2024年12月31日火曜日

今皇帝:桓武天皇(26) 〔709〕

今皇帝:桓武天皇(26)


延暦十(西暦791年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

六月庚寅朔。日有蝕之。壬辰。供奉皇后宮周忌齋會雜色人等二百六十七人。准前例。賜爵及物各有差。甲午。從五位下石浦王爲越中守。從五位下文室眞人眞屋麻呂爲但馬介。己亥。鐵甲三千領。仰下諸國。依新樣修理。國別有數。甲寅。先是。去延暦三年下勅。禁斷王臣家及諸司寺家等專占山野之事。至是。遣使山背國。勘定公私之地。各令有界。恣聽百姓得共其利。若有違犯者。科違勅罪。其所司阿縱者。亦与同罪。授正六位上因幡國造國冨外從五位下。乙夘。奉黒馬於丹生川上神。旱也。

六月一日に地震が起こっている。三日、皇后宮(藤原朝臣乙牟漏)の一周忌の齋會に奉仕した二百六十七人の様々な職種の官人に、先の例により、位階と物をそれぞれ賜っている。五日に石浦王()を越中守、文室眞人眞屋麻呂(与伎に併記)を但馬介に任じている。十日に鉄製の甲三千領を、諸國に命じ新しい仕様に従い整え備えさせている。その数は國ごとに決まりがあった。

二十五日、これより以前、去る延暦三(784)年に勅を下して、皇族や貴族・官庁・寺院などが、もっぱら山野を占拠することを禁止した。この日、使者を山背國に派遣し、公私の土地を検査・決定させ、それぞれ境界を設け、人民が自由に利益を共有できるようにさせている。もし違反者があれば違勅の罪を科し、関係の官人でおもねり追従する者も同罪とすることにしている。また、因幡國造國富(寶頭に併記)に外従五位下を授けている。

二十六日に黒毛の馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉納している。日照りが起こったからである。

秋七月庚申朔。以炎旱經旬。奉幣畿内諸名神。授无位尾張架古刀自從五位下。癸亥。以從五位下藤原朝臣葛野麻呂爲少納言。從五位下紀朝臣眞人爲中務少輔。從五位下石淵王爲大監物。從四位下當麻王爲左大舍人頭。備前守如故。從五位上篠嶋王爲右大舍人頭。從五位下藤原朝臣道繼爲助。從五位上藤原朝臣刷雄爲陰陽頭。從四位上佐伯宿祢眞守爲大藏卿。右大弁從四位上石川朝臣眞守爲兼右京大夫。從五位下淺井王爲主馬頭。丹波守如故。從五位下安倍朝臣名繼爲右兵庫頭。從五位下大神朝臣仲江麻呂爲内兵庫正。從五位下橘朝臣安麻呂爲甲斐守。壬申。從四位下大伴宿祢弟麻呂爲征夷大使。正五位上百濟王俊哲。從五位上多治比眞人濱成。從五位下坂上大宿祢田村麻呂。從五位下巨勢朝臣野足並爲副使。己夘。故少納言從五位下正月王男藤津王等言。亡父存日。作請姓之表。未及上聞。奄赴泉途。其表稱。臣正月。源流已遠。属籍將盡。臣男四人。女四人。雖蒙王姓。以世言之。不殊疋庶。伏望。蒙賜登美眞人姓。以從諸臣之例者。請從父志。欲蒙願姓。有勅許焉。辛巳。伊豫國獻白雀。詔。國司及出瑞郡司進位一級。但正六位上者迴授一子。其獲雀人凡直大成賜爵二級并稻一千束。授國守從五位上菅野朝臣眞道正五位下。介從五位下高橋朝臣祖麻呂從五位上。丙戌。停止鷹戸。丁亥。以從五位上藤原朝臣是人爲右少弁。從五位下多治比眞人賀智爲宮内少輔。右中弁正五位下多治比眞人宇美爲兼武藏守。從五位下三方宿祢廣名爲上野守。從五位下佐伯宿祢岡上爲介。從五位下百濟王忠信爲越後介。從五位下藤原朝臣大繼爲備前介。從五位下藤原朝臣眞鷲爲大宰少貳。戊子。外從五位下安都宿祢長人爲右京亮。左中弁從四位下百濟王仁貞卒。

七月一日に炎暑と日照りが十日余り続いたので畿内の諸名神に幣帛を奉らせている。また、尾張架古刀自(米多臣に併記)に従五位下を授けている。

四日に藤原朝臣葛野麻呂を少納言、紀朝臣眞人(大宅に併記)を中務少輔、石淵王(山上王に併記)を大監物、當麻王()を備前守のままで左大舍人頭、篠嶋王()を右大舍人頭、藤原朝臣道繼()を助、藤原朝臣刷雄(眞從に併記)を陰陽頭、佐伯宿祢眞守を大藏卿、右大弁の石川朝臣眞守を兼務で右京大夫、淺井王()を丹波守のままで主馬頭、安倍朝臣名繼(廣人に併記)を右兵庫頭、大神朝臣仲江麻呂(末足に併記)を内兵庫正、橘朝臣安麻呂()を甲斐守に任じている。

十三日に大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)を征夷大使、百濟王俊哲(②-)多治比眞人濱成坂上大宿祢田村麻呂巨勢朝臣野足を副使に任じている。

二十日に少納言の故正月王(牟都岐王)の子、藤津王(正月王に併記)等が以下のように言上している・・・亡父が生存の時、新たな氏姓を賜ることを請う上表文を作ったが、まだ奉らないうちに突然黄泉路についてしまった。その上表文に[私正月王の祖先(用明天皇)は既に遠くなっており、所属の籍は皇族から外れようとしている。---≪続≫---

私の息子四人・娘四人は、王の姓を名乗ることを許されているが、世代を数えて言えば、なんら庶民と変わらない。そこで「登美眞人」の氏姓を賜り、臣下の地位に入れて下さるよう、伏してお願いする]と述べている。どうか父の志に従って、希望する氏姓を賜るよう、お願い申し上げる・・・。勅が出て許されている。

二十二日に伊豫國が「白雀」を献上している。詔して、國司と瑞を出した郡司等の位階を一級進めさせている。但し、正六位上の者には、子供に回して授けている。その雀を捕らえた人、「凡直大成」には位階を二級進め、また、稲一千束を賜い、國守の菅野朝臣眞道(眞麻呂に併記)に正五位下を、介の高橋朝臣祖麻呂には従五位上を授けている。二十七日に鷹戸を廃止している。

二十八日に藤原朝臣是人を右少弁、多治比眞人賀智(伊止に併記)を宮内少輔、右中弁の多治比眞人宇美(海。歳主に併記)を兼務で武藏守、三方宿祢廣名(御方宿祢。大野に併記)を上野守、佐伯宿祢岡上(瓜作に併記)を介、百濟王忠信(①-)を越後介、藤原朝臣大繼を備前介、藤原朝臣眞鷲()を大宰少貳に任じている。二十九日に安都宿祢長人(阿刀造子老に併記)を右京亮に任じている。この日、百濟王仁貞(①-)が亡くなっている。

<伊豫國:白雀・凡直大成>
伊豫國:白雀

「白雀」献上は、既に幾度か記載されていた。雀=少+隹=頭が小さく三角に尖った鳥のように山稜が延びている様と解釈する。古事記の大雀命に用いられた文字である。その地形を図に示した場所に見出せる。

