男]のように突き出たところの命と紐解ける。

<底津綿津見神・底筒之男命>
<中津綿津見神・中筒之男命>
<上津綿津見神・上筒之男命>
<三柱綿津見・神墨江之三前大神>
上津綿津見神上筒之男命 「上」は地形象形に用いられた最初の例であろう。「上」=「盛り上がっている様」と解釈される。

注記されて「上」=「宇閇」と訓されている。「宇閇」=「谷間に延び出た山稜で閉じ込められたようなところ」と読み解ける。両意を満足する地形であろう。

上記と同様に、上津綿津見神=[綿津見]の地で前が盛り上がっている水辺で[筆]の形に山稜が延びているところの神上筒之男命=前が盛り上がっている山稜の麓で[筒]の形に延びた谷間にある[男]のように突き出たところの命と紐解ける。

これらの地形を満足する場所を探索すると、図に示した場所、現地名の遠賀郡岡垣町黒山辺りに見出せる。極めて特徴的な地形であり、それを見事に表現しているように思われる。

墨江之三前大神 「其底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者、墨江之三前大神也」と記載されている。初見の「墨」=「黑+土」と分解される。前出の「黑」=「谷間に[炎]のような細かく岐れた山稜が延び出ている様」と解釈した。地形として、「墨」=「盛り上がっている山稜の前の谷間に[炎]のような細かく岐れた山稜が延び出ている様」と解釈される。

また、「江」も初見であり、「江」=「氵+工」と分解し、更に「工」=「突き通す様」を表す文字と知られている。「江」=「水辺で窪んでいる様」と解釈する。纏めると、墨江之三前大神=盛り上がっている山稜の前の谷間に[炎]のような細かく岐れた山稜が延び出ている(墨)窪んだ地(江)で三つ揃って並んでいる大神と紐解ける。「前」=「揃」と解釈する。

後の仁徳天皇紀で詳述するが、福岡県行橋市を流れる長峡川沿いに上津熊・中津熊・下津熊と地図に記載されている。この地も古事記では「墨江」と称しているのである。「墨」=「隅」を重ねた表記であろう。通説では、武田氏訳のように「墨江」は、「住吉」と置き換えられているが、全く異なる場所であろう。
 
宇都志日金拆命(阿曇連)・伊都久神 綿津見神は阿曇連の祖先であり、綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫と記される。前出の宇都志=谷間に延び広がった山稜(宇)が交差するように集まっている(都)麓で蛇行する川(志)が流れているところと解釈した。上記の「宇閇」の地形を表すと思われる。

初見の「拆」=「手+斥」と分解される。「斥」=「分かれ離れる様」を表す文字要素と知られている。地形として、「拆」=「[手]のような山稜が分かれ離れている様」と解釈される。纏めると、日金拆命=端が[炎]のようになっている山稜(日)と三角に尖った端がある山稜(金)が分かれ離れている(拆)ところの命と紐解ける。図に示した、現在の春日神社辺りに坐してたのであろう。

<宇都志日金拆命(阿曇連)・伊都久神>
「阿曇連」の「曇」=「日+雲(雨+云)」に分解される。前出の「雲」=「ゆらゆらと延びる山稜が覆い被さるように広がっている様」と解釈した。

即ち、阿曇=台地にあるゆらゆらと延びる山稜が覆い被さるように広がっているところと読み解ける。全体の地形を見事に表現していることが解る。

後の阿曇連一族が先祖の神として奉るのが綿津見神となるのだが、その神は、前出の文字列である伊都久神=谷間に区切られた山稜が交差するように寄り集まって[く]の字形に曲がって延びているところと紐解ける。「三柱綿津見神」の背後の山稜を表していることが解る。

古事記に「阿曇連」が登場するのは、これが最初で最後である。尚且つ唐突にである。後に著名な海人族として知られる一族、訳があっての簡略記述なのであろう。響灘の外海ではなく古遠賀湾を航海する内海航路の主要な拠点であったと推定される。

