今皇帝:桓武天皇(26)
延暦十年(西暦791年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
六月庚寅朔。日有蝕之。壬辰。供奉皇后宮周忌齋會雜色人等二百六十七人。准前例。賜爵及物各有差。甲午。從五位下石浦王爲越中守。從五位下文室眞人眞屋麻呂爲但馬介。己亥。鐵甲三千領。仰下諸國。依新樣修理。國別有數。甲寅。先是。去延暦三年下勅。禁斷王臣家及諸司寺家等專占山野之事。至是。遣使山背國。勘定公私之地。各令有界。恣聽百姓得共其利。若有違犯者。科違勅罪。其所司阿縱者。亦与同罪。授正六位上因幡國造國冨外從五位下。乙夘。奉黒馬於丹生川上神。旱也。
六月一日に地震が起こっている。三日、皇后宮(藤原朝臣乙牟漏)の一周忌の齋會に奉仕した二百六十七人の様々な職種の官人に、先の例により、位階と物をそれぞれ賜っている。五日に石浦王(❽)を越中守、文室眞人眞屋麻呂(与伎に併記)を但馬介に任じている。十日に鉄製の甲三千領を、諸國に命じ新しい仕様に従い整え備えさせている。その数は國ごとに決まりがあった。
二十五日、これより以前、去る延暦三(784)年に勅を下して、皇族や貴族・官庁・寺院などが、もっぱら山野を占拠することを禁止した。この日、使者を山背國に派遣し、公私の土地を検査・決定させ、それぞれ境界を設け、人民が自由に利益を共有できるようにさせている。もし違反者があれば違勅の罪を科し、関係の官人でおもねり追従する者も同罪とすることにしている。また、因幡國造國富(寶頭に併記)に外従五位下を授けている。
二十六日に黒毛の馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉納している。日照りが起こったからである。
秋七月庚申朔。以炎旱經旬。奉幣畿内諸名神。授无位尾張架古刀自從五位下。癸亥。以從五位下藤原朝臣葛野麻呂爲少納言。從五位下紀朝臣眞人爲中務少輔。從五位下石淵王爲大監物。從四位下當麻王爲左大舍人頭。備前守如故。從五位上篠嶋王爲右大舍人頭。從五位下藤原朝臣道繼爲助。從五位上藤原朝臣刷雄爲陰陽頭。從四位上佐伯宿祢眞守爲大藏卿。右大弁從四位上石川朝臣眞守爲兼右京大夫。從五位下淺井王爲主馬頭。丹波守如故。從五位下安倍朝臣名繼爲右兵庫頭。從五位下大神朝臣仲江麻呂爲内兵庫正。從五位下橘朝臣安麻呂爲甲斐守。壬申。從四位下大伴宿祢弟麻呂爲征夷大使。正五位上百濟王俊哲。從五位上多治比眞人濱成。從五位下坂上大宿祢田村麻呂。從五位下巨勢朝臣野足並爲副使。己夘。故少納言從五位下正月王男藤津王等言。亡父存日。作請姓之表。未及上聞。奄赴泉途。其表稱。臣正月。源流已遠。属籍將盡。臣男四人。女四人。雖蒙王姓。以世言之。不殊疋庶。伏望。蒙賜登美眞人姓。以從諸臣之例者。請從父志。欲蒙願姓。有勅許焉。辛巳。伊豫國獻白雀。詔。國司及出瑞郡司進位一級。但正六位上者迴授一子。其獲雀人凡直大成賜爵二級并稻一千束。授國守從五位上菅野朝臣眞道正五位下。介從五位下高橋朝臣祖麻呂從五位上。丙戌。停止鷹戸。丁亥。以從五位上藤原朝臣是人爲右少弁。從五位下多治比眞人賀智爲宮内少輔。右中弁正五位下多治比眞人宇美爲兼武藏守。從五位下三方宿祢廣名爲上野守。從五位下佐伯宿祢岡上爲介。從五位下百濟王忠信爲越後介。從五位下藤原朝臣大繼爲備前介。從五位下藤原朝臣眞鷲爲大宰少貳。戊子。外從五位下安都宿祢長人爲右京亮。左中弁從四位下百濟王仁貞卒。