● 凡直大成 その雀を獲えた人である。勿論、「白雀」の谷間を開拓し、公地として献上したのである。凡直の名前も既に登場していて、各々の居処も様々である。

凡直=[凡]の文字形の谷間が真っ直ぐに延びているところと解釈する。「直」は地形に基づく姓であろう。大成=平らな頂の山稜が整えられた高台になっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。久々の大開拓だったのであろうか、たいそうな褒賞が記載されている。

余談だが、202416日付の丹波新聞に”白い雀”の写真が載せらている(こちら参照)。正月早々目出度い出来事と報告されている。世が世なら撮影者は二階級特進の叙位がなされたのかもしれない。因みに、本著の丹波國では、白鹿白鴿白雉が献上されていた。何故か”白い鳥”の瑞祥ばかりである。

八月辛夘。夜有盜。燒伊勢太神宮正殿一宇。財殿二宇。御門三間。瑞籬一重。從五位下紀朝臣兄原爲中衛少將。出雲守如故。癸巳。任畿内班田使。壬寅。詔遣參議左大弁正四位上兼春宮大夫中衛中將大和守紀朝臣古佐美。參議神祇伯從四位下兼式部大輔左兵衛督近江守大中臣朝臣諸魚。神祇少副外從五位下忌部宿祢人上於伊勢太神宮。奉幣帛。以謝神宮被焚焉。又遣使修造之。壬子。攝津國百濟郡人正六位上廣井造眞成賜姓連。

八月三日に夜間に伊勢太神宮に盗人が入り、正殿一棟・財殿二棟・御門三棟・瑞垣一重を焼いている。また、紀朝臣兄原(眞子に併記)を出雲守のままで中衛少将に任じている。五日に畿内に派遣する班田使を任命している。

十四日に參議・左大弁で春宮大夫・中衛中將・大和守を兼務する紀朝臣古佐美、參議・神祇伯で式部大輔・左兵衛督・近江守を兼務する大中臣朝臣諸魚(子老に併記)、神祇少副の忌部宿祢人上(止美に併記)を伊勢太神宮に派遣して幣帛を奉り、神宮が放火されたことを謝罪している。また使者を派遣して神宮を造営させている。

二十四日に攝津國百濟郡の人である廣井造眞成(竹志麻呂に併記)に「連」姓を賜っている。

九月庚申。從四位下全野女王預孫王例。癸亥。授陸奧國安積郡大領外正八位上阿倍安積臣繼守外從五位下。以進軍粮也。甲子。叙佐渡國物部天神從五位下。甲戌。仰越前。丹波。但馬。播磨。美作。備前。阿波。伊豫等國。壞運平城宮諸門。以移作長岡宮矣。斷伊勢。尾張。近江。美濃。若狹。越前。紀伊等國百姓。殺牛用祭漢神。丙子。讃岐國寒川郡人正六位上凡直千繼等言。千繼等先。星直。譯語田朝庭御世。繼國造之業。管所部之堺。於是因官命氏。賜紗抜大押直之姓。而庚午年之籍。改大押字。仍注凡直。是以星直之裔。或爲讃岐直。或爲凡直。方今聖朝。仁均雲雨。惠及昆蚑。當此明時。冀照覆盆。請因先祖之業。賜讃岐公之姓。勅千繼等戸廿一烟依請賜之。丁丑。近衛將監正六位下出雲臣祖人言。臣等本系。出自天穗日命。其天穗日命十四世孫曰野見宿祢。野見宿祢之後。土師氏人等。或爲宿祢。或賜朝臣。臣等同爲一祖之後。獨漏均養之仁。伏望与彼宿祢之族。同預改姓之例。於是賜姓宿祢。戊寅。讃岐國阿野郡人正六位上綾公菅麻呂等言。己等祖。庚午年之後。至于己亥年。始蒙賜朝臣姓。是以。和銅七年以往。三比之籍。並記朝臣。而養老五年。造籍之日。遠校庚午年籍。削除朝臣。百姓之憂。無過此甚。請據三比籍及舊位記。蒙賜朝臣之姓。許之。庚辰。下野守正五位上百濟王俊哲爲兼陸奧鎭守將軍。

九月二日に全野女王(八千代女王に併記)を二世王の扱いとしている。五日に陸奥國安積郡大領の阿倍安積臣繼守(丈部繼守)に外従五位下を授けている。兵糧を献上したからである。六日に佐渡國の「物部天神」に従五位下を授けている。

十七日に越前・丹波・但馬・播磨・美作・備前・阿波・伊豫などの國々に命じて、平城門の諸門を解体・運搬して長岡宮に移築させている。伊勢・尾張・近江・美濃・若狹・越前・紀伊などの國々の人民が、牛を殺して漢神に祭ることを禁止している。

十八日に讃岐國寒川郡の人である「凡直千繼」等が以下のように言上している・・・「千繼」等の先祖は「星直」といい、譯語田朝廷御代(敏達天皇)に、國造の職務を継いで所管地域を支配した。この時、官命によって氏の名を定め、「紗抜大押直」の氏姓を賜った。---≪続≫---

ところが庚午年(天智天皇九[670]年)の戸籍には、「大押」の二字を改め「凡直」と記された。これにより「星直」の子孫は、ある者は「讃岐直」を名乗り、ある者は「凡直」を名乗ることになった。---≪続≫---

現在の聖朝の仁慈は、雲や雨のように等しく潤し、恩恵は虫けらにも行き渡っている。この良い時代にあたり、恵みの光が覆った甕の下まで照らすことを願う。どうか先祖の職務に基づき、「讃岐公」の氏姓を賜るようお願いする・・・。勅して「千繼」等の二十一戸につき、申請のままに氏姓を賜っている。

十九日に近衛将監の出雲臣祖人(嶋成に併記)等が以下のように言上している・・・私共の系譜は、「天穂日命」(古事記:天菩比命)より出ている。この「天穂日命」の十四代の孫を野見宿祢と言う。「野見宿祢」の子孫は「土師」の氏人等であり、ある者は「宿祢」姓を名乗り、ある者は「朝臣」姓を賜っている(こちらこちら参照)。---≪続≫---

私共も同祖の子孫であるが、等しく恵み養うという仁慈にひとり漏れている。どうか土師宿祢の一族と同じように、改姓されるよう、伏してお願いする・・・そこで「宿祢」姓を賜っている。

二十日に「讃岐國阿野郡」の人である「綾公菅麻呂」等が以下のように言上している・・・私共の先祖は、庚午年(天智天皇九[670]年)の後、己亥年(文武天皇三[699]年)に至って初めて「朝臣」姓を賜った。これにより和銅七(714)年以後、三度作成された戸籍には、いずれも「朝臣」と記されている。---≪続≫---

ところが養老五(721)年の戸籍作成にあたり、古い庚午年の戸籍を参照して、「朝臣」姓を削除された。人民の憂いとしてこれより深いものはない。どうか三度の戸籍と、元の位記に依拠して、「朝臣」姓を賜るようお願いする・・・。これを許可している。

