2024年11月19日火曜日

今皇帝:桓武天皇(19) 〔702〕

今皇帝:桓武天皇(19)


延暦八(西暦789年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

延暦八年春正月甲辰朔。日有蝕之。己酉。宴五位已上於南院。」授從五位上笠王正五位下。從五位下廣田王從五位上。无位葛井王從五位下。從四位下佐伯宿祢眞守從四位上。正五位下藤原朝臣菅繼從四位下。正五位下百濟王玄鏡正五位上。從五位上文室眞人与企。紀朝臣作良並正五位下。從五位下賀茂朝臣人麻呂。藤原朝臣園人。伊勢朝臣水通。津連眞道並從五位上。正六位上平群朝臣國人。紀朝臣伯。紀朝臣登万理。榎井朝臣靺鞨。田中朝臣大魚。安倍朝臣人成。巨勢朝臣道成。石川朝臣清濱。石川朝臣清成。大春日朝臣清足。藤原朝臣岡繼。石上朝臣乙名。大野朝臣仲男。角朝臣筑紫麻呂並從五位下。正六位上大網公廣道。韓國連源。秋篠宿祢安人並外從五位下。以兵部卿從三位兼近江守多治比眞人長野爲參議。壬子。參議大宰帥正三位佐伯宿祢今毛人上表乞骸骨。詔許之。丁巳。以律師玄憐法師爲少僧都。戊辰。參議宮内卿正四位下兼神祇伯大中臣朝臣子老卒。右大臣正二位清麻呂之第二子也。己巳。授從四位上藤原朝臣延福正四位下。正五位上藤原朝臣春蓮。藤原朝臣勤子並從四位下。正五位下伴田朝臣仲刀自正五位上。從五位上藤原朝臣慈雲。安倍朝臣黒女並正五位下。從五位下藤原朝臣眞貞。平群朝臣炊女。大原眞人明。无位多治比眞人邑刀自。藤原朝臣數子。紀朝臣若子並從五位上。外從五位下豊田造信女。岡上連綱。无位藤原朝臣惠子。正六位上菅生朝臣恩日。從六位上石上朝臣眞家。從六位下角朝臣廣江並從五位下。正六位上物部韓國連眞成。山代忌寸越足。從六位下采女臣阿古女並外從五位下。

正月一日に日蝕が起こっている。六日に五位以上と南院で宴を催している。笠王に正五位下、廣田王()に從五位上、葛井王()に從五位下、佐伯宿祢眞守に從四位上、藤原朝臣菅繼に從四位下、百濟王玄鏡(①-)に正五位上、文室眞人与企(与伎)紀朝臣作良に正五位下、賀茂朝臣人麻呂藤原朝臣園人(勤子に併記)伊勢朝臣水通(諸人に併記)津連眞道(眞麻呂に併記)に從五位上、平群朝臣國人(炊女に併記)・紀朝臣伯・紀朝臣登万理(須惠女に併記)・「榎井朝臣靺鞨・田中朝臣大魚」・安倍朝臣人成(眞黒麻呂に併記)・巨勢朝臣道成(馬主に併記)・石川朝臣清濱・石川朝臣清成(淨繼に併記)・大春日朝臣清足(五百世に併記)・藤原朝臣岡繼()・石上朝臣乙名(等能古に併記)・大野朝臣仲男(下毛野朝臣年繼に併記)・角朝臣筑紫麻呂(道守に併記)に從五位下、大網公廣道(大野朝臣乎婆婆に併記)韓國連源秋篠宿祢安人(土師宿祢)に外從五位下を授けている。兵部卿兼近江守の多治比眞人長野を參議に任じている。

九日に参議・大宰帥の佐伯宿祢今毛人は上奏して辞職を願い出ている。詔してこれを許している。十四日に律師の玄憐法師を少僧都に任じている。二十五日に参議・宮内卿で神祇伯を兼任する「大中臣朝臣子老」が亡くなっている。右大臣の「清麻呂」の第二子であった(こちら参照)。

二十六日に藤原朝臣延福(兄倉に併記)に正四位下、藤原朝臣春蓮藤原朝臣勤子に從四位下、伴田朝臣仲刀自に正五位上、藤原朝臣慈雲安倍朝臣黒女に正五位下、藤原朝臣眞貞(眞男女。綿手に併記)・平群朝臣炊女(邑刀自に併記)・大原眞人明(年繼に併記)・「多治比眞人邑刀自」・藤原朝臣數子(雄友の子。近隣)・紀朝臣若子(船守に併記)に從五位上、豊田造信女(調阿氣麻呂に併記)・岡上連綱(刀利甲斐麻呂に併記)・藤原朝臣惠子(明子に併記)・菅生朝臣恩日(嶋足に併記)・石上朝臣眞家(眞足に併記)・角朝臣廣江(道守に併記)に從五位下、「物部韓國連眞成」・山代忌寸越足(金城史山守に併記)・采女臣阿古女(采女朝臣首名に併記)に外從五位下を授けている。

榎井朝臣靺鞨・物部韓國連眞成
● 榎井朝臣靺鞨・物部韓國連眞成

「榎井朝臣」一族の新人登場は、光仁天皇紀に種人が最後であったが、『壬申の乱』の功臣であり、連綿と人材輩出が続いている。

現地名の北九州市小倉南区市丸の谷間に蔓延っていたと推測した。勿論、紛うことなく物部派生氏族である。天武天皇の吉野脱出の最初の関門である迷路のように入り組む谷間の通過を手助けしたのである。

靺鞨の文字列は、既に幾度か人名に用いられていた。七世紀前後の中国東北部に存在した名称などと解釈したのでは、全く意味不明となろう。靺鞨=角のような山稜の端で閉じ込められているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

物部韓國連、「韓國連」と省略されることもあるようだが、上記の「榎井朝臣」の南隣の谷間と推定した。直近では韓國連源が登場していた。眞成=平らに整えられた高台が寄り集まって窪んでいるところと解釈すると、「源」の近隣にその地形を見出せる。

延暦九(790)年十一月に「源」等が、我々は物部大連の子孫であるが、父祖が遣わされた國名を姓として「韓國連」を名乗り、まるで「三韓之新來」の者のようになってしまい、「韓國」を改めて「物部高原連」の氏姓に変えたい、と申し出て許可されている。

「以父祖奉使國名」と記載されているが、史書には”韓國”という記載は、百濟・新羅・高麗であって、國名として一切見られない。”三韓”の表現を持ち出して、何となく”韓國”と関連付けたような記述である。全くの戯れた表記であろう。韓國=山稜に取り囲まれているところである。

<田中朝臣大魚>
高原=皺が寄ったような山稜の麓で野原が広がっているところであり、支障のない名称であるが、何ともぼやけた地形象形表記となる。そういう時代に差掛ったのであろうか・・・。

● 田中朝臣大魚

「田中朝臣」は、古事記の天津日子根命が祖となった倭田中直の地を本貫とする一族とし、現地名は田川郡香春町五徳、五徳川の東岸である香春岳西麓と推定した。

『壬申の乱』の功臣となり、その後も多くの人材が登用されて来ている。直近では淨人(廣根に併記)が従五位下を叙爵されて登場していた。但し、高位者は極めて少なく、鎮守将軍として活躍した多太麻呂の正四位下が最高位のようである。

今回登場の大魚=[魚]の形の山稜の前で平らになっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。五徳川の下流域へと蔓延って来たが、この人物は元の場所へと遡っている。「足麻呂」等の系統だったのかもしれない。

<多治比眞人邑刀自>
● 多治比眞人邑刀自

「多治比眞人」一族の女官では、古奈祢が正四位下を叙爵されている。また、少し前に従四位下・散事の若日賣が亡くなったと記載されていた。決して多くはないが、高位に就く女性が登場していた。

勿論、系譜不詳であり、名前が示す地形から出自場所を求めることになる。「刀自」が付いているので、山稜の端の形状を頼りとする。

邑刀自のかなり頻度で用いられている邑=囗+巴=渦巻くように小高くなった様と解釈した。「邑」の麓に「刀自」の地形がある場所を表していると思われる。

図に示した場所、乎婆賣の南側、やや狭い谷間がその地形を示していることが解る。現在はゴルフ場となっているが、当時の地形が伺えるように思われる。『續日本紀』の末尾に従四位下に昇進されたと記載されている。