七月一日に炎暑と日照りが十日余り続いたので畿内の諸名神に幣帛を奉らせている。また、尾張架古刀自(米多臣に併記)に従五位下を授けている。
四日に藤原朝臣葛野麻呂を少納言、紀朝臣眞人(大宅に併記)を中務少輔、石淵王(山上王に併記)を大監物、當麻王(❻)を備前守のままで左大舍人頭、篠嶋王(❷)を右大舍人頭、藤原朝臣道繼(❷)を助、藤原朝臣刷雄(眞從に併記)を陰陽頭、佐伯宿祢眞守を大藏卿、右大弁の石川朝臣眞守を兼務で右京大夫、淺井王(❺)を丹波守のままで主馬頭、安倍朝臣名繼(廣人に併記)を右兵庫頭、大神朝臣仲江麻呂(末足に併記)を内兵庫正、橘朝臣安麻呂(❷)を甲斐守に任じている。
二十日に少納言の故正月王(牟都岐王)の子、藤津王(正月王に併記)等が以下のように言上している・・・亡父が生存の時、新たな氏姓を賜ることを請う上表文を作ったが、まだ奉らないうちに突然黄泉路についてしまった。その上表文に[私正月王の祖先(用明天皇)は既に遠くなっており、所属の籍は皇族から外れようとしている。---≪続≫---
私の息子四人・娘四人は、王の姓を名乗ることを許されているが、世代を数えて言えば、なんら庶民と変わらない。そこで「登美眞人」の氏姓を賜り、臣下の地位に入れて下さるよう、伏してお願いする]と述べている。どうか父の志に従って、希望する氏姓を賜るよう、お願い申し上げる・・・。勅が出て許されている。
二十二日に伊豫國が「白雀」を献上している。詔して、國司と瑞を出した郡司等の位階を一級進めさせている。但し、正六位上の者には、子供に回して授けている。その雀を捕らえた人、「凡直大成」には位階を二級進め、また、稲一千束を賜い、國守の菅野朝臣眞道(眞麻呂に併記)に正五位下を、介の高橋朝臣祖麻呂には従五位上を授けている。二十七日に鷹戸を廃止している。
二十八日に藤原朝臣是人を右少弁、多治比眞人賀智(伊止に併記)を宮内少輔、右中弁の多治比眞人宇美(海。歳主に併記)を兼務で武藏守、三方宿祢廣名(御方宿祢。大野に併記)を上野守、佐伯宿祢岡上(瓜作に併記)を介、百濟王忠信(①-⓴)を越後介、藤原朝臣大繼を備前介、藤原朝臣眞鷲(❹)を大宰少貳に任じている。二十九日に安都宿祢長人(阿刀造子老に併記)を右京亮に任じている。この日、百濟王仁貞(①-⓰)が亡くなっている。
「白雀」献上は、既に幾度か記載されていた。雀=少+隹=頭が小さく三角に尖った鳥のように山稜が延びている様と解釈する。古事記の大雀命に用いられた文字である。その地形を図に示した場所に見出せる。
● 凡直大成 その雀を獲えた人である。勿論、「白雀」の谷間を開拓し、公地として献上したのである。凡直の名前も既に登場していて、各々の居処も様々である。
凡直=[凡]の文字形の谷間が真っ直ぐに延びているところと解釈する。「直」は地形に基づく姓であろう。大成=平らな頂の山稜が整えられた高台になっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。久々の大開拓だったのであろうか、たいそうな褒賞が記載されている。
余談だが、2024年1月6日付の丹波新聞に”白い雀”の写真が載せらている(こちら参照)。正月早々目出度い出来事と報告されている。世が世なら撮影者は二階級特進の叙位がなされたのかもしれない。因みに、本著の丹波國では、白鹿・白鴿・白雉が献上されていた。何故か”白い鳥”の瑞祥ばかりである。