<物部天神>
二十二日に下野守の百濟王俊哲(②-)に陸奥鎮守将軍を兼任させている。

物部天神

佐渡國に鎮座する天神と記されている。物部一族に関わる天神、ではなかろう。既に幾多の”物部”の地形を示す場所が登場していた。

図に示したように、現在の三角山東麓の谷筋をで表したものと思われる。その近隣の場所が物部である。

三角山の西麓は「出羽國賊地」と表記されていた。その谷間の出口に「野代湊」があったと推定した(こちら参照)。淡海(現在の関門海峡)を通過して、この地に上陸してく賊に対する重要な防衛拠点であった。

蝦夷征討戦略の一環として、多くの神社に叙位しているが、この天神への叙位も、その目的であったと推測することは容易であろう。また、蠢彼蝦狄への備えとしても欠かせない場所であったと思われる。

<凡直千繼>
● 凡直千繼

様々な経緯があって改変された氏姓を元に戻す申請である。先ずは、当人の出自場所を求めてみよう。

頻出の凡直=[凡]の形の谷間が真っ直ぐに延びているところ千繼=谷間を束ねるように山稜が連なっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

元々名乗っていたという星直星=日+生=[炎]のように延びる山稜が生え出ている様と解釈される。上記「千」の別表記であろう。

紗抜大押直紗抜=端が三角に尖っている山稜が抜け出るように延びているところ大押=平らな手の甲のようなところと解釈すると、図に示したように「千繼」等の背後の地形を余すことなく表現していることが解る。勿論、”紗抜(サヌキ)”と訓するのであろう。讃岐公の氏姓を賜って、一件落着である。

<讃岐國阿野郡:綾公菅麻呂>
讃岐國阿野郡

「讃岐國阿野郡」は、初見の郡名であるが、どうやら”阿野(アヤ)”と訓するように思われる。ならば、古事記に登場する倭建命の子、建貝兒王が祖となった讃岐綾君の居処の別表記であろう。

一応、地形象形表記として、阿野=野が広がっている台地があるところと解釈すると、「綾」の谷間に台地状の地が広がっている様子を表していることが解る。

● 綾公菅麻呂 名前の菅麻呂菅=艸+官=谷間が管のように延びている様と解釈され、麻呂=萬呂とすると、図に示した場所が出自と推定される。元々、「朝臣」姓を賜っていて、それが間違って改姓されたと述べている。

それはそれとして、氏素性を語ってもらいたいところである。いずれにせよ官人登用の機会がなかったのであろう。續紀中、「綾朝臣」としての登場は見られないようであるが、その後に阿野郡大領に任じられ、更に外従五位下を叙爵されたとのことである。

冬十月丁酉。行幸交野。放鷹遊獵。以右大臣別業爲行宮。己亥。右大臣率百濟王等。奏百濟樂。授正五位下藤原朝臣乙叡從四位下。從五位下百濟王玄風。百濟王善貞並從五位上。從五位下藤原朝臣淨子正五位下。正六位上百濟王貞孫從五位下。庚子。車駕還宮。壬子。仰東海。東山二道諸國。令作征箭三万四千五百餘具。甲寅。先是。皇太子枕席不安。久不平復。是日。向於伊勢太神宮。縁宿祷也。

十月十日に交野に行幸されて鷹を放って狩猟を行っている。右大臣(藤原朝臣繼繩)の別荘を行宮としている。十二日にに右大臣が百濟王等を引率し、百濟の樂を演奏している。また、藤原朝臣乙叡()に従四位下、百濟王玄風(①-)・百濟王善貞(②-)に従五位上、藤原朝臣淨子に正五位下、百濟王貞孫(②-)に従五位下を授けている。十三日に宮に帰っている。

二十五日に東海・東山の二道に属する國々に命じて一揃いの征矢を三万四千五百具余り作らせている。二十七日、これ以前、皇太子(安殿親王)の健康状態が悪く、長らく回復しなかったが、この日、伊勢太神宮に向けて出発している。かねてからの祈祷に関係してである。

十一月己未。更仰坂東諸國。辨備軍粮糒十二万餘斛。大藏卿從四位上佐伯宿祢眞守卒。壬戌。授播磨國人大初位下出雲臣人麻呂外從五位下。以獻稻於水兒船瀬也。甲子。從五位下藤原朝臣葛野麻呂爲右少弁。丁夘。皇太子自伊勢太神宮至。

十一月三日にあらためて坂東の國々に命じ、兵糧の糒十二万石余りを準備させている。この日、大藏卿の佐伯宿祢眞守が亡くなっている。六日に播磨國の人である出雲臣人麻呂(韓鍜首廣富に併記)に外従五位下を授けている。私有の稲を水兒船瀬に献上したからである。八日に藤原朝臣葛野麻呂を右少弁に任じている。十一日に皇大子が伊勢太神宮から帰っている。

十二月庚寅。授正六位上紀朝臣楫繼從五位下。甲午。伊豫國越智郡人正六位上越智直廣川等五人言。廣川等七世祖紀博世。小治田朝庭御世被遣於伊与國。博世之孫忍人。便娶越智直之女生在手。在手庚午年之籍不尋本源。誤從母姓。自尓以來。負越智直姓。今廣川等幸属皇朝開泰之運。適値群品樂生之秋。請依本姓。欲賜紀臣。許之。丙申。讃岐國寒川郡人外從五位下佐婆部首牛養等言。牛養等先祖出自紀田鳥宿祢。田鳥宿祢之孫米多臣。難波高津宮御宇天皇御世。從周芳國遷讃岐國。然後。遂爲佐婆部首。今牛養幸藉時來。獲免負擔。雲雨之施。更無所望。但在官命氏。因土賜姓。行諸往古。傳之來今。其牛養等居處在寒川郡岡田村。臣望賜岡田臣之姓。於是。牛養等戸廿烟依請賜之。外從五位下岡田臣牛養爲大學博士。外從五位下麻田連眞淨爲助教。伊勢介如故。從五位下紀朝臣楫繼爲刑部少輔。外從五位下清道造岡麻呂等。改造賜連姓。癸夘。授從四位下八上女王從三位。從五位上多治比眞人邑刀自。紀朝臣若子並從四位下。

十二月四日に紀朝臣楫繼(船守に併記)に従五位下を授けている。

八日に伊豫國越智郡の人である「越智直廣川」等五人が以下のように言上している・・・「廣川」等の七代前の先祖「紀博世」は、小治田朝廷(推古天皇)の御代に、伊豫國に派遣された。「博世」の孫の「忍人」は、そこで越智直の娘を娶り「在手」を生んだ。---≪続≫---

「在手」は庚午年(670年)の戸籍に氏族の源を調査されないまま、誤って母の氏姓を付けられ、それより以後は「越智直」の氏姓を負っている。今「廣川」等は、幸いにも朝廷が泰平を築く時代に生まれ、たまたま人民が生活を楽しむ時期に会している。どうか元の氏姓に準拠して、「紀臣」の氏姓を賜るようお願いする・・・。これを許可している。

十日に讃岐國寒川郡の人である「佐婆部首牛養」等が以下のように言上している(こちらこちら参照)・・・「牛養」等の先祖は「紀田鳥宿祢」から出ている。「田鳥宿祢」の孫の米多臣は、難波高津宮で天下を統治した天皇(仁徳天皇)の御代に、周芳國から讃岐國に移った。その後ついに子孫は「佐婆部首」を名乗った。---≪続≫---