別名大刀自は、大=山稜の頂が平らになっている様であり、「邑」から少々離れた「刀自」の地形をあらわしている。別名でより確からしさが増したようである。

二月丁丑。以從五位下大原眞人美氣爲尾張守。正五位下高賀茂朝臣諸雄爲參河守。從五位上文室眞人子老爲安房守。正五位上百濟王玄鏡爲上総守。從五位下石川朝臣清濱爲介。近衛將監外從五位上池原公綱主爲兼下総大掾。式部大輔從四位下大中臣朝臣諸魚爲兼近江守。左兵衛督如故。從五位下紀朝臣長名爲越前介。大判事從五位上橘朝臣綿裳爲兼越中介。正五位上安倍朝臣家麻呂爲石見守。兵部大輔左京大夫從四位下藤原朝臣雄友爲兼播磨守。左衛士督如故。從五位下高倉朝臣石麻呂爲美作介。從五位上藤原朝臣園人爲備後守。從五位下百濟王教徳爲讃岐介。癸未。以從五位下橘朝臣安麻呂爲中務少輔。内藥正侍醫從五位上葉栗臣翼爲兼内藏助。從五位下巨勢朝臣総成爲造酒正。從五位上弓削宿祢塩麻呂爲左京亮。庚子。移自西宮。始御東宮。 

二月四日、大原眞人美氣を尾張守、高賀茂朝臣諸雄を參河守、文室眞人子老(於保に併記)を安房守、百濟王玄鏡(①-)を上総守、石川朝臣清濱(淨繼に併記)を介、近衛將監の池原公綱主(繩主)を兼務で下総大掾、式部大輔の大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を左兵衛督のまま兼務で近江守、紀朝臣長名(永名。本に併記)を越前介、大判事の橘朝臣綿裳を兼務で越中介、安倍朝臣家麻呂を石見守、兵部大輔・左京大夫の藤原朝臣雄友()を左衛士督のまま兼務で播磨守、高倉朝臣石麻呂(高麗朝臣)を美作介、藤原朝臣園人(勤子に併記)を備後守、百濟王教徳(②-)を讃岐介に任じている。

十日に橘朝臣安麻呂()を中務少輔、内藥正・侍醫の葉栗臣翼を(羽栗臣)兼務で内藏助、巨勢朝臣総成(馬主に併記)を造酒正、弓削宿祢塩麻呂()を左京亮に任じている。二十七日に天皇は西宮より移り、初めて東宮に居している。

三月癸夘朔。造宮使獻酒食并種種玩好之物。辛亥。諸國之軍會於陸奥多賀城。分道入賊地。壬子。遣使奉幣帛於伊勢神宮。告征蝦夷之由也。戊午。以從四位下大中臣朝臣諸魚爲神祇伯。式部大輔左兵衛督近江守如故。從五位下大中臣朝臣弟成爲少納言。從四位下紀朝臣犬養爲左大舍人頭。從五位下百濟王仁貞爲中宮亮。從五位上津連眞道爲圖書頭。東宮學士左兵衛佐伊豫介如故。外從五位下大網公廣道爲主計助。從五位下安倍朝臣枚麻呂爲兵部少輔。從五位上藤原朝臣黒麻呂爲刑部大輔。從五位下藤原朝臣大繼爲大判事。從四位下石上朝臣家成爲宮内卿。從五位下矢庭王爲正親正。從五位上文室眞人八嶋爲彈正弼。從四位下藤原朝臣菅繼爲左京大夫。從五位下角朝臣筑紫麻呂爲衛門大尉。從四位下藤原朝臣内麻呂爲右衛士督。越前守如故。從五位下大秦公忌寸宅守爲左兵庫助。從五位下爲奈眞人豊人爲右兵庫頭。從五位下小野朝臣澤守爲攝津亮。外從五位下麻田連畋賦爲山背介。從五位下大伴王爲甲斐守。從五位上文室眞人久賀麻呂爲但馬介。從五位下石川朝臣公足爲安藝守。正五位下粟田朝臣鷹守爲長門守。從五位上藤原朝臣園人爲大宰少貳。」廢造東大寺司。辛酉。以從五位下石上朝臣乙名爲大監物。正五位下中臣朝臣常爲治部大輔。從五位下清海宿祢惟岳爲美作權掾。

三月一日に造(東)宮使は、酒食と様々な慰みの品を献じている。九日に諸國派遣軍は陸奥多賀城(柵)に会集し、道を分けて賊地に攻め入っている。十日に使を遣わして幣帛を伊勢神宮に奉っている。蝦夷征討のことを告げるためである。

十六日、大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を式部大輔・左兵衛督・近江守のままで神祇伯、大中臣朝臣弟成(今麻呂に併記)を少納言、紀朝臣犬養(馬主に併記)を左大舍人頭、百濟王仁貞(①-)を中宮亮、津連眞道(眞麻呂に併記)を東宮學士・左兵衛佐・伊豫介のままで圖書頭、大網公廣道(大野朝臣乎婆婆に併記)を主計助、安倍朝臣枚麻呂(眞黒麻呂に併記)を兵部少輔、藤原朝臣黒麻呂()を刑部大輔、藤原朝臣大繼を大判事、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を宮内卿、矢庭王を正親正、文室眞人八嶋(久賀麻呂に併記)を彈正弼、藤原朝臣菅繼を左京大夫、角朝臣筑紫麻呂(道守に併記)を衛門大尉、藤原朝臣内麻呂()を越前守のままで右衛士督、大秦公忌寸宅守を左兵庫助、爲奈眞人豊人(東麻呂に併記)を右兵庫頭、小野朝臣澤守(小野虫賣に併記)を攝津亮、麻田連畋賦を山背介、大伴王()を甲斐守、文室眞人久賀麻呂を但馬介、石川朝臣公足(眞人に併記)を安藝守、粟田朝臣鷹守を長門守、藤原朝臣園人(勤子に併記)を大宰少貳に任じている。また、造東大寺司を廃している。

十九日に石上朝臣乙名(等能古に併記)を大監物、中臣朝臣常(宅守に併記)を治部大輔、清海宿祢惟岳(沈惟岳。戸淨道に併記)を美作權掾に任じている。

夏四月庚辰。木工頭正四位下伊勢朝臣老人卒。乙酉。先是。伊勢。美濃等關。例上下飛驛凾。關司必開見。至是。勅自今以後。不得輙開焉。丙戌。以從五位下安曇宿祢廣吉爲和泉守。從五位下田中朝臣淨人爲伊勢介。從五位下大野朝臣仲男爲安房權守。從五位下川村王爲備後守。辛酉。美濃。尾張。參河等國。去年五穀不稔。饑餒者衆。雖加賑恤。不堪自存。於是。遣使開倉廩。准賎時價糶与百姓。其價物者收貯國庫。至於秋收。貿成穎稻。名曰救急。使其國郡司及殷富之民不得交易。如有違犯。科違勅罪矣。庚子。伊賀國飢。賑給之。

四月八日に木工頭の伊勢朝臣老人が亡くなっている。十三日、これより以前、伊勢・美濃などの關では、通例として諸國から都に上り、都から諸國に下る飛驛使の文書の函を、必ず關司が開き見ることになっている。しかし、この日になって勅され、今後はたやすく函を開けさせないようにしている。

十四日に安曇宿祢廣吉(諸繼に併記)を和泉守、田中朝臣淨人(廣根に併記)を伊勢介、大野朝臣仲男(下毛野朝臣年繼に併記)を安房權守、川村王()を備後守に任じている。

<辛卯(十九日)?>美濃・尾張・參河などの國では去年五穀が稔らず、飢える者が多く、物を恵み与えたが、自活することができない状態である。そこで使を遣わして倉を開き、安い時の価格で人民に米を売り与え、その代価の物は國庫に貯え置き、米の値の安い秋の収穫時に、代価の物を穗首刈りの稲に代えることし、この稲を救急稲と名付ける。國司・郡司や富裕な人民に、米を買い占めさせてはいけない。もし、違反すれば、違勅の罪に処することにしている。

