宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣
天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)が春日之日爪臣之女・糠子郎女を娶って誕生した御子に「宗賀之倉王」が居た。唐突に「宗賀」が登場する。が、その直後に「宗賀之稻目宿禰大臣」がお出ましになる。これも唐突なのだが、宿禰大臣の称号が付いているわけだから、ポッと出の出自ではなかろう。勿論、孝元天皇の御子、建内宿禰、更にその御子の蘇賀石河宿禰に繋がる出自と解釈した。
「蘇」が示す山稜の端が寄り集まった、その隙間のようなイメージから「宗」山麓に広がる高台へと変貌したことを伝える表記と思われた。「宗賀」の幕開けである。今一度見直してみよう。
古事記原文…、
娶宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣、生御子、橘之豐日命、次妹石坰王、次足取王、次豐御氣炊屋比賣命、次亦麻呂古王、次大宅王、次伊美賀古王、次山代王、次妹大伴王、次櫻井之玄王、次麻奴王、次橘本之若子王、次泥杼王。十三柱。
岐多斯比賣の頑張りで十三人の御子が誕生する。久々の多勢、それだけの御子を養うだけの財力を保有していたのであろう。事実、凄まじいばかりに「宗賀」の地が埋まって行くのである。
宗賀之稻目・岐多斯比賣
「稲目」はサラッと読み飛ばしそうな名前であるが、何を象形しているのであろうか?…、
稲(稲の田)|目([目]の形に並ぶ)
…と紐解ける。宗賀が美しく治水されて豊かな水田地帯になった、なりつつあると宣言していると思われる。上記したように石河(現白川)に中流~下流域開拓の進捗を示す命名であった。
「岐多斯比賣」は「岐多志比賣命」とも表される。「志」=「之(蛇行する川)」と解釈される。ならばこの比賣の名前は…、
岐(二つに分ける)|多(山稜の端の三角州)|志(蛇行する川)
<宗賀之稲目・岐多斯(志)比賣> |
図の中央を縦に分断すかのような山稜が延び、両脇を川が蛇行して流れている。この最南端に付近にある國崎八幡宮辺りが宗賀の中心地域と思われる。
例によって比賣の名前に潜めた詳細な位置情報である。それにしても良くできた地形で宗賀全体を見渡す絶好の位置にある。
真に「国」である。豪族がそれだけの地域開発に努め、獲得した地であろう。蘇賀石河宿禰が祖となった「蘇我臣」の場所である。
「我」=「刃先がギザギザした矛」の地形象形と読み解いたところである。異なる表現で示された蘇我一族中心の地である。
<斤> |
ところで「岐多斯」の表記は何と紐解けるのであろうか?…わざわざ変えているのには意味がると見るべきであろう。それとも誤写で片付ける?・・・。「斯」=「其+斤」と分解され、本来の意味は「切り分ける」である。
「其」は箕を表し、穀物を篩い分ける道具であり、「斤」は斧の象形と解説される。右に甲骨文字を示した。この曲がった図柄から「之」の蛇行する様と通じると考えられようである。がしかし、それだけで文字の置換えを行ったとも思えない。
図に示したように山稜の端が「斤」の形をしていることが解る。「岐多斯」は…、
二つに分かれた山稜の端の三角州にある[斤]の形の地
…と読み解ける。上記で推定した場所をより明瞭に示していたのである。
御子が十三人「橘之豐日命、次妹石坰王、次足取王、次豐御氣炊屋比賣命、次亦麻呂古王、次大宅王、次伊美賀古王、次山代王、次妹大伴王、次櫻井之玄王、次麻奴王、次橘本之若子王、次泥杼王」と記述される。これらの御子が居た場所を突止めてみよう。
橘之豐日命
<橘之豐日命・泥杼王> |
だが、もう少し重ねられた意味を示すようである。この地は山麓に多くの稜線を持ち、段差があるところであることが判る。「豐日」は…、
豐(多くの段差がある高台)|日(炎の地形)
「橘」=「多くの支流が寄り集まる谷川」(登岐士玖能迦玖能木實)であり、古事記の漢字による地形象形の粋が注ぎ込まれている。ここまで書けば、間違いなく解るでしょ!…と言っているようである。「豐(多くの段差がある高台)」漸くにして安萬侶コード、登録である。
石坰王
「石坰」=「石河の境」即ち石河(現白川)が入江に注ぐところと推定される。仁徳天皇紀の墨江之中津王が坐していた近隣と思われる。当時は大きく入江が内陸側に入り込んでいた地形である。現地名は苅田町稲光と鋤崎との境となっている。
足取王
<足取王> |
取=耳+手
…と分解できる。
古代の戦闘で倒した敵の耳を取って戦果としたことから「取」の字ができたと言われる。
何とも物騒な文字なのであるが、現実なのであろう。漢字の字源なるものを紐解くと、この手の解説の多さに驚かされるのだが・・・。
実は「取」の文字は既出である。「鳥取」鳥取県の…ではなく垂仁天皇の御子、印色入日子命が坐した「鳥取之河上宮」で登場していた。上記の紐解きで瓦解したのである。安萬侶コード「取(縁にある手の地形)」とすることができた。
何にしても迷わず、これを適用すると、苅田町山口、現在の貯水池の西側に手の形をした山稜が見つかるのである。敢えて無印の地図を・・・明らかであろう。
豐御氣炊屋比賣命
後に「豐御食炊屋比賣命」とも記され「食⇔氣」が置き換えられている。何だか食欲旺盛、恰幅の良さそうな比賣の名前なのであるが、間違いなく坐していたところを表しているのであろう。「豐」は上記と同様、既出の「食」=「人(山麓)+良(なだらか)」及び「屋」=「尸(崖)+至(尽きる)」として紐解くと…「豐御食炊屋」比賣命は…、
