2023年8月30日水曜日

高野天皇:称徳天皇(21) 〔645〕

高野天皇:称徳天皇(21)


神護景雲三(西暦769年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

夏四月壬寅。伊豫國温泉郡人正八位上味酒部稲依等三人賜姓平群味酒臣。癸夘。散事從四位下牟漏采女熊野直廣濱卒。甲辰。陸奥國行方郡人外正七位下下毛野公田主等四人賜姓朝臣。乙巳。大和國添上郡人正八位下横度春山賜姓櫻嶋連。辛酉。幸西大寺。授從四位下佐伯宿祢今毛人從四位上。正五位上大伴宿祢伯麻呂從四位下。從五位上息長丹生眞人大國正五位下。從五位下弓削宿祢大成。粟田朝臣公足。益田連繩手並從五位上。正六位上大野我孫麻呂外從五位下。甲子。上野國邑樂郡人外大初位上小長谷部宇麻呂。甘樂郡人竹田部荒當。絲井部袁胡等十五人。賜姓大伴部。

四月四日に「伊豫國温泉郡」の人である「味酒部稻依」等三人に「平群味酒臣」の氏姓を賜っている。六日に散事の紀伊國牟漏郡出身の采女、熊野直廣濱が亡くなっている。七日に陸奥國行方郡の人である「下毛野公田主」等四人に朝臣姓を賜っている。八日に大和國添上郡の人である「横度春山」に「櫻嶋連」の氏姓を賜っている。

二十四日に西大寺に行幸され、佐伯宿祢今毛人に従四位上、大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)に従四位下、息長丹生眞人大國(國嶋に併記)に正五位下、弓削宿祢大成(薩摩に併記)・粟田朝臣公足益田連繩手に従五位上、「大野我孫麻呂」に外従五位下を授けている。二十七日に「上野國邑楽郡」の人である「小長谷部宇麻呂」、甘楽郡の人である「竹田部荒當」と「糸井部袁胡」等十五人に「大伴部」の氏姓を賜っている。

<伊豫國:温泉郡・味酒部稻依>
伊豫國温泉郡

伊豫國の郡割は、ほぼ出揃ったようであったが、古事記の男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)紀に「木梨之輕太子」と同母の妹の「輕大郎女」との禁断の恋を咎められて、「輕太子」が配流された伊余湯、その地を「温泉郡」と名付けたのであろう。

書紀の舒明天皇紀に「伊豫温湯」の名称で記載されている。既に述べたが、湯=氵+昜=水が飛び跳ねる様と解釈した。「温」の正字体は「溫」であり、「溫」=「氵+𥁕(囚+皿)」=「水が囲まれて留められている様」であり、溫=水が貯えられている様と解釈した。

即ち、記紀・續紀を通じての表記である「温泉」は、温泉=湧き出る水が蓄えられているところと解釈される。通常の”伊豫温泉”の解釈とは全く異なっているのである。時を経て、滝のように流れる谷川を堰き止めた貯水池が造られて来たのであろう。”湯”を”泉”に置換えた表記とした所以と思われる。

● 味酒部稻依 既出の文字列である「味酒部」の「味」=「口+未(木+一)」=「山稜を横切る谷間の入口」と解釈した。古事記の男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)紀に記載されている味白檮の類似する。續紀編者が上記の「伊余湯」に関連させた記述であろう。

「酒」=「氵+酉」=水辺で酒樽のような形をしている様」であり、味酒=山稜を横切る谷間の入口にある水辺で酒樽のような形をしているところと読み解ける。「部」=「近隣」と解釈する。既出の稻依=山稜の端の三角州の前に窪んだ地に三つの山稜が延びているところと解釈される。「酒」の麓の地形を表していることが解る。賜姓の平群味酒臣平群=平らな小高い地が寄り集まっているところと解釈されるが、上図を拡大するとそれらしき地形が確認される。

古事記で”許母理久”(上記伊余湯参照)と詠われた場所となる。その後全く関連する人名は記載されていなかった地であった。勿論、この後に登場されることもないようである。

<下毛野公田主>
● 下毛野公田主

前記で陸奥國行方郡の住人である大伴部三田に大伴行方連の氏姓を賜ったと記載されていた。国土地理院航空写真であり、他に隣郡の二人の住人を併せて記載したこともあって、あらためて今回の人物の出自の場所を左図に示した。

名前の田主=田が真っ直ぐに延びているところと解釈されるが、その写真にそれらしき光景が見出せる。当時の姿を反映しているかどうかは定かではないが、そもそも平らな地形であったのかもしれない。

出自の場所は、図に示したように求められるのだが、氏名の下毛野公の「下毛野」の解釈を如何にするかが、課題となったようである。「田主」の下流域に「毛(鱗)」の地形が確認されるのだが、賜った下毛野朝臣姓からすると、本貫の地は既出の一族(こちら参照)だったのかもしれない。

<横度春山>
● 横度春山

大和國添上郡の住人と記載されている。本紀の冒頭に外従五位下を叙爵された高尾連賀比も添上郡を出自とする人物と推定した。

些か広範囲の地域なのであるが、名前が示す地形から居処を求めてみよう。氏名の既出の文字列である、横度=山稜の端の麓を東西に跨ぐように山稜が延びているところと読み解ける。

この特徴的な地形は、容易に図に示した場所に見出すことができる。犀川(現今川)の上流域となる。現地名は、田川郡添田町津野(小字迫田)辺り、上記の「高尾連賀比」の下流域に当たる場所である。

名前の春山=[炎]のように延びている山稜の先が[山]のように三つに岐れているところと読み解ける。[山]の地形は、通常の地図では確認し辛いが、陰影起伏図を参照して求めることができる。また、犀川(現今川)が激しく蛇行している谷間の地域であり、記紀・續紀を通じて、この地を出自とする人物の登場はなかったようである。

<大野我孫麻呂>
賜姓の櫻嶋連の櫻嶋=嫋やかに曲がる谷間が寄り集まって地と山稜が鳥の形をしている地が並んでいるところと解釈される。視点を変えた地形象形表記となっていることが解る。

● 大野我孫麻呂

大野の氏名は「大野朝臣」(例えばこちら参照)に含まれているが、今回登場の人物は、その系列ではないが、その近隣を出自としていたのではなかろうか。

現地名では築上郡上毛町と吉富町の境辺りである。我孫=ギザギザとした刃物のような山稜が生え出て連なっているところと解釈される。その地形を上毛町吉岡に見出せる。前出の依羅我孫忍麻呂に含まれていた。麻呂=萬呂として図に示した場所が出自と推定される。この人物も續紀に二度と登場されることはないようである。

ところで、通常「我孫(アビコ)」と訓される。例えば「阿比古」=「台地が並んでいる地の先で丸く小高くなっているところ」とすると、上図がその地形を示している。難読地名の由来かもしれない。

<上野國:邑樂郡-小長谷部宇麻呂>
<甘樂郡-竹田部荒當-糸井部袁胡>
上野國邑樂郡

上野國の「邑樂郡」と「甘樂郡」の住人に賜姓を行ったと記載されている。後者は前出であり、物部公を賜姓された一族が登場していた。

既出の郡としては、碓氷郡佐位郡があり、それらの配置を考慮しながら、今回登場の「邑樂郡」の場所を求めることにする。

邑樂郡邑=囗+巴=渦巻くように大地が盛り上がった様と解釈した。「甘樂郡」にも用いられている樂=山稜に挟まれた地で丸く小高くなっている様である。即ち、両郡の端境に「樂」の地形があることを表していると思われる。

すると、些か地形変形が見られるが、「邑」の地形を谷間の出口辺りに見出せる。結果として、「邑樂郡」は、「碓氷郡」の西側及び「甘樂郡」の北側に接する場所と推定される。

● 小長谷部宇麻呂 既出の文字列である小長谷=奥が三角に尖った谷間が長く延びているところと解釈した。”小ぶりな長谷”では決してなく、”大きな長谷”を「大長谷」と、記紀・續紀を通じて表現しているのではない。容易に現在の相割川が流れる谷間を示していることが解る。部=近隣と解釈する。

名前の宇麻呂宇=宀+于=谷間に山稜が延びている様であり、図に示した場所が出自と推定される。賜姓は大伴部であり、この谷間の地形を大伴と表記したのであろう。

● 竹田部荒當・糸井部袁胡 甘樂郡の住人と記載されている。竹田部荒當竹田=竹のように田が真っ直ぐ連なっているところと解釈される。紀伊國阿提郡と名付けられた匙のように真っ直ぐに延びる山稜の北麓辺りを表しているのであろう。物部公一族は、台地の上を占めていたと思われる。