二十八日に伊賀國に飢饉が起こり、物を恵み与えている。

五月癸丑。勅征東將軍曰。省比來奏状。知官軍不進。猶滯衣川。以去四月六日奏稱。三月廿八日。官軍渡河置營三處。其勢如鼎足者。自尓以還。經卅餘日。未審。縁何事故致此留連。居而不進。未見其理。夫兵貴拙速。未聞巧遲。又六七月者計應極熱。如今不入。恐失其時。已失其時。悔何所及。將軍等應機進退。更無間然。但久留一處。積日費粮。朕之所恠。唯在此耳。宜具滯由及賊軍消息。附驛奏來。丙辰。先是諸國司等。奉使入京。無返抄歸任者。不預釐務。奪其公廨。而在國之司。偏執此格。曾不催領。專煩使人。於是。始制。如此之類。不問入京与在國。共奪目已上之料。但遥附便使。不在奪限。己未。太政官奏言。謹案令條。良賎通婚。明立禁制。而天下士女。及冠蓋子弟等。或貪艶色而姦婢。或挾淫奔而通奴。遂使氏族之胤沒爲賎隷。公民之後變作奴婢。不革其弊。何導迷方。臣等所望。自今以後。婢之通良。良之嫁奴。所生之子。並聽從良。其寺社之賎如有此類。亦准上例。放爲良人。伏望。布此寛恩。拯彼泥滓。臣等愚管。不敢不奏。伏聽天裁。奏可之。庚申。播磨國揖保郡大興寺賎若女。本是讃岐國多度郡藤原郷女也。而以慶雲元年歳次甲辰。揖保郡百姓佐伯君麻呂。詐稱己婢。賣与大興寺。而若女之孫小庭等申訴日久。至是始得雪。若女子孫。奴五人婢十人。免賎從良。」安房。紀伊等國飢。賑給之。丁夘。詔贈征東副將軍民部少輔兼下野守從五位下勳八等佐伯宿祢葛城正五位下。葛城率軍入征。中途而卒。故有此贈也。己巳。以從五位下賀茂朝臣大川爲神祇大副。從五位上調使王爲右大舍人頭。從五位下藤原朝臣繼彦爲主計頭。從五位下和朝臣家麻呂爲造兵正。正五位下中臣朝臣常爲宮内大輔。庚午。信濃國筑摩郡人外少初位下後部牛養。无位宗守豊人等賜姓田河造。

五月十二日に征東将軍(紀朝臣古佐美)に次のように勅されている・・・この頃の奏状を見ると、官軍は先へ進まず、なお「衣川」に留まっていることがわかる。去る四月六日の奏には[三月二十八日に官軍は河を渡って三ヶ所に陣営を置いた。その態勢は「鼎足」のようである]とあるが、それ以来、三十日余りも経っている。不審に思うのは、どのような原因があってこのように留まり続けて進まないのか、ということである。---≪続≫---

その理由が未だに分からない。いったい兵というのは、拙くても早いのを尊ぶものであり、巧みであっても遅いのがよいとは聞かない。また、六、七月は、思うに最も暑い時期であろう。もし、今賊地に入らなければ、恐らくその時機を失うであろう。一旦、時機を失ってしまえば、後悔しても何のかいがあろうか。---≪続≫---

将軍等は臨機応変に進んだり退いたりして、隙を見せないようにせよ。ただ長い間一ヶ所に留まって日を重ね、兵糧を費やしていること、これだけは朕は訝しく思う。そこで留まっている理由と賊軍の有様を詳しく書き留め、驛使に付けて奏上して来るようにせよ・・・。

十五日、これより以前、諸國の國司等が調・庸を貢進する使となって入京したが、不足しているため受領書を受け取れず、任國に帰った場合は、職務に関与させず、その給与の公廨稲を奪うと格に定められている。ところが、國にいる國司は、ひたすらこの格に拘って、輸送を一度も掌らず、もっぱら使人になるのをいやがっている。ここに初めて制を定めて、このような責任を回避する者どもは、入京するか國にいるかを問わず、共に目以上の公廨料を奪うことにする。但し、便宜な使者に委託した場合は、奪わないことにしている。

十八日に太政官が以下のように奏上している・・・謹んで令の条文を調べると、良民と賤民が結婚することに対しては、明らかに禁制が立られている。ところが、天下の良民の男女及び高位高官の子弟等は、美女を求めて婢を犯す男性や、淫らな心を抱いて奴と姦通する女性がいて、その結果生まれた子供達は賤民の身分に沈められ、公民の子孫であるのに奴婢とされているありさまである。この弊害を改めなければ、どうして方向を誤っている者を導くことができるであろうか。---≪続≫---

私共が希望するのは、今後、婢が良民の男子と姦通し、良民の女子が奴に嫁いで生んだ子は、どちらも良民の身分に従うのを聴すことである。また、寺院・神社の賤民について、もしこのような者があれば、上の例に准じて賤民の身分から解放して良民にしたいと思う。こうした寛大な恩恵を広く施し、この泥と滓のような者達を救うよう伏してお願いする。私共の愚かな考えを奏しないわけにはいかない。謹んでご判断を伺いたく思う・・・。この奏上は許可されている。

十九日に播磨國揖保郡の「大興寺」の賤民である「若女」は、もと「讃岐國多度郡藤原郷」出身の良民の女であった。ところが、慶雲元(704)年甲辰の年に、揖保郡の民である「佐伯君麻呂」が自分の婢と偽り、大興寺に売り与えてしまった。そのため、「若女」の孫に当たる「小庭」等が、訴えて久しくなる。ここに初めてその誤りを晴らすことができた。「若女」の子や孫である奴五人と婢十人は、賤民から解放され良民とされている。また、安房・紀伊などの國が飢饉になったので、物を恵み与えている。

二十六日に詔されて、征東副将軍・民部少輔で下野守を兼任する勲八等の佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)に正五位下を贈っている。「葛城」は軍を率いて賊地に入り征討に当たったが、その途中でなくなったからである。二十八日に賀茂朝臣大川を神祇大副、調使王()を右大舍人頭、藤原朝臣繼彦(大繼に併記)を主計頭、和朝臣家麻呂(三具足に併記)を造兵正、中臣朝臣常(宅守に併記)を宮内大輔に任じている。

二十九日に信濃國「筑摩郡」の人である「後部牛養」と「宗守豊人」等に「田河造」の氏姓を賜っている。

<衣川>
衣川

三月一日に陸奥國多賀城に集結した諸國派遣軍、総指揮は紀朝臣古佐美として、進軍し、二十八日に前線部隊を「衣川」辺に展開したと記載している。

いよいよ合戦の口火が開かれるのかと思いきや、全く音沙汰無しで天皇が業を煮やして檄を飛ばされたようである。待機しているのは、紛うことなく、かつて磐舟柵等が設置された場所であろう。

越蝦夷の東南の隅の地形を衣=衣を被せたようになっている様と見做し、その麓を流れる川を衣川と名付けたと思われる。この地は、書紀の天武・持統天皇紀に帰順した越蝦夷の伊高岐那八釣魚等の居処となっていた。

部隊を展開したら鼎足のようになったと奏上している。何ともどっしりとした戦列を組めたのだが、それで落ち着いてしまって動かず、天皇の檄を真面に受ける羽目になったようである。

「鼎足」は、勿論、その場の地形を表しているのであろう。図に示したように「衣」の山稜の側面と、そこから三つの山稜が生え出ていることが解る。戦いを前にして、何とも洒落た文言の奏状であったわけである。これも天皇が気に障ったところかもしれない。

さて、図を更に眺めると、官軍の眼前には高く聳える山稜が横たわっている。僅かな隙間を通り抜けねばならないのだが、その背後には海道蝦夷がここぞとばかりに潜んでいるように見える。これでは、動こうにも動けない情勢だったことが伺える。

迎え撃つのならばこの態勢も善し、だが攻め入るには、良い戦略だったかは心許ないところであろう。戦いは、これからである。ところで三月二十八日の出来事を天皇は四月六日に把握していた。実質一週間程度で「衣川」から長岡宮に届いていることになる。通説の推定地は800km以上離れているが、”高速通信網”が敷かれていたのであろうか・・・。

<大興寺・佐伯君麻呂>
大興寺

何とも悪い奴がいたもので、先ずは哀れな女性が売り飛ばされていた播磨國揖保郡にあるという「大興寺」の場所を求めてみよう。

既出の文字列である大興=平らな頂の山稜の麓にある両手のような山稜に挟まれて谷間が筒状になっているところと解釈される。「興」は、法興寺など(例えばこちら参照)で用いられている。

その地形を図に示した場所に見出せる。長く延びた山稜の端に当たる場所である。現地名は築上郡築上町上ノ河内である。揖保郡の東端となる。

● 佐伯君麻呂 「揖保郡」では、既に佐伯直諸成が登場していた。私稲を造船瀬所に貢進し外従五位下を叙位されていた。今回登場の君麻呂とは真逆の人格だったようである。君=開いた手のような山稜が延びた麓に小高い地があるところと解釈すると図に示した場所が出自と推定される。「直」姓が省略されるくらいの罪科だったのであろうか。

<讃岐國多度郡:藤原郷・若女-小庭>
讃岐國多度郡

讃岐國の郡割については、古くは山田郡那賀郡寒川郡香川郡三野郡が登場していた。現在の北九州市若松区の狭い土地あり、これ以上の郡はあるのか?…杞憂する有様である。

先ずは「多度郡」に含まれる幾度か登場した多度=山稜の端を跨ぐように山稜が延びているところと解釈した。すると、那賀郡の谷間の奥に当たる地が、その地形をしていることが解る。美濃國多度山などの地形に酷似している。