しかしながら遠賀川河口付近の土地は狭い。豊かな水田にするには当時の「技術」では叶わぬ夢物語であったろう。古事記を通読すると、河口付近の開拓までには及んでいないことが窺い知れる。宗賀(蘇我)一族がそれを為し得た地は全く稀有の場所であったのだろう。いや、だからこそ彼らが圧倒的な財力を背景に政治的な権力を有することになったのであろう。栄枯盛衰ではあるが・・・。

北の湯川山から始まる孔大寺山系は、南へぐるりと回って東へ向かい、そこから北上する。「竺紫日向」の地はこの山塊と響灘・古遠賀湾に囲まれた地域であることを示している。海面水位に相違はあっても古事記の時代と今も変わらぬ地形なのである。

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<禊祓で誕生した神々>
『連』 「連」は古代の姓の一つ、中でも高位に位置するとされている。類似の「造」なども何らかの地形を象形しているのではなかろうか。

とするならば「連」が示す場所がその地の中心であることを伝えていることになる。重要な意味を有すると思われる。

「連」=「辶+車」と分解できる。「車」が突き進んでいく様を表しており、連続的な動きから通常使用される「連なる」のような意味を示す文字と解釈されている。後に登場する「輕」はより先鋭的、直線的なイメージから導かれた文字である。

では地形象形的には何と表現されるのであろうか?…連=山稜の端が長く延びる様と読み解ける。その地形の場所に居た者の名前に付加した、と解釈される。と同時にその地域の中心地であることを示すことになる。

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5. 三貴子誕生

そして主役の三貴子が誕生する。伊邪那岐命が彼らに役目を言い渡す下りがある。「物語」の最も初めの部分である。重要な導入部なのだが、意味不明とされたり、誤解釈が蔓延って来たようでもある。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

於是、洗左御目時、所成神名、天照大御神。次洗右御目時、所成神名、月讀命。次洗御鼻時、所成神名、建速須佐之男命。須佐二字以音。
右件八十禍津日神以下、速須佐之男命以前、十四柱神者、因滌御身所生者也。
此時伊邪那伎命、大歡喜詔「吾者生生子而、於生終得三貴子。」卽其御頸珠之玉緖母由良邇此四字以音、下效此取由良迦志而、賜天照大御神而詔之「汝命者、所知高天原矣。」事依而賜也、故其御頸珠名、謂御倉板擧之神。訓板擧云多那次詔月讀命「汝命者、所知夜之食國矣。」事依也。訓食云袁須次詔建速須佐之男命「汝命者、所知海原矣。」事依也。
故、各隨依賜之命、所知看之中、速須佐之男命、不知所命之國而、八拳須至于心前、啼伊佐知伎也。自伊下四字以音。下效此。其泣狀者、青山如枯山泣枯、河海者悉泣乾。是以惡神之音、如狹蠅皆滿、萬物之妖悉發。故、伊邪那岐大御神、詔速須佐之男命「何由以、汝不治所事依之國而、哭伊佐知流。」爾答白「僕者欲罷妣國根之堅洲國、故哭。」爾伊邪那岐大御神大忿怒詔「然者、汝不可住此國。」乃神夜良比爾夜良比賜也。自夜以下七字以音。故、其伊邪那岐大神者、坐淡海之多賀也。
[かくてイザナギの命が左の目をお洗いになつた時に御出現になつた神は天照大神、右の目をお洗いになつた時に御出現になつた神は月讀の命、鼻をお洗いになつた時に御出現になつた神はタケハヤスサノヲの命でありました。
以上ヤソマガツヒの神からハヤスサノヲの命まで十神は、おからだをお洗いになつたのであらわれた神樣です。
イザナギの命はたいへんにお喜びになつて、「わたしは隨分澤山の子を生んだが、一番しまいに三人の貴い御子を得た」と仰せられて、頸に掛けておいでになつた玉の緒をゆらゆらと搖がして天照大神にお授けになつて、「あなたは天をお治めなさい」と仰せられました。この御頸に掛けた珠の名をミクラタナの神と申します。次に月讀の命に、「あなたは夜の世界をお治めなさい」と仰せになり、スサノヲの命には、「海上をお治めなさい」と仰せになりました。
それでそれぞれ命ぜられたままに治められる中に、スサノヲの命だけは命ぜられた國をお治めなさらないで、長い鬚が胸に垂れさがる年頃になつてもただ泣きわめいておりました。その泣く有樣は青山が枯山になるまで泣き枯らし、海や河は泣く勢いで泣きほしてしまいました。そういう次第ですから亂暴な神の物音は夏の蠅が騷ぐようにいつぱいになり、あらゆる物の妖が悉く起りました。そこでイザナギの命がスサノヲの命に仰せられるには、「どういうわけであなたは命ぜられた國を治めないで泣きわめいているのか」といわれたので、スサノヲの命は、「わたくしは母上のおいでになる黄泉の國に行きたいと思うので泣いております」と申されました。そこでイザナギの命が大變お怒りになつて、「それならあなたはこの國には住んではならない」と仰せられて追いはらつてしまいました。このイザナギの命は、淡路の多賀の社にお鎭まりになつておいでになります]
 
