2017年5月31日水曜日

『欠史八代』の天皇:その弐〔043〕

『欠史八代』の天皇:その弐


「葛城」意味するところが、解けてみて初めて、その重要性に気付かされた。現在では何も考えることなく当たり前、というか、そう言う場所と思い込んでいる。地名に関してこれほどまでも鈍感な状態になってしまったことに驚きと、そうさせられて来たという憤りのような気分である。

直近では「宇陀」「忍坂」「伊那佐」等々、古事記の地名表記を紐解けば解くほど現在の地形とのギャップを思い知らされる。そしてそれに気付かない、何も考えない、当然のごとくに「言葉」を発してしまう。そんな日常を、自戒も含め、見直してみようかと思う。

さて、八代の天皇達の「宮」の在処を再掲すると…

葛城3(綏靖、孝昭、孝安)
 :2(懿徳、孝元)
片塩1(安寧)黒田1(孝霊)春日1(開化)

であった

「葛城」に次いで多いのが「軽」である。それを紐解いてみよう。

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第四代懿徳天皇の「輕之境岡宮」と第八代孝元天皇の「輕之堺原宮」である。「輕」という文字には一度出会っている。応神天皇の「輕嶋之明宮」。水に浮かぶように見える、川中島のようなところと解釈して、現在の福岡県田川郡金田辺りとした。しかし今度は「嶋」がない。再度「輕」という文字解釈を見直してみた

「輕(軽)」の原義は「敵陣に真っすぐ突進していく車」とある。現在の日常では見られない象形は最も理解し辛いところではある。確かに上記の「軽嶋」も「軽く浮く」ようなイメージと、「川中島(嶋)」が川の合流点に「突き進む(軽)」ような地形から、と理解することができる。どうやら「突き進む」という解釈が妥当なように思われる。

この二つの「宮」の名前が「境岡」と「堺原」である。人々の生活空間の境、である。大きな川と川の合流点であったり、川が海に注ぐところであろう。大阪府堺市は大和川の河口にあり大阪湾に注ぐところである。「国譲り」を元に戻すと、難無く現在の彦山川が遠賀川に合流するところが浮かんでくる。

彦山川を挟んで福岡県直方市「上境」「下境」の地名が今に残る。彦山川が遠賀川に「軽」しているところである。当時は縄文海進で古代の遠賀湾となっていたところ、合流ではなく彦山川が遠賀湾に注ぐ場所であったかもしれない。「岡」と「原」を地形から選択すると…

境岡宮:直方市上境にある福地神社辺り
堺原宮:直方市上境にある水町遺跡辺り<追記>

ではなかろうか。共に福地川が流れる畔にあったと思われる。福智山塊の急斜面から流れ出た川が比較的穏やかに彦山川に合流する場所である。その上流に地名「畑」がある。北九州市門司区の吉志に隣接するところにも「畑」がある。共に秦氏が関わっていたように思われる。未開の地の開拓に秦氏の果たした役割は大きい。

いずれにせよ畝火山よりかなり離れてしまったようである。彼らの生活空間の境まで行き着いたということであろうか、また、畝火の中心から離れなければならない理由でもあったのであろうか…。

片塩


第三代安寧天皇の片鹽浮穴宮の解釈である。「片塩」=「川と海とが混じり合ってる場所」であろう。「片」=「完全でない」からの推定である。「浮穴」の解釈は、「水が引けると穴が見える」ぐらいであろうか、理解し辛い表現であるが、「浮」=「表面に現れる」とする。一般的な解釈から場所の特定は困難ではあるが…

浮穴宮:田川郡福智町上野の厳島神社辺りではなかろうか。現在も小さな池が多くある。水が流れる、又は地下への浸透で穴を見せる、と思われる。

黒田


第七代孝靈天皇の「黑田廬戸宮」である。「黒田」は何と解釈するか? 一般的過ぎるか、それとも特定できるヒントが隠されているか? 「田」に注目する。ここまでの天皇達は「田」には程遠い場所に居た。勿論「宮」の在処はともかくとしてその周辺が「葛」であり、それに何らかの手を加えることなくしては収穫が得られないところを示して来た。

「田」が強調され、それが「黒」である。「黒」は「泥」に通じる。「黒田」=「豊かに泥の詰まった田」を表していると思われる。間違いなく大きな池(沼)に支えられ、水田に水が溜められる場所を指し示していると推測される。どうやら第七代天皇の時代になって「葛城」は豊かな土地に変貌し始めたのではなかろうか。

廬戸宮:福智町上野の石鎚神社辺り、と思われる。

「欠史八代」中七代の天皇の「宮」を纏めて図示する(番号は代)

春日


第九代開化天皇の「春日之伊邪河宮」である。「春日」は「カスガ」ではない。春の日は霞む日が多い。枕詞で通じる、だから「春日」とくれば「霞処(カスガ)」と言われる。
安萬侶くんがそう言うだろうか? 歌ではない。「春日」という地名である。では、何と?

「日」=「邇藝速日命」解釈する。「日下」=「邇藝速日命の下」とした「日」である。「春」という文字の持つ意味は多様である。多くの場面で用いられ、「春」に託す人の気持ちも多様である。
「春」=「物事の始りの勢い付くとき」としてはどうであろうか?
 

「春日」=「邇藝速日命が始め、勢い付くとき」…その場所は「鳥見()の白庭(シラニワ))」=「現在の戸城山」としたところである。

「春日」は戸城山周辺の地域を示す。また、邇藝速日命が降って来る以前、この地は「ト」という語幹を持つ場所と推測される。

後程出現するが、「十市縣」の「十」もこの地の表現であったと思われる。

「師木」の近隣の場所、開化天皇は葛城から離れ畝火山に近付き、「師木」の傍まで戻って来たのである。「宮」の在処は、後に「宇遅」と呼ばれるところに重なる

伊邪河宮:福岡県田川郡赤村内田の朝日寺辺り、であろう。朝日寺、大祖神社、正一位稲荷神社などが集積し、曲りくねった河(伊邪河)が流れる場所である。

地図からわかるように彼らは葛城及びその周辺の中に居た。そして九代目で「春日」に辿り着いた。遠賀湾の境までの乾いた地で沼を作り、田を作り、そして十分な収穫を得られるように必死に働いたのであろう。確かに華々しい戦歴もなく、ひたすら地と向き合ったのであろう。また、それだけ平和な時期を過ごしたとも言える。

天皇の娶り


以下に「娶」の関連を抜き出してみると(天皇略)

綏靖1(師木縣主之祖・河俣毘賣)
安寧1(河俣毘賣之兄、縣主波延[ハエ]之女・阿久斗比賣)
懿徳1(師木縣主之祖・飯日比賣命)
孝昭1(尾張連之祖奧津余曾之妹・余曾多本毘賣命)
孝安1(姪忍鹿比賣命)
孝霊2(十市縣主之祖大目之女・細比賣命*/春日之千千速眞若比賣)
孝元2(穗積臣等之祖・色許男命色許、此妹・色許賣命/色許男命之女・伊賀迦色許賣命)
開化4(旦波之大縣主・名由碁理之女・竹野比賣/庶母・伊迦賀色許賣命/丸邇臣之祖日子國意
    祁都命之妹・意祁都比賣命/葛城之垂見宿禰之女・鸇比賣)

「娶」の人数は如実に彼らの暮らしの実態を表している。原野を開拓することは並大抵のことではない。収穫がなければ嫁、子供等の一族を養えないのである。極めて素直な記述ではなかろうか。

豊かであったろう「師木」に入り込めなかった。三代続けて「師木」から娶っているが、その土地の住民との融和ということ、それもあろうが、遠く離れた他の地から娶るだけの力がなかったことも併せて理解できる。

地図に示したが、彼らは綏靖から始めておよそ一回半、葛城及び周辺を巡回したことになる。明らかに二巡目に差し掛かった時、治水事業の進展に伴った孝霊天皇の黒田廬戸宮の時が大きなターニングポイントだとわかる。娶りの数も増えている。豊さを実感できる時が到来したと感じたのであろう。

葛城からの脱出


安萬侶くんの記述も説話が挿入される。それは非常に重要な出来事である。「吉備国」を「言向和」し、吉備の臣に入り込めたのである。既に考察した「針間口の吉備」である。当時の鉄の一大産地、地に目を向けた戦略から空を見つめる戦略に方向転換したのである。