更にその郡内に藤原郷があったと記載されている。”藤原”に憚ることは希薄になったのであろう。藤原=谷間で水溜まりが積み上がっている麓で野原が広がっているところと解釈すると、現在の地図上に段々になった溜池が記載されている。

当時のままであるとは思えないが、やはり同じような配置をいていたのではなかろうか。藤原郷の名称は、実に貴重である。これによって多度郡の場所は、ほぼ確定的になったように思われる。

● 若女・小庭 些か地形確認が難しいが、若=幾つもの細かく岐れた山稜が延び出ている様小庭=山麓で三角に尖って平らに広がっているところと解釈すると、図に示した場所が各々の出自の場所と推定される。復権できて、目出度しだったようである。

<信濃國筑摩郡:後部牛養・宗守豊人>
信濃國筑摩郡

信濃國の郡割は、決して早期ではなく、一時は須波神が鎮座する地域を諏方國として分離して、その後併合という曲折が記載されていた。

明確に郡建てが記述されるのが、聖武天皇紀以降に更級郡水内郡伊那郡であり、それぞれの地を出自とする人物が登場していた。

今回登場の筑摩郡筑摩=[凡]の形の谷間で延びた山稜が細切れに小高くなっているところと解釈される。「伊那郡」の奥の地域を表していることが解る。かつて登場の丸子大國の居処を含む場所と思われる。尚、須波神・水内神は、龍田風神と繋がり、これら二神は”風の谷間”にあったと推測した。「風」=「凡+虫」の地形である。

● 後部牛養・宗守豊人 「後部」は、高麗系渡来人達の氏名のように錯覚しかけるが、そうではなく地形象形表記として読み解いてみよう。「部」=「咅+邑」=「分かれた地が寄り集まっている様」であり、簡略に「近隣(周辺」を表す文字と解釈した。「邑」に着目すると、部=山稜が寄り集まって小高くなっている様と解釈される。纏めると後部=小高い地の背後にあるところと読み解ける。

図に示したように「丸子大國」の”丸”、筑摩に含まれる小高くなった地を「部」と表しているのであろう。牛養=牛の頭部のような山稜の麓で谷間がなだらかに延びているところとして、図に示した場所が出自と推定される。

宗守=高台の麓で肘を張ったように曲がる山稜に囲まれているところ豐人=谷間が段々になっているところと解釈すると図に示した場所に、その地形を見出せる。賜った田河造の氏姓については、田河=谷間の出口の前の水辺で田が広がっているところと解釈される。「造」姓であるのは古来の人々だったのかもしれない。








2024年11月12日火曜日

今皇帝:桓武天皇(18) 〔701〕

今皇帝:桓武天皇(18)


延暦七(西暦788年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

秋七月己酉。大宰府言。去三月四日戌時。當大隅國贈於郡曾乃峯上。火炎大熾。響如雷動。及亥時。火光稍止唯見黒烟。然後雨沙。峯下五六里。沙石委積可二尺。其色黒焉。辛亥。以參議左大弁正四位下兼春宮大夫中衛中將紀朝臣古佐美爲征東大使。庚午。以從五位下正月王爲少納言。中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂爲兼皇后宮大夫。中務卿美作守如故。從五位下大秦公忌寸宅守爲主計助。從三位多治比眞人長野爲兵部卿。近江守如故。從五位下爲奈眞人豊人爲造兵正。從五位下多治比眞人屋嗣爲主鷹正。外從五位下忍海原連魚養爲典藥頭。播磨大掾如故。兵部大輔從四位下藤原朝臣雄友爲兼左京大夫。左衛士督如故。從五位下藤原朝臣繩主爲近衛少將。少納言如故。從五位上阿倍朝臣廣津麻呂爲中衛少將。式部少輔春宮亮如故。春宮少進從五位下多治比眞人豊長爲兼右衛士佐。春宮大夫中衛中將正四位下紀朝臣古佐美爲兼大和守。從五位下三嶋眞人大湯坐爲駿河守。癸酉。前右大臣正二位大中臣朝臣清麻呂薨。曾祖國子小治田朝小徳冠。父意美麻呂中納言正四位上。清麻呂天平末授從五位下。補神祇大副。歴左中弁文部大輔尾張守。寳字中。至從四位上參議左大弁兼神祇伯。歴居顯要。見稱勤恪。神護元年。仲滿平後。加勳四等。其年十一月。高野天皇更行大甞之事。清麻呂時爲神祇伯。供奉其事。天皇嘉其累任神祇官。清愼自守。特授從三位。景雲二年拜中納言。優詔賜姓大中臣。天宗高紹天皇踐祚。授正三位。轉大納言兼東宮傅。寳龜二年拜右大臣。授從二位。尋加正二位。清麻呂歴事數朝。爲國舊老。朝儀國典多所諳練。在位視事。雖年老而精勤匪怠。年及七十上表致仕。優詔弗許。今上即位。重乞骸骨。詔許之。薨時年八十七。

七月四日に大宰府が以下のように言上している・・・去る三月四日の戌の時(午後八時前後)、「大隅國贈於郡」の曾の峰の頂上辺りで「火炎」(物が燃える時に光や熱を出している様)が盛んに起こり、音響は雷が鳴っているようであった。---≪続≫---

亥の時(午後十時前後)になって「火光」(炎が放つ光)がやや止んで、黒煙だけが見えた。その後、細かい砂が降り、峰の麓五、六里は砂や石が降り積もって約二尺になった。その色は黒色であった・・・。

六日に参議・左大弁で春宮大夫・中衛中将を兼任する紀朝臣古佐美を征東大使に任じている。

二十五日に正月王(牟都岐王)を少納言、中納言の藤原朝臣小黒麻呂を中務卿・美作守のまま兼務で皇后宮大夫、大秦公忌寸宅守を主計助、多治比眞人長野を近江守のままで兵部卿、爲奈眞人豊人(東麻呂に併記)を造兵正、多治比眞人屋嗣を主鷹正、忍海原連魚養を播磨大掾ままで典藥頭、兵部大輔の藤原朝臣雄友()を左衛士督のまま兼務で左京大夫、藤原朝臣繩主()を少納言のままで近衛少將、阿倍朝臣廣津麻呂を式部少輔・春宮亮のままで中衛少將、春宮少進の多治比眞人豊長(豊濱。乙安に併記)を兼務で右衛士佐、春宮大夫・中衛中將の紀朝臣古佐美を兼務で大和守、三嶋眞人大湯坐(大湯坐王)を駿河守に任じている。

二十八日に前右大臣の大中臣朝臣清麻呂が薨じている。曽祖父の「國子」は小治田朝(推古天皇)の小德冠で、父の「意美麻呂」は中納言・正四位上であった(こちら参照)。「清麻呂」は天平の末年に従五位下を授けられ、神祇大副に任じられた。左中弁・文武(式部)大輔・尾張守を歴任し、天平寶字年間に従四位上・参議・左大弁で神祇伯を兼任した。重要な役職を歴任して、その忠勤な勤めぶりを賞賛された。

天平神護元(765)年、「仲満の叛乱」が収まった後、勲四等を更に授けられた。その年の十一月、高野天皇(称徳天皇)が重祚後あらためて大嘗祭を行ったが、「清麻呂」はその時、神祇伯として大嘗祭の事に奉仕した。高野天皇は、彼が神祇官の役人に何度も任用され、潔白で慎み深く、自分の職をよく守っていることを褒めて、特に従三位を授けた。

神護景雲二(768)年に中納言を拝命し、手厚い詔を下されて大中臣の姓を賜った。天宗高紹天皇(光仁天皇)が践祚した時、正三位を授けられ、大納言兼東宮傳に転任し、寶龜二(771)年に右大臣を拝命し、従二位を授けられ、ついで正二位に昇進した。

「清麻呂」は数代の天皇に仕えて國の旧い事をよく知っている老臣であった。朝廷の儀式や國のしきたりをたくさん記憶し、熟練していた。席で執務する時は、高齢になったとはいえ、精勤で怠るようなことはなかった。

年齢が七十歳になった時、上表文を奉って辞職を願い出たが、懇ろな詔が下されて許されなかった。今上(桓武天皇)が即位した際に再度辞職を願い出た。詔して許した。薨じた時、八十七歳であった。

<大隅國贈於郡・曾之峰>
大隅國贈於郡

元明天皇紀の和銅六(713)年四月に「割日向國肝坏。贈於。大隅。姶羅四郡。始置大隅國」と記載され、通説では、日向國の贈於郡等を割いて大隅國の名称とした、と解釈されている。