八月辛夘。夜有盜。燒伊勢太神宮正殿一宇。財殿二宇。御門三間。瑞籬一重。從五位下紀朝臣兄原爲中衛少將。出雲守如故。癸巳。任畿内班田使。壬寅。詔遣參議左大弁正四位上兼春宮大夫中衛中將大和守紀朝臣古佐美。參議神祇伯從四位下兼式部大輔左兵衛督近江守大中臣朝臣諸魚。神祇少副外從五位下忌部宿祢人上於伊勢太神宮。奉幣帛。以謝神宮被焚焉。又遣使修造之。壬子。攝津國百濟郡人正六位上廣井造眞成賜姓連。
八月三日に夜間に伊勢太神宮に盗人が入り、正殿一棟・財殿二棟・御門三棟・瑞垣一重を焼いている。また、紀朝臣兄原(眞子に併記)を出雲守のままで中衛少将に任じている。五日に畿内に派遣する班田使を任命している。
十四日に參議・左大弁で春宮大夫・中衛中將・大和守を兼務する紀朝臣古佐美、參議・神祇伯で式部大輔・左兵衛督・近江守を兼務する大中臣朝臣諸魚(子老に併記)、神祇少副の忌部宿祢人上(止美に併記)を伊勢太神宮に派遣して幣帛を奉り、神宮が放火されたことを謝罪している。また使者を派遣して神宮を造営させている。
二十四日に攝津國百濟郡の人である廣井造眞成(竹志麻呂に併記)に「連」姓を賜っている。
九月庚申。從四位下全野女王預孫王例。癸亥。授陸奧國安積郡大領外正八位上阿倍安積臣繼守外從五位下。以進軍粮也。甲子。叙佐渡國物部天神從五位下。甲戌。仰越前。丹波。但馬。播磨。美作。備前。阿波。伊豫等國。壞運平城宮諸門。以移作長岡宮矣。斷伊勢。尾張。近江。美濃。若狹。越前。紀伊等國百姓。殺牛用祭漢神。丙子。讃岐國寒川郡人正六位上凡直千繼等言。千繼等先。星直。譯語田朝庭御世。繼國造之業。管所部之堺。於是因官命氏。賜紗抜大押直之姓。而庚午年之籍。改大押字。仍注凡直。是以星直之裔。或爲讃岐直。或爲凡直。方今聖朝。仁均雲雨。惠及昆蚑。當此明時。冀照覆盆。請因先祖之業。賜讃岐公之姓。勅千繼等戸廿一烟依請賜之。丁丑。近衛將監正六位下出雲臣祖人言。臣等本系。出自天穗日命。其天穗日命十四世孫曰野見宿祢。野見宿祢之後。土師氏人等。或爲宿祢。或賜朝臣。臣等同爲一祖之後。獨漏均養之仁。伏望与彼宿祢之族。同預改姓之例。於是賜姓宿祢。戊寅。讃岐國阿野郡人正六位上綾公菅麻呂等言。己等祖。庚午年之後。至于己亥年。始蒙賜朝臣姓。是以。和銅七年以往。三比之籍。並記朝臣。而養老五年。造籍之日。遠校庚午年籍。削除朝臣。百姓之憂。無過此甚。請據三比籍及舊位記。蒙賜朝臣之姓。許之。庚辰。下野守正五位上百濟王俊哲爲兼陸奧鎭守將軍。
九月二日に全野女王(八千代女王に併記)を二世王の扱いとしている。五日に陸奥國安積郡大領の阿倍安積臣繼守(丈部繼守)に外従五位下を授けている。兵糧を献上したからである。六日に佐渡國の「物部天神」に従五位下を授けている。
十七日に越前・丹波・但馬・播磨・美作・備前・阿波・伊豫などの國々に命じて、平城門の諸門を解体・運搬して長岡宮に移築させている。伊勢・尾張・近江・美濃・若狹・越前・紀伊などの國々の人民が、牛を殺して漢神に祭ることを禁止している。
十八日に讃岐國寒川郡の人である「凡直千繼」等が以下のように言上している・・・「千繼」等の先祖は「星直」といい、譯語田朝廷御代(敏達天皇)に、國造の職務を継いで所管地域を支配した。この時、官命によって氏の名を定め、「紗抜大押直」の氏姓を賜った。---≪続≫---