名前の荒當は、既出の文字列ではあるが、少々凝った名前のように見えるが、そのまま読み解くと、荒當=同じような形をして分かれて平らに広がっている二つの山稜が水辺で途切れているところと読み解ける。図に示したように「竹田」を眞半分に区切る川が流れている地形を表現しているように思われる。

糸井部袁胡糸井=細長く延びた山稜の先で四角く囲まれたところと解釈すると、図に示した場所を表していると思われる。名前の袁胡=ゆったりと延びる山稜の端が小高く三日月の形になっているところと解釈される。山稜の先端部が出自と推定される。

五月乙亥。左京大夫從四位下勳四等小野朝臣竹良卒。丙子。以從五位下橘宿祢綿裳爲少納言。從四位下大伴宿祢伯麻呂爲員外左中弁。造西大寺次官如故。外從五位下内藏忌寸若人爲造伎樂長官。從五位下石川朝臣清麻呂爲讃岐介。庚辰。大和國葛上郡人正六位上賀茂朝臣清濱賜姓高賀茂朝臣。癸未。伊勢國員弁郡人猪名部文麻呂獻白鳩。賜爵二級。當國稻五百束。乙酉。賜左右大臣稻各一十万束。己丑。攝津國豊嶋郡人正七位上井手小足等十五人賜姓秦井手忌寸。西成郡人外從八位下秦神嶋。正六位上秦人廣立等九人秦忌寸。壬辰。詔曰。不破内親王者。先朝有勅。削親王名。而積惡不止。重爲不敬。論其所犯。罪合八虐。但縁有所思。特宥其罪。仍賜厨眞人厨女姓名。莫令在京中。又氷上志計志麻呂者。弃其父塩燒之日。倶應相從。而依母不坐。今亦其母惡行弥彰。是以處遠流。配土左國。甲子。以外從五位下佐太忌寸味村爲左平凖令。」左京人正六位上倭畫師種麻呂等十八人賜姓大岡忌寸。乙未。從五位下吉備藤野和氣眞人清麻呂等賜姓輔治能眞人。外從八位上吉備藤野宿祢子麻呂。從八位下吉備藤野宿祢牛養等十二人輔治能宿祢。近衛无位吉備石成別宿祢國守等九人石成宿祢。丙申。縣犬養姉女等坐巫蠱配流。詔曰。現神〈止〉大八洲國所知倭根子挂畏天皇大命〈乎〉親王王臣百官人等天下公民衆聞食〈止〉宣〈久〉。犬部姉女〈乎波〉内〈都〉奴〈止〉爲〈弖〉冠位擧給〈比〉根可婆祢改給〈比〉治給〈伎〉。然〈流〉物〈乎〉反〈天〉逆心〈乎〉抱藏〈弖〉己爲首〈弖〉忍坂女王石田女王等〈乎〉率〈弖〉挂畏先朝〈乃〉依過〈弖〉弃給〈弖之〉厨眞人厨女許〈尓〉竊往乍岐多奈〈久〉惡奴〈止母止〉相結〈弖〉謀〈家良久〉。傾奉朝庭乱國家〈弖〉岐良比給〈弖之〉氷上鹽燒〈我〉兒志計志麻呂〈乎〉天日嗣〈止〉爲〈牟止〉謀〈弖〉挂畏天皇大御髪〈乎〉盜給〈波利弖〉岐多奈〈伎〉佐保川〈乃〉髑髏〈尓〉入〈弖〉大宮内〈尓〉持參入來〈弖〉厭魅爲〈流己止〉三度〈世利〉。然〈母〉盧舍那如來最勝王經觀世音菩薩護法善神梵王帝釋四大天王〈乃〉不可思議威神力挂畏開闢已來御宇天皇御靈天地〈乃〉神〈多知乃〉護助奉〈都流〉力〈尓〉依〈弖〉其等〈我〉穢〈久〉謀〈弖〉爲〈留〉厭魅事皆悉發覺〈奴〉。是以検法〈尓〉皆當死刑罪。由此〈弖〉理〈波〉法〈末尓末尓〉岐良〈比〉給〈倍久〉在〈利〉。然〈止毛〉慈賜〈止〉爲〈弖〉一等降〈弖〉其等〈我〉根可婆祢替〈弖〉遠流罪〈尓〉治賜〈布止〉宣〈布〉天皇大命〈乎〉衆聞食〈止〉宣。

五月八日に左京大夫の小野朝臣竹良(小贄に併記)が亡くなっている。九日に橘宿祢綿裳を少納言、大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を造西大寺次官はそのままとして員外左中弁、内藏忌寸若人(黒人に併記)を造伎樂長官、石川朝臣清麻呂(眞守に併記)を讃岐介に任じている。十三日に大和國葛上郡の人である賀茂朝臣清濱(田守に併記)に「高賀茂朝臣」の氏姓を賜っている。

十六日に「伊勢國員弁郡」の人である「猪名部文麻呂」が白鳩を献じたので、位二階と当國の稲五百束を賜っている。十八日に左右大臣(藤原永手吉備眞備)に各々稲を十万束賜っている。二十二日に「攝津國豊嶋郡」の人である「秦井手小足」等十五人に「秦井手忌寸」の氏姓を、また、「西成郡」の人である「秦神嶋・秦人廣立」等九人に「秦忌寸」の氏姓を賜っている。

二十五日に次のように詔されている・・・不破内親王は(称徳天皇と異母姉妹。鹽燒王の妻)、先の朝廷の時代に勅があって親王の名を削られた。しかるに悪事を積むことを止めず、重ねて不敬を行った。その犯したところを検討すると、罪は八虐に相当する。但し、思うところがあるため、特にその罪を許すことにする。そこで「厨眞人厨女」の姓名を賜い、京中に住まわせないようにせよ。また、「氷上志計志麻呂」は、その父鹽燒王を朝廷が見捨てた日に、共に同じ処分に従わせるべきであった。しかし母(不破内親王)により、連座させなかった。今また、その母の悪行が益々明らかになって来たので、遠流に処し、土左國に配する・・・。

二十七日に佐太忌寸味村(老に併記)を左平準令に任じている。また、左京の人である「倭畫師種麻呂」等十八人に「大岡忌寸」の氏姓を賜っている。二十八日に吉備藤野和氣眞人清麻呂(和氣清麻呂)等に輔治能眞人の氏姓を賜っている。また、吉備藤野別宿祢子麻呂・吉備藤野別宿祢牛養等十二人には「輔治能宿祢」、近衛の吉備石成別宿祢國守(薗守)等九人に「石成宿祢」の氏姓を賜っている。

二十九日に縣犬養姉女(八重に併記)等は、巫蠱(まじないで人を呪うこと)の罪に連座して配流に処せられた。これについて次のように詔されている(以下宣命体)・・・現つ御神として大八洲國を統治する倭根子の、口に出すのも恐れ多い天皇の御言葉を、親王・王臣・百官人達、それに天下の公民達、みな承れと申し渡す・・・朕は「犬部姉女」を身近に仕える者として取り立て、冠位を上げ、元の姓を改めて(縣犬養大宿祢)、よく取り計らってやった。それであるのに、返って反逆の心を抱き、自ら首領となって、「忍坂女王・石田女王」達を率い、口に出すのも恐れ多い、先の朝廷が過ちによりお棄てになった厨眞人厨女のもとに密かに通い、汚い心を持った悪い奴どもとお互いに手を結び、謀反を企んだ。それは朝廷を傾けて天下を混乱させ、先に朕が土左國に配流した氷上鹽燒の児、「志計志麻呂」を天皇の地位に立てようとする計画であって、口に出すのも恐れ多い天皇の御髮を盗み取って、汚らわしい「佐保川」(佐保山の東麓、現在名畑谷川と推定)の髑髏に入れて、大宮の内に持ち込み、呪いを行うこと三度に及んだ。

しかし、廬舎那如来・最勝王経・觀世音菩薩、仏法を守護する神である梵天王・帝釈天王・四大天王の不可思議な力強く尊い力と、口に出すのも恐れ多い、天地始まって以来、天下を統治された天皇の御霊や、天地の神々の護り助けて下さる力により、それらの汚い心で計画した呪い事は、全て発覚してしまった。そこで、これらの行為を法にてらしてみると、全て死刑の罪に当たる。それ故、道理としては、法に従って彼等を嫌い棄ててしまうべきである。しかし、慈悲を与えることにし、罪一等を降ろして、彼等を元の氏姓に替え、遠流の罪に処す、と仰せになる御言葉を、みな承れと申し渡す・・・。