通説に従えば、今回登場の贈於郡は、元は日向國に属していた郡となる。高千穂峰の東側に広がる郡となる。一方、本著は、「日向國郡割」とは別途に「大隅國」を設置したとした。現地名は遠賀郡遠賀町・芦屋町である(こちら参照)。

時が経って淳仁天皇紀に、薩摩國・大隅國の堺にある麑嶋信尓村の海で海底火山活動によって三つの島ができたと記載されていた。薩摩國が筑紫南海…現在の博多湾…に面する國であるならば、大隅國はそれに並ぶ位置にあったことを示している。

既に述べたように、續紀編者等は「大隅」の文字を固有の地名としては扱わず、それが示す地形の場所の名称としているのである。大隅隼人も大隅國に限った名称ではない。

あらためて贈於郡贈於=谷間の奥に谷間がある地から旗がたなびくように延びているところと解釈すると、図に示した地域を表していることが解る。この「贈於」も日向國の「贈於」に酷似しているのである。称徳天皇紀に登場した大住忌寸の居処を含む場所である。

曾之峰は、現在の金山小学校辺りを表していると思われる。当時は、”金山”の地形をしていたのであろう。勿論、火山帯が延びる山稜だったと推測される。”曾の峰”と解釈するのではなく、曾之=積み重なった地が蛇行するように曲がって延びているところと解釈される。それらしく見えるが、地形変形が大きく確認することが叶わないようである。

八月戊子。對馬嶋守正六位上穴咋呰麻呂賜姓秦忌寸。以誤從母姓也。

八月十三日に對馬嶋守の「穴咋呰麻呂」に「秦忌寸」の氏姓を賜っている。誤って母の姓に従っていたためである。

<穴咋呰麻呂>
● 穴咋呰麻呂

對馬嶋守」は、記紀・續紀を通じて初見の文字列であろう。書紀の天武天皇紀に對馬國司守忍海造大國の表記があったが、その後に”國守”としての任命が記載されていなかった。

また、元正天皇紀及び聖武天皇紀に”對馬司”とあるが、具体的な人物名は記載されてはいなかった。”對馬國”の表記は見られないようである。

更にまた、遣新羅使の副使對馬連堅石が後に「津嶋朝臣」の氏姓を賜り、その後幾人かの人物が登場して来ているが(こちら参照)、國守に任命されたわけではなかった。

そんな背景であるが、現地の母親の姓名である穴咋=穴のような谷間の口がギザギザとしているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。現地名の対馬市厳原町宮谷である。名前の呰麻呂呰=此+囗=谷間を挟む山稜が折れ曲がって延びている様と解釈すると、出自の場所を求めることができる。

賜った秦忌寸は、谷間を挟む山稜の形を表していて、妥当な名称であるが、父親の氏姓なのかは定かではない。関連する情報も皆無であり、これ以上の詮索は止めることにする。

九月丁未。美濃國厚見郡人羿鹵濱倉賜姓羹見造。庚午。詔曰。朕以眇身。忝承鴻業。水陸有便。建都長岡。而宮室未就。興作稍多。徴發之苦。頗在百姓。是以優其功貨。欲無勞煩。今聞。造宮役夫短褐不完。類多羸弱。靜言於此。深軫于懷。宜諸進役夫之國。今年出擧者不論正税公廨。一切減其息利。縦貸十束其利五束。二束還民。三束入公。其勅前徴納者。亦宜還給焉。

九月三日に「美濃國厚見郡」の人である「羿鹵濱倉」に「美見造」の氏姓を賜っている。二十六日に次のように詔されている・・・朕は微小な身でありながら、もったいなくも大きな事業を受け継ぎ、水陸に便利な長岡に都を建設いている。しかしながら皇居は未だ完成していない。建設はますます多くなり、人民は徴発されて大そう苦しんでいる。---≪続≫---

そのため差し出した労力や物資に手厚い恵みを与え、労苦の煩いが甚だしくないように願っている。現在聞くところでは、都を造営する役夫は粗末な着物を着て、それらの者の殆どが疲れ弱っているという。このことに静かに思いを致し、深く心を傷めている。---≪続≫---

そこで役夫を提供している諸國の今年の出挙は、正税・公廨を区別することなく、全てその利息を減ずることとせよ。例えば稲十束を貸し付ければ、その利息は五束であるが、そのうちの二束は人民に返還し、三束を國に納入せよ。この勅の前に徴収し納入された場合も返還するように・・・。

<美濃國厚見郡・羿鹵濱倉>
美濃國厚見郡

「美濃國厚見郡」は、記紀・續紀を通じて初見であろう。美濃國に関しては、既に多くの郡名が記載されていた。

なかでも岐蘇山道に関わる礪杵郡や吉蘇路に関わる多伎(藝)郡が気記載されていたが、肝心の美濃の中心地はすっぽりと抜け落ちていたのである。

厚見郡の「厚見」の文字列は、既に幾度か登場し、厚見=大きく広がっている山稜がある谷間が長く延びているところと解釈した。その地形を、その中心地が示していることが解る。

どうやら、この地域は山深く、人々が住み着く場所ではなかったようである。勿論、重要な他國との連絡道であったことには違いなかったが・・・。

● 羿鹵濱倉 初見の文字が並んでいるが、「羿」=「羽+廾(両手)」=「羽のような形と両手のような山稜が並んでいる様」、「鹵」=「小高い地が突き出ている様」と解釈する。「鹵」は、”塩(鹽)”に含まれ、”鹽田”の”鹽”ではなく、”岩鹽”を表すと解説されている。

纏めると羿鹵=羽のような形と両手のような山稜が並んでいる先に小高い地が突き出ている地があるところと読み解ける。名前の濱倉=四角く広がる谷間が水辺の近くにあるところと解釈される。これらの地形要素を満足する、図に示した場所が出自と推定される。賜姓された美見造は、濃國の厚郡を短縮したものであろう。

冬十月丙子。雷雨暴風。壞百姓廬舍。

十月二日に雷雨と暴風のため、人民の家が壊れている。

十一月丁未。參議正四位下大中臣朝臣子老爲宮内卿。神祇伯如故。庚戌。播磨國揖保郡人外從五位下佐伯直諸成。延暦元年籍冐注連姓。至是事露改正焉。戊辰。宴五位已上。」從五位上中臣朝臣常。大伴宿祢弟麻呂並授正五位下。從五位下紀朝臣田長從五位上。正六位上大中臣朝臣弟成。小野朝臣澤守。田中朝臣淨人。並從五位下。

十一月四日に參議の大中臣朝臣子老を神祇伯のままで宮内卿に任じている。七日に播磨國揖保郡の人である佐伯直諸成は、延暦元(782)年の戸籍には、偽って連姓と記載された。この時点になって、その事実が露顕し、元の姓に改めている。

二十五日に五位以上と宴を催している。また、中臣朝臣常(宅守に併記)大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)に正五位下、紀朝臣田長(船守に併記)に從五位上、大中臣朝臣弟成(今麻呂に併記)・小野朝臣澤守(小野虫賣に併記)・田中朝臣淨人(廣根に併記)に從五位下を授けている。

十二月庚辰。征東大將軍紀朝臣古佐美辞見。詔召昇殿上賜節刀。因賜勅書曰。夫擇日拜將。良由綸言。推轂分閫專任將軍。如聞。承前別將等。不愼軍令。逗闕猶多。尋其所由。方在輕法。宜副將軍有犯死罪。禁身奏上。軍監以下依法斬决。坂東安危在此一擧。將軍宜勉之。因賜御被二領。采帛卅疋。綿三百屯。

十二月七日に征東大将軍の紀朝臣古佐美が別れの挨拶をしている。詔を下されて、殿上に呼び寄せ節刀を与えている。そこで勅書を与えて、次のように宣べている・・・そもそも日を選んで将軍を任命するのは、まことに天皇の命令による。しかし出陣して遠征の途にのぼれば、一切を将軍に任せる。---≪続≫---

ところが聞くところによると、これまで別将等は軍令を守らず、恐れて留まったり落度があったりする者が多かった。その理由を尋ねてみると、実は処罰の法を軽減したことに原因があることが分った。もし、副将軍が死罪に値する罪を犯すようなことがあれば、拘禁して奏上せよ。軍監以下の者が法を犯した場合は、法に準拠して斬罪を執行せよ。---≪続≫---

坂東(八國。常陸國を除く)が安泰かどうかはこの一事にかかっている。将軍はこのことに努力するように・・・。そこで天皇の夜具二領、色染めの絹三十疋、真綿三百屯を賜っている。

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『続日本紀』巻卅九巻尾


 