今「牛養」は、幸いにも良き時代が巡ってきたため、負担を免れることができている。雲が覆い雨が降るような恵みを、これ以上受けようとは思わない。ただ朝廷での職務で氏姓を賜うことは、古くから行われ現在まで引き継がれている。そもそも「牛養」等の居住地は「寒川郡岡田村」にある。そこで私は、「岡田臣」の氏姓を賜ることを望んでいる・・・。「牛養」等二十戸について、申請のままの氏姓を賜っている。

この日、岡田臣牛養を大学博士、麻田連眞淨(金生に併記)を伊勢介のままで助教、紀朝臣楫繼(船守に併記)を刑部少輔に任じている。また、清道造岡麻呂等には、「造」を改めて「連」姓を賜っている。十七日に八上女王に従三位、多治比眞人邑刀自紀朝臣若子(船守に併記)に従四位下を授けている。

<越智直廣川-在手>
<紀忍人>
● 越智直廣川

「越智直」一族は、既に幾人かの登場人物が見られている。少々入組んでいる経緯であるが、「紀臣」一族の「博世」が伊豫國越智郡に派遣され、現地で婚姻関係をなした結果、孫の「忍人」が誕生したのであろう。

忍人は「紀臣」と名乗っていたのだが、出自の場所は越智郡であったと推測荒れる。既出である忍人=谷間が山稜が突き出てギザギザとしているところと解釈される。

現在は広大な宅地になっているが、今昔マップ(1922~6年)を参照すると、図に示した場所がその地形をしていることが解る(こちら参照:図中の地名「中山」辺り)。

越智直在手の名前である在手=[手]の形をした山稜が谷間を遮るように延び出ているところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。既出の文字であるが、再掲すると、「在」=「才+土」と分解される。地形象形的には「才」=「山稜が遮るように延び出ている様」と解釈する。

<紀博世>
紀忍人の祖父である紀博世については、紀朝臣一族と推測され、「博世」の文字列から出自の場所を求めることにする。

博世=途切れそうになった山稜の前で平らに広がっているところと解釈される。紀朝臣の登場人物の中で「世」を含む名前に世根・千世(大宅に併記)が記載されていた。

図に示した通りに、「世」の前が大きく広がっていることが解る。「大宅」の南側に当たる場所である。續紀の末尾で、すっぽりと空いていた地に嵌った様子である。

勿論、この人物は書紀にも登場することはなく、詳細は不明である。尚、系図として纏められたサイト(こちらこちらに参照)に「博世」関連が記載されている。

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『續日本紀』巻卌巻尾(完)


















2024年12月26日木曜日

今皇帝:桓武天皇(25) 〔708〕

今皇帝:桓武天皇(25)


延暦十(西暦791年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

十年春正月壬戌朔。廢朝也。戊辰。宴五位已上。授正五位下笠王正五位上。无位乙枚王。正六位上守山王並從五位下。從四位下石上朝臣家成。石川朝臣眞守並從四位上。正五位上百濟王仁貞。正五位下大伴宿祢弟麻呂。藤原朝臣眞友並從四位下。從五位上葛井連根主正五位下。從五位下賀茂朝臣大川。多治比眞人乙安。大原眞人美氣。巨勢朝臣総成。百濟王英孫。藤原朝臣繩主。和朝臣三具足。和朝臣國守。紀朝臣楫長。物部多藝宿祢國足並從五位上。外從五位下菅原朝臣道長。秋篠朝臣安人。正六位上佐伯宿祢岡上。紀朝臣乙佐美。路眞人豊長。藤原朝臣最乙麻呂。藤原朝臣道繼。大神朝臣仲江麻呂。布勢朝臣田上。平群朝臣嗣人。大伴宿祢是成並從五位下。正六位上畝火宿祢清永。安都宿祢長人。佐婆部首牛養。伊与部連家守。清道造岡麻呂並外從五位下。宴訖賜祿各有差。己巳。典藥頭外從五位下忍海原連魚養等言。謹検古牒云。葛木襲津彦之第六子曰熊道足祢。是魚養等之祖也。熊道足祢六世孫首麻呂。飛鳥淨御原朝庭辛巳年。貶賜連姓。尓來再三披訴。一二陳聞。然覆盆之下難照。而向隅之志久矣。今属聖朝啓運。品物交泰。愚民宿憤。不得不陳。望請。除彼舊号。賜朝野宿祢。光前榮後。存亡倶欣。今所請朝野者。所處之本名也。依請賜之。庚午。授无位川原女王。呉岡女王。正六位上百濟王難波姫。无位縣犬養宿祢額子並從五位下。癸酉。春宮亮正五位下葛井連道依。主税大属從六位下船連今道等言。葛井。船。津連等。本出一祖。別爲三氏。而今津連等幸遇昌運。先賜朝臣。而道依今道等猶滯連姓。方今聖主照臨。在幽盡燭。至化潜運。禀氣歸仁。伏望。同沐天恩。共蒙改姓。詔許之。道依等八人賜姓宿祢。今道等八人因居賜宮原宿祢。又對馬守正六位上津連吉道等十人賜宿祢。少外記津連巨都雄等兄弟姉妹七人。因居賜中科宿祢。甲戌。大秦公忌寸濱刀自女賜姓賀美能宿祢。賀美能親王之乳母也。丁丑。以中納言正三位紀朝臣船守爲大納言。己夘。遣正五位上百濟王俊哲。從五位下坂上大宿祢田村麻呂於東海道。從五位下藤原朝臣眞鷲於東山道。簡閲軍士兼検戎具。爲征蝦夷也。癸未。以從五位上賀茂朝臣大川爲伊賀守。齋宮頭從五位上賀茂朝臣人麻呂爲兼伊勢守。從五位下藤原朝臣縵麻呂爲相摸守。從五位下吉備朝臣与智麻呂爲介。近衛將監從五位下池原公綱主爲兼常陸大掾。從五位下藤原朝臣今川爲美濃守。正五位上百濟王俊哲爲下野守。從五位下文室眞人大原爲陸奥介。從五位下安倍朝臣人成爲能登守。從五位下藤原朝臣清主爲丹波介。從五位下布勢朝臣田上爲因幡介。從五位下藤原朝臣岡繼爲伯耆介。從五位下岡田王爲備中守。從五位下大中臣朝臣弟成爲豊前守。從五位上藤原朝臣園人爲豊後守。丙戌。授外正六位上麻續連廣河外從五位下。以獻物也。己丑。以從五位下大庭王爲侍從。從五位下大神朝臣仲江麻呂爲畫工正。東宮學士從五位上菅野朝臣眞道爲兼治部少輔。左兵衛佐伊豫守如故。從五位下紀朝臣登麻理爲雅樂頭。外從五位下安都宿祢長人爲主税助。外從五位下佐伯宿祢諸成爲兵馬正。從五位下塩屋王爲造兵正。從五位下藤原朝臣弟友爲大判事。侍從如故。從五位上橘朝臣綿裳爲宮内大輔。從五位下藤原朝臣大繼爲少輔。正五位下文室眞人波多麻呂爲彈正弼。從五位下御方宿祢廣名爲右京亮。外從五位下阿閇間人臣人足爲春宮大進。從五位上紀朝臣難波麻呂爲筑後守。從五位下和朝臣家麻呂爲内廐助。