<伊勢國員弁郡:猪名部文麻呂>
伊勢國員弁郡

「伊勢國員弁郡」は、記紀・續紀を通じて初見である。「員弁(辨)」の読みから、忌部宿祢一族の居処に関係する地域と推測される。

珍しい文字列である員弁(辨)を読み解いてみよう。「員」=「口+鼎」と分解される。「丸く取り囲まれた様」を表す文字と知られているが、地形象形的には、そのまま「鼎の口のような様」と解釈する。

纏めると員辨=鼎の口で切り分けられた山稜が並んでいるところと読み解ける。「忌部」の地形の別名表記であることが解る。地形変形が凄まじい場所であることから国土地理院航空写真1961~9年を用いて、この郡の領域を示した。

● 猪名部文麻呂 「猪名」は既出の文字列であり、猪名=山稜の端の三角の平らな頂の地が交差するように延びているところと解釈した。その地形を図に示した山稜の端に見出せる。名前の「文麻呂」も文=山稜が交差するように延びている様であり、「猪名」の近隣()が出自と推定される。

白鳩 珍しくもない鳥を瑞祥?・・・勿論、白鳩=鳩のようなずんぐりむっくりとした鳥の形の山稜がくっ付いて並んでいるところと解釈する。過去の記載例では、河内國錦部郡河内國石河郡備前國(美作國)があった。「文麻呂」の居処の東側に二つ並んだ山稜を表していると思われる。前出の忌部宿祢止美の「止」の場所でもある。

全くの余談だが・・・通常、「員弁(イナベ)」と訓されるようである。「猪名部」に因むとされるが、「忌部」と関連付けて「員弁(インベ)」と訓するのが適切なように思われるが・・・。

<攝津國豊嶋郡:秦井手小足>
攝津國豊嶋郡

上記と同様に攝津國における初見の郡名である。それに含まれる「嶋」を既出の嶋上郡・嶋下郡の「嶋」と見て、所在を突止めてみよう。

豊(豐)嶋=[鳥]の形の山稜に段々になった高台があるところと解釈すると、嶋下郡の南側、住吉郡の東側の場所を表していると思われる。ただ、私朝臣一族の領域が含まれるや否やは、目下のところ不詳である。

● 秦井手小足 段差の地形は極めて明瞭に判別されるのであるが、早期に開拓された地域のようで、延び出る山稜の形が曖昧となっているようである。

秦=艸+屯+禾=稲穂のような山稜が並んで延び出ている様と解釈される。井手=手のような山稜で四角く取り囲まれたところとなるが、辛うじて図に示した場所が見出せる。小足=山稜が三角に尖っている[足]の形をしているところと読めて、地形の確認が難しいが、多分、図に示した辺りかと思われる。

<攝津國西成郡:秦神嶋-秦人廣立>
攝津國西成郡

上記に続き初見の郡名である。それに含まれる「西」の文字は、間違いなく西大寺の「西」が表す地形に類似するものであろう。即ち西=笊(ザル)の象形と解釈する。

すると、天智天皇の近江大津宮があった場所、大郡・小郡の東側の地域が「笊」の地形を示すことが解る。図中、二重破線で描いたところは、当時の海岸線であったと推測した(古事記の近淡海を参照)。

その”入江に注ぐ川”を笊から”漏れ出て来る水流”と見做した表現なのである。笊(西)の背後が成=丁+戊=平らに整えられた様の地を表している。東大寺・西大寺の時にも述べたように、この時は偶々”東にある大寺・西にある大寺”となる配置であったが、本来はそれぞれが地形象形表記であった。續紀に”東成郡”は登場しない。

● 秦神嶋・秦人廣立 「秦」は上記と同様な解釈であり、その地形を近江大津宮周辺の地に確認することができる。神嶋=高台が長く延びた先で山稜が鳥の形をしているところと読み解くと、「大津宮」の麓辺りがこの人物の出自と推定される。

秦人=[秦]の傍らにある谷間を表し、廣立=広がった先で山稜が並んでいるところと読み解くと、「廣立」の出自場所を求めることができる。前出の大津連一族に接する場所となる。賜姓の秦忌寸も素直な表記ではあるが、既出の一族との混乱が生じるかもしれない。

<氷上志計志麻呂(河繼)>
<忍坂女王・石田女王>
● 氷上志計志麻呂・忍坂女王・石田女王

『仲麻呂の乱』に連座して斬殺された氷上眞人鹽燒の妻や子孫に関する、その後の顛末である。

どうやら、一家諸共に処罰すべきところを、「鹽燒」の妻である不破内親王(天皇の異母姉妹)、その子の「志計志麻呂」は除外されていたようである。

「志計志麻呂」は初登場であり、その出自場所を求めてみよう。既出の文字列であるが、些か戯れた表記であろう。志計志=蛇行する川に挟まれている耕地を束ねたところと読み解ける。

「計」=「言+十」と分解して地形象形表記と解釈すると、容易に図に示した場所が出自と推定される。谷間が寄り集まっている地形である。「鹽燒」の子として「河(川)繼」が知られている。河繼=谷間の出口が連なっているところと読み解ける。「志計志」は「河繼」の別(蔑)称であろう。

登場する二人の女王は、氷上眞人一族に関わる系譜として、忍坂=手のような山稜の前がギザギザとした谷間になっているところ石田=山麓の小高い地ので平らに区切られているところと解釈すると、それぞれ図に示した場所が出自と思われる。配置からすると、新田部皇子の娘等だったのではなかろうか。

<倭畫師種麻呂>
● 倭畫師種麻呂

「倭畫師」の氏名を持つ人物は、書紀の天武天皇紀に音檮が登場していた。その出自場所を近江國高嶋郡の南部と推定した。現地名は京都郡苅田町稲光である。

本文では「左京人」と記載されているが、現住所と本籍を使い分けているのであろう。勿論、本籍の地の地形を表す名前と思われる。

種麻呂種=禾+重(東+人+土)=稲穂のような山稜が谷間に突き出ている様と解釈される。その地形を「音檮」の東側に見出せる。通常の意味である”植物の種”は、”土中に突き刺す様子”を表現したとされる。”東”の文字を”方位”と解釈しては、意味不明なことになる。

賜った大岡忌寸の氏姓は、その背後の山稜の形を表したものであろう。地形の凹凸が明瞭であって、かなり確度の高い出自場所の推定となったように思われる。

六月丁酉朔。以從五位下礒部王。復爲大監物。戊戌。右京人正八位下白鳥村主馬人。白鳥椋人廣等廿三人賜姓白原連。癸夘。攝津國菟原郡人正八位下倉人水守等十八人賜姓大和連。播磨國明石郡人外從八位下海直溝長等十九人大和赤石連。甲辰。授正六位上清湍連雷外從五位下。乙巳。以園池正從五位下安倍朝臣草麻呂爲兼内藏助。正五位上大伴宿祢益立爲式部大輔。從五位下相摸宿祢伊波爲玄蕃助。正五位下吉備朝臣泉爲左衛士督。大學員外助如故。從五位下弓削御淨朝臣廣方爲右兵衛佐。武藏介如故。從五位下牟都支王爲左馬頭。外從五位下伊勢朝臣子老爲伊賀守。外從五位下葛井連河守爲遠江介。外從五位下武藏宿祢不破麻呂爲上総員外介。縫殿頭從五位下桑原王爲兼下総員外介。正五位上石上朝臣息嗣爲美濃守。少納言從五位下當麻王爲兼下野介。從五位下石川朝臣人麻呂爲能登守。從五位下弓削宿祢薩摩爲員外介。從五位上布勢朝臣人主爲出雲守。左少弁從五位下弓削御淨朝臣秋麻呂爲兼周防守。從五位上高圓朝臣廣世爲伊豫守。外從五位下田部直息麻呂爲壹伎嶋守。丁未。浮宕百姓二千五百餘人置陸奥國伊治村。乙夘。詔曰。神語有言大中臣。而中臣朝臣清麻呂。兩度任神祇官。供奉无失。是以賜姓大中臣朝臣。庚申。以大外記從五位下池原公禾守。左大史外從五位下堅部使主人主。並爲修理次官。壬戌。備前國藤野郡人別部大原。少初位上忍海部興志。財部黒士。邑久郡人別部比治。御野郡人物部麻呂等六十四人賜姓石生別公。藤野郡人母止理部奈波。赤坂郡人外少初位上家部大水。美作國勝田郡人從八位上家部國持等六人石野連。癸亥。美作。備前兩國家部。母等理部二氏人等。盡頭賜姓石野連。乙丑。改備前國藤野郡爲和気郡。