天照大御神・御倉板擧之神 伊邪那岐命の左目から生まれた「天照大御神」には高天原を治めよと言い、「玉緒」を賜う。その名前が「御倉板擧之神」と記される。通説は「倉に棚を作ってそこに安置した」のような解釈である。サラリと読めばそうかも?…そう読めるように記述している節もあるのだが・・・。万葉の世界である。

先ずは「天照大御神」は地形象形表現なのであろうか?…石屋に隠れたら全てが真っ暗闇になったという記述が後に出て来る。それも併せて従来より「太陽の神格化」のように解釈されて来た。「天(遍く)|照(照らす)」の読み解きに基づくものである。巫女の性格を持つとも言われる。表記の文字列からしても異論を挟む余地はなさそうである。

そこでもう少し踏み込んでみると…「照」=「昭+灬(火)」としてみると、「天照大御神」=「
阿麻(天)を火(灬)で治める(昭)大御神」と読める。結果的には石屋に隠れたら世の中暗くなった、かもしれない。これも「天照」の一つの側面であろうが、各文字が表す地形を求めてみよう。

初見の「照」=「昭+灬(火)」と分解される。更に「昭」=「日+召(刀+囗)」から成る文字と知られている。地形としては、「照」=「山稜が細かく岐れて延び出ている(灬)太陽のような(日)地が谷間(囗)をしなやかに曲がりながら取り囲んでいる(刀)様」と読み解ける。

纏めると、天照大御神=阿麻(天)にある山稜が細かく岐れて延び出ている(灬)太陽のような(日)地が谷間(囗)をしなやかに曲がりながら取り囲んで(刀)平らな頂の山稜が束ねるところの神と紐解ける。前出の香山の(現在の壱岐市勝本町新城西触にある神岳)地形を表していることが解る。

<天照大御神・御倉板擧之神>
その名前は統治・支配の意味を色濃く示し、かつ地形的には山稜の頂がその地の中心にあると読み解ける。

伊邪那伎命が授けた「其御頸珠名、謂御倉板擧之神。訓板擧云多那」の解釈は、統治・支配の印であろうが、これも何かを意味していると思われる。一文字一文字を紐解いてみよう。

初見の「珠」=「玉+朱」=「[玉]のような地が切り離されている様」と解釈される。「頸」=「[頸]のような様」とすると、御頸珠=[頸]のように切り離された[玉]のような地を束ねているところと読み解ける。

同じく初見の「倉」=「食+囗」と分解される。地形としては、「倉」=「なだらかに延びる山稜に四角く取り囲まれた様」と解釈する。「板」=「木+反(厂+又)」と分解される。表す地形は、「板」=「山麓で山稜が手のように延びている様」と解釈される。

「擧」=「與+手」と分解される。「與」=「左+右(両手)+廾(両手)+与」から成る文字と知られている。地形としては、「擧」=「盛り上がった様」と解釈される。即ち、御倉板擧之神=なだらかに延びる山稜に四角く取り囲まれた谷間を束ねる山稜が手のように延びた先が盛り上がっているところの神と紐解ける。

図に示した場所、神岳の北麓に丸く小高く地が並ぶ山稜を見出せる。「板擧」=「多那」と訓すると記載されているが、多那=山稜の端がなだらかに延びているところの地形でもあることが解る。「棚」を意味する地形であろう。古事記は、油断も隙もなく”地形”を記述しているのである。