正月一日、賀正の儀式を廃している。七日に五位以上と宴会し、笠王に正五位上、「乙枚王・守山王」に從五位下、石上朝臣家成(宅嗣に併記)石川朝臣眞守に從四位上、百濟王仁貞(①-)大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)藤原朝臣眞友()に從四位下、葛井連根主(惠文に併記)に正五位下、賀茂朝臣大川多治比眞人乙安大原眞人美氣巨勢朝臣総成(馬主に併記)百濟王英孫(②-)藤原朝臣繩主()和朝臣三具足和朝臣國守(和史。和連諸乙に併記)紀朝臣楫長(船守に併記)物部多藝宿祢國足に從五位上、菅原朝臣道長(土師宿祢)・秋篠宿祢安人(土師宿祢)佐伯宿祢岡上(瓜作に併記)・紀朝臣乙佐美(宮子に併記)・路眞人豊長(三野眞人石守に併記)・藤原朝臣最乙麻呂(甘刀自に併記)・藤原朝臣道繼()・大神朝臣仲江麻呂(末足に併記)・布勢朝臣田上(大海に併記)・平群朝臣嗣人(炊女に併記)・大伴宿祢是成(永主に併記)に從五位下、「畝火宿祢清永」・安都宿祢長人(阿刀造子老に併記)・「佐婆部首牛養・伊与部連家守・清道造岡麻呂」に外從五位下を授けている。宴会が終わり地位に応じて禄を賜っている。

八日に典藥頭の「忍海原連魚養」等が以下のように言上している(こちら参照)・・・謹んで古記録を検討すると、[葛木襲津彥の六番目の子を「熊道足祢」といい、これが「魚養」等の先祖である。「熊道足祢」の六代目の子孫「首麻呂」は、飛鳥淨御原朝廷(天武天皇)の辛巳(681)年に「宿祢」姓から落とされて「連」姓を賜った。それ以来再三訴えて、一度も二度も事情を申し上げた。けれども一旦覆った甕の下を照らすことは難しく、身の不運を嘆くことが長く続いている。---≪続≫---

今、陛下の朝廷は新しい時代を開き、万物はそれぞれ平穏に過ごしている良い時代であるので、愚かな私どもの長年の不満を述べないではおられない。そこで旧の氏姓を改めて「朝野宿祢」を賜りたいと思う。そうなれば先祖を顕彰し子孫も名声を得て、今生存している者も亡き人も共に喜ぶであろう。尚、「朝野」とは居住地の本来の名である・・・。申請のまま、「朝野宿祢」の氏姓を賜っている。

九日に「川原女王・呉岡女王」・百濟王難波姫(②-)・「縣犬養宿祢額子」に従五位下を授けている。十二日に春宮亮の葛井連道依(立足に併記)、主税大属の「船連今道」等が以下のように言上している・・・葛井連・船連・津連等は、もと同じ祖先から別れて三氏になった。ところが今、津連等は幸いに盛んな時代に生まれ、先に「朝臣」姓を賜っている。けれども「道依・今道」等は、尚「連」姓ままである。---≪続≫---

今聖主が天下に君臨し、生者も死者も光に照らされ、偉大な教化が目に見えない形で働き、生命あるものは、天皇の仁徳になびいている。そこで、「津朝臣」と同じく天皇の恵みに浴し、共に氏姓を改めて下さるよう、伏してお願いする・・・。

詔してこれを許可している。結果、「道依」等八人に「宿祢」姓を賜い、「今道」等八人に居住地に因み「宮原宿祢」の氏姓を賜い、また、對馬守の「津連吉道」等十人に「宿祢」姓を賜い、少外記の「津連巨都雄」等の兄弟姉妹七人に、居住地に因み「中科宿祢」の氏姓を賜っている。

十三日に「大秦公忌寸濱刀自女」に「賀美能宿祢」の氏姓を賜っている。「濱刀自女」は「賀美能親王」(後に嵯峨天皇)の乳母である(こちら参照)。十六日に中納言の紀朝臣船守を大納言に任じている。十八日に百濟王俊哲(②-)坂上大宿祢田村麻呂を東海道、藤原朝臣眞鷲()を東山道に派遣し、兵士を選抜・検閲させ、更に武具を検査させている。蝦夷を征討するためである。

二十二日に賀茂朝臣大川を伊賀守、齋宮頭の賀茂朝臣人麻呂を兼務で伊勢守、藤原朝臣縵麻呂(藥子に併記)を相摸守、吉備朝臣与智麻呂を介、近衛將監の池原公綱主(繩主)を兼務で常陸大掾、藤原朝臣今川(今河。)を美濃守、百濟王俊哲(②-)を下野守、文室眞人大原(与伎に併記)を陸奥介、安倍朝臣人成(眞黒麻呂に併記)を能登守、藤原朝臣清主()を丹波介、布勢朝臣田上(大海に併記)を因幡介、藤原朝臣岡繼()を伯耆介、岡田王を備中守、大中臣朝臣弟成(今麻呂に併記)を豊前守、藤原朝臣園人(勤子に併記)を豊後守に任じている。

二十五日に麻續連廣河(豊足に併記)に外従五位下を授けている。私有の財物を献上したからである。二十八日に大庭王を侍從、大神朝臣仲江麻呂(末足に併記)を畫工正、東宮學士の菅野朝臣眞道(津連。眞麻呂に併記)を左兵衛佐・伊豫守のまま兼務で治部少輔、紀朝臣登麻理(登萬理。須惠女に併記)を雅樂頭、安都宿祢長人(阿刀造子老に併記)を主税助、佐伯宿祢諸成(佐伯直)を兵馬正、塩屋王()を造兵正、藤原朝臣弟友()を侍從のままで大判事、橘朝臣綿裳を宮内大輔、藤原朝臣大繼を少輔、文室眞人波多麻呂を彈正弼、御方宿祢廣名(三方宿祢。大野に併記)を右京亮、阿閇間人臣人足を春宮大進、紀朝臣難波麻呂を筑後守、和朝臣家麻呂(三具足に併記)を内廐助に任じている。

<乙枚王・守山王>
● 乙枚王・守山王

いつものことながら唐突に登場の王等であるが、調べると「乙枚王」は、道祖王(鹽燒王に併記)の孫、父親は、多分「長野王」(記紀・續紀には登場しない)と知られているようである。

と言うことで、現地名の行橋市道場寺・稲童の端境の地で出自場所を求めてみよう。乙枚王乙枚=山稜が二つに岐れた前で[乙]の形になっているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。

父親と推測されている長野王の居処は図に示した場所と推定される。「道祖王」は、『橘奈良麻呂の乱」に連座し、杖打ちの刑で獄死しており、一族も何らかの処罰を受けたであろう。孫に至っての復権の様相である。

続いて登場する守山王も、多分、「乙枚王」の兄弟であったと推測され、守山=[山]の形に延びた山稜の前で両肘を張り出したようになっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「乙枚王」は、後に三原眞人を賜姓されて臣籍降下されたようであるが、續紀には記載されることはない。

<畝火宿祢清永>
● 畝火宿祢清永

「畝火宿祢」は、記紀・續紀を通じて初見の氏姓である。調べると、東漢一族であったことが分ったが、情報は極めて限られているようである。「畝火」の名称の由来が解せないのあろう。

それは兎も角として、畝火=[畝]のような揃って並ぶ山稜が[火]のように延びているところと解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。

光仁天皇紀に登場した、同じ「東漢一族」である林忌寸の北側に位置する場所である。東側は(大)生部直一族の居処と推定した地である。

名前の淸永=水辺で四角く取り囲まれた地が細長く延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。現在は広い溜池となっている。この後に登場されることもなく、消息は定かではないようである。