六月一日に礒部王(長屋王の孫)を大監物に復させている。二日に右京の人である「白鳥村主馬人・白鳥椋人廣」等二十三人に「白原連」の氏姓を賜っている。七日に「攝津國菟原郡」の人である「倉人水守」等十八人に「大和連」、また播磨國明石郡の人である「海直溝長」等十九人に「大和赤石連」の氏姓を賜っている。八日に清湍連雷(河内に併記)に外従五位下を授けている。

九日に園地正の安倍朝臣草麻呂(弥夫人に併記)を兼務で内藏助、大伴宿祢益立を式部大輔、相摸宿祢伊波を玄蕃助、吉備朝臣泉(眞備に併記)を大学員外助はそのままとして左衛士督、弓削御淨朝臣廣方を武藏介はそのままとして右兵衛佐、牟都支王(牟都岐王)を左馬頭、伊勢朝臣子老を伊賀守、葛井連河守(立足に併記)を遠江介、武藏宿祢不破麻呂(丈部直。刀自に併記)を上総員外介、縫殿頭の桑原王を兼務で下総員外介、石上朝臣息嗣(奥繼。宅嗣に併記)を美濃守、少納言の當麻王()を兼務で下野介、石川朝臣人麻呂を能登守、弓削宿祢薩摩()を員外介、布勢朝臣人主(首名に併記)を出雲守、左少弁の弓削御淨朝臣秋麻呂(道鏡に併記)を兼務で周防守、高圓朝臣廣世(石川廣世)を伊豫守、田部直息麻呂を壱伎嶋守に任じている。

十一日に浮浪の人民二千五百人余りを陸奥國の伊治村(伊治城周辺)に置いている。十九日に次のように詔されている・・・神語(祝詞など)に大中臣と言うことがある。中臣朝臣清麻呂(東人に併記)は二度神祇の官に任じられ、その職務を奉じて失敗がなかった。そこで「大中臣朝臣」の氏姓を賜うことにする・・・。

二十四日に大外記の池原公禾守と左大史の堅部使主人主(田邊公吉女に併記)をそれぞれ修理司次官に任じている。二十六日に備前國藤野郡(本紀になって再編)の人である「別部大原・忍海部興志・財部黒土」、「邑久郡」(藤野郡再編)の人である「別部比治」、「御野郡」の人である「物部麻呂」等六十四人に「石生別公」の氏姓を賜っている。藤野郡の人である「母止理部奈波」、「赤坂郡」(藤野郡再編)の人である「家部大水」、美作國勝田郡の人である「家部國持」等六人に「石野連」の氏姓を賜っている。

二十七日に美作・備前両國の「家部」と「母等理部」二氏の人々全員に「石野連」の氏姓を賜っている。二十九日に備前國の「藤野郡」を改め、「和氣郡」としている。

<白鳥村主馬人・白鳥椋人廣>
● 白鳥村主馬人・白鳥椋人廣

「白鳥村主」の氏姓を持つ人物は、孝謙天皇紀に頭麻呂が外従五位下を叙爵されていた。古事記に記載されている倭建命の墓所である白鳥御陵の近隣の地と推定した。現地名は行橋市二塚である。

今回登場の人物は”右京人”と記されているが、上記と同じく現住所と本籍と解釈し、”河内國志紀郡”に出自の場所を求めてみよう。

馬人の「馬」は、図に示したように馬の古文字形を山稜が表していると見做した表記であろう。馬人=[馬]の形の地に谷間が延びているところと解釈される。達沙仁徳等が賜姓された「朝日連」を後に「嶋野連」に改めているが、「朝日」では、些か広範囲になり過ぎるからなのであろう。

それにしても、かつての墓地は、すっかり住居に変貌したようである。もう一人の人物である白鳥椋人廣の「椋」=「木+京」=「山稜が大きく広がった高台となっている様」と解釈され、「御陵」の場所を表している。白鳥椋人廣=白鳥御陵の麓の谷間が広がったところと読み解ける。

賜った白原連白原=丸く小高い地がある平らに広がったところと解釈すると、彼等の出自場所の地形を表していることが解る。

<攝津國菟原郡:倉人水守>
攝津國菟原郡

攝津國菟原郡は、勿論初見であり、また續紀に二度と記載されることはないようである。調べると、後に武庫郡に併合されたとのことであり、おそらく隣接した地域だったと推測される。

菟原郡の「菟」=「艸+免」=「丸く山稜に挟まれて窪んだ様」と解釈すると、菟原=丸く山稜に挟まれて窪んだ地がある平らに広がったところと読み解ける。その地形を、標高差が少なく見極め辛いが、図に示した場所に見出せる。「武庫郡」の北に隣接する、狭い領域と思われる。

● 倉人水守 その窪んだ地が四角く区切られている様を示し、倉人=谷間が四角く区切られているところと解釈される。そして、水守=川の畔にある両肘を張り出したようなところと表記していることが解る。この人物の出自の場所は図に示した辺りと思われる。

<海直溝長>
賜姓の大和連大和=平らな頂の山稜がしなやかに曲がって延びているところと解釈することができる。「大和」は固有の名称ではなく、立派な地形象形表記であろう。

● 海直溝長

播磨國明石郡は、聖武天皇の播磨國行幸の際に登場した郡の一つであった。現在の岩丸川の下流域、地名では築上郡築上町水原辺りと推定した。

海直溝長の「海直」は、孝謙天皇紀に參河國海直玉依賣が三つ子を産んで褒賞された記事があった。同じ「海直」の氏姓を持つ人物であり、即ち類似の地形の場所が出自となる。

正にその地形を「明石」の山稜の端に見出すことができる。海直=真っ直ぐに延びた山稜の前に母が両腕で抱えるような地があるところと解釈する。名前の溝長は、麓を流れる岩丸川を表現したものであろう。賜姓の大和赤石連大和は上記と同様であろう。赤石赤=大+火=平らな頂から火のように山稜が延び出ている様と解釈したが、「火」は「明石」の明=日(炎)+月に含まれ、郡名の別称である。

<藤野郡別部大原財部黒土別部比治>
<御野郡物部麻呂>
備前國御野郡

「備前國・美作國」の多くの住人に賜姓を行っている。順次出自場所を求めるのであるが、先ずは初見の「備前國御野郡」についてその領域を示すことにする。

少し前で「藤野郡」が重要な交通拠点となったことから周辺諸郡から幾つかの郷を転属させ、拠点となったために生じる労役などが賄えるようにしていた(こちら参照)。

そんな背景の中で周辺地域の整備が急速になされていたものと推測される。例によって、御野=野を束ねているところの名前が示す地形から図に示した場所を表していると思われる。既出の三財部毘登方麻呂(笠臣を賜氏姓)の居処を含む場所である。

この郡では物部麻呂の居処があったと記載されている。各地にある「物部」の地形を図に示した場所に見出せる。「方麻呂」と谷間を挟んで相対するところである。麻呂=萬呂と解釈されるであろう。

「藤野郡」の三名の出自場所を図に示した。別部大原別部比治の「別部」は、別=和氣であり、その長く延びた山稜を出自とする人物等であることが解る。大原=平らに広がったところ比治=水辺で耜のような山稜が並んでいるところと解釈した結果である。財部黒土の「財部」は、「三財部」の近隣を表している。黒土=谷間に炎のように延び出た山稜が盛り上がっているところと読み解ける。

<藤野郡忍海部興志>
<赤坂郡家部大水>
上記四名には石生別公が賜姓されている。は「別」、は「石生」=「山麓に小高い地が生え出ているところ」である。どうやらそれらを寄せ合わせた名称としたようである。

続いて藤野郡忍海部興志と赤坂郡家部大水の出自場所については、地形の変形が大きく、国土地理院航空写真1961~9年を参照することにする。

忍海部興志の「忍海」は「藤野郡」に転属した赤坂郡珂磨郷・佐伯郷の地域を表していると思われる。忍海=ギザギザと山稜が突き出た谷間に母親が両腕で抱えるような地があるところと読み解く。推測になるが、川の蛇行が激しく”磯”の状態になっていたのかもしれない。

名前の興志=両手で四角く取り囲まれた地に蛇行する川が流れているところと解釈される。図に示した場所辺りが出自と思われるが、地図の解像度の限界を越えているようである。賜姓は石生別公、上記のの仲間であろう。

家部大水については、1961~9年でも既に大きく変形が見られる場所が出自と推定される。家部=谷間に延び出た山稜の端が豚の口のようになっている地の近隣のところと解釈される。大水=平らな頂の山稜の麓で川が流れているところとなるが、地図上での確認は難しいようである。賜姓は石野連と記載されている。「別」とは、少し隔たった場所を表している。