これは特筆すべき事項である。反転攻勢の糸口を孝霊天皇が切った、雌伏何年になるのであろうか…新しい土地に移ること、これは大変な努力を要する。それを何代もかけて彼らは成遂げた。こんなドラマに出会えるとは…不思議な感覚でもある。漫画古事記、ラノベ風古事記、きっと感動物語が書ける?…かもである。

本道に戻して、孝霊天皇の娶りは「十市縣*「春日」である。従来よりこの二つの地名について様々な議論がなされているようである。先程少し述べたが、「十市」という先立つ場所に「春日」ができた、と思われる。「十市」古くからの記述に登場するが、詳しいことがわかっていない。少なくとも今回の考察で「十市」と「春日」の関係が明らかになったとしたら、過去の混乱した解釈も、幾らかスッキリするのではなかろうか…。

開化天皇になると一気に娶りが増え、相手先も多彩となる。いよいよ「師木」に入り込む準備が整った、というわけである。「宮」も目と鼻の先にある。どちらかと言えば高台から見下ろす位置である。関係する国々も近淡海国の近隣から東方十二道の国までに範囲が広がっている。

漸くにして第十代崇神天皇、「師木」に入ることになる。「御肇國天皇」とも言われるという。理解できる命名である、通説とは異なる理解だが…。

今思えば、神倭伊波禮毘古命と戦った「登美毘古」の最後の記述が曖昧である。「言向和」の融和政策である。「兄師木」「弟師木」も結果的には融和に近い。詠った歌が兵の疲弊を示す。大量殺戮兵器を知る現代とは異なる感覚であろうか。戦場とせず共存する場を作った。そして彼らは「葛城」の地を選択した。

そう考えるとこの「欠史」の時代こそ今の天皇家の基礎を作り上げたと言えるのではなかろうか。やはり、安萬侶くんは書き残していた。天皇に奏上する書であるなら省略してよいところ、簡潔に、それとわかるように書き記していた。漸くにして、伝わったよ、安萬侶くん。

孝元天皇紀に、あの「建内宿禰」の出自が述べられている。今回は省略するが、いずれ書いてみたい人物の一人である。多くの地名など調べて見たいものも出ているが、後日に回そう…。

最後に、通説ではないが、「欠史」については「架空」説「葛城王朝」説等、様々である。本ブログとは掛離れた解釈であり、奈良大和に散り嵌められた地名の比定で終わっているようである。

…と、まぁ、決して「欠史」ではなかった…かも、である・・・。

2017年5月30日火曜日

『欠史八代』の天皇:その壱〔042〕

『欠史八代』の天皇:その壱


神倭伊波禮毘古命は畝火山麓に漸くにして辿り着き「天皇」となった。そこは大和にある畝傍山ではなく九州福岡県田川郡香春町にある、今は昔の姿を留めることもない山であった。邇藝速日命から天孫の印である「瑞宝十種」を受け取り、騒がしい葦原中国の平定作業の第一歩が完了したと古事記は伝える。

では彼に続く天皇達はどうしたのであろうか? 通説は「欠史」と表現し彼らの事績の少なさを示している。確かに古事記の記述量のみを見れば後代の天皇達と比較して、束にして簡略表記である。が、今までにも記述した通り古事記の簡略さとことの重要性とは無関係である。

間違いなく古事記に書き残す事柄は少なかったのであろうが、何かを伝えている筈である。それを紐解いてみよう。第二代~第九代の天皇の「宮」と皇后の出自関連の古事記原文[武田祐吉訳]を示す。長くなるが一通り目通し願う

神沼河耳命、坐葛城高岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・河俣毘賣、生御子、師木津日子玉手見命。[カムヌナカハミミの命(綏靖天皇)、大和の國の葛城の高岡の宮においでになって天下をお治め遊ばされました。この天皇、シキの縣主の祖先のカハマタ姫と結婚してお生みになった御子はシキツ彦タマデミの命お一方です]

師木津日子玉手見命、坐片鹽浮穴宮治天下也。此天皇、娶河俣毘賣之兄、縣主波延之女・阿久斗比賣、生御子、常根津日子伊呂泥命自伊下三字以音、次大倭日子鉏友命、次師木津日子命。此天皇之御子等、幷三柱之中、大倭日子鉏友命者、治天下也。[シキツ彦タマデミの命(安寧天皇)、大和の片鹽かたしおの浮穴の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇はカハマタ姫の兄の縣主ハエの女のアクト姫と結婚してお生みになった御子は、トコネツ彦イロネの命・オホヤマト彦スキトモの命・シキツ彦の命のお三方です。この天皇の御子たち合わせてお三方の中、オホヤマト彦スキトモの命は、天下をお治めになりました]

大倭日子鉏友命、坐輕之境岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命・亦名飯日比賣命、生御子、御眞津日子訶惠志泥命自訶下四字以音、次多藝志比古命。二柱。故、御眞津日子訶惠志泥命者、治天下也。[オホヤマト彦スキトモの命(懿徳天皇)、大和の輕かるの境岡の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇はシキの縣主の祖先フトマワカ姫の命、またの名はイヒヒ姫の命と結婚してお生みになった御子は、ミマツ彦カヱシネの命とタギシ彦の命とお二方です。このミマツ彦カヱシネの命は天下をお治めなさいました]

御眞津日子訶惠志泥命、坐葛城掖上宮、治天下也。此天皇、娶尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命、次大倭帶日子國押人命。二柱。故、弟帶日子國忍人命者、治天下也。[ミマツ彦カヱシネの命(孝昭天皇)、大和の葛城の掖上わきがみの宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇は尾張の連の祖先のオキツヨソの妹ヨソタホ姫の命と結婚してお生みになった御子はアメオシタラシ彦の命とオホヤマトタラシ彦クニオシビトの命とお二方です。このオホヤマトタラシ彦クニオシビトの命は天下をお治めなさいました]

大倭帶日子國押人命、坐葛城室之秋津嶋宮、治天下也。此天皇、娶姪忍鹿比賣命、生御子、大吉備諸進命、次大倭根子日子賦斗邇命。二柱。自賦下三字以音。故、大倭根子日子賦斗邇命者、治天下也。[オホヤマトタラシ彦クニオシビトの命(孝安天皇)、大和の葛城の室の秋津島の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇は姪のオシカ姫の命と結婚してお生みになった御子は、オホキビノモロススの命とオホヤマトネコ彦フトニの命とお二方です。このオホヤマトネコ彦フトニの命は天下をお治めなさいました]

大倭根子日子賦斗邇命、坐黑田廬戸宮、治天下也。此天皇、娶十市縣主之祖大目之女・名細比賣命、生御子、大倭根子日子國玖琉命。一柱。玖琉二字以音。又娶春日之千千速眞若比賣、生御子、千千速比賣命。一柱又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子、夜麻登登母母曾毘賣命、次日子刺肩別命、次比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命、次倭飛羽矢若屋比賣。四柱。又娶其阿禮比賣命之弟・蠅伊呂杼、生御子、日子寤間命、次若日子建吉備津日子命。二柱。此天皇之御子等、幷八柱。男王五、女王三。故、大倭根子日子國玖琉命者、治天下也。[オホヤマトネコ彦フトニの命(孝靈天皇)、大和の黒田の廬戸(いおと)の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇、トヲチの縣主の祖先のオホメの女のクハシ姫の命と結婚してお生みになった御子は、オホヤマトネコ彦クニクルの命お一方です。また春日のチチハヤマワカ姫と結婚してお生みになった御子は、チチハヤ姫の命お一方です。オホヤマトクニアレ姫の命と結婚してお生みになった御子は、ヤマトトモモソ姫の命・ヒコサシカタワケの命・ヒコイサセリ彦の命、またの名はオホキビツ彦の命・ヤマトトビハヤワカヤ姫のお四方です。またそのアレ姫の命の妹ハヘイロドと結婚してお生みになった御子は、ヒコサメマの命とワカヒコタケキビツ彦の命とお二方です。この天皇の御子は合わせて八人おいでになりました。男王五人、女王三人です。 そこでオホヤマトネコ彦クニクルの命は天下をお治めなさいました]