<佐婆部首牛養・讃岐國寒川郡岡田村>
● 佐婆部首牛養

「佐婆部首」は、全くの初見の氏姓である。少々長いが本文を引用すると、延暦十(791)年十二月十日に「讃岐國寒川郡人外從五位下佐婆部首牛養等言。牛養等先祖出自紀田鳥宿祢。田鳥宿祢之孫米多臣。難波高津宮御宇天皇御世。從周芳國遷讃岐國。然後。遂爲佐婆部首。今牛養幸藉時來。獲免負擔。雲雨之施。更無所望。但在官命氏。因土賜姓。行諸往古。傳之來今。其牛養等居處在寒川郡岡田村。臣望賜岡田臣之姓。於是。牛養等戸廿烟依請賜之」と記載されている。

その概略は・・・①「讃岐國寒川郡岡田村」の住人である。②先祖は周芳(防)國に住まっていた。③何らの理由でこの地に移って来た。④「佐婆部」は、周芳(防)國に因む名称である。⑤「岡田村」の地名に関わる氏姓を賜りたい・・・のようである。

讃岐國寒川郡岡田村 今回外従五位下を叙爵された「牛養」は、既に登場した讃岐國寒川郡岡田村を出自とする人物であると述べている。岡田=山稜に囲まれた谷間にある[山]の形の地の麓に田が広がっているところと解釈すると、その地形を図に示した場所に見出せる。

頻出の牛養=[牛]の頭部のように延びた山稜に挟まれた谷間がなだらかに延びているところであり、[山]の谷間を表していることが解る。居処は図に示した辺りと推定される。申請した通りに岡田臣と改姓できたようである。

<紀田鳥宿祢・米多臣>
<尾張架古刀自>
● 紀田鳥宿祢・米多臣

彼等の先祖の地と思われる「周芳國佐婆郡」は、称徳天皇紀に「左京人散位大初位下尾張須受岐。周防國佐波郡人尾張豊國等二人尾張益城宿祢」と記載された周防國佐波郡のことであろう。

紀田鳥宿祢紀田鳥=[己]のように曲がって延びる山稜の麓で田が広がる[鳥]のような形をした山稜が延びているところと解釈される。

図に示した場所、尾張益城宿祢を賜姓された二人の間の地を表していることが解る。この宿祢の孫である米多臣がこの地を去って讃岐國に移り住んだと記載している。米多=山稜の端に米粒のような地があるところと解釈すると、図に示した場所を表している。

「牛養」の氏名である「佐婆部首」の由来は、周防國佐波郡であることが確認されたと思われる。「米多臣」は「尾張益城宿祢」二人との確執でもあって転地したのかもしれない。その二人のうちの「須受岐」は、左京に移って「宿祢」姓を賜っている。野心のある一族だったのであろう。

少し後に尾張架古刀自が従五位下を叙爵されて登場する。おそらく皇太子の乳母を勤めたのであろうが、詳細は不明である。無姓であり、「紀田鳥宿祢・米多臣」の一族だったのではなかろうか。架古刀自=丸く小高い地が架かっているような山稜の端に刀の形をしているところと解釈され、図に示した場所が出自と推定される。

<伊与部連家守-福人>
● 伊与部連家守

「伊与部連」は、書紀の持統天皇紀に善言撰に選ばれた伊余部連馬飼一族と思われる。現地名は北九州市若松区東二島であり、古事記の大雀命(仁徳天皇)の出自の場所と推定したところである。

更に調べると、「家守」は、「馬飼」の孫、父親が「福人」であったと知られているようである。地形変形が凄まじい地ではあるが、これだけの背景情報があれば、何とか・・・であろう。

先ずは福人は、福人=酒樽のような山稜の麓が谷間になっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。際立つ地形であって、現在もその姿を留めているのであろう。

幾度か登場の家守=山稜の端が豚の口のようになった地の麓で肘を張ったような山稜に囲まれたところと解釈される。地図の解像度の限界ではあるが、辛うじてその地形を図に示した場所に見出せる。寶龜六(775)年の遣唐使団の一員として渡唐し、帰朝後は明経として活躍されたとのことである。

<清道造岡麻呂>
● 清道造岡麻呂

「清道造」の氏姓は、記紀・續紀を通じて初見であろう。また、関連する情報も『新撰姓氏録』に「百済國人」と記載されているのみのようである。要するに百濟系の帰化人が名乗っていたことが伝わっている。

それに従って、鬼室集信の孫と知られる淨岡連廣嶋の周辺を居処としていたのではなかろうか。現地名は京都郡苅田町新津辺りである。

清道造清道=首の付け根のような窪んだ山稜の前に水辺で四角く区切られた地があるところと解釈される。「淨岡連」の西側に谷間を表していると思われる。名前の岡麻呂岡=取り囲まれた谷間に山稜は延びている様であり、出自は図に示した
場所と推定される。少し後に清道連に改姓されている。

<川原女王・呉岡女王>
● 川原女王・呉岡女王

共に系譜不詳のようである。多分、光仁・桓武天皇の出自場所に関わる女王だったと思われる。それにしても凄まじい数の王・女王の登場であろう。

前者の「川原女王」は、極めて特定し辛い名前であるが、後者の「呉岡女王」は地形が羽判別できれば、かなり特徴的なものと思われる。先ずは「呉岡」が示す地形を求めてみよう。

「呉」=「夨+囗」と分解され、「夨」=「噛み合うように交差する様」を表す文字要素と知られている。地形象形的には、呉岡=[岡]の形に延びる山稜が噛み合うように交差しているところと読み解ける。

すると図に示した場所がそれらしき地形をしているように見受けられる。呉岡女王の出自場所は図に示した辺りと推定される。ならば川原女王は、谷間を流れる川の畔の平らに広がったところと推測される。

<縣犬養宿祢額子>
おそらく姉妹だったのではなかろうか。「岡」の文字の地形象形表記が続いている、偶々であろうが・・・。

● 縣犬養宿祢額子

「縣犬養宿祢」一族の女官等が、夥しいくらいに登場していた。例えば、早期には八重・姉女、その後に引き続いたのは彼女等の周辺であった(こちら参照)。

直近では光仁天皇が女孺の「縣犬養宿祢勇耳」に生ませた諸勝に「廣根朝臣」の氏姓を賜ったと記載されていた。いずれにせよ、縣犬養橘宿祢三千代以来、才色兼備の女性が多く誕生していたのであろう。

額子=生え出た山稜が小高くなって「額」のようになっているところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。縣犬養一族の奔流の地となるが、如何なる系譜の持ち主なのか、残念ながら詳細は不明である。

<船連今道>
● 船連今道

前記で「津連眞道」等が、彼等の出自を詳細に上表して「菅野朝臣」の氏姓を賜ったと記載されていた(こちら参照)。それを受けての同祖の葛井連・船連が改姓を願い出ている。

そもそもは「津史」であったのを「連」姓へと願い出て、更に「朝臣」姓を賜って、「葛井・船」の「連」姓を飛び越してしまったわけで、後者の慌てふためきぶりを記載しているのである。

それはそれとして、船連今道今道=覆い被さるように延び広がった山稜の麓に首の付け根のような窪んだところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。「船」の東側の谷間に当たる場所である。