<藤野郡母止理部奈波>
<美作國勝田郡家部國持>
藤野郡母止理部奈波の既出の文字列である母止理=母が両腕で抱えるように延ばした山稜の端が両足を揃えて止めているような地が切り分けられているところと読み解ける。部=近隣と解釈すると、図に示した場所が見出せる。

財部黒土の南隣に配置となる。同じく既出の文字列である奈波=高台になった山稜が水辺を覆い被さるように延びているところと読み解ける。出自の場所求めるできる。

「備前國」に接する「美作國勝田郡」は、その一部を「藤野郡」に供出していた。残りの地域から、家部國持の上記と同様の地形を表す家部を求めると、図に示した辺りと推定される。既出の文字列である國持=手を曲げたような山稜が取り囲んだところと解釈される。図に示した場所が出自と思われる。

共にと同じく「石野連」を賜姓されている。また、直後に限られた人々ではなく、全員に賜姓したと追記されている。住人全体の掌握が未達だったのであろうか・・・。

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『續日本紀』巻廿九巻尾





















 

2023年8月12日土曜日

高野天皇:称徳天皇(20) 〔644〕

高野天皇:称徳天皇(20)


神護景雲三(西暦769年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

春正月庚午朔。廢朝。雨也。辛未。御大極殿受朝。文武百官及陸奥蝦夷。各依儀拜賀。是日。勳六等已上。身有七位而帶職事者。始著當階之色。列於六位之上。六位諸王著纁者次之。壬申。法王道鏡居西宮前殿。大臣已下賀拜。道鏡自告壽詞。丙子。御法王宮。宴於五位已上。道鏡与五位已上摺衣人一領。蝦夷緋袍人一領。賜左右大臣綿各一千屯。大納言已下亦各有差。丁丑。御東内始行吉祥悔過。丙戌。御東院賜宴於侍臣。饗文武百官主典已上。陸奥蝦夷於朝堂。賜蝦夷爵及物各有差。戊戌。授无位牟都岐王從五位下。己亥。陸奥國言。他國鎭兵。今見在戍者三千餘人。就中二千五百人。被官符。解却已訖。其所遺五百餘人。伏乞暫留鎭所。以守諸塞。又被天平寳字三年符。差浮浪一千人。以配桃生柵戸。本是情抱規避。萍漂蓬轉。將至城下。復逃亡。如國司所見者。募比國三丁已上戸二百烟安置城郭。永爲邊戍。其安堵以後。稍省鎭兵。官議奏曰。夫懷土重遷。俗人常情。今徙無罪之民。配邊城之戍。則物情不穩。逃亡無已。若有進趨之人。自願就二城之沃壤。求三農之利益。伏乞。不論當國他國。任便安置。法外給復令人樂遷以爲邊守。奏可。

正月一日、朝賀を雨が降ったために廃している。二日に大極殿に出御され朝賀を受けられている。文武の百官及び陸奥蝦夷は、それぞれの儀式に従って拝賀している。この日、勲六等以上で、その身が七位の位にあり、定まった職掌のある者は、初めて七位の浅緑色の朝服を着して、六位の上に並んだ。六位の諸王のうちで纁色の朝服を着す者は、その次に並んでいる。

三日に法王の道鏡は西宮の前殿にいて、大臣以下は新年の拝賀を行っている。道鏡は、自ら祝いの言葉を告げている。七日に法王宮に出御され、五位以上の官人と宴を催している。道鏡は五位以上の官人に摺衣を各一領、蝦夷に緋袍を各一領与えている。天皇は左右大臣に真綿を各々千屯、大納言以下にも地位に応じて真綿を賜っている。八日に東内に出御され、初めて吉祥天に対する悔過を行っている。

十七日に東院に出御され、侍臣に宴を賜っている。また文武の百官で主典以上の官人と陸奥蝦夷を朝堂に招き饗宴を催している。蝦夷にはそれぞれ位と物を賜っている。ニ十九日に「牟都岐王」に従五位下を授けている。

三十日に陸奥國が以下のように言上している・・・他國の鎮兵で、現在守備に就く者は三千人余りいる。そのうちの二千五百人は官符を受けて既にその任を解くことを終えている。残りの五百人余りについては、しばらく鎮所に留め、それぞれの要塞を守ることを乞い願う。また、天平字三(759)年の官符を受けて浮浪人千人を派遣して桃生城の柵戸に割り当てた。しかし元々彼等の心には、巧みに負担を逃れようとする気持ちがあり、浮草のように彷徨い、蓬のように転々と場所を変え、城下に至るかにみえて、また逃亡する。國司の見るところでは、隣國の正丁が三人以上いる戸、二百戸を募って城郭内に留め置き、永らく辺境の守りとする。安住定着した後に少しずつ残りの鎮兵を省きたく思う・・・。

この言上を受けて太政官は審議し、以下のように奏している・・・郷土を思い他所へ遷ることに気のすすまないのは、世間の人の常に持つ感情である。今、罪のない人民を流刑のように遷し、辺境の城郭の守備に充てることは、物事のありかたとして穏やかではなく、逃亡が止むことはないであろう。そこでもし、進んで出かけようという人がいて、しかも自ら二城(桃生伊治)の肥えた土地で三農(平地農・山農・沢農)の利益を求めることを願うならば、当國人であろうと他國人であろうと関係なく、都合に合わせて一定の場所に安住させ、法の規定のほかにも租税の免除を与えて、他の人々にも移住を願わせ、そして辺境の守備に当たらせることをひたすら乞い願う・・・。この奏が許されている。

<牟都岐王>
● 牟都岐王

全く唐突に記載されているが、調べると古事記の久米王(書紀では來目皇子)の後裔であり、父親が長田王の系譜が伝えられていることが分かった。

少し前に亡くなった従三位・参議の山村王に類似する系譜だったようである。と言うことで、現地名の田川市夏吉の白髪川の左岸にある丘陵地帯を探索することになる。

”古事記風”の牟都岐王に含まれる、頻出の文字列である牟都岐=[牛]の頭部のような谷間に挟まれた山稜が交差するように延びた麓が二つに岐れているところと読み解ける。出自の場所を図に示した。後に牟都支王とも表記される。

ところが、この名称での登場は、ここのみであり、後に幾度か登場される時は、正月王と記載されている。正月=山稜の端が足を止めたように揃って並んでいるところと解釈される。見事な別名表記であることが解る。尚、父親の「長田王」は、図に示した場所を居処としていたのであろう。

二月壬寅。幸左大臣第授從一位。其男從五位上家依。從五位下雄依。其室正四位下大野朝臣仲智並賜一階。甲辰。以從五位上道嶋宿祢三山爲陸奥員外介。庚戌。授從五位下小垂水女王正五位下。甲寅。從四位下勳四等竹宿祢乙女卒。乙夘。奉神服於天下諸社。以大炊頭從五位下掃守王。左中弁從四位下藤原朝臣雄田麻呂。爲伊勢太神宮使。毎社男神服一具。女神服一具。其太神宮及月次社者。加之以馬形并鞍。丙辰。勅。陸奥國桃生。伊治二城。營造已畢。厥土沃壤。其毛豊饒。宜令坂東八國。各募部下百姓。如有情好農桑就彼地利者。則任願移徙。隨便安置。法外優復。令民樂遷。辛酉。伊勢國飯高郡人正八位上飯高公家繼等三人。左京人正六位上神麻續連足麻呂。子老。右京人神麻續連廣目等廿六人。攝津國嶋上郡人正六位上三嶋縣主廣調等並賜姓宿祢。癸亥。幸右大臣第。授正二位。乙丑。外從五位下林連佐比物。廣山。正六位上日下部連意卑麻呂並賜姓宿祢。」授從五位上吉備朝臣泉正五位下。丙寅。授正六位上平群朝臣家麻呂從五位下。 

二月三日に左大臣(藤原永手)の邸宅に行幸され、從一位を授けている。また、その息子の「家依」と「雄依」(こちら参照)、「永手」の妻である大野朝臣仲智(仲仟。廣言に併記)に、それぞれ位を一階賜っている。五日、道嶋宿祢三山を陸奥員外介に任じている。十一日に小垂水女王(図中)に正五位下を授けている。十五日に勲四等の竹宿祢乙女(多氣宿祢弟女。天皇の乳母の一人)が亡くなっている。

十六日に神服をを天下の諸社に奉っている。大炊頭の掃守王と左中弁の藤原朝臣雄田麻呂を伊勢太神宮使に任じている。各社に男神の服一具と女神の服一具を奉ったが、大神宮と月次社(年に二度の月次祭に参加する神社)には、これに加えて馬形(馬の模型)と鞍を奉っている。