2024年11月5日火曜日

今皇帝:桓武天皇(17) 〔700〕

今皇帝:桓武天皇(17)


延暦七(西暦788年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

七年春正月癸亥。從五位下巨勢朝臣家成爲和泉守。甲子。皇太子加元服。其儀。天皇皇后並御前殿。令大納言從二位兼皇太子傅藤原朝臣繼繩。中納言從三位紀朝臣船守兩人。手加其冠。了即執笏而拜。有勅令皇太子參中宮。乃赦天下。詔在京諸司及高年僧尼。并神祝等。賜祿各有差。又諸老人年百歳已上賜穀五斛。九十已上三斛。八十已上一斛。孝子順孫。義夫節婦。表其門閭。終身勿事。鰥寡孤獨篤疾不能自存者。並加賑恤焉。是日。引群臣宴飮殿上。賜祿有差。

正月十四日に巨勢朝臣家成(宮人に併記)を和泉守に任じている。十五日、皇太子(安殿親王)が元服を行っている。その儀式は天皇・皇后が共に前殿に出御して、大納言で皇太子傳を兼務する藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)と中納言の紀朝臣船守の両人の手で冠を皇太子に被らせている。終了した後、両人は笏を持って拝している。勅が出されて皇太子を中宮(高野朝臣)のところへ参上させている。よって、天下に恩赦を行い、詔されて、京内の諸官司と高齢の僧尼や神社の祝等に地位に応じて禄を賜っている。

また諸々の老人で年が百歳以上には籾米五石、九十歳以上には三石、八十歳以上には一石を賜っている。孝子・順孫・義夫・節婦は家の門と村里の門にその旨を標示し、終身の租税負担を免除している。鰥・寡・孤・獨や篤疾のため自活できない者には、物を恵み与えている。この日、群臣を引き入れて殿上で酒宴を催し、それぞれに禄を賜っている。

二月辛巳。授從五位下錦部連姉繼從五位上。无位安倍小殿朝臣堺。武生連朔並從五位下。並皇太子乳母也。甲申。以中納言兵部卿從三位石川朝臣名足爲兼大和守。從五位下高倉朝臣殿嗣爲介。從五位下大伴宿祢蓑麻呂爲河内守。從五位下百濟王善貞爲介。正四位下伊勢朝臣老人爲遠江守。從五位下縣犬養宿祢繼麻呂爲伊豆守。從五位下紀朝臣眞人爲相摸守。從五位下藤原朝臣縵麻呂爲介。中宮大夫從四位上石川朝臣豊人爲兼武藏守。中衛少將正五位下藤原朝臣乙叡爲兼下総守。從五位下中臣丸朝臣馬主爲上野介。從五位下淺井王爲丹波守。從五位上大中臣朝臣繼麻呂爲但馬守。式部大輔左兵衛督從四位下大中臣朝臣諸魚爲兼播磨守。從五位下笠朝臣江人爲介。外從五位下忍海原連魚養爲大掾。正五位上當麻王爲備前守。少納言從五位下藤原朝臣繩主爲兼介。右衛士佐如故。從五位下下毛野朝臣年繼爲備中介。外從五位下忌部宿祢人上爲安藝介。東宮學士左兵衛佐從五位下津連眞道爲兼伊豫介。從五位上紀朝臣伯麻呂爲大宰少貳。從五位下石川朝臣多祢爲肥前守。壬辰。外從五位下入間宿祢廣成爲近衛將監。庚子。授正六位上紀朝臣永名從五位下。丙午。從五位下多治比眞人繼兄爲右少弁。正五位下藤原朝臣眞友爲中務大輔。從五位上山口王爲大監物。從四位上和氣朝臣清麻呂爲中宮大夫。民部大輔攝津大夫如故。左中弁從五位上大伴宿祢弟麻呂爲兼皇后宮亮。外從五位下阿閇間人臣人足爲大進。從五位下川村王爲右大舍人頭。從五位下廣田王爲縫殿頭。主税助外從五位下麻田連眞淨爲兼大學博士。從五位下大原眞人長濱爲散位助。外從五位下中臣栗原連子公爲大炊助。從五位下大宅朝臣廣江爲主殿頭。從五位下和朝臣家麻呂爲造酒正。從五位下長津王爲鍛冶正。從五位下百濟王教徳爲右兵庫頭。外從五位下林連浦海爲安藝介。陸奥按察使守正五位下多治比眞人宇美爲兼鎭守將軍。外從五位下安倍猿嶋臣墨繩爲副將軍。

二月三日に錦部連姉繼に從五位上、「安倍小殿朝臣堺」・武生連朔(佐比乎に併記)に從五位下を授けている。いずれも皇太子の乳母である。

中納言・兵部卿の石川朝臣名足を兼務で大和守、高倉朝臣殿嗣(高麗朝臣殿繼)を介、大伴宿祢蓑麻呂(眞綱に併記)を河内守、百濟王善貞(②-)を介、伊勢朝臣老人を遠江守、縣犬養宿祢繼麻呂(堅魚麻呂に併記)を伊豆守、紀朝臣眞人(大宅に併記)を相摸守、藤原朝臣縵麻呂(藥子に併記)を介、中宮大夫の石川朝臣豊人を兼務で武藏守、中衛少將の藤原朝臣乙叡()を兼務で下総守、中臣丸朝臣馬主を上野介、淺井王()を丹波守、大中臣朝臣繼麻呂(子老に併記)を但馬守、式部大輔・左兵衛督の大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を兼務で播磨守、笠朝臣江人(眞足に併記)を介、忍海原連魚養を大掾、當麻王()を備前守、少納言の藤原朝臣繩主()を右衛士佐のまま兼務で介、下毛野朝臣年繼を備中介、忌部宿祢人上(止美に併記)を安藝介、東宮學士・左兵衛佐の津連眞道(眞麻呂に併記)を兼務で伊豫介、紀朝臣伯麻呂を大宰少貳、石川朝臣多祢(太祢)を肥前守に任じている。

十四日に入間宿祢廣成(物部直廣成)を近衛將監に任じている。二十二日に紀朝臣永名(本に併記)に從五位下を授けている。

二十八日に多治比眞人繼兄を右少弁、藤原朝臣眞友()を中務大輔、山口王()を大監物、和氣朝臣清麻呂を民部大輔・攝津大夫のままで中宮大夫、左中弁の大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)を兼務で皇后宮亮、阿閇間人臣人足を大進、川村王()を右大舍人頭、廣田王()を縫殿頭、主税助の麻田連眞淨(金生に併記)を兼務で大學博士、大原眞人長濱(年繼に併記)を散位助、中臣栗原連子公(栗原勝)を大炊助、大宅朝臣廣江(吉成に併記)を主殿頭、和朝臣家麻呂(三具足に併記)を造酒正、長津王(。三長眞人)を鍛冶正、百濟王教徳(俊哲の子。②-)を右兵庫頭、林連浦海(雑物に併記)を安藝介、陸奥按察使守の多治比眞人宇美(海。歳主に併記)を兼務で鎭守將軍、安倍猿嶋臣墨繩(日下部淨人に併記)を副將軍に任じている。

<安倍小殿朝臣堺>
● 安倍小殿朝臣堺

称徳天皇紀に伊豫國人の秦毘登淨足等が、彼等の祖先は安倍小殿小鎌であり、伊豫國に赴任した時に現地の娘を娶って子孫が生まれ、母親の氏姓である秦首(毘登)を名乗って来たと言上し、本来の氏姓である「阿陪小殿朝臣」を賜ったと記載されていた。

その後、同紀に阿倍小殿朝臣人麻呂が従五位下を叙爵されて登場し、阿(安)倍朝臣の氏姓を持つ一族が蔓延って行ったことが伺える。系譜は定かではないが、今回登場の女性も同族であったと思われる。

名前の堺=土+界=谷間で延び出た山稜に挟まれている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「人麻呂」の南側に接するところと思われる。この後に登場することはないが、安殿親王の名付けが、この乳母の名前(倍小殿)からと言われているようだが・・・。