賜った宮原宿祢宮原=谷間の奥まで積み上がった地が平らに広がっているところと解釈され、「船連」の全体ではなく、「今道」の周辺の地形を表していることが解る。名称が分化しているのである。「葛井連」と同じく「朝臣」ではなく「宿祢」は、二番煎じだったからであろう。

<津連吉道-巨都雄>
● 津連吉道・津連巨都雄

「吉道」は、初見の「對馬守」と冠されていて、漸く他の國々と同様の位置付けになったように思われる。

延暦七(788)年八月記では「對馬嶋守正六位上穴咋呰麻呂賜姓秦忌寸」と記載されていた。いや、単に”嶋”を欠落させただけかもしれないが・・・。

曖昧なところではあるが、いずれにせよ、「國守」は、現地採用であったことが伺える。即ち、今回登場の「津連」は、「津朝臣」とは異なる氏族であったことが分る。上図に示した通り、「津」は「三つ並んだ筆のような山稜」に基づく名称であると思われる。

名前の吉道=首の付け根のように窪んだ地を蓋するように山稜が延びているところと解釈され、出自の場所を求めることができる。また、巨都雄の解釈は、地形の変形もあって少々工夫を要するのであるが、”巨・都雄”と区切ってみる。すると巨都雄=羽を広げた鳥のような山稜(雄)が交差するように集まっている(都)地の前で[巨]の形に山稜の端が並んでいるところと読み解ける。

賜った中科宿祢中科=真ん中を突き通すように延びる山稜が段々に並んでいるところと解釈され、「巨」の別表記となっていることが解る。山背國山科野と極めて類似した地形を表しているように思われる。

二月甲辰。授正六位上藤原朝臣緒繼從五位下。以從五位上中臣朝臣鷹主爲神祇大副。從五位下秋篠朝臣安人爲大判事。大外記右兵衛佐如故。從五位上巨勢朝臣総成爲主殿頭。從五位下路眞人豊長爲左京亮。從五位下巨勢朝臣人公爲肥前守。乙未。授外正六位上大伴直余良麻呂。外正八位下遠田臣押人並外從五位下。外從七位下丈部善理贈外從五位下。善理陸奥國磐城郡人也。八年從官軍至膽澤。率師渡河。官軍失利。奮而戰死。故有此贈焉。癸夘。諸國倉庫。不可相接。一倉失火。合院燒盡。於是勅。自今以後。新造倉庫。各相去十丈已上。隨處寛狹。量宜置之。辛亥。陸奥介從五位下文室眞人大原爲兼鎭守副將軍。先是。五位已上位田身歿之後。例給一年。如無子者當年收之。至是。無問有子无子。聽同給一年矣。 

二月十四日に藤原朝臣緒繼(産子に併記)に從五位下を授けている。中臣朝臣鷹主(伊加麻呂に併記)を神祇大副、秋篠朝臣安人(土師宿祢)を大外記・右兵衛佐のままで大判事、巨勢朝臣総成(馬主に併記)を主殿頭、路眞人豊長(石守に併記)を左京亮、巨勢朝臣人公(宮人に併記)を肥前守に任じている。

五日に大伴直余良麻呂(五百繼に併記)・遠田臣押人(遠田公)に外從五位下、丈部善理(於保磐城臣御炊に併記)に外從五位下を贈っている。「善理」は陸奥國磐城郡の人であった。延暦八(789)年、官軍に従軍して膽澤の地に行き、軍を率いて渡河し、官軍が不利になった時、奮闘して戦死したからである。

十三日に國々の官物の倉庫は接近して立地してはいけない。一棟の倉庫から出火した時、一区画の倉庫群が全焼するからである。そこで勅があって、今後新たに倉庫を造る際は、それぞれ十丈以上離すようにし、場所の広狭に応じて適宜に立地させるようにした。

二十一日に陸奥介の文室眞人大原(与伎に併記)に鎮守副将軍を兼任させている。これ以前、五位以上の者に与えられる位田は、本人が死亡した後も一年間与えるのが例であり、子が無い場合は、その年に収公していた。この日、子の有無に係わらず、同じように一年間は与えることを許している。

三月丙寅。故右大臣從二位吉備朝臣眞備。大和國造正四位下大和宿祢長岡等。刪定律令廿四條。辨輕重之舛錯。矯首尾之差違。至是下詔。始行用之。己巳。授從五位下高嶋女王從五位上。丁丑。勅令右大臣已下。五位已上造甲。其數各有差。其五位殷富者。特増其數。以廿領爲限。其次十領。辛巳。以從五位下秋篠朝臣安人爲少納言。右兵衛佐如故。從五位下藤原朝臣道繼爲大監物。從五位上篠嶋王爲左大舍人頭。從五位下長津王爲圖書頭。從五位下八上王爲内礼正。從五位下紀朝臣乙佐美爲散位助。從五位上調使王爲諸陵頭。從五位下巨勢朝臣廣山爲大藏少輔。從五位下乙平王爲造酒正。從五位上廣上王爲鍛冶正。壬午。授无位於宿祢乙女。紀朝臣家主並從五位下。又授外從五位下上道臣千若女從五位下。癸未。太政官奏言。謹案礼記曰。天子七廟。三昭三穆与太祖之廟而七。又曰。舍故而諱新。注曰。舍親盡之祖。而諱新死者。今國忌稍多。親世亦盡。一日万機。行事多滯。請親盡之忌。一從省除。奏可之。丙戌。仰京畿七道國郡司造甲。其數各有差。

三月六日、右大臣の故吉備朝臣眞備と大和國造の故大和宿祢長岡(大倭忌寸小東人)等は、律令の条文のうち二十四ヶ条を削り定め、軽重の錯乱を整理し、前後の差違を修正した。この日に詔を下して初めてこれを用いさせている。九日に高嶋女王に従五位上を授けている。

十七日に勅して、右大臣以下、五位以上の者に甲を造らせている。数は地位に応じて差があった。五位の者で富栄えている者には、特に数を増している。二十領を限度とし、その次は十領であった。

二十一日に秋篠朝臣安人(土師宿祢)を右兵衛佐のままで少納言、藤原朝臣道繼()を大監物、篠嶋王()を左大舍人頭、長津王(。三長眞人)を圖書頭、八上王()を内礼正、紀朝臣乙佐美(宮子に併記)を散位助、調使王()を諸陵頭、巨勢朝臣廣山(馬主に併記)を大藏少輔、乙平王(乙枚王)を造酒正、廣上王を鍛冶正に任じている。

二十二日に於宿祢乙女(人主に併記)・「紀朝臣家主」に從五位下、また、上道臣千若女に内位の從五位下を授けている。

二十三日に太政官が以下のように奏上している・・・謹んで『礼記』を調べると、[天子の祭る廟は七つある。左右に三昭(二・四・六世の三代)と三(三・五・七世の三代)の廟、中央に太祖の廟と合わせて七つである]とあり、また[古い名を捨てて諱まず、新しい名を諱み憚れ]とある。また、[五代以上を経て親等の隔たった祖先を捨て、新たに死んだ親族を忌み憚る]とある。---≪続≫---

今、國忌の数が次第に多くなり、親等も隔絶してしまっている。一日ごとの政務は極めて沢山あり、行うべきことの多くが渋滞している。親等の離れた祖先の命日は、全て國忌から除くことをお願いする・・・。この奏上は許可されている。