ところが庚午年(天智天皇九[670]年)の戸籍には、「大押」の二字を改め「凡直」と記された。これにより「星直」の子孫は、ある者は「讃岐直」を名乗り、ある者は「凡直」を名乗ることになった。---≪続≫---
現在の聖朝の仁慈は、雲や雨のように等しく潤し、恩恵は虫けらにも行き渡っている。この良い時代にあたり、恵みの光が覆った甕の下まで照らすことを願う。どうか先祖の職務に基づき、「讃岐公」の氏姓を賜るようお願いする・・・。勅して「千繼」等の二十一戸につき、申請のままに氏姓を賜っている。
十九日に近衛将監の出雲臣祖人(嶋成に併記)等が以下のように言上している・・・私共の系譜は、「天穂日命」(古事記:天菩比命)より出ている。この「天穂日命」の十四代の孫を野見宿祢と言う。「野見宿祢」の子孫は「土師」の氏人等であり、ある者は「宿祢」姓を名乗り、ある者は「朝臣」姓を賜っている(こちら、こちら参照)。---≪続≫---
私共も同祖の子孫であるが、等しく恵み養うという仁慈にひとり漏れている。どうか土師宿祢の一族と同じように、改姓されるよう、伏してお願いする・・・そこで「宿祢」姓を賜っている。
二十日に「讃岐國阿野郡」の人である「綾公菅麻呂」等が以下のように言上している・・・私共の先祖は、庚午年(天智天皇九[670]年)の後、己亥年(文武天皇三[699]年)に至って初めて「朝臣」姓を賜った。これにより和銅七(714)年以後、三度作成された戸籍には、いずれも「朝臣」と記されている。---≪続≫---
ところが養老五(721)年の戸籍作成にあたり、古い庚午年の戸籍を参照して、「朝臣」姓を削除された。人民の憂いとしてこれより深いものはない。どうか三度の戸籍と、元の位記に依拠して、「朝臣」姓を賜るようお願いする・・・。これを許可している。
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<物部天神> |
物部天神
佐渡國に鎮座する天神と記されている。物部一族に関わる天神、ではなかろう。既に幾多の”物部”の地形を示す場所が登場していた。
図に示したように、現在の三角山東麓の谷筋を物で表したものと思われる。その近隣の場所が物部である。
三角山の西麓は「出羽國賊地」と表記されていた。その谷間の出口に「野代湊」があったと推定した(こちら参照)。淡海(現在の関門海峡)を通過して、この地に上陸してく賊に対する重要な防衛拠点であった。
蝦夷征討戦略の一環として、多くの神社に叙位しているが、この天神への叙位も、その目的であったと推測することは容易であろう。また、蠢彼蝦狄への備えとしても欠かせない場所であったと思われる。
様々な経緯があって改変された氏姓を元に戻す申請である。先ずは、当人の出自場所を求めてみよう。
頻出の凡直=[凡]の形の谷間が真っ直ぐに延びているところ、千繼=谷間を束ねるように山稜が連なっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
元々名乗っていたという星直の星=日+生=[炎]のように延びる山稜が生え出ている様と解釈される。上記「千」の別表記であろう。
紗抜大押直の紗抜=端が三角に尖っている山稜が抜け出るように延びているところ、大押=平らな手の甲のようなところと解釈すると、図に示したように「千繼」等の背後の地形を余すことなく表現していることが解る。勿論、”紗抜(サヌキ)”と訓するのであろう。讃岐公の氏姓を賜って、一件落着である。