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『所知』 辞書によると…1 知っている事柄。知られていること。2 領有し、支配していること。また、その土地。所領。そち…と解説されている。伊邪那岐命が三貴子に命じた、それぞれの統治すべき場所となる。漠然としたものではなく、具体的な地域である。

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月讀命・夜之食國 さらりと扱われる「月讀命」であるが、「夜之食國」(食=袁須)を治めろと言われる。武田氏は「夜の世界」、「真昼」の天照大御神に対峙するかのような解釈となっている。通説は文字通りでは何とも意味不明になるので、あれこれと「食國」=「天皇が治める國」のような解釈もある。

先ずは「夜之食國」の文字列を紐解いてみよう。前出の「夜」=「亦+夕」=「端が三角州になっている山稜で谷間が二つに岐れている様」と解釈した。纏めると、夜之食國=端が三角州になっている山稜で二つに岐れている谷間がなだらかに延びて取り囲まれているところと紐解ける。

<月>
「食」=「袁須」と訓すると記載されている。袁須=ゆったりと延びた山稜の端が三角州となっているところと読み解ける。「夜」の真ん中の山稜を表していることが解る。がしかし、これだけでは特定することが叶わず、「月讀命」を紐解くことにする。

初見の「月」=「三日月の形」を象った文字である。それをそのままに「月」=「山稜が三日月の形をしている様」と解釈する。「讀」は何と読み取れるか?…「讀」=「言+𧶠」に分解できる。更に「言」=「辛+口」=「刃物で大地を耕地にする」と解釈したが、𧶠の文字の語源は簡単ではないようで、すんなりとは理解し辛い文字である。

<月讀命・夜之食國>
関連する文字は「續(続:つづく、次々に通る、つながる)」の意味として使用される。この文字に含まれる「𧶠」=「つながる」の意味を示すと解説されている。

「言葉がつながっている」ことが「読む」という動作を表すと解釈される。すると、地形象形として、「讀」=「耕地が次々に繋がっている様」と読み解ける。

纏めると、月讀命=三日月の形をした山稜の麓で耕地が次々に繋がっているところの命と紐解ける。上記の名称が表す地形を満足する場所を求めると、図に示したところ、前出の豐雲野神の奥の谷間であると思われる。

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文字解釈の補足をすると・・・「讀」は現在では「読」となっているが、「𧶠」と「賣」が混同されているようである。文字の簡略化に伴って発生したのであろう。「賣」=「出+网+貝」であり、内に孕んだ「貝(財貨)」を「出」すことで「売る」の動作を表していると解釈される。同じようなことが「続()」にも当て嵌まり、「賣」ではなく「𧶠」である。

文字を簡略にして常用すること自体は意味のあることと思われるが、本来の意味とは異なる結果を生じては大きな齟齬となる。OK辞典も「」で解説されているが、「賣」からでは「続(つづく)」の意味を引出すのは無理がある。本著も当初は「賣」としてしまったが、気付かされたのがこちら。とは言え「𧶠」=「つづく、つなぐ」の解析は複雑なようである。古事記中「讀」の文字を用いた地形象形は「月讀命」のみで検証も難しく思われる。

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建速須佐之男命・海原 最後に「建速須佐之男命」に「海原」を治めよと宣う。そのまま解釈すれば、武田氏は「海上」を治めると訳されているような意味合いとなろう。上記の二神は、極めて具体的な場所を表していたのであるが、漠然とした表現になる。従来より、この「海原」に関する考察が行われたことはないようである。

「海」の文字を如何に解釈するか、である。少し先走りになるが、後に「是天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、娶其姨・玉依毘賣命、生御子名、五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命。四柱。故、御毛沼命者、跳波穗渡坐于常世國、稻氷命者、爲妣國而入坐海原也」と記載される。