豐(段差のある高台)|御(支配する)|食(なだらかな山麓)
炊([火]の地形)|屋(崖が尽きる)
<豐御食(氣)屋比賣命> |
「氣」であれば「高台にある段差が崖の尽きるところにある[火]のような地形を支配する」比賣命となる。
地形を文字で表現する限界に近付いている感じだが、図を参照。地形を表す多くの要素を盛り込んだ表記であることが解る。
後に推古天皇として、少し南の小治田宮に坐すことになる。古事記に登場する最後の天皇である。
尚、「炊」=「火+吹(飛び出る)」とすると、「火」の地形が飛び出ていると様を表していると解釈した。
「食、御氣」の文字列に合わせて「炊」の文字を使用したのではなかろうか。実に凝った命名である。お蔭で、紐解きに手間取る羽目に陥らされることになったわけである。
亦麻呂古王
<亦麻呂古王・大宅王・伊美賀古王> |
山頂からの複数の稜線が作る山腹を表したものであろう。「赤」の文字を使用しないのは、その山頂が周辺の中で最も高いところを示していると思われる。
微妙な地形を文字で表す、その真髄ではなかろうか。古事記の記述が地形象形の表記であることを確信するに至る。
他の文字は幾度か登場、それに準じて解釈すると…「呂」=「重なる田」、「麻」=「麼(小さく)」として…、
(平らな山頂からの稜線)|麻(細かく)|呂(重なる田)|古(定める)
…「平らな山頂からの稜線の合間を細かく田を重ね定める」王と紐解ける。現地名は行橋市徳永辺りである。
大宅王
これも「宅」=「宀+乇」に分解する。「大」=「平らな頂のある山陵」下記の「大伴王」の解釈と同じである。「乇」=「寄り掛かる、頼る」の意味を持つことより…、
大(平らな頂の山陵)|宀(山麓)|乇(寄り掛かる)
…「平らな頂のある山稜の麓に寄り掛かる」状態を示す場所と紐解ける。現地名、苅田町法正寺辺り、上記の「亦」と共有する山頂の平尾台の端、桶ヶ辻がある高い山稜が連なる麓である。今もある姓名「大宅」さんの由来か?・・・。
伊美賀古王
「伊美賀古」を安萬侶コードで紐解いてみると…、
伊(小ぶり)|美(谷間に広がる)|賀(積み重なる田)|古(定める)
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こんなところで、と言いつつ・・・伊(326)美(343)賀(184)古(166)王(386):古事記中の出現回数である。伊、美は王に並ぶくらいの登場である。
「小ぶりな谷間」に棲息していたかを示しているような・・・複数の意味をもたせるので一概には言えないが・・・この地形が最も安全で当時には最適な衣食住を提供していたのであろう。
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<宗賀の北部> |
スケールこそ違え、御所ヶ岳山稜を背に持つ「山代国」との類似は明らかである。現在の苅田町山口等覚寺・北谷辺りと思われる。犬上一族が居した場所と重なるのではなかろうか。
大伴王
これは難問である。固有名詞にも使われる文字は判断が難しい。と言うか、これが「大伴一族」の由来かもしれない。出自の場所は異なるのであろうが・・・。
「大」の地形象形は「大」=「平らな頂の山陵」とした。古事記に頻出の文字である。「伴」=「イ+半」とすると「半」=「牛のような大きなものを二つにする」ことからできた文字と解説される。
大(平らな頂の山陵)|伴(深い谷間)
…「平らな頂の山陵を区切る深い谷間」と紐解ける。現地名、苅田町山口の北谷に向かう谷筋と思われる。上記「足取王」の北側、「山代」向かう深い谷筋に当たるところである。解読できると地形象形の見事さに感心させられる。やはり、彼らは楽しんでいたのであろう。
櫻井之玄王
桜が咲く井戸の周りを意味するのでは決してない。蘇賀石河宿禰が祖となった記述に登場して、「桜井」=「佐(助ける、促す)|倉(谷)|井(水源)」と解釈した。八田山近隣である。「玄」=「黒」やはりここは「八咫烏」の住処であったことを示しているのではなかろうか。
麻奴王
この名称も普通過ぎて判断に苦しむところではあるが、「麻」=「麿」=「丸」と紐解き、「奴」=「野」として読み解くと「丸い形をした野」が導き出せる。現地名、苅田町稲光稲光上辺りにある丸く小高い丘が該当すると思われる。上図<宗賀の北部>を参照。
橘本之若子王
上記「橘之豐日命」に関連して、その山の上に「本谷」という地名が残っている。ここが求めるところと思われる。
水田地帯であろう。「杼」は織機の横糸を通すための道具とある。水田の水の流れに直交する様子に基づいた表現ではなかろうか。
現地名、苅田町鋤崎辺りの地形が吉野河(小波瀬川)に直交する地形を示している。
継体天皇(和風諡号:袁本杼命)が居たところと比定した場所である。
この地から東方に向かって水田が広がって行ったと推測される。
仁徳天皇紀に記述された「墨江」が広大な稲作地へと変貌したと伝えている。
纏めて図<岐多斯比賣と御子>に御子達の在処を示した。眺めると宗賀全体に散らばった配置となった。この地域が豊かになったことをあからさまにしている。
それにしても凄いものである。後に騒動を引き起こす?…敵にされる?…古事記は語らないが、争乱の要因の一端を図が示しているのではなかろうか・・・次回に更なる展開を見直してみよう。