一応、地形象形表記として、阿野=野が広がっている台地があるところと解釈すると、「綾」の谷間に台地状の地が広がっている様子を表していることが解る。
● 綾公菅麻呂 名前の菅麻呂の菅=艸+官=谷間が管のように延びている様と解釈され、麻呂=萬呂とすると、図に示した場所が出自と推定される。元々、「朝臣」姓を賜っていて、それが間違って改姓されたと述べている。
それはそれとして、氏素性を語ってもらいたいところである。いずれにせよ官人登用の機会がなかったのであろう。續紀中、「綾朝臣」としての登場は見られないようであるが、その後に阿野郡大領に任じられ、更に外従五位下を叙爵されたとのことである。
冬十月丁酉。行幸交野。放鷹遊獵。以右大臣別業爲行宮。己亥。右大臣率百濟王等。奏百濟樂。授正五位下藤原朝臣乙叡從四位下。從五位下百濟王玄風。百濟王善貞並從五位上。從五位下藤原朝臣淨子正五位下。正六位上百濟王貞孫從五位下。庚子。車駕還宮。壬子。仰東海。東山二道諸國。令作征箭三万四千五百餘具。甲寅。先是。皇太子枕席不安。久不平復。是日。向於伊勢太神宮。縁宿祷也。
十月十日に交野に行幸されて鷹を放って狩猟を行っている。右大臣(藤原朝臣繼繩)の別荘を行宮としている。十二日にに右大臣が百濟王等を引率し、百濟の樂を演奏している。また、藤原朝臣乙叡(❻)に従四位下、百濟王玄風(①-⓳)・百濟王善貞(②-⓬)に従五位上、藤原朝臣淨子に正五位下、百濟王貞孫(②-⓰)に従五位下を授けている。十三日に宮に帰っている。
二十五日に東海・東山の二道に属する國々に命じて一揃いの征矢を三万四千五百具余り作らせている。二十七日、これ以前、皇太子(安殿親王)の健康状態が悪く、長らく回復しなかったが、この日、伊勢太神宮に向けて出発している。かねてからの祈祷に関係してである。
十一月己未。更仰坂東諸國。辨備軍粮糒十二万餘斛。大藏卿從四位上佐伯宿祢眞守卒。壬戌。授播磨國人大初位下出雲臣人麻呂外從五位下。以獻稻於水兒船瀬也。甲子。從五位下藤原朝臣葛野麻呂爲右少弁。丁夘。皇太子自伊勢太神宮至。
十一月三日にあらためて坂東の國々に命じ、兵糧の糒十二万石余りを準備させている。この日、大藏卿の佐伯宿祢眞守が亡くなっている。六日に播磨國の人である出雲臣人麻呂(韓鍜首廣富に併記)に外従五位下を授けている。私有の稲を水兒船瀬に献上したからである。八日に藤原朝臣葛野麻呂を右少弁に任じている。十一日に皇大子が伊勢太神宮から帰っている。
十二月庚寅。授正六位上紀朝臣楫繼從五位下。甲午。伊豫國越智郡人正六位上越智直廣川等五人言。廣川等七世祖紀博世。小治田朝庭御世被遣於伊与國。博世之孫忍人。便娶越智直之女生在手。在手庚午年之籍不尋本源。誤從母姓。自尓以來。負越智直姓。今廣川等幸属皇朝開泰之運。適値群品樂生之秋。請依本姓。欲賜紀臣。許之。丙申。讃岐國寒川郡人外從五位下佐婆部首牛養等言。牛養等先祖出自紀田鳥宿祢。田鳥宿祢之孫米多臣。難波高津宮御宇天皇御世。從周芳國遷讃岐國。然後。遂爲佐婆部首。今牛養幸藉時來。獲免負擔。雲雨之施。更無所望。但在官命氏。因土賜姓。行諸往古。傳之來今。其牛養等居處在寒川郡岡田村。臣望賜岡田臣之姓。於是。牛養等戸廿烟依請賜之。外從五位下岡田臣牛養爲大學博士。外從五位下麻田連眞淨爲助教。伊勢介如故。從五位下紀朝臣楫繼爲刑部少輔。外從五位下清道造岡麻呂等。改造賜連姓。癸夘。授從四位下八上女王從三位。從五位上多治比眞人邑刀自。紀朝臣若子並從四位下。