十七日に次のように勅されている・・・陸奥國の桃生伊治の二城の造営は既に終わった。この地方の土地は肥えており、実りは豊かで満ち足りている。「坂東八國」(九國。常陸國を除く)に命令を下して國内の人民を募り、もし心から耕作と養蚕を好み、かの二城の地からあがる利益を得ようと思う者があれば、その願いに任せて移住させ、彼等の都合に従って安らかに住める地におくようにせよ。また、法の規定の他にも優遇して税を免除し、人民に移住を願わせるようにせよ・・・。

二十二日に伊勢國飯高郡の人である「飯高公家繼」等三人、左京の人である「神麻續連足麻呂・子老」、右京の人である「神麻續連廣目」等二十六人、攝津國嶋上郡の人である「三嶋縣主廣調」等に、それぞれ宿祢姓を賜っている。二十四日に右大臣(吉備眞備)の邸宅に行幸され、正二位を授けている。二十六日に林連佐比物(雑物)・廣山日下部連意卑麻呂(虫麻呂に併記)に、それぞれ宿祢姓を賜っている。また、吉備朝臣泉(眞備に併記)に正五位下を授けている。二十七日に「平群朝臣家麻呂」に従五位下を授けている。

<飯高公家繼-若舎人・笠目(諸高)>
● 飯高公家繼

伊勢國飯高郡の飯高公(君)とくれば、聖武天皇紀に采女の飯高君笠目が登場していた。古事記で天押帶日子命が祖となったと記載される伊勢飯高君に関わる一族であるが、系譜が定かではなかったのであろう。

今回の人物も爵位は決して高くはなく、官人としての認知度が低かったようであるが、この地域を出自を持つ人物としては貴重である。

家繼=山稜の端が豚の口のような形をしている地が繋がっているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。「笠目」の東側である。残念ながら賜った飯高宿祢氏姓での登場は果たされなかったようであるが・・・。

後(光仁天皇紀)に飯高公若舍人が宿祢姓を賜っている。若舍人=谷間で山稜が延びた先で小高く広がった地が細かく岐れているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

また、同じく光仁天皇紀に飯高宿祢諸高が従四位下を叙爵されている。勿論、それが初見なのであるが、あらためて「笠目」の地形を見ると、諸高=皺が寄ったような地で耕地が交差するように延びているところを表していることが解り、別名と推測される。

この人物が寶龜八(777)年八月に八十歳で亡くなっているのだが、珍しく略歴が記載されている。飯高郡の出身であり、采女として立派な務めを果たしたようである。如何に優秀であったかは、異例ともいえる最終典侍・従三位が表している。

<神麻續連足麻呂-子老-廣目>
● 神麻續連足麻呂・子老・廣目

「神麻續連」は、記紀・續紀を通じて初見の一族であろう。上記本文によると、彼等は”左京”と”右京”に分かれていたようである。即ち、左右京の別々の場所を居処としていた?…ではなかろう。

思い起こされるのが、京職が献上した白鼠に関して、この「白鼠」が左右京に跨っていたと解釈した。要するに、平城宮ができて、左右京の境界線が、この地を分断したのである。

神麻續=長く延びる山稜の麓に擦り潰されたように平らな地が次々と繋がっているところと読み解ける。「鼠」の巣穴が並んでいる地形の別表記のようにも思われる。

現在は大きな貯水池となっているため、国土地理院航空写真1961~9年を参照して、彼等の出自の場所を求めることにする。足麻呂の「足」の地形を図に示した谷奥に見出せる。その南側に子老=生え出た山稜が海老のように曲がって延びているところが確認される。この二人は、間違いなく”左京”に属していることが解る。

廣目=目の形をした地が広がっているところと解釈すると、左右京の境界線を越えた、西側の場所がその地形示していると思われる。二十六人全員に「神麻續宿祢」氏姓を賜っているのだが、およそ九ヶ月後に、また連姓に復されている。理由は定かではないようである。

<三嶋縣主廣調・三嶋宿祢宗麻呂-廣宅>
● 三嶋縣主廣調

攝津國嶋上郡の住人と記載されている。元明天皇紀に初見である当該郡は、その後に記載されることがなく、この地を出自とする人物も登場することがなかった。

図に示したように書紀中(図中括弧付)で記載された人物名等が多く見られ、勿論、その時点では郡建てがなされていなかったのであろう。また、郡の領域も曖昧なままであった。

三嶋縣主の「三嶋」は、既に幾度か用いられた文字列であり、三嶋=三つの小高い島状の地が並んでいるところと解釈した。この地も変形が大きく、国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、図に示した場所が見出せる。

また、この山稜が縣=首をぶら下げたような様であり、その中央の真っ直ぐ延びる()山稜の麓が出自の場所と推定される。些か変わった名前の持ち主なのであるが、廣調=耕地が周辺まで広がっているところと読み解くと、更にその場所の地形を表現していることが解る。

少し後に三嶋宿祢宗麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。「麻呂」=「萬呂」として、宗麻呂=山稜に挟まれた高台が[萬]の形になっているところと解釈すると、「廣調」の東側の谷間を示していると思われる。

後の桓武天皇紀に三嶋宿祢廣宅が従五位下を叙爵されて登場する。廣宅=谷間に延び出た山稜が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。女官のようであって、暫くして正五位下に昇進されている。

● 平群朝臣家麻呂 遣唐使節団の判官として、実に数奇な運命を辿った廣成が孝謙天皇紀に亡くなっていた(最終従四位上)。おそらく、その一族に関わる人物と推測されるが、地形変形が凄まじく、当時の平群の山稜を確認することが叶わないように思われる。引用した「廣成」の出自場所の周辺が、この人物の出自としておこう。

三月戊寅。授正六位上高市連豊足外從五位下。」以從五位下大伴宿祢形見爲左大舍人助。從五位下大伴宿祢清麻呂爲主税頭。外從五位上秦忌寸智麻呂爲助。從五位上船井王爲刑部大輔。從五位下石川朝臣望足爲右京亮。左中弁從四位下藤原朝臣雄田丸爲兼内豎大輔。右中弁從五位上阿倍朝臣清成爲兼田原鑄錢長官。左大弁從四位下佐伯宿祢今毛人爲兼因幡守。從五位下中臣朝臣子老爲美作介。近衛將監從五位下紀朝臣船守爲兼紀伊介。外從五位下高市連豊足爲大宰員外大典。從五位上阿倍朝臣三縣爲筑前守。辛巳。陸奥國白河郡人外正七位上丈部子老。賀美郡人丈部國益。標葉郡人正六位上丈部賀例努等十人。賜姓阿倍陸奥臣。安積郡人外從七位下丈部直繼足阿倍安積臣。信夫郡人外正六位上丈部大庭等阿倍信夫臣。柴田郡人外正六位上丈部嶋足安倍柴田臣。曾津郡人外正八位下丈部庭虫等二人阿倍曾津臣。磐城郡人外正六位上丈部山際於保磐城臣。牡鹿郡人外正八位下春日部奥麻呂等三人武射臣。曰理郡人外從七位上宗何部池守等三人湯坐曰理連。白河郡人外正七位下靭大伴部繼人。黒川郡人外從六位下靭大伴部弟虫等八人。靭大伴連。行方郡人外正六位下大伴部三田等四人大伴行方連。苅田郡人外正六位上大伴部人足大伴苅田臣。柴田郡人外從八位下大伴部福麻呂大伴柴田臣。磐瀬郡人外正六位上吉弥侯部人上磐瀬朝臣。宇多郡人外正六位下吉弥侯部文知上毛野陸奥公。名取郡人外正七位下吉弥侯部老人。賀美郡人外正七位下吉弥侯部大成等九人上毛野名取朝臣。信夫郡人外從八位下吉弥侯部足山守等七人上毛野鍬山公。新田郡人外大初位上吉弥侯部豊庭上毛野中村公。信夫郡人外少初位上吉弥侯部廣國下毛野靜戸公。玉造郡人外正七位上吉弥侯部念丸等七人下毛野俯見公。並是大國造道嶋宿祢嶋足之所請也。丁亥。下総國飢。賑給之。己丑。志摩國飢。賑給之。乙未。始毎年運大宰府綿廿万屯。以輸京庫。丙申。勅。縁有所思。大赦天下。神護景雲三年三月廿八日昧爽以前雜犯大辟罪以下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。及強竊二盜。咸赦除之。其八虐。私鑄錢。常赦所不免者。不在赦限。」以從五位上榎井朝臣子祖爲山背守。