<紀朝臣家主>
二十六日に京・畿内・七道の國司・郡司に命じて、甲を造らせている。その数は國郡の大小により、それぞれ差があった。

● 紀朝臣家主

「紀朝臣」一族も途切れることなく人材廃輩出の様相である。その殆どが系譜不詳であり、高位の官人になる人物の登場は限られている。

直近で亡くなった参議・中宮大夫で従四位上の「家守」は、祖父が「麻呂」、父親が「男人」であり、素性の知れた数少ない人物であった(こちら参照)。

今回登場の「家主」は、「家守」の兄弟に「家繼」がいて、何らかの血縁関係の持ち主のように思われるが、「家守」の周辺に「主」の地形を見出すことができないようである。

家主=真っ直ぐに延びる山稜の端が豚の口のような形をしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。豊賣・豊庭に挟まれた地である。この後に登場されることはないようである。

夏四月乙未。近衛將監從五位下兼常陸大掾池原公綱主等言。池原。上毛野二氏之先。出自豊城入彦命。其入彦命子孫。東國六腹朝臣。各因居地。賜姓命氏。斯乃古今所同。百王不易也。伏望因居地名。蒙賜住吉朝臣。勅綱主兄弟二人。依請賜之。戊戌。左大史正六位上文忌寸最弟。播磨少目正八位上武生連眞象等言。文忌寸等元有二家。東文稱直。西文号首。相比行事。其來遠焉。今東文擧家既登宿祢。西文漏恩猶沈忌寸。最弟等幸逢明時。不蒙曲察。歴代之後申理無由。伏望。同賜榮号。永貽孫謀。有勅責其本系。最弟等言。漢高帝之後曰鸞。鸞之後王狗轉至百濟。百濟久素王時。聖朝遣使徴召文人。久素王即以狗孫王仁貢焉。是文。武生等之祖也。於是最弟及眞象等八人賜姓宿祢。庚子。叙越前國雨夜神。大虫神並從五位下。乙巳。叙從五位下大虫神從四位下。同國足羽神從五位下。戊申。駿河國駿河郡大領正六位上金刺舍人廣名爲國造。山背國部内諸寺浮圖。經年稍久。破壞處多。詔遣使咸加修理焉。己酉。授從五位下石川朝臣美奈岐麻呂從五位上。以從五位下藤原朝臣緒繼爲侍從。丁巳。車駕幸彈正尹神王第宴飮。授其女淨庭王從五位下。

四月五日に近衛将監で常陸大掾を兼任する「池原公綱主」等が以下のように言上している(こちら参照)・・・池原・上毛野の二氏の先祖は、豊城入彦命(古事記:豐木入日子命)から出ている。入彦命の子孫は、東國で六つの系統の朝臣に分れ、それぞれ居住地に因み氏姓を賜っている。このことは古今同じであり、百代を経ても不変のことである。そこで居住地に因み、「住吉朝臣」の氏姓を賜りたく、伏してお願い申し上げる・・・。綱主兄弟二人に勅し、申請のままに氏姓を賜っている。

八日に左大史の文忌寸最弟(光庭に併記)と播磨少目の武生連眞象(佐比乎に併記)等が以下のように言上している・・・「文忌寸」等は、もと二つの家系がある。東文の姓を直といい、西文の姓を首といい、相並んで仕事を行い、その由来は古いものがある。しかし今、東文は一族をあげて宿祢姓に登ったのに、西文は賜姓の恩みに漏れて、尚忌寸姓のままである。「最弟」等は、幸いにして良い時代に巡り合っている。詳しく事情を察して頂かないと、後世になっては、どのような理由を申し上げても甲斐のないことになるであろう。そこで同じく高い姓を賜り、永く子孫のために計りごとを残したく、伏してお願い申し上げる・・・。

勅して本来の系譜を求めると、「最弟」等は以下のように言上している・・・漢の高帝の子孫を鸞と言い、鸞の子孫の王狗の時、百濟國に転住した。百濟の久素王の時、我が朝廷が使者を遣わして文人を召し求めたので、久素王は王狗の孫の王仁を貢上した。彼が文・武生等の祖先である・・・。この日、「最弟」と「眞象」等八人に宿祢姓を賜っている。

十日に越前國の雨夜神・大虫神に、それぞれ従五位下を授けている。十五日、「大虫神」に従四位下、同國の足羽神(秦人部武志麻呂に併記)に従五位下を授けている。十八日に駿河國駿河郡大領の金刺舎人廣名(麻呂に併記)を駿河國造に任じている。また、山背國管内の諸寺院の塔は、相当の年月を経て破損したところが多くなっている。そこで詔して使者を派遣し、それらを皆修理させている。

十九日に石川朝臣美奈岐麻呂(美奈伎麻呂。眞人に併記)に従五位上を授け、藤原朝臣緒繼(産子に併記)を侍従に任じている。二十七日に弾正尹の神王()の邸宅に行幸し、酒宴を開いている。王の娘の淨庭王(笠女王に併記)に従五位下を授けている。

五月癸亥。大藏卿從四位上石川朝臣豊人卒。乙丑。天皇以天下諸國頻苦旱疫。詔停節宴。」授无位紀朝臣河内子從五位下。辛未。大宰府言。豊後。日向。大隅等國飢。又紀伊國飢。並賑給之。乙亥。唐人正六位上王希逸賜姓江田忌寸。情願也。己夘。右京大夫從四位下藤原朝臣菅繼卒。丁亥。供奉中宮周忌齋會雜色人九十六人。隨勞輕重。賜爵有差。其正六位上者。迴授其子。二百九十三人賜祿亦有差。戊子。先是。諸國司等。校收常荒不用之田。以班百姓口分。徒受其名。不堪輸租。又王臣家。國郡司。及殷富百姓等。或以下田相易上田。或以便相換不便。如此之類。觸處而在。於是仰下所司。却據天平十四年勝寳七歳等圖籍。咸皆改正。爲來年班田也。 

五月三日に大藏卿の石川朝臣豊人が亡くなっている<延暦九年五月三日に同一記事あり?>。五日、天下の國々が度々日照りと疫病に苦しんでいるので、詔して節句の宴会を止めている。また、紀朝臣河内子(須惠女に併記)に従五位下を授けている。十一日に大宰府が[豊後・日向・大隅などの國々で飢饉が起こった]と言上している。また、紀伊國でも飢饉が起こったので、いずれも物を恵み与えている。

十五日に唐人の「王希逸」が願い出て「江田忌寸」の氏姓を賜っている(こちら参照)。十九日に右京大夫の藤原朝臣菅繼が亡くなっている。二十七日に中宮(高野新笠)の一周忌の齋會に奉仕した九十六人の様々な職種の官人に、功労の軽重に応じて位階を授けている。正六位上の者には、その子に回して授けている。二百九十三人には、それぞれ禄を賜っている。

二十八日、これより先、諸國の國司等は、いつも荒れたまま耕作されていない田を調べて収公し、人民の口分田に当てていた。ただ名のみで田租を出すことができなかった。また、皇族や貴族、國司・郡司、富裕な人民等は、下田を上田に換えさせたり、不便な田を便利の良い田に換えさせたりしている。そこで、この日関係官庁に命じ、天平十四(742)年・天平勝寶七(755)歳などの田図・田籍に遡り、みな改めさせている。来年は班田を行うからである。