十二月四日に紀朝臣楫繼(船守に併記)に従五位下を授けている。
八日に伊豫國越智郡の人である「越智直廣川」等五人が以下のように言上している・・・「廣川」等の七代前の先祖「紀博世」は、小治田朝廷(推古天皇)の御代に、伊豫國に派遣された。「博世」の孫の「忍人」は、そこで越智直の娘を娶り「在手」を生んだ。---≪続≫---
「在手」は庚午年(670年)の戸籍に氏族の源を調査されないまま、誤って母の氏姓を付けられ、それより以後は「越智直」の氏姓を負っている。今「廣川」等は、幸いにも朝廷が泰平を築く時代に生まれ、たまたま人民が生活を楽しむ時期に会している。どうか元の氏姓に準拠して、「紀臣」の氏姓を賜るようお願いする・・・。これを許可している。
十日に讃岐國寒川郡の人である「佐婆部首牛養」等が以下のように言上している(こちら、こちら参照)・・・「牛養」等の先祖は「紀田鳥宿祢」から出ている。「田鳥宿祢」の孫の米多臣は、難波高津宮で天下を統治した天皇(仁徳天皇)の御代に、周芳國から讃岐國に移った。その後ついに子孫は「佐婆部首」を名乗った。---≪続≫---
今「牛養」は、幸いにも良き時代が巡ってきたため、負担を免れることができている。雲が覆い雨が降るような恵みを、これ以上受けようとは思わない。ただ朝廷での職務で氏姓を賜うことは、古くから行われ現在まで引き継がれている。そもそも「牛養」等の居住地は「寒川郡岡田村」にある。そこで私は、「岡田臣」の氏姓を賜ることを望んでいる・・・。「牛養」等二十戸について、申請のままの氏姓を賜っている。
この日、岡田臣牛養を大学博士、麻田連眞淨(金生に併記)を伊勢介のままで助教、紀朝臣楫繼(船守に併記)を刑部少輔に任じている。また、清道造岡麻呂等には、「造」を改めて「連」姓を賜っている。十七日に八上女王に従三位、多治比眞人邑刀自・紀朝臣若子(船守に併記)に従四位下を授けている。
「越智直」一族は、既に幾人かの登場人物が見られている。少々入組んでいる経緯であるが、「紀臣」一族の「博世」が伊豫國越智郡に派遣され、現地で婚姻関係をなした結果、孫の「忍人」が誕生したのであろう。
忍人は「紀臣」と名乗っていたのだが、出自の場所は越智郡であったと推測荒れる。既出である忍人=谷間が山稜が突き出てギザギザとしているところと解釈される。
現在は広大な宅地になっているが、今昔マップ(1922~6年)を参照すると、図に示した場所がその地形をしていることが解る(こちら参照:図中の地名「中山」辺り)。
越智直在手の名前である在手=[手]の形をした山稜が谷間を遮るように延び出ているところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。既出の文字であるが、再掲すると、「在」=「才+土」と分解される。地形象形的には「才」=「山稜が遮るように延び出ている様」と解釈する。
博世=途切れそうになった山稜の前で平らに広がっているところと解釈される。紀朝臣の登場人物の中で「世」を含む名前に世根・千世(大宅に併記)が記載されていた。
図に示した通りに、「世」の前が大きく広がっていることが解る。「大宅」の南側に当たる場所である。續紀の末尾で、すっぽりと空いていた地に嵌った様子である。
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『續日本紀』巻卌巻尾(完)