三月十日に「高市連豊足」に外従五位下を授けている。また、大伴宿祢形見を左大舎人助、大伴宿祢清麻呂(淨麻呂。小薩に併記)を主税頭、秦忌寸智麻呂を助、船井王を刑部大輔、石川朝臣望足(垣守に併記)を右京亮、左中弁の藤原朝臣雄田丸(雄田麻呂)を兼務で内豎大輔、右中弁の阿倍朝臣清成(淨成)を兼務で田原鋳銭長官、左大弁の佐伯宿祢今毛人を兼務で因幡守、中臣朝臣子老を美作守、近衛将監の紀朝臣船守を兼務で紀伊介、「高市連豊足」を大宰員外大典、阿倍朝臣三縣(御縣)を筑前守に任じている。

十三日に陸奥國白河郡の人である「丈部子老」、「賀美郡」の人である「丈部國益」、標葉郡の人である「丈部賀例努」等十人に「阿倍陸奥臣」、また安積郡の人である「丈部直繼足」に阿倍安積臣、信夫郡の人である「丈部大庭」等に「阿倍信夫臣」、柴田郡の人である「丈部嶋足」に「安倍柴田臣」、會津郡の人である「丈部庭虫」等二人に「阿倍會津臣」、磐城郡の人である「丈部山際」に「於保磐城臣」、牡鹿郡の人である「春日部奥麻呂」等三人に「武射臣」、曰理郡の人である「宗何部池守」等三人に「湯坐曰理連」、白河郡の人である「靫大伴部繼人」と「黒川郡」の人である「靫大伴部弟虫」等八人に「靫大伴連」、行方郡の人である「大伴部三田」等四人に「大伴行方連」、苅田郡の人である「大伴部人足」に「大伴苅田臣」、柴田郡の人である「大伴部福麻呂」に「大伴柴田臣」、磐瀬郡(石背郡)の人である「吉弥侯部人上」に「磐瀬朝臣」、宇多郡(宇太郡)の人である吉弥侯部文知(石麻呂に併記)に「上毛野陸奥公」、名取郡の人である吉弥侯部老人(名取朝臣龍麻呂に併記)と「賀美郡」の人である吉弥侯部大成等九人に「上毛野名取朝臣」、信夫郡の人である「吉弥侯部足山守」等七人に「上毛野鍬山公」、「新田郡」の人である「吉弥侯部豊庭」に「上毛野中村公」、信夫郡の人である「吉弥侯部廣國」に「下毛野静戸公」、「玉造郡」の人である「吉弥侯部念丸」等七人に「下毛野俯見公」の氏姓を賜っている。これらの賜姓は、陸奥國大國造の道嶋宿祢嶋足(丸子嶋足)の申請によるものである。

十九日に下総國に飢饉が起こったので物を与えて救っている。二十一日に志摩國に飢饉が起こったので物を与えて救っている。二十七日に初めて毎年大宰府の真綿二十万屯を運ばせ、京の倉庫に納めさせることにしている。

二十八日に次のように勅されている・・・思うところがあるため、天下に大赦を行う。神護景雲三年三月二十八日の夜明け以前の様々な犯罪は、死罪以下、罪の軽重に関係なく、既に発覚した罪も未だ発覚していない罪も、既に罪名の定まった者も未だ定まっていない者も、獄に繋がれて服役している罪人も、また強盗・窃盗もみな全て赦す。但し、八虐を犯した者、贋錢造りなど常の赦では許されない者は、この赦の範囲に入れない・・・。この日、榎井朝臣子祖(小祖父)を山背守に任じている。

<高市連豊足-屋守>
● 高市連豊足

「高市連」は、書紀の天武天皇紀に登場した高市縣主許梅(後に連姓を賜う)、その後續紀の聖武天皇紀に大國・眞麻呂の名前が記載されている。

彼等の出自は、直近に天皇が行幸された「大和國高市郡」に含まれる場所である。その地詳細が述べられている貴重な記述であった(こちら参照)。

さて、今回登場の人物の出自の場所を求めるのだが、この地も地形の変形が凄まじく、国土地理院航空写真1961~9を参照しながらの探索となってしまうようである。

豐足=段差のある高台が足のような形をしているところと解釈すると、図に示した場所に、それらしき地形を見出せる。「大國」の南に隣接する場所である。高市皇子の後裔、とりわけ長屋王系列の王等が多数蔓延った地の一角、勿論、未出である。

後(光仁天皇紀、寶龜六[775]年)に高市連屋守が外従五位下を叙爵されて登場する。屋守=延び至った山稜の端が両肘を張ったように延びているところと読み解くと、図に示した辺りが出自と推定される。

● 丈部子老[阿倍陸奥臣]・丈部直繼足[阿倍安積臣]・春日部奥麻呂[武射臣]・靫大伴部繼人/靫大伴部弟虫[靫大伴連]・吉弥侯部人上[磐瀬朝臣]

<陸奥國住人①>
登場した順ではなく、地域ごとに纏めて各人の出自の場所を求めることにする。先ずは、白河郡・磐瀬郡(石背郡)・安積郡
牡鹿郡、そして初見の黒川郡である。

結果的に「黒川郡」と名付けられた場所は、国土地理院航空写真1961~9においても、既に地形変形が見られ、推測の域に留まっている。

ただ、幸いなことに靫大伴部繼人(白河郡。靫大伴連を賜姓)及び靫大伴部弟虫(黒川郡。同じく靫大伴連を賜姓)に含まれる「靫大伴」の文字列が示す特徴的な地形から各々の出自場所を求めることができると思われる。初見の「黒川郡」は、多分、図に示した辺りと推測される。

靫=谷間が筒のようになっている様、頻出の大伴=平らな頂の山稜を半分に切りわっけているところと解釈される。残念ながら黒川黒=谷間に炎のような山稜が延びている様弟虫=山稜の端が細かく岐れてギザギザとしているところの地形は確認されないが、「黒」と「弟虫」は、極めて類似した地形を表していると思われる。

尚、陸奥國黒川郡は、聖武天皇紀に登場していた郡名であった。置賜郡の西側の谷間と推定した。ところがこの「置賜郡」は出羽國に編入され、二郡の配置からして「黒川郡」も、陸奥國ではなく、出羽國に属するようになっていたのではなかろうか。

丈部子老(白河郡。阿倍陸奥臣を賜姓)の丈部=杖のように細長く延びた山稜の近辺にあるところ子老=生え出た山稜が海老のように曲がっているところと解釈すると、図に示した場所の地形を表していることが解る。賜った阿倍陸奥臣の頻出の阿倍=台地が[不]の形に分かれているところと解釈したが、その地形を見出せる。

丈部直繼足(安積郡。阿倍安積臣を賜姓)の出自を「安積郡」で求めると、些か地形変形があって、曖昧さが残るが、繼足=足のような地が連なっているところを推定できる。図には示していないが、やはり賜った阿倍安積臣の「阿倍」の地形を当時は示していたのであろう。

春日部奥麻呂(牡鹿郡。武射臣を賜姓)は牡鹿郡の住人と記載されている。この申請を行った大國造の道嶋宿祢嶋足の居処であるが、元の名前である「丸子嶋足」の近隣には全く余地がない。尚かつ、春日部の氏名であり、果たしてその名が示す地形は存在するのか?…全くの杞憂であった。

春日部春日=太陽のような山稜の前で[炎]のように細かく山稜が延び出たところと解釈した。その地形を「道嶋宿祢」の北側の谷間に確認することができる。上記の航空写真を参照すると、その地形が見出せ、道嶋宿祢三山の一つの山が該当することが解る。賜った武射臣武射=戈のような山稜と端が弓のように曲がっている山稜があるところと読み解ける。この谷間のが出自の人物と思われる。

吉弥侯部人上(磐瀬郡。磐瀬朝臣を賜姓)の吉弥侯部=蓋をするように弓なりに広がった山稜の端が矢のように尖っているところと解釈した。「磐瀬郡」にある、これも既出の人上=谷間で盛り上がったところの谷間の西側の山稜を表していると思われる。

ところで「磐瀬郡」は、かつては石背=石を背にしているところと記載されていた。磐瀬=広がった磐のような山稜が水辺で飛び跳ねるように延びているところと解釈される。「牡鹿」の山稜の別表記であろう。

● 丈部國益[阿倍陸奥臣]・丈部大庭[阿倍信夫臣]・丈部庭虫[阿倍會津臣]・吉弥侯部大成[上毛野名取朝臣]・吉弥侯部足山守[上毛野鍬山公]・吉弥侯部廣國[下毛野静戸公]