三月庚戌。軍粮三万五千餘斛仰下陸奥國。運收多賀城。又糒二万三千餘斛并塩。仰東海。東山。北陸等國。限七月以前。轉運陸奥國。並爲來年征蝦夷也。辛亥。下勅。調發東海。東山。坂東諸國歩騎五万二千八百餘人。限來年三月。會於陸奥國多賀城。其點兵者。先盡前般入軍經戰叙勲者。及常陸國神賎。然後簡點餘人堪弓馬者。仍勅。比年國司等無心奉公。毎事闕怠。屡沮成謀。苟曰司存。豈應如此。若有更然。必以乏軍興從事矣。甲子。中宮大夫從四位上兼民部大輔攝津大夫和氣朝臣清麻呂言。河内攝津兩國之堺。堀川築堤。自荒陵南。導河内川西通於海。然則沃壤益廣。可以墾闢矣。於是。便遣清麻呂勾當其事。應須單功廿三万餘人給粮從事矣。己巳。外從五位下嶋田臣宮成授從五位下。從五位下藤原朝臣末茂爲内匠頭。正五位下粟田朝臣鷹守爲治部大輔。從五位下紀朝臣永名爲兵部少輔。從四位上石川朝臣豊人爲大藏卿。中宮大夫武藏守如故。從五位下大宅朝臣廣江爲少輔。從五位下岡田王爲主殿頭。從五位上羽栗臣翼爲左京亮。内藥正侍醫如故。外從五位下麻田連畋賦爲右京亮。從四位上大伴宿祢潔足爲衛門督。從四位下石上朝臣家成爲右衛士督。從五位上紀朝臣作良爲上野守。從五位下嶋田臣宮成爲周防守。從五位上多治比眞人濱成。從五位下紀朝臣眞人。佐伯宿祢葛城。外從五位下入間宿祢廣成並爲征東副使。 

三月二日に兵糧三万五千石余りを陸奥國に命じて多賀城(柵)に運び収めさせている。また、糒二万三千石余りと塩を東海・東山・北陸の諸國に命じて、七月までに陸奥國に運送させている。いずれも来年蝦夷を征討するためである。

三日に勅されて、東海・東山・坂東の諸國(坂東八國:常陸國を除く。周辺の東海・東山道諸國を加えている)の歩兵と騎兵五万二千八百人余りを徴発して、来年三月までに陸奥國多賀城(柵)に集結させ、その兵士の指名には、まず前回従軍して実戦を経験し、勲位に叙せられた者と、常陸國の「神賎」(鹿嶋神宮の雑役に従事した奴婢。こちら参照)を全て徴発し、その後に他の人々うちで弓射や乗馬に堪能な者を選び指名させることにする。

そこで次のように勅されている・・・近年國司等は公務に熱心ではなく、事々に手抜きをしたり怠けたりして、しばしば計画が失敗してしまっている。いやしくも官人という以上は、このようなことがあってはならない。もし二度とこのようなことが生じた場合は、律に定める「軍用物資の準備不足」を適用して処置する・・・。

十六日に中宮大夫で民部大輔・攝津大夫を兼任する和氣朝臣清麻呂が以下のように言上している・・・河内・攝津両國の國境に川を掘り堤を築いて、「荒陵」の南から「河内川」を西方に導き、海まで通そうと思う・・・。そこで「清麻呂」を派遣してこの事業を担当させ、延べ二十三万人余りに食料を支給してこの事業に従事させている。

二十一日に嶋田臣宮成に内位の從五位下を授けている。藤原朝臣末茂()を内匠頭、粟田朝臣鷹守を治部大輔、紀朝臣永名(本に併記)を兵部少輔、石川朝臣豊人を中宮大夫・武藏守のままで大藏卿、大宅朝臣廣江(吉成に併記)を少輔、岡田王を主殿頭、羽栗臣翼を内藥正・侍醫のままで左京亮、麻田連畋賦を右京亮、大伴宿祢潔足(池主に併記)を衛門督、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を右衛士督、紀朝臣作良を上野守、嶋田臣宮成を周防守、多治比眞人濱成(歳主に併記)紀朝臣眞人(大宅に併記)佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)・入間宿祢廣成(物部直廣成)を征東副使に任じている。 

<河内川・荒陵>
河内川・荒陵

河内國と攝津國の國境を流れる川と記載されている。既に求めたように、現地名で述べると、前者京都郡みやこ町勝山大久保、後者は行橋市津積であり、國境を流れる川は井尻川となる。

前記で三國川と記載された川であるが、被った名称ではなく、その下流域を示していると思われる。即ち、「三國」の地形に連なる場所を流れている川を河内川と名付けていたのであろう。

「河内」を地形象形として解約すると、河内川=谷間の出口を出て小高い地が並んでいる隙間を流れている川と読み解ける。その小高い地を荒陵=水辺で山稜の端が小高くなって途切れているところで表していることが解る。現地名の宝山及びその周辺である。

「清麻呂」の言上は、その南側で流路を西側に移して、海に繋げようとする企画である。現在の井尻川の流路に類似するように思われる。確かに現在のような重機のない時代では大事業であったと推測される。

「河内川」の河口は、古事記の大雀命(仁徳天皇)紀に記載された難波之堀江付近であったと思われる。「堀江」は、水深が不足し船の航行に支障をきたすことを避けるための、やはり大事業であった。「清麻呂」が西側に河口を設けようとしたのは、水深の確保であったと推測される。要するに、大型船の着岸をも容易にする新しい”難波津”を造ることを企画したのである。

更に河内川・三國川を遡り、古事記の波邇賦坂(現みやこトンネル東側)を越えると山背國乙訓郡の長岡宮に通じる道が出来上がることになる。聖武天皇や桓武天皇のような元気な天皇にとっては、心躍る言上であったのではなかろうか。この企画は実現することは叶わなかったようであるが、工事困難な理由ではなく、不要となる経緯があったからであろう。

夏四月庚辰。遣使畿内祈雨焉。丁亥。奉黒馬於丹生川上神。祈雨也。戊子。勅五畿内。頃者亢旱累月。溝池乏水。百姓之間不得耕種。宜仰所司不問王臣。家田有水之處。恣任百姓。擁令播種。勿失農時。癸巳。自去冬不雨。既經五箇月。潅漑已竭。公私望斷。是日早朝。天皇沐浴。出庭親祈焉。有頃。天闇雲合。雨降滂沱。群臣莫不舞踏稱万歳。因賜五位以上御衾及衣。咸以爲。聖徳至誠。祈請所感焉。

四月三日に使者を畿内に派遣して雨乞いをさせている。十日に黒馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉納している。雨乞いのためである。

十二日に畿内五ヶ國に次のように勅されている・・・この頃日照りが何か月も続き、溝や池の水が欠乏して、人民の間では田を耕して種蒔きをすることができないでいる。所轄の官司に命じて、皇族・臣下を問わず、その家の田で水があるところは、人民に自由に塞き止めさせて水を引かせ、種蒔きをさせ、農業の時期を逸しないようにせよ・・・。

十六日、去年の冬から雨が降らず既に五ヶ月が経過し、灌漑の水は既に涸れてしまい、全ての人々は望みを失っていた。この日の早朝に天皇は沐浴して、庭に出て自ら祈ったら、すると空が暗くなり雲が集まって来て大雨が止めどもなく降っている。群臣等は舞い踊る挙措をし、万歳を叫ばない者はいなかった。そこで五位以上に夜具と衣を賜っている。皆は、天皇に立派な德とこの上ない真心があり、祈りを請うたのに天が感応したためであろう、と感じている。

五月己酉。詔群臣曰。宜差使祈雨於伊勢神宮及七道名神。是夕大雨。其後雨多。遠近周匝。遂得耕殖矣。辛亥。夫人從三位藤原朝臣旅子薨。詔遣中納言正三位兼中務卿藤原朝臣小黒麻呂。參議治部卿正四位下壹志濃王等。監護喪事。又遣中納言從三位兼兵部卿皇后宮大夫石川朝臣名足。參議左大弁正四位下兼春宮大夫中衛中將紀朝臣古佐美。就第宣詔。贈妃并正一位。妃贈右大臣從二位藤原朝臣百川之女也。延暦初納於後宮。尋授從三位。五年進爲夫人。生大伴親王。薨時年卅。丁巳。唐人馬清朝賜姓新長忌寸。庚午。中務大録正六位下中臣丸連淨兄。詐作印書。請受庫物。前後非一。事已發露。欲加推勘。聞而自經矣。

五月二日に群臣に次のように詔されている・・・使者を派遣して、降雨を伊勢神宮や七道の名神に祈らせよ・・・。この日の夕方、雨がたくさん降っている。その後、雨が多く降り、遠國も近國も全てに行き渡って、ついに田植えを行なうことができている。

四日に夫人の藤原朝臣旅子(産子に併記)が薨じている。詔して、中納言で中務卿を兼任する藤原朝臣小黒麻呂、参議・治部卿の壹志濃王()等を派遣して、葬儀を監督・護衛させている。また中納言で兵部卿・皇后宮大夫を兼任する石川朝臣名足、参議・左大弁で春宮大夫・中衛中将を兼任する紀朝臣古佐美を派遣して、邸に赴かせて詔を宣べさせ、妃の地位と正一位の位を贈っている。