大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖・色許男命色許二字以音、下效此妹・色許賣命、生御子、大毘古命、次少名日子建猪心命、次若倭根子日子大毘毘命。三柱。又娶色許男命之女・伊賀迦色許賣命、生御子、比古布都押之信命。自比至都以音。又娶河青玉之女・名波邇夜須毘賣、生御子、建波邇夜須毘古命。一柱。此天皇之御子等、幷五柱。故、若倭根子日子大毘毘命者、治天下也。[オホヤマトネコ彦クニクルの命(孝元天皇)、大和の輕の堺原の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇は穗積の臣等の祖先のウツシコヲの命の妹のウツシコメの命と結婚してお生みになった御子は大彦の命・スクナヒコタケヰココロの命・ワカヤマトネコ彦オホビビの命のお三方です。またウツシコヲの命の女のイカガシコメの命と結婚してお生みになった御子はヒコフツオシノマコトの命お一方です。また河内のアヲタマの女のハニヤス姫と結婚してお生みになった御子はタケハニヤス彦の命お一方です。この天皇の御子たち合わせてお五方おいでになります。このうちワカヤマトネコ彦オホビビの命は天下をお治めなさいました]

若倭根子日子大毘毘命、坐春日之伊邪河宮、治天下也。此天皇、娶旦波之大縣主・名由碁理之女・竹野比賣、生御子、比古由牟須美命。一柱。此王名以音。又娶庶母・伊迦賀色許賣命、生御子、御眞木入日子印惠命印惠二字以音、次御眞津比賣命。二柱。又娶丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹・意祁都比賣命意祁都三字以音、生御子、日子坐王。一柱。又娶葛城之垂見宿禰之女・鸇比賣、生御子、建豐波豆羅和氣。一柱。自波下五字以音。此天皇之御子等、幷五柱。男王四、女王一。故、御眞木入日子印惠命者、治天下也。[ワカヤマトネコ彦オホビビの命(開化天皇)、大和の春日のイザ河の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇は、丹波の大縣主ユゴリの女のタカノ姫と結婚してお生みになった御子はヒコユムスミの命お一方です。またイカガシコメの命と結婚してお生みになった御子はミマキイリ彦イニヱの命とミマツ姫の命とのお二方です。また丸邇の臣の祖先のヒコクニオケツの命の妹のオケツ姫の命と結婚してお生みになった御子はヒコイマスの王お一方です。また葛城のタルミの宿禰の女のワシ姫と結婚してお生みになった御子はタケトヨハツラワケの王お一方です。合わせて五人おいでになりました。このうちミマキイリ彦イニヱの命(崇神天皇)は天下をお治めなさいました]

「宮」在処別に纏めてみると(天皇略)

葛城3(綏靖、孝昭、孝安)
 :2(懿徳、孝元)
片塩1(安寧)黒田1(孝霊)春日1(開化)

となる

「葛城」は既に仁徳天皇の后「石之比売」が故郷に思いを馳せながら詠った歌から、「葛城高台御殿=現在の筑豊緑地、近くには鹿毛馬神籠石跡もある。后の場所はこの辺り」と推定したところである。あらためて「葛城」について考察してみよう。

葛城


その後「筑紫嶋」を企救半島に比定し、東南部に「科野国」があったと思われた。倭建命の「東方十二道」などに出現する場所として極めて整合性のある比定かと思われる。現在の地名は「北九州市小倉南区葛原」である。足立山東南麓は急峻な斜面を有し、竹馬川に面する。当時は縄文海進で曽根地区は海であり、川と海とが混然となった場所でもあった。古事記に出現する「依網」と言われるところであろうか。


また、その東側には特徴的な場所「沼」と言われる地域が現在も残っており、斜面の急峻さにより河川の水は滝のごとくに流れ去り、凹地に溜めない限り、土地は乾いた状態となってしまうところである。自然に、あるいは人為に作られた溜池が「沼」という表現となっていると思われる。

ほぼ同じような地形を有するところがある。福岡県田川郡福智町の福智山塊西側斜面が相当する。「大倭豊秋津嶋」の西側である。彦山川に面し、当時は同じく川と海の混然となった土地であった。また、現在も同様に「沼」が多く存在しているところである。

この地形的に酷似した場所、それに「葛」という共通の言葉が使われているのである。「葛」の原義は「曷(カツ)」=「乾いた状態を表す」である。川水がゆったりと流れ湿地を形成する状態と真逆の状態を示している。水はあるが、なんらかの手を加えなければならないところでもある。

「葛城」=「葛代」=「乾いた状態の山のうしろ」と解釈される。現在の福智町域は彦山川を挟み、筑豊緑地、鹿毛馬神籠石跡の中腹~麓までである。境界までは定かではないが、「石之比売」の「葛城」は、天皇達の川向こうの山地にあったのだろう。「大倭豊秋津嶋」で欠けている古事記の地名ピースがまた一つ埋まった。

「宮」は「高岡宮」「掖上宮」「秋津嶋宮」である。名称だけで比定する危険性はあるが、試みると以下の通りである。

高岡宮 :福智町弁城にある須佐神社辺り。山麓の小高い丘の上にある。
掖上宮 :「掖」=「脇」。山の斜面を見た時に谷の部分を「脇」と表現したのであろう。
それらしく、くっきりとしたところは福智町上野にある福智中宮神社辺りであろう。
秋津嶋宮:「室」=「岩屋」である。福智町弁城にある岩屋神社辺りであろう。福智山山塊の中
     腹にあり、これぞ、秋津嶋、と言ったところであろうか。「大倭豊秋津嶋」の比定に
     合致した表記である。

地図で示すと…

地図を参考にするとこの地が如何に水田等の穀物の栽培に不適なところかが鮮明になって来る。まさに現在の北九州市小倉南区の吉田及び門司区の吉志、猿喰等の地と類似し、灌漑、治水の事業なくしては人が住めるところではなかったと言える。

そして企救半島には既に多くの渡来があったが、まだ、この地は未開の地であったと推測される。邇藝速日命虚空見日本国、それを示している。「倭」は出来上がっていた地ではなく、多くの未開の地を周辺に持つところであった。

…と、まぁ、今日はこの辺で・・・。

2017年5月25日木曜日

神倭伊波禮毘古命の東行:その伍〔041〕

神倭伊波禮毘古命の東行:その伍


神倭伊波禮毘古命お付き合いしての旅、なんとか目的地に至ることができた。こんな旅は誰もしたことがないようで、良い経験になったと思う反面、まだまだ途中の寄り道したところの情報が少なく、しっくり来ない感じもする。それはそれでだが、本日は些か気になったところを今思い付くままに記してみよう。

大伴連等之祖と久米直等之祖


古事記らしく唐突に現れる、この二人の命。それぞれの祖は、既に邇邇芸命の降臨時に先導役で出現し、天忍日命(大伴連の遠祖)と天津久米命の2人が太刀・弓矢などを持って天孫降臨に供奉した、という記述がある。正に邇邇芸命一派勢揃いの表記なのである。どちらが上か?という議論があるようだが、暇が取り柄の老いぼれにはあまり興味がないところ。

久米氏はこの一派中にあって戦闘武装集団としての位置にあり、戦いがあれば久米歌、久米舞が披露される。命懸けの仕事にとっては重要な意味を持つのであろうが、読んでる方は、臨場感に欠けるせいか、伝わって来ない感じでもある。

今回も宇陀で兄宇迦斯と弟宇迦斯と戦った際に歌われたところ。古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…

宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流 古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許婆佐婆 伊知佐加紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥 疊疊音引志夜胡志夜 此者伊能碁布曾。此五字以音。阿阿音引志夜胡志夜 此者嘲咲者也。[宇陀の高臺でシギの網を張る。わたしが待っているシギは懸からないで 思いも寄らないタカが懸かつた。 古妻が食物を乞うたらソバノキの實のように少しばかりを削ってやれ。 新しい妻が食物を乞うたらイチサカキの實のように澤山に削ってやれ。ええやっつけるぞ。ああよい氣味だ]

「久治良」解釈、武田氏は「タカ」とする。これは日本書紀の仁徳天皇紀に百済では鷹のことを「クチ」という説話によるものと思われる。「良」は接尾語、強いて訳せば、「らしきもの、類(たぐい)」ということであろうか。この言葉を歌い、その場にいる大勢の武士達と共有できた、ということである。

それとなく忍ばせる安萬侶くん、兵士は百済出身者が大勢を占めている、のである。神武東征は、朝鮮半島南西部出身の者達による作業であった。誇張されているが、外れてはいないと思われる。阿岐國で採用した部下達、間違いなく朝鮮半島から流れてきた者達の集まりであった。神武はそれを活用したと述べている。