<建速須佐之男命>
妣國=筑紫國であり(下記参照)、海原=水辺で母が子を腕を延ばして抱くように延びた山稜に囲まれた平らに広がったところと紐解ける。

前出の海神(大綿津見神)に含まれた「海」の解釈である。即ち、「建速須佐之男命」は、この「海原」を治めろと命じられたことになる。

故に、その名前は「海原」にある地形を象形した表記と思われる。尚、「海」は、仲哀天皇紀に「宇美」と表記された地と繋がっているのである。

「海原」で地形象形表記を既出の文字列として紐解くと、建速須佐之男命=[筆]の形に延びた山稜が左手のように延びた前が三角州になっている山稜を束ねている地で[男]のように山稜が突き出ているところの命と紐解ける。図に示した現地名は北九州市小倉北区上・下富野辺りと推定される場所の地形を表していることが解る。

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伊邪那岐命の「鼻」から生まれたと言う。谷から流れ出す川が作る州を暗示していると思われる。須佐之男命が恥も外聞もなくゴネるのは、余りに伊邪那岐命の指示が一見広大な海原と受け取ってしまうが、実は辺鄙な海辺の地だったからかもしれない。

結局は「妣國」の北方に降臨してしまうのだが、全くの思惑外れで、彼の直系の子孫は途絶えてしまうことになる。それにしても「海原」は極めて重要な地であり、古代のランドマークであったことが伺える。隋書俀國伝に「海岸」と言う表記で登場し、所謂国書と中国史書が「海」の地名で繋がることになり、歴史学上でも重要な文字と思われる(こちら参照)。

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妣國・根之堅州國 武田氏訳は「母上のおいでになる黄泉國」となっている。「妣」=「亡母」であり、そのまま受け入れられそうな感じではあるが、古事記の中では「伊邪那美命」が母とは記述していない。火之迦具土神を生んだところで亡くなっている。と言う訳で「妣」を祖先も含めて拡大解釈されるのが通常のようである。

<妣國・根之堅州國>
「妣國」の「妣」は
「妣」=「女+比」と分解される。地形としては、妣國=嫋やかに曲がる山稜がくっ付いて並んでいる國(取り囲まれた地)と解釈される。

比婆之山の別名であり、筑紫國の「紫」の地形を表していることが解る。厳密には重なってはいないが、暗示するには都合よい文字使いなのである。

「根之堅州國」に含まれる初見の「堅」=「臣+又+土」と分解される。「臣」=「見開いた目」を象った文字と知られている。地形としては「臣」=「小ぶりな谷間」を表すと解釈される。即ち、「堅」=「小ぶりな谷間に手のような山稜が延びて盛り上がっている様」と解釈される。

前出の「根」=「山稜の端が細かく岐れている様」として、纏めると、根之堅州國=山稜の端が細かく岐れている地で小ぶりな谷間に手のような山稜が延びて盛り上がって州になっている國(取り囲まれている地)と紐解ける。筑紫國の「筑」、伯伎國伊那志許米志許米岐穢國、勿論、黃泉國の地形を表しているのである。

淡海之多賀 上記本文「故、其伊邪那岐大神者、坐淡海之多賀也」と簡明に記載されているが、この後に「伊邪那岐」の登場は、全く見られず、終焉の地であったのだろう。その場所を武田氏は”淡路の多賀の社”と訳されているが、諸説があって、”淡海=近江”と置換える日本書紀流に従って現在の”滋賀県犬上郡の多賀大社”とも言われている。

<淡海之多賀>
さて、「淡海」は、これが古事記中の初見である。後に「近淡海國」や「淡海眞人三船」などの地名・人名に用いられている。

上記したように地名としては”近江”に書換えられ、現在の琵琶湖を示すとされている。流石に”近江眞人”に書換えられることはないようである、

地形象形表記として読み解いてみよう。実は、前出の文字の組合せなのである。そのまま繋げると、淡海=水辺で母が子を抱くような山稜の前が[炎]のように細かく岐れて延びているところと紐解ける。

勿論、”水が[炎]のように舞い上がっている海”の意味も重ねた表記であろう。多賀=山稜の端の三角州が谷間を押し拡げているところと読み解ける。これ等の地形を満足する地を、図に示した場所、現在の北九州市門司区風師辺りに求めることができる。その谷間を望む場所、風師神社辺りが伊邪那岐大神のシニアライフの場所であったのではなかろうか。