市邊王之王子:意祁王・袁祁王
大長谷命(雄略天皇)の行動は凄まじい。大江之伊邪本別命(履中天皇)の御子である市邊之忍歯王までに手を掛けたと伝える。都夫良意富美もどうやら葛城に絡む出自を持つと言うわけだから、結果的に雄略天皇の行動は葛城殲滅が目的と推測される。
第二代綏靖天皇の時代から見れば、夢のように開拓され、豊かになった葛城の地から天皇家にとって脅威となる状況が生じて来ても不思議ではなかろう。勿論古事記は語らないが、結果として「倭国連邦言向和国」を維持するためには必要な処置だったのかもしれない。御子を娶った比賣に預ける制度は極めて効率の良いものであるが、付き纏って来るのがこの問題であろう。
さて、既に「針間国」の場所を求めるために格好の説話であった市邊王の御子の悲劇の物語を今一度再現してみよう。前記とダブルところがあるが、説話なので通して読み解いてみる。
古事記原文[武田祐吉訳]…、
於是、市邊王之王子等、意祁王・袁祁王二柱聞此亂而逃去。故到山代苅羽井、食御粮之時、面黥老人來、奪其粮。爾其二王言「不惜粮。然汝者誰人。」答曰「我者山代之猪甘也。」故逃渡玖須婆之河、至針間國、入其國人・名志自牟之家、隱身、伇於馬甘牛甘也。
[それでそのオシハの王の子のオケの王・ヲケの王のお二人は、この騷ぎをお聞きになって逃げておいでになりました。かくて山城のカリハヰにおいでになって、乾飯をおあがりになる時に、顏に黥をした老人が來てその乾飯を奪い取りました。その時にお二人の王子が、「乾飯は惜しくもないが、お前は誰だ」と仰せになると、「わたしは山城の豚飼です」と申しました。かくてクスバの河を逃げ渡って、播磨の國においでになり、その國の人民のシジムという者の家におはいりになつて、身を隱して馬飼牛飼として使われておいでになりました]
意祁王・袁祁王
殺害された市邊之忍齒王の二人の御子である。突然襲った不幸に逃げ惑い、逃避する行程が記される。それはまた倭国南部の地域の詳細な説明でもある。
「意祁王・袁祁王」が何処にいたのか?…母親は不詳である。父親の災難の情報を知った場所として忍齒王の居場所としてみよう。上記した現在の田川郡福智町市場辺りである。そこからの逃避行を再現することになる。
苅羽井
先ずは初見で解釈した例を示すと…、
第一通過点は「苅羽井(カリハヰ)」である。「苅羽井」=「カワイ」=「河(川)合」と読めば「河合」の由来は「河が合流しているところ」、それも単なる合流ではなく複数の河が集まってるような特徴のある場所に由来するとある。「山代の河合」を示している。
現在の京都郡みやこ町犀川生立辺りと推定できる。南から犢牛岳、蔵持山から流れる「喜多良川」「高屋川」、北から御所ヶ岳山塊から流れる「松坂川」が「犀川(山代川)」に合流する。平成筑豊田川線犀川駅近隣である。神功皇后が立寄ったという伝説のある生立八幡神社がある
…であった。また、山代大國之淵之女・苅羽田刀辨が居た場所の近隣と解釈することもできる。
最後の「苅羽田」との関連に気付くことによって古事記は「苅羽+?」という文字区切りをしていると判った。「苅+羽田」ではなく「苅羽+田」となる。同じく「苅羽+井」である。文字解釈の根本からの見直しである。では「苅羽」とは?…、
苅羽=苅(刈取る)|羽(羽の形状)
…「羽の形をした地の一部を刈り(切り)取った」ところを意味すると紐解ける。現在の犀川大村及び谷口が含まれる丘陵地帯を「羽のような地形」と表現したものと思われる。「苅羽田」は羽の端に当たる現在の犀川谷口辺りと推定される。既に比定した場所そのものに大きな狂いはない。
とすると、「苅羽井」は何と紐解けるであろうか?…、
苅(刈取る)|羽(羽の形状)|井(井形の水源)
…「羽の形をした地の端を切り取った四角い池(沼)」と解釈される。現在の犀川谷口大無田の近隣にある池を示していると思われる。
<苅羽井> |
「苅+羽田」=「草を刈取った埴田」埴田は草を刈取ってあるのは当然で、何とも釈然としない解釈と思われる。
古事記はこのような無意味な修飾語を使わない。より明確に場所を示していたと漸くにして気付かされた。
またこの第一通過点までの逃亡ルートも変更を余儀なくされるが、後に述べよう。
玖須婆之河
第二通過点「玖須婆(クスバ)之河」これも初見の解釈例を先に示すと…、
玖須(奇し:霊妙な力がある)|婆(端)
「霊妙な力があるところの端」と紐解ける。その川が「玖須婆之河」、現在の祓川である。日本三大彦山、修験者の山「英彦山」を源流に持つ「祓川」の謂れに直結する。「玖須婆之河」=「祓川」である。多くの修験者が登った霊験あらたかな山、古代から人々の生き様を見届けてきた山である。
<意祁王・袁祁王の逃亡> |
[く]の字に曲がった州の端にある川の渡
…で登場した川である。解釈はそれぞれだが、同じ川を示しているようである。二人が渡ったところはずっと上流であるが…。
何れにせよ、[く]の字の州が絶え間なく続き、その端(傍ら)の川と名付けられているようである。両意に重ねられていると思われるが、曲がってくねって流れる大河を示していると受け取れる。
志自牟
志(蛇行する川)|自(鼻:端)|牟(牛の鼻輪)
<志自牟> |
当時の海面を推定すると、入江と川で牛の字の形を作り、その入江に輪のような島が浮かんでいる地形を示していると読み解ける。
息長の「息」に類似する「自」の解釈となった。何とも巧みな表現としか言いようがないが、一に特定できる。現地名は築上郡築上町湊辺りである。
「志自牟之家」はこの島にあったと推定される。
二人の王子はここ針間国で馬飼牛飼として生き永らえたと伝えている。勿論これは後日の物語の布石である。皇位継承の乱れがなければ彼らが歴史の表舞台に躍り出ることはなかったであろう。
だが、皇位は一旦途切れることになる。彼らを登場させても元のような状態には戻らなかったのであろう。
「針間」「難波」など、それらは固有地名ではない。地名が付けられるのは統制された国家体制の下であろう。日本の古代史は、端から地名ありきで読まれて来た。これだけを取り上げても「通説」が如何に…”ええかげん”…なものであることを示していると判る。