彼らから見れば、土着の人々は「生尾人」であり「生尾土雲」であったろう。獣の皮を被る人々と表現している。その彼らを従えたのである。「獣の皮」これに関連したことを後に述べる。

当然のことながら歌である以上「鯨」と解釈してもよい。酒の場で、なんだそれ、鯨?、山にそんなものいるかよぉ~、なんてことでも良いのである。そんな解釈を重々承知で用いた「久治良」であろう、いや、恣意的にそうしている。

海辺の何処で詠われた歌を挿入したとか、「ウダ」は「ウナ」の間違い表記だとか(同じく海辺説、日本書紀に拠る)、諸説あるようだが、安萬侶くんの真意は伝わらない。古田氏も海辺で詠われた説だったとのこと。魏志倭人伝無謬説、古事記もそうであって欲しく思わなかったのであろうか・・・。

さて、神倭伊波禮毘古命は畝火之白檮原宮に坐されて「天皇」になられた様子である。古事記は語らないが、その経緯など知りたいところではある。安萬侶くんのこと、そっと忍ばせているかも、である。

思い出したことが一つ、「吉野河之河尻」である。本ブログでは、熊野の神様に祟られ、高木爺のサポートで何とか切り抜けて下山し、何の支障もなく「河尻」に到着としたところ。下山したところが「河尻」だったのだが、通説が困り果てる場所であった。紀伊半島を使ったルートでは「河上」である。

そもそも吉野川の川尻は紀ノ川である。それを川尻という、などトンデモ説が飛び出ることとなる。そうしてもルートから外れることになる。これを地名、いや、致命的という。大和への神武東征はなかった、正しい説と言える。さてさて、天皇になられてからの説話に移る。

夜麻登の高佐士野


天皇が畝火之白檮原宮に坐されてからの嫁探しである。

於是七媛女、遊行於高佐士野佐士二字以音、伊須氣余理比賣在其中。爾大久米命、見其伊須氣余理比賣而、以歌白於天皇曰、[ある時七人の孃子が大和のタカサジ野で遊んでいる時に、このイスケヨリ姫も混っていました。そこでオホクメの命が、そのイスケヨリ姫を見て、歌で天皇に申し上げるには]

夜麻登能 多加佐士怒袁 那那由久 袁登賣杼母 多禮袁志摩加牟[大和の國のタカサジ野を七人行く孃子たち、その中の誰をお召しになります]

爾伊須氣余理比賣者、立其媛女等之前。乃天皇見其媛女等而、御心知伊須氣余理比賣立於最前、以歌答曰、[このイスケヨリ姫は、その時に孃子たちの前に立っておりました。天皇はその孃子たちを御覽になって、御心にイスケヨリ姫が一番前に立っていることを知られて、お歌でお答えになりますには]

加都賀都母 伊夜佐岐陀弖流 延袁斯麻加牟[まあまあ一番先に立っている娘を妻にしましようよ]

「高佐士野」中では「多加佐士怒」である。「佐士」=「佐(タスクル)士(天子)」と解釈する。「高佐士野」=「高い所にある宮殿を奉り仕えるところの野原」であろう。宮殿は畝火之白檮原宮である。その傍らにあったところを示している。

「夜麻登」これが「大和(ヤマト)」の語源と言われるものであろう。1300年間多くの人々を煩わせてきた、中国史書も含めて、ものの正体である。何の雑念もなく読み下せば、「夜麻登能」=「山登りの」となる。

「夜麻登能 多加佐士怒」=「山登りの高い所にある宮殿を奉り仕えるところの野原」と解釈される。現在に残る「田川郡香春町高野」これこそが「畝火之白檮原宮」があったところである。あまりにも明白な結果であろう。だからこそ「夜麻登」=「大和」という「国譲り」を行い、焦点を暈したのである。





佐士二字以音」と註記される。地形象形と推定すると下記の紐解きとなった。


佐士=匙(匕)

匙の先っぽの平たくなったところが「高佐士野」と思われる。(2018.03.28)





「白檮」=「橿」と訳される。辞書的には全く当て嵌まらない訳である。神武天皇の墓所について後程記述する。当たり前のように読み下して来た言葉であるが、その意味するところは深いようである。既に挙げた「日下」「長谷」等々と同様であろう。

狹井河の謂れ


上記のすぐ後に「狹井河」の謂れが記述される。すっかりお馴染みになった川である。「大倭豊秋津嶋」の南側を流れる、山代の河川である。時代と共に名前を変えつつも悠久の流れを絶やさないところである。

故、其孃子、白之「仕奉也。」於是其伊須氣余理比賣命之家、在狹井河之上。天皇幸行其伊須氣余理比賣之許、一宿御寢坐也。其河謂佐韋河由者、於其河邊山由理草多在。故、取其山由理草之名、號佐韋河也。山由理草之本名云佐韋也。[そのイスケヨリ姫のお家はサヰ河のほとりにありました。この姫のもとにおいでになって一夜お寢みになりました。その河をサヰ河というわけは、河のほとりに山百合草が澤山ありましたから、その名を取って名づけたのです。山百合草のもとの名はサヰと言つたのです]

「山由理草之本名云佐韋」山百合の本名が「佐韋」という。いつものパターンで申し訳なしだが、「佐韋」=「佐(タスクル)韋(鞣革)」革を鞣す時に使う助剤を意味するとわかる。日本タンナーズ協会のサイトに詳細が載っている。その中の「タンニン鞣し」に該当する(タンニン:tan)

百合根を食用にしていたと思われる当時(現在も同様)、調理の際に取り除くタンニンを革の鞣しに利用していたのであろう。水分約7割、糖質約3割、蛋白質少々の優れた食材である。茹でる時に苦味、渋味成分を除去、それにタンニンが含まれている。百合一本に含まれている量は少ないので「山由理草多在」も辻褄の合った記述である。

革の鞣し、必要であったろう、「衣」である。「生尾人」達にとって不可欠のもの、生きるために欠かせないものに言葉は集中する。タンニンの採取、それを使った皮革鞣し、それを必要とする人達、供給地と需要地の相互関係が成立つ地域性、短い説話の中で起承転結している。

安萬侶くんはこの手の話が好きである。現在は科学技術などと難しそうな言葉を使い回すが、人は自然の中で生きる、という原点を忘れてはならない。応神天皇紀の「朱」の歌しかり、仁徳天皇紀の「藍」の話しかり、古事記を読んで、これをあらためて知らされるとは、望外のことである。製銅、製鉄のことをもう少し書いて…いや、これは国家機密か・・・。

従来より「佐韋」の解釈は様々である。多くの古の記録を読まれて論旨を展開されているものもある。わざわざではないだろうが、奈良の狹井川を訪れられた方もおられる。上記したように、それは現在の「今川(旧名犀川)」英彦山系から福岡県京都郡みやこ町豊津、行橋市を経て周防灘に流れる川である。


畝火山之北方白檮尾上*


神武天皇は「畝火之白檮原宮」に坐して、そのドラマチックな生涯を閉じ、「畝火山之北方白檮尾上」に眠っている。「白檮」は「橿」としてきた、疑いもせず…でも読めない、百済語?

「白檮」=「白(白く光る)檮(切り株)」と解釈する。山野を切り開いた様を象徴的に表現したものと思われる。神武天皇の果たした役割をキチンと伝えた命名であろう。「橿」としてしまっては平凡な天皇になる、不甲斐ない解釈である。

「畝火山之北方白檮尾上」畝傍山の北方にある「切り株」の尾根の上、ということになろう。現在の香春二~三ノ岳の尾根と推測される。また、「雲」発生の要因である、採銅に伴う煙の元である木材、その伐採による多くの切り株を示しているとも思われる。こうした連想も香春の地に倭が誕生したと考えることにより初めて可能なものとなる。

応神天皇紀の吉野国栖が酒を造った臼、これも「白檮」であった。何となく「樫の木」で流したが、やはり「切り株」の解釈が適切であった。古事記の中で一語一語が繋がって記述されている、そのことを今後の要としよう。

…と、まだ書き残した言葉があるようにも思うが、今日はこの辺で・・・。

2017年5月24日水曜日

神倭伊波禮毘古命の東行:その四〔040〕

神倭伊波禮毘古命東行:その四


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
熊野の山中、天照と高木の二柱の手厚い援護もあって、危く命拾い。吉野の河原で一息ついて、生尾人達を言向和した。目指す処の方角は判るが、何せ道がない。広大な羊郡原の中に道を造りながらの行進である。最も高度の低いところを目指して全体がすり鉢状になった台地を抜ける。降りたところが「宇陀」である。

宇陀


古事記原文[武田祐吉訳]

自其地蹈穿越幸宇陀、故曰宇陀之穿也。故爾、於宇陀有兄宇迦斯自宇以下三字以音、下效此也弟宇迦斯二人。故先遣八咫烏問二人曰「今天神御子幸行。汝等仕奉乎。」於是兄宇迦斯、以鳴鏑待射返其使、故其鳴鏑所落之地、謂訶夫羅前也。將待擊云而聚軍、然不得聚軍者、欺陽仕奉而、作大殿、於其殿作押機、待時。弟宇迦斯先參向、拜曰「僕兄・兄宇迦斯、射返天神御子之使、將爲待攻而聚軍、不得聚者、作殿其張押機、將待取。故、參向顯白。」[それから山坂を蹈み穿って越えてウダにおいでになりました。依って宇陀のウガチと言います。この時に宇陀にエウカシ・オトウカシという二人があります。依ってまず八咫烏を遣って、「今天の神の御子がおいでになりました。お前方はお仕え申し上げるか」と問わしめました。しかるにエウカシは鏑矢かぶらやを以ってその使を射返しました。その鏑矢の落ちた處をカブラ埼と言います。「待って撃とう」と言って軍を集めましたが、集め得ませんでしたから、「お仕え申しましよう」と僞って、大殿を作ってその殿の内に仕掛を作って待ちました時に、オトウカシがまず出て來て、拜して、「わたくしの兄のエウカシは、天の神の御子のお使を射返し、待ち攻めようとして兵士を集めましたが集め得ませんので、御殿を作りその内に仕掛を作って待ち取ろうとしております。それで出て參りましてこのことを申し上げます」と申しました]

「蹈穿越幸」野を彷徨いながら進むさまを表現している。「宇陀之穿」は現在の吹上峠ではなかろうか。そこを抜けると雄大な光景が目に入る。穴を通した、という表現になろう。が、その先は絶壁である。

「宇陀」=「宇(広大な)陀(崖)」と解釈される。龍ヶ鼻及びそれに続く山塊の西麓に当たる場所である。絶壁の斜面の麓にあるところ、それが「宇陀」である。現在の北九州市小倉南区市丸、小森、呼野辺り、以前は「東谷」と称されていた場所である。山は削られているが、当時の様子を思い浮かべることができる。

この谷の西側、頂吉山地に挟まれ、見事に深い谷を形成している。そしてその先は「金辺峠」に繋がる。古事記の地形象形による命名は見事である。今思い出すだけでも「針間」「児島」「碁呂」などの言葉は端的な表現である。それにこの「宇陀」が加わる。「国譲り」でグチャグチャにした罪は重いと知るべし、である。


「宇陀」比定は動かし難いものと思われる。そして決戦を前に更に味方を得た、という記述である。喋る烏…カラスは喋るか…道案内だけではなく先鋒を努めることができるカラスである。鳥ではない。山の中では飛ぶこともできた。いや、飛ぶように…であろう。高木神の曾孫、賀茂建角身命という説があるとのこと、そうかも、である。

爾大伴連等之祖・道臣命、久米直等之祖・大久米命、二人、召兄宇迦斯罵詈云「伊賀此二字以音所作仕奉於大殿內者、意禮此二字以音先入、明白其將爲仕奉之狀。」而、卽握横刀之手上、矛由氣此二字以音矢刺而、追入之時、乃己所作押見打而死。爾卽控出斬散、故其地謂宇陀之血原也。然而其弟宇迦斯之獻大饗者、悉賜其御軍、此時歌曰、[そこで大伴の連等の祖先のミチノオミの命、久米の直等の祖先のオホクメの命二人がエウカシを呼んで罵って言うには、「貴樣が作ってお仕え申し上げる御殿の内には、自分が先に入ってお仕え申そうとする樣をあきらかにせよ」と言って、刀の柄を掴み矛をさしあて矢をつがえて追い入れる時に、自分の張って置いた仕掛に打たれて死にました。そこで引き出して、斬り散らしました。その土地を宇陀の血原と言います。そうしてそのオトウカシが獻上した御馳走を悉く軍隊に賜わりました。その時に歌をお詠みになりました。それは]

宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流 古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許婆佐婆 伊知佐加紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥 疊疊音引志夜胡志夜 此者伊能碁布曾。此五字以音。阿阿音引志夜胡志夜 此者嘲咲者也。[宇陀の高臺でシギの網を張る。わたしが待っているシギは懸からないで 思いも寄らないタカが懸かつた。 古妻が食物を乞うたらソバノキの實のように少しばかりを削ってやれ。 新しい妻が食物を乞うたらイチサカキの實のように澤山に削ってやれ。ええやっつけるぞ。ああよい氣味だ]

故、其弟宇迦斯、此者宇陀水取等之祖也。[そのオトウカシは宇陀の水取等の祖先です]

二人の兄弟の謀略である。命懸けで考え抜いたことであろうが、兄は敗れた。登場するのが、あの高名な大伴連と久米直、それぞれの祖。大将軍二人にかかってはひとたまりもなかった。仕掛けなどを作ってはダメ、そっと忍ばせる例の方法…。思わぬ獲物が仕留められて、ご満悦であったとか。

「宇陀之血原」血だらけの原っぱ、見つけるのは困難であろう。「宇陀水取」の祖に弟がなる。この地は湧水が多量に発生するところである。現在も呼野駅付近に多くの池がある。古代より清水が豊かな土地であることがわかる。

忍坂大室


自其地幸行、到忍坂大室之時、生尾土雲訓云具毛八十建、在其室待伊那流。此三字以音。故爾、天神御子之命以、饗賜八十建、於是宛八十建、設八十膳夫、毎人佩刀、誨其膳夫等曰「聞歌之者、一時共斬。」故、明將打其土雲之歌曰、[次に、忍坂の大室においでになった時に、尾のある穴居の人八十人の武士がそのにあって威張っております。そこで天の神の御子の御命令でお料理を賜わり、八十人の武士に當てて八十人の料理人を用意して、その人毎に大刀を佩かして、その料理人どもに「歌を聞いたならば一緒に立って武士を斬れ」とお教えなさいました。その穴居の人を撃とうとすることを示した歌は]

意佐加能 意富牟盧夜爾 比登佐波爾 岐伊理袁理 比登佐波爾 伊理袁理登母 美都美都斯 久米能古賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 宇知弖斯夜麻牟 美都美都斯 久米能古良賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 伊麻宇多婆余良斯[忍坂の大きな土室に大勢の人が入り込んだ。 よしや大勢の人がはいっていても威勢のよい久米の人々が 瘤大刀こぶたちの石大刀でもってやっつけてしまうぞ。 威勢のよい久米の人々が瘤大刀の石大刀でもって そら今撃つがよいぞ]

如此歌而、拔刀一時打殺也。[かように歌って、刀を拔いて一時に打ち殺してしまいました]

いよいよ「宇陀」を発ち「金辺峠」を越えて行く。この峠越えの登りは急である。かつての鉄道列車は呼野駅でスウィッチバックして登っていたとか。なんとも地形的には厳しい環境である。現在は列車の性能等の向上をみた後であり、当時を偲ぶすべもないようである。近世では弓月街道などと呼ばれ、主要な幹線道路であった。小倉から九州北部の内陸への最短コースである。

「忍坂大室」はこの峠を越えたところと思われる。峠を越えてからは、「忍坂」=「一見坂には見えない坂」特に現在の「採銅所一」辺りまで標高差はあるが距離が長く一見坂には見えないという意味であろう。「忍坂大室」=「なだらかな坂にある山腹の岩屋」と解釈できる。

「生尾土雲八十建」またもや「生尾」の「土雲」の出現である。武田氏は「土雲」に悩まれたのであろう。他の史書では「土蜘蛛」などと表現される。だが、この「雲」こそ神武天皇が遠征してきた最終地点の前に立ちはだかる人々を意味する。

「岩屋の雲」とは何を意味するのであろうか? 「銅の精錬時に発生する煙」である。古事記、日本書紀の現代文訳のサイトを提供されている上田恣さん、いつもお世話になっております、貴方の「個人的カラム」に記述された「製鉄」の際に出る雲、敬意を表して記載させて頂きました

「忍坂の岩屋の雲」で神武東征のルートは氷解したのである。そして古事記が描く古代の日本の姿をあからさまにした、と言える。「雲」解釈に賛同者が一人でもおられたことに感謝申し上げる。安萬侶くんの表現の正確さにも、あらためて感謝する。

いよいよクライマックス、土雲八十建をいつもの姑息な手法で仕留めて、いや大量刺殺して、舞台が変わる。

神武東征の終焉


然後、將擊登美毘古之時、歌曰、[その後、ナガスネ彦をお撃ちになろうとした時に、お歌いになった歌は]

美都美都斯 久米能古良賀 阿波布爾波 賀美良比登母登 曾泥賀母登 曾泥米都那藝弖 宇知弖志夜麻牟[威勢のよい久米の人々のアワの畑には臭いニラが一本生えている。 その根のもとに、その芽をくっつけてやっつけてしまうぞ]

又歌曰、[また]

美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登爾 宇惠志波士加美 久知比比久 和禮波和須禮志 宇知弖斯夜麻牟[威勢のよい久米の人々の垣本に植えたサンシヨウ、 口がひりひりして恨みを忘れかねる。やっつけてしまうぞ]

又歌曰、[また]

加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾 波比母登富呂布 志多陀美能 伊波比母登富理 宇知弖志夜麻牟[神風の吹く伊勢の海の大きな石に這いつている 細螺のように這いってやっつけてしまうぞ]
又擊兄師木・弟師木之時、御軍暫疲、爾歌曰、[また、エシキ、オトシキをお撃ちになりました時に、御軍の兵士たちが、少し疲れました。そこでお歌い遊ばされたお歌]

多多那米弖 伊那佐能夜麻 許能麻用母 伊由岐麻毛良比 多多加閇婆 和禮波夜惠奴 志麻都登理 宇上加比賀登母 伊麻須氣爾許泥[楯を竝べて射る、そのイナサの山の樹の間から行き見守つて戰爭をすると腹が減った。 島にいる鵜を養う人々よすぐ助けに來てください]

故爾、邇藝速日命參赴、白於天神御子「聞天神御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。[最後にトミのナガスネ彦をお撃ちになりました。時にニギハヤビの命が天の神の御子のもとに參って申し上げるには、「天の神の御子が天からお降りになったと聞きましたから、後を追って降って參りました」と申し上げて、天から持って來た寶物を捧げてお仕え申しました。このニギハヤビの命がナガスネ彦の妹トミヤ姫と結婚して生んだ子がウマシマヂの命で、これが物部の連・穗積の臣・采女の臣等の祖先です]

故、如此言向平和荒夫琉神等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。[そこでかようにして亂暴な神たちを平定し、服從しない人どもを追い撥って、畝傍の橿原の宮において天下をお治めになりました]

真に威勢の良い歌を詠って、「登美毘古」を仕留めてしまう。兄の仇、なんていう仇討ち感覚は当時なかったようである。何首かあるがどれも品の良いものではない。凝った内容でもない。正に「武人」であったのかもしれない。

最後の歌に、万葉歌に現れて些か悩まされた言葉がある。「伊那佐」である。こんなところで解を得ることができた。「多多那米弖 伊那佐能夜麻」=「多多那米弖(楯を並べて射るような)伊那佐能夜麻(奇麗に並んだ山々)」、枕詞「多多那米弖」を受けた、その状態を表す言葉であった。

戦った場所は「師木」=「志幾」である。当時は沖積が進まず小さな山が並んでいたであろう。奈良に伊那佐山がある。磯城とは遠く離れ、並ぶ山もない。本日のルートを下記に示すと…


「邇藝速日命」が登場する。なんともみすぼらしい役割である。「天津瑞」と簡単に片付けられるが、これこそ天から授かった神宝であろう。

いつの日か彼については記述しなければならないように感じるが、今は留めておこう。古事記は邇邇芸命一派の歴史を示すのみである。「日」が葦原中国を治め切れなかった責を問われている。

神武の戦闘は白肩津での登美比古との闘い以外、策略型であり、しかも宇陀に入ってからである。相手の人数、古事記は語らないが、それも宇陀以降で多数と言える状態になる。

葦原中国が騒がしいとは、それは宇陀~忍坂~師木のラインである。この地の「銅」の生産が盛んになることに関連すると判断できる。邇藝速日命の目の付け所は確かであったが、後が悪かった、ということであろう。

この地は日本の中では極めて稀な資源豊かなところであり、また人が暮らすに必要な環境も整っている地であった。だからこそ人が集まり、国が形成されていった…とても騒がしく…のであろう

邇藝速日命に始まり神武でその礎が確立し、雄略で完成した国、それが「虚空見日本国」から「大倭豊秋津嶋」への進展、であった。ついでに付け加えておこう…「虚空見日本史」は進展するであろうか、と…。

近代になっての石炭、一時期の砂金等、資源があるが故に起る出来事に巻き込まれてきた地、現在は石灰石で止まっているようであるが、また歴史が繰り返されるかもしれない。それが何を対象としているかは予測もできないが・・・。

「畝火之白檮原宮」場所の比定は困難であるが、香春一ノ岳(畝火山)の麓、田川郡香春町上高野の辺りではなかろうか。神武が到達し初代天皇とされた場所であり、そこから現在の天皇家に繋がると思われる。

…と、終わってみれば、いつものようにあっけない、少々疲れたが・・・。



2017年5月23日火曜日

神倭伊波禮毘古命の東行:その参〔039〕

神倭伊波禮毘古命の東行:その参


出鼻を挫かれた伊波禮毘古命は兄の葬儀もそこそこにして、「東から攻めろ」という遺言を忠実に守ろうとする。が、彼らは元々海洋民族、決して地上戦は得意ではない。南の方にある大きく口を開けた入江から突入したくもある。それでは、例え東からとは言え、待ち構える那賀須泥毘古には飛んで火に入るなんとかに…初戦の二の舞になりそうである。

彼が選択したルートは「大倭豊秋津嶋」の東端から山越えで侵攻するしかない、と言う結論であった。不安を抱えながらその東端に取り付く、そこが、あの恐ろしき熊野の山々だと、知ってか知らずか・・・。古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)

故、神倭伊波禮毘古命、從其地廻幸、到熊野村之時、大熊髮出入卽失。爾神倭伊波禮毘古命、倐忽爲遠延、及御軍皆遠延而伏。遠延二字以音。此時、熊野之高倉下此者人名賷一横刀、到於天神御子之伏地而獻之時、天神御子卽寤起、詔「長寢乎。」故、受取其横刀之時、其熊野山之荒神、自皆爲切仆、爾其惑伏御軍、悉寤起之。[カムヤマトイハレ彦の命は、その土地からつておいでになって、熊野においでになった時に、大きな熊がぼうっと現れて、消えてしまいました。ここにカムヤマトイハレ彦の命は俄に氣を失われ、兵士どもも皆氣を失って仆れてしまいました。この時熊野のタカクラジという者が一つの大刀をもって天の神の御子の臥しておいでになる處に來て奉る時に、お寤めになって、「隨分寢たことだった」と仰せられました。その大刀をお受け取りなさいました時に、熊野の山の惡い神たちが自然に皆切り仆されて、かの正氣を失った軍隊が悉く寤めました]

「紀國」、現在の北九州市小倉南区吉田から南進めば「大倭豊秋津嶋」の東端に辿り着く。現在の苅田港(福岡県京都郡苅田町)辺りである。現在も重要港湾に指定されているが、古代からその立地の良さが際立っている。石炭、石灰石、自動車等々どれも主要産業を担う位置付けである。

熊野


「熊野村」=「隈野村」であろう。「秋津嶋」の「東北の隅(スミ)野の村」となる。ほぼ直角の隅である。その背後にあるのが「熊野山」。当然のことながら「熊」そのものの持つ意味合いも含めているのであろうが…。まぁ、現在も繁栄する優良の町の古名とのギャップ、歴史のうねりの奥深さを感じさせられる。安萬侶くんの戯れかな?・・・。

上陸するや、大きな熊が現れた。「髪」=「ほのかに」(武田氏:ぼうっと)と訳するそうで、なんとも優し気な熊だが、やることはキツイ。慣れない山道での出来事である。ここは例の「貫山」山塊に繋がるところ、倭建命がこっぴどくやっつけられた場所近くである。本物の神様が住んでる、そんな訳ないが、彼らにとって不可侵の領域である。

「熊野之高倉下」に助けられる。神剣である。日には日を、神には神、である。一寸先は闇、いや、霧かな? 低山の山道を侮ってはいけません。

故、天神御子、問獲其横刀之所由、高倉下答曰「己夢云、天照大神・高木神二柱神之命以、召建御雷神而詔『葦原中國者、伊多玖佐夜藝帝阿理那理此十一字以音、我御子等、不平坐良志此二字以音。其葦原中國者、專汝所言向之國、故汝建御雷神可降。』爾答曰『僕雖不降、專有平其國之横刀、可降是刀。此刀名、云佐士布都神、亦名云甕布都神、亦名云布都御魂。此刀者、坐石上神宮也。降此刀狀者、穿高倉下之倉頂、自其墮入。故、阿佐米余玖自阿下五字以音汝取持、獻天神御子。』故、如夢教而、旦見己倉者、信有横刀。故、以是横刀而獻耳。」[そこで天の神の御子がその大刀を獲た仔細をお尋ねになりましたから、タカクラジがお答え申し上げるには、「わたくしの夢に、天照らす大神と高木の神のお二方の御命令で、タケミカヅチの神を召して、葦原の中心の國はひどく騷いでいる。わたしの御子たちは困っていらっしゃるらしい。あの葦原の中心の國はもっぱらあなたが平定した國である。だからお前タケミカヅチの神、降って行けと仰せになりました。そこでタケミカヅチの神がお答え申し上げるには、わたくしが降りませんでも、その時に國を平定した大刀がありますから、これを降しましよう。この大刀を降す方法は、タカクラジの倉の屋根に穴をあけて其處から墮し入れましようと申しました。そこでわたくしに、お前は朝目が寤めたら、この大刀を取って天の神の御子に奉れとお教えなさいました。そこで夢の教えのままに、朝早く倉を見ますとほんとうに大刀がありました。依ってこの大刀を奉るのです」と申しました。この大刀の名はサジフツの神、またの名はミカフツの神、またの名はフツノミタマと言います。今石上神宮にあります]

困った時の神頼み、お出ましである。常にお二人揃って天照と高木の二柱様。葦原中国が騒々しい、これの意味するところは後日に譲ろう。古事記のパターン、二柱の言うことを素直に聞かないのである。多くは自分の子供に任せる、これも「国譲り」と同じ発想かも…。意味するところ、後日に譲ろう、本ブログのパターン。

やはり神剣であった。由緒のある横刀(大刀)、その降ろし方まで詳細に書いて…興味があるが少し脇に置いて…それにしても先は長いのに、こんなところで立ち往生している・・・と、また神の助けが…

於是亦、高木大神之命以覺白之「天神御子、自此於奧方莫使入幸。荒神甚多。今、自天遣八咫烏、故其八咫烏引道、從其立後應幸行。」故隨其教覺、從其八咫烏之後幸行者、到吉野河之河尻時、作筌有取魚人。爾天神御子、問「汝者誰也。」答曰「僕者國神、名謂贄持之子。」此者阿陀之鵜飼之祖。從其地幸行者、生尾人、自井出來、其井有光。爾問「汝誰也。」答曰「僕者國神、名謂井氷鹿。」此者吉野首等祖也。卽入其山之、亦遇生尾人、此人押分巖而出來。爾問「汝者誰也。」答曰「僕者國神、名謂石押分之子。今聞天神御子幸行、故參向耳。」此者吉野國巢之祖。[ここにまた高木の神の御命令でお教えになるには、「天の神の御子よ、これより奧にはおはいりなさいますな。惡い神が澤山おります。今天から八咫烏やたがらすをよこしましよう。その八咫烏が導きするでしようから、その後よりおいでなさい」とお教え申しました。はたして、その御教えの通り八咫烏の後からおいでになりますと、吉野河の下流に到りました。時に河に筌うえを入れて魚を取る人があります。そこで天の神の御子が「お前は誰ですか」とお尋ねになると、「わたくしはこの土地にいる神で、ニヘモツノコであります」と申しました。これは阿陀の鵜飼の祖先です。それからおいでになると、尾のある人が井から出て來ました。その井は光っております。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神、名はヰヒカと申します」と申しました。これは吉野の首等の祖先です。そこでその山におはいりになりますと、また尾のある人に遇いました。この人は巖を押し分けて出てきます。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神で、イハオシワクであります。今天の神の御子がおいでになりますと聞きましたから、參り出て來ました」と申しました。これは吉野の國栖の祖先です。]

不慣れな山越えルートを選択した伊波禮毘古命、見るに見兼ねた高木御大からの八咫烏の支援である。なんとルートガイドまで提供される。奥には行くな…そうです、その山塊はとても危険…初めに言ってよ…なんて馬鹿なことは言わずに素直に後をついて行くこと。後に倭建命が深手を負う山塊なのである。

鳥にはめっぽう興味があるのだが、これもちょっと脇に置いて…「秋津嶋」の東端から少し入ったところで平地に出るルートを教えて貰った。上記京都郡苅田町から京都峠を越えるルートであろう。豊前平野北部に下る。


吉野


行き着いたところは「吉野河之河尻」=「小波瀬川下流」当時は現在の苅田町岡崎(岬を意味する)近くまで海であったろう。そこに辿り着いた。雄略天皇紀の「吉野」の探索で比定した川である。

「阿陀の鵜飼」の祖に出会う。「阿陀」=「阿(高台)の陀(崖)」である。吉野河(小波瀬川)の上流にある「平尾台」(北九州市小倉南区)に、「阿陀」を登り、至ったことが示されている。そして「生尾人、自井出來」、「井」から「生尾人」が出てきた。

「井」=「カルスト台地のドリーネ」であろう。水汲みの「井戸」ではない。ドリーネとは石灰質の岩がすり鉢状に溶食された凹地あるいは内部が空洞化した後陥没して形成される。「生尾人」は毛皮を着した姿の表現であろう。

神様の話ではなく、生身の人、だからこの地、吉野の首あるいは国栖の祖となる。応神天皇紀の洞穴で醸したお酒を献上した人々である。吉野の大吟醸である。繋がりました、更にこの地は雄略天皇が「蜻蛉野」と叫んだところである。「吉野」の地が確定した、と思われる。

ドリーネに住む人々、その「事実」を古事記が記述した。貴重な「文献」かも…。驚くのは、次の一文「其井有光」数ある鍾乳洞の中に「光水鍾乳洞」がある。今、一般公開はされていないようであるが、極めて重要な「証言」ではなかろうか…。平尾台カルスト台地、大切に保存することと、より詳細な調査研究が行われることを期待したい。


「光る洞穴」言えば、ニュージーランド北島、ワイトモ鍾乳洞の土ボタル(グローワーム)が有名。日本でもヒカリゴケ(苔)、ヒカリモ(黄色藻)等々が燐光を発して神秘的な雰囲気を醸し出す、各地で知られた例があるとのこと。清水の豊かな場所であろう、それが少なくなって日常の中では見られなくなった。

いずれにせよ、この地は極めて特徴のある場所である。土蜘蛛と表現したり、様々に特異な人達が住んでいたことを示唆する記録が残っている。そこに日ノ本の原点を見出して来なかったことが、なんとも、悔やまれる。

本日のルートマップである…


安萬侶くんの「熊野村」に翻弄されたルート解釈であった。「熊」は畏敬の対象として古事記で一貫して示される表現である。なかなか香春に到着しないが、着実に近づいている、との感触はある。次回はもう少しドラマチックな展開を期待しよう。

…と、本日はここまでで、なかなか神武東征、終わらないが、お付き合いのほどを・・・。


2017年5月22日月曜日

神倭伊波禮毘古命の東行:その弐〔038〕

神倭伊波禮毘古命の東行:その弐


伊波禮毘古命と五瀬命は「筑紫之岡田宮」で戦闘態勢の準備を完了した、と古事記が伝えることがわかった。

戦闘に必要な情報、武器、戦闘要員を、なんと、足掛け15(二倍歴7.5)もかけて。天照大神と高木神はよくぞ我慢をした…月日は彼らに無関係? 冗談ではない、葦原中国の騒ぎは尋常ではなかった・・・。

通常のごとく戦略立案、正攻法の最短距離で敵の本陣、香春岳山麓を落とすのか、それとも迂回戦術を採るのか…彼らは前者を採った。というか、既に敵は彼らの動きを察知して待ち伏せていた…。

筑紫国から香春岳山麓は現在の国道322号線、金辺トンネルを通って…隧道は存在しないから金辺峠越えのルートとなる。水平距離25km弱、なんていうことない、これだけの準備をしたのだから直に決着が付く…筈。古事記原文[武田祐吉訳]

故、從其國上行之時、經浪速之渡而、泊青雲之白肩津。此時、登美能那賀須泥毘古自登下九字以音興軍待向以戰、爾取所入御船之楯而下立、故號其地謂楯津、於今者云日下之蓼津也。於是、與登美毘古戰之時、五瀬命、於御手負登美毘古之痛矢串。故爾詔「吾者爲日神之御子、向日而戰不良。故、負賤奴之痛手。自今者行廻而、背負日以擊。」期而、自南方廻幸之時、到血沼海、洗其御手之血、故謂血沼海也。從其地廻幸、到紀國男之水門而詔「負賤奴之手乎死。」男建而崩、故號其水門謂男水門也、陵卽在紀國之竈山也。[その國から上っておいでになる時に、難波の灣を經て河内の白肩の津に船をお泊めになりました。この時に、大和の國のトミに住んでいるナガスネ彦が軍を起して待ち向って戰いましたから、御船に入れてある楯を取って下り立たれました。そこでその土地を名づけて楯津と言います。今でも日下の蓼津と言っております。かくてナガスネ彦と戰われた時に、イツセの命が御手にナガスネ彦の矢の傷をお負いになりました。そこで仰せられるのには「自分は日の神の御子として、日に向って戰うのはよろしくない。そこで賤しい奴の傷を負つたのだ。今から廻って行って日を背中にして撃とう」と仰せられて、南の方から廻っておいでになる時に、和泉の國のチヌの海に至ってその御手の血をお洗いになりました。そこでチヌの海とは言うのです。其處からつておいでになって、紀伊の國のヲの水門においでになって仰せられるには、「賤しい奴のために手傷を負って死ぬのは殘念である」と叫ばれてお隱れになりました。それで其處をヲの水門と言います。御陵は紀伊の國の竈山にあります]

一語一語を調べて見よう。「浪速之渡」の「渡(ワタリ)」=「川などの渡る場所」これ以外の解釈はない。通説は困って「湾」とする。岡山吉備国から難波へ、地名のみの比定の破綻である。

筑紫国から南に行くと千曲川にぶつかる。当時は紫川河口と現在の曽根・新門司平は千曲川及びその支流にによって繋がっていたことを示している。なんどか記述した縄文海進による海水面の上昇である。またこのことは現在の企救半島が「島=筑紫嶋」であったことを示している。

神武天皇紀に既に記述されていた、だからその後の記述には現れなかったのである。当時のルートは決して企救半島の北端を回るのではなく、竹馬川河口から紫川河口へと抜けたのである。北端を回るくらいな船を滑らせて県道262号線を「船越」した。これが正解と確信する。


青雲之白肩津


これを渡ると「尾張国」、まだ国として成り立っていなかった。そこは「青雲之白肩津」と表現される。「肩津」=「潟津」であろう。曽根・新門司平地が干潟を形成していたことは明らかである。なんとも光景的に美しい命名である。青雲のごとくの大志を抱く、真白き潟…真意は解り兼ねるが・・・。<追記>

「登美能那賀須泥毘古」の第一回目の戦闘に入る。この人名は極めて意味深い。「登美」には様々な解釈が提案されてきた。地名であろうが、日本書紀には「鳶」の転化との記載がある。胡散臭い誘導であろう。「那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)」は邇藝速日命に関係する。旧事本紀に拠れば、降臨地は哮ヶ峯、その後「鳥見(トミ)の白庭山」に遷る、「鳥見」=「登美」である。

哮ヶ峯は香春三ノ岳としたが、後者は何処? その解が見つかった。「鳥見(トミ)の白庭山(シラニワヤマ)」=「戸城山(トシロサン)」である。犀川が直角に曲がる所にある。邇藝速日命を降臨させたのは忍穂耳命、天照大神の御子で、邇藝速日命の父、そのフルネームは正勝吾勝勝速日天忍穂耳命である。

戸城山の南西部を占めるのが吾勝野(現在の赤村)である。古代におけるこの地の果たす役割のすごさにあらためて驚かされる。邇藝速日命が香春三ノ岳に降臨し「虚空見日本国」と哮(タケ)た時、東は近淡海国、その先の周防灘を望み、西は彦山川、中元寺川が流れる田川の地を眺め、そして南は山と川の間に広がる赤村の未開の野に感動した。これが神武一家の前史である。


瓢箪から駒のように現存する地名の由来が見えてきた。「那賀須泥毘古」は現在の戸城山山麓に居を構えていたとわかった。余談だが、過日奈良の地を通過する機会があった。登美ヶ丘、白庭台、鳥見…満載であった。見事な、丸ごとの「国譲り」、永拗根彦さんにはお目に掛れなかったが…。

「楯津」「日下之蓼津」詳細の場所は不明である。「日下」=「邇藝速日命の下」と読む。雄略天皇紀で紐解いた「日」である。戦勝を記念した命名ではなかろうか。「蓼」には困難、苦しみの意味もある。邇藝速日命のその後を示しているのかもしれない。通説は「日下=河内」地理的には…合ってます。<追記>

曽根・新門司平地も海水面の変動により地形が大きく変化したところであろう。現在の小倉北区及び南区は沖積により繋がった。北九州東部の地形変化は想像を遥かに越えているようである。遠賀川河口付近などの報告が見つかるが、この地の詳細な研究を望むところである。

五瀬命

矢で手傷を負ってしまった。致命傷に近いものだったのであろうか、そこで戦隊としては大きな方向転換を余儀なくされた。「日に向かうのではなく、日を背にして戦う」即ち西方から攻めるのではなく、東方から攻めることになった。

この「日」が意味するところ、解釈するとなかなかに興味深い。「日」は太陽と邇藝速日命が掛かっている。邇藝速日命に向かうのであるが、加えて太陽に向かうとなれば、二重の「日」となる。眩し過ぎるのであろう…。だから「太陽を背」にして「日」を打消す、それでないと勝ち目がないと、喘ぎながら述べている。

「日」=「太陽」=「邇藝速日命」の等式が紐解けない限り、理解不能の物語となる。歯がゆい古事記解釈の歴史である。瀕死の五瀬命が気付いた見事な敗因分析と思われるが・・・。

距離も長くなるし、また途中の危険度も増す選択である。伊波禮毘古命としては選択の余地は全くなし。逃げたと言ってもよい状況であったろう。「自南方廻幸之時、到血沼海」北東に船を回して、「血沼海」に達する。現在の小倉南区沼・・町の辺り。現在よりもっと高蔵山山麓に近い場所であったろう。

更に逃げて「到紀國男之水門」そして無念の言葉を残して「紀國之竈山」に葬られた、と伝えている。「紀國」とは? 現在の小倉南区吉田である。倭建命の東征で比定した「紀氏の国」である。竹馬川河口、曽根の入江の東端に達している。いよいよこれから如何に戦うのか、兄を失い残された伊波禮毘古命の孤独な戦いが始まるのである。

男之水門」は比定のしようがないが、「竈山」は現在の吉田の東側にある岬の山の頂上が平坦で、台形状を示している。「竈」に比定できるかもしれない。

紐解いた結果を纏めて地図で示せば下記のようである…


今回の戦闘場所、通説では大阪難波津から大阪府和泉地方、和歌山の方に逃げるルートと言われている。難波津の「渡」の齟齬、古事記は「白肩津」から逃げる時に「自南方」と記述する。和泉、和歌山方面なら「自北方」でなければならない。「紀國」の地名も漠然として要を得ない。

基本的な矛盾、気付かない訳がない。それでも強引に神武東征ルートとして押し通すか、神武の東征そのものが実在しない、かの選択になる。1300年間この矛盾の解消を、所詮は神話の部類と片付けてきた、なんとも情けない事態である。

今回の敗戦は重要な意味を持つ。それは東端に行き着いた伊波禮毘古命のこれからの足跡が示す豊かな情報、言い換えると畝傍の麓がどこにあったか、それを示す決定的な出来事を古事記は記述するからである。

…と、まぁ、今回はこの辺りで・・・


<追記>

2017.07.13
古事記本文中初出の「日下」の解釈補筆。「日下」=「(饒速)日の下」の解釈に変わりはないが、読み方の「クサカ」については不明であった。「日下」=「ヒノモト」で良いのであろうが、気になるところであった。

邇藝速日命