<陸奥國住人②>
引き続いて信夫郡・會津郡の住人、そして、この地域でも初見の郡名、賀美郡が記載されている。賀美=谷間が押し広げられて延びているところと解釈すると、図に示した場所の地形を表していると思われる。

多分、海水面が後退するのに加えて、海辺の耕地開拓が行われて来たのであろう。山間の棚田から海辺の水田に拡大させた日本の水田稲作の歴史である。

丈部國益(賀美郡。阿倍陸奥臣)の國益(益)=区切られた大地が谷間に挟まれて平らに広がったところと解釈される。

標高差が少なく一見確認し辛くおもえるが、図に示した場所に、その地形を見出せる。賜姓の阿倍陸奥臣の「阿倍」が示す「不」の地形を確認することができる。上記丈部子老と同じ賜姓となるが、同祖だったのかもしれない。尚、丈部の解釈も全く同様である。

同じ「賀美郡」の住人に吉弥侯部大成が記載されている。「吉弥侯」の地形を図に示した場所に見出せる。また賜姓の上毛野名取朝臣に含まれる名取=山稜の端が耳のような形をしているところから、この人物の出自場所を特定することができる。頻出の上毛野=盛り上がった鱗のような地が広がっているところと解釈する。

丈部庭虫(會津郡)の庭虫=山麓で広がった地の端が三つに岐れているところと解釈される。図に示した辺りが出自と推定される。賜姓の阿倍會津臣の「阿倍」は上記と同様の[不]の地形をしていることが解る。

「信夫郡」に住まう人、三名が登場している。丈部大庭大庭=平らな頂の山稜の麓で平らに広がり延びているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。賜姓の阿倍信夫臣の「阿倍」は上記の丈部子老(阿倍陸奥臣)と重なった表記で、郡名の由来である「信夫」の場所に当たることを表してる。

吉弥侯部足山守の名前は、何とも盛りだくさんの様子なのであるが、足=山稜が足のように二股に延びている様山=山稜が[山]の形に延びている様守=山稜が両肘を張り出したように延びている様と解釈されるが、これら三つの地形と見做せる場所を示しているのであろう。些か標高差が少なく確認し辛いが、図に示した辺りと思われる。賜姓の上毛野鍬山公の「鍬」がこれら地形を纏めて表現しているようである。

吉弥侯部廣國廣國=広がって区切られているところとであり、「足山守」の東側の小高くなった場所と推定される。賜姓が下毛野静戸公と記載されている。「下毛野」は、上記の「上毛野鍬山公」に対して下流域にあることから名付けられたのであろう。

「静(靜)」の文字が名称に用いられた最初の例と思われる。靜=靑+爭=両腕のような山稜の前で四角く取り囲まれた様と解釈される。図に示したように、それらしき窪みが見出せる。また、それが谷間を塞ぐようなの形になっていると見做した名称と思われる。

● 丈部賀例努[阿倍陸奥臣]・丈部山際[於保磐城臣]・宗何部池守[湯坐曰理連]・大伴部三田[大伴行方連]

<陸奥國住人③>
この地域は、かつて「石城國」とされ、その後に陸奥國に併合されている。各郡の配置はこちらとなるが、「宇多(太)郡」に関わる人物が既に登場し、そちらに纏めた。

兎も角も、最も激しく地形変形が行われた場所の一つであり、国土地理院航空写真のみで居処を求めることになる。ゴルフ場は、かなり元の地形を留めているが、宅地開発は、非情にも根こそぎである。”列島改造”のなせるところか・・・。

「標葉郡」の住人である丈部賀例努の名前に用いられている「例」は、初見の文字であろう。「例」=「人+列」と分解すると、例=谷間が並んでいる様と解釈される。

纏めると賀例努=押し開かれた谷間に二つの谷間が並んで嫋やかに曲がる山稜が延びているところと読み解ける。その山稜の麓が出自と推定される。賜姓は阿倍陸奥臣であり、やはり上記と同様に「阿倍」の地形を確認することができる。

「磐城郡」の丈部山際山際=山の麓にあるところと読める。これだけでは特定困難なのだが、賜姓の於保磐城臣の既出の文字列である、於保=旗をなびかせたような山稜の先の谷間に丸く小高い地があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。

「曰理郡」の住人、宗何部池守の含まれる「何」=「人+可」=「谷間の出口が[人]の形をしている様」と解釈する。「宗」=「宀+示」=「谷間に高台がある様」であり、宗可=高台がある谷間の出口が[人]の形をしているところと読み解ける。名前の池守=水辺が曲がって延びている地に山稜が両肘を張り出したような形になっているところと解釈すると、出自の場所を求めることができる。

賜姓の湯坐曰理連湯坐=二つ並んだ小さな谷間に水が飛び散るように流れているところと読み解いた。古事記の額田部湯坐で用いられた文字列である。この地形を上記の写真から読み取ることができる。そして、この地形こそ、「曰理郡」の「曰」が表す地形であることが解る。上記の「於保」と併せて、”列島改造”前の地形図があれば、極めて確度高いものとなったであろう。

最後、「行方郡」の大伴部三田の「大伴」は、図に示したように谷間が突き抜けているように見える。それを表していると思われる。三田=三つ並んだ平らに整えられたところと読むと、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。賜姓の大伴行方連は、これらを併せた表記である。

● 丈部嶋足[安倍柴田臣]・大伴部福麻呂[大伴柴田臣]・大伴部人足[大伴苅田臣]

<陸奥國住人④>
「柴田郡・苅田郡」の住人について、その出自の場所を求めてみよう。元正天皇紀に「柴田郡」の二郷を割いて「苅田郡」とした、と記載されていた(こちら参照)。

「柴田郡」の丈部嶋足丈部は、上記と同様に陸奥國の地形、即ち、山稜が長く延びている状態を示している。嶋足=山稜が鳥の形して足を延ばしているようなところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。

賜姓は安倍柴田臣と記載され、安倍=山稜に挟まれた谷間が嫋やかに曲がって延びている地に[不]の形の山稜があるところが表す地形の場所であることが解る。

同郡の大伴部福麻呂の「大伴」は、図に示した「苅田郡」の北端の谷間を表していると思われる。既出の福(福)=示+畐=酒樽のような小高い様と解釈した。図に示した場所辺りが、それらしき地形と思われる。賜姓の大伴柴田臣は、それを纏めた表記となっているようである。

「苅田郡」の大伴部人足人足=[人]の形をした足のようなところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。また、賜姓の大伴苅田臣は上記と同様の表記であろう。

● 吉弥侯部豊庭[上毛野中村公]・吉弥侯部念丸[下毛野俯見公]

<陸奥國住人⑤>
玉造郡は、前出の「玉作軍團」が設置されていた場所であり、聖武天皇紀に丹取郡が分割されて、金鉱が発見されて元号に関わる小田郡と二郡になったと思われる。

確かに「玉作郡」とすると「小田郡」と重なる地形象形表記となるために文字を換えた、のであろう。栗原郡の南側に当たる地域と思われる。

更に、初見の新田郡が登場している。新田=山稜が切り分けられた麓に平らに整えられた地があるところと解釈すると、図に示した谷間の地形を表していることが解る。「栗原郡」に含まれるのではなく、郡建てされていたようである。

住人である吉弥侯部豊庭の「吉弥侯」は上記と同様に解釈するとして、豐庭=段差のある高台の麓で平らに広がっているところと解釈すると図に示した辺りが出自と推定される。賜姓の上毛野中村公に含まれる中村=手のような山稜が真ん中を突き通しているところと解釈され、その山稜全体を毛野=鱗のように広がったところと見做していると読み解ける。「上」が付くのは、「下」の位置に類似する「毛野」があるからと思われる。

「玉造郡」の吉弥侯部念丸念=今+心=谷間の奥から蓋をするように山稜が延びている様と解釈する。それがの形をしていることを表す名前と思われる。図に示した場所が出自と推定される。賜姓の下毛野俯見公の「下毛野」は上記の通りであろう。

「俯」=「人+广+付」=「谷間で麓がくっ付いている様」と解釈される。纏めると俯見=麓がくっ付いている谷間が長く延びているところと読み解ける。当時の谷間の出口は海水面であったと推測され、実に限られた郡域だったと思われる。

総勢二十一名の一括賜姓、陸奥國の大半の住人があからさまにされたようである。元正天皇紀に「信太郡」在住の蝦夷、邑良志別君宇蘇弥奈等が登場していた。今回は「信太郡」の住人の賜姓は記載されず、大國造
道嶋宿祢嶋足の統治が行き届いていなかったのかもしれない。