妃は贈右大臣の藤原朝臣百川の娘であった。延暦初年に後宮に入り、その後従三位を授けられ、延暦五(786)年に夫人となり、大伴親王(産子に併記。後の淳和天皇)を生んだ。薨じた時、三十歳であった。

十日に唐人の「馬清朝」に「新長忌寸」の氏姓を賜っている(こちら参照)。二十三日に中務大録の中臣丸連淨兄(中臣丸朝臣馬主に併記)は、詐って官司の印を捺した公文書を作成し、官庫の物品を請求し受け取る事を一度ならず行っていた。そのことが発覚して尋問を開始しようとした矢先に頸をくくり自殺している。

六月癸未。美作備前二國國造中宮大夫從四位上兼攝津大夫民部大輔和氣朝臣清麻呂言。備前國和氣郡河西百姓一百七十餘人款曰。己等元是赤坂上道二郡東邊之民也。去天平神護二年。割隷和氣郡。今是郡治在藤野郷。中有大河。毎遭雨水。公私難通。因茲河西百姓屡闕公務。請河東依舊爲和氣郡。河西建磐梨郡。其藤野驛家遷置河西。以避水難。兼均勞逸。許之。甲申。從五位下藤原朝臣根麻呂爲左大舍人助。東宮學士左兵衞佐從五位下津連眞道爲兼圖書助。從五位上藤原朝臣刷雄爲大學頭。乙酉。下総越前二國封各五十戸施入梵釋寺。丙戌。中納言從三位兼兵部卿皇后宮左京大夫大和守石川朝臣名足薨。名足御史大夫正三位年足之子也。寳字中授從五位下。除伊勢守。稍遷。寳龜初任兵部大輔。遷民部大輔。授從四位下。出爲大宰大貳。居二年徴入歴左右大弁。尋爲參議兼右京大夫。名足耳目所渉。多記於心。加以利口剖斷無滯。然性頗偏急。好詰人之過。官人申政。或不合旨。即對其人極口而罵。因此諸司候官曹者。値名足聽事。多跼蹐而避。延暦初。授從三位。拜中納言。兼兵部卿皇后宮左京大夫。薨時年六十一。辛丑。外從六位下武藏宿祢弟総。外正八位上多米連福雄並授外從五位下。以貢獻也。壬寅。正四位下伊勢朝臣老人爲木工頭。從五位下橘朝臣入居爲遠江守。近衛少將從五位下坂上大宿祢田村麻呂爲兼越後介。内匠助如故。從五位下紀朝臣兄原爲出雲守。

六月七日に美作・備中両國の國造で中宮大夫の攝津大夫・民部大輔を兼任する和氣朝臣清麻呂が以下のように言上している・・・備前國和氣郡「河西」の人民百七十人余りが、[我々は元々赤坂・上道二郡の東の端の住民であった。去る天平神護二(766)年に分割された和氣郡に所属することになった。---≪続≫---

しかし郡の役所は「藤野郷」にあり、その中間に大河があるので、雨で増水すると公私共に通行できなくなり、そのため「河西」の人民はしばしば公務を果たせないでいる]との実情を訴えている。---≪続≫---

そこで以下のように申請する。「河東」は旧来通り和氣郡とし、河の西は新たに「磐梨郡」を建てる。また、その藤野驛家は、「河西」に移して設置し、これによって水難を避けると共に、併せて人民の負担は不公平がないようにしたい・・・。これを許可している。

八日に藤原朝臣根麻呂(今女に併記)を左大舍人助、東宮學士・左兵衞佐の津連眞道(眞麻呂に併記)を兼務で圖書助、藤原朝臣刷雄(眞從に併記)を大學頭に任じている。九日に下総・越前二國の封戸各五十戸を梵釋寺に施入している。

十日に中納言で兵部卿・皇后宮大夫・左京大夫・大和守を兼任する「石川朝臣名足」が薨じている。「名足」は御史大夫の「年足」の子であった(こちら参照)。天平寶字年間に従五位下を授けられ、伊勢守に任ぜられた。暫くして転任し、寶龜初年に兵部大輔に任ぜられ、次いで民部大輔に転任し、従四位下を授けられ、転出して大宰大貳となった。

二年間在任して呼び戻され、左右大弁を歴任し、次いで参議兼右京大夫に任じられた。「名足」は見聞きしたことの多くを記憶しており、その上弁説が巧で、事の是非曲直を直ちに区別し判断することができた。しかし性格は頗る狭量であり、好んで他人の過失を問い詰め、官人が政務を報告する際に考えに合わないと、直ちにその人に向かって口を極めて罵倒した。

このため諸司で太政官の庁舎に伺候する者は、「名足」が政務を聴取しているところに出会うと、たいていは身を縮め、小さくなって避けた。延暦初年に従三位を授けられ中納言を拝命し、兵部卿・皇后宮大夫・左京大夫を兼任した。薨じた時、六十一歳であった。

二十五日に「武藏宿祢弟総・多米連福雄」に外従五位下を授けている。貢献することがあったためである。二十六日に伊勢朝臣老人を木工頭、朝臣入居()を遠江守、近衛少將の坂上大宿祢田村麻呂(又子に併記)を内匠助のまま兼務で越後介、紀朝臣兄原(眞子に併記)を出雲守に任じている。

<備前國磐梨郡:河西・河東・藤野驛家>
備前國磐梨郡

本文にも記載されているように称徳天皇紀の天平神護二(766)年五月に大規模な藤野郡再編が行われ、周辺の他郡から幾つかの郷を藤野郡(和氣郡に改名)に統合していた。

そもそも和氣郡は、元正天皇紀に「邑久郡・赤坂郡」の幾つかの郷を割いて建てた「藤原郡」(藤野郡に改名)が中心となる地であり(こちら参照)、再編によって郡家に近くなることを目論んではいるが、思惑が外れることもあったであろう。

今回は、距離的には遠くはないが、途中にある川が障害となったようである。当時の再編では赤坂郡からは佐伯郷・珂磨郷、上道郡からは沙石郷・物理郷・肩背郷が和氣郡に編入されている。即ち、上記本文で和氣郡河西と記載された場所は、後者の上道郡(物理郷の一部を除く)の各郷を示していることが分る。

河西を”川の西側にある地”と解釈しては、意味不明となろう。河西=谷間の出口から出た川が笊のような地を流れているところと解釈される。同じく和氣朝臣清麻呂の言上である上記の河内(川)に類似する。同様に河東=谷間の出口から出た川が突き通すように流れているところと解釈される。

新たに磐梨郡を建てることを提案しているが、既出の文字列である磐梨=麓で大きく広がっている山稜が切り分けられているところと解釈すると、図に示したように「河西」地域を含めた郡域を表していることが解る。それにしても、備前國の郡割が揺れ動いているが、勿論、発展途上の地であったからであろう。

<武藏宿祢弟総>
● 武藏宿祢弟総

称徳天皇紀の神護景雲元(767)年十二月に「丈部直不破麻呂」等が「武藏宿祢」の氏姓を賜ったと記載され、續紀中に登場するのは「家刀自」と併せて二人の具体的な人物名が挙げられていた(こちら参照)。

國造を任じられ、武藏國の中心地が大きく南西側に移ったことを伺わせる記述であった。元は古事記の「无邪志國造」の谷間から離れた地となったのである(こちら参照)。

勿論、今回登場の弟総は、その一族であったと思われる。弟總=山稜の端がギザギザとしているように細かく生え出ているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。

何らかの物を献上したことへの褒賞叙位であって、この後に任官に関連する記述は見られないようである。續紀以降の史書にも記載された例がなく、國造を引き継いだかも不明である。

<多米連福雄>
● 多米連福雄

「多米連」の氏姓は、記紀・續紀を通じて初見である。連姓を持つことから古豪の一族と推測されるのだが、関連する情報も極めて限られているようである。

そんな中で現地名の愛知県豊橋辺りに多米の地名があることが分った。国譲り以前の所謂三川之穗に該当する地域かと思われる。

近隣に関しては、『仲麻呂の乱』で功績をあげた石村村主(後に坂上忌寸の氏姓を賜う)一族の居処となっていた。彼等は三川之衣の地であり、三川之穗の地には、唯一、多産で褒賞された海直玉依賣が登場していた。勿論、古事記の豐玉毘賣・玉依毘賣の出自の場所である。

多米=山稜の端の三角州が細かく岐れて米粒のように並んでいるところと解釈すると、見事にその地形を見出すことができる。福雄=羽を広げた鳥の形をした山稜の前に酒樽のような地があるところと解釈され、図に示した場所が出自と推定される。上記と同様にこの後に登場されることはなく、消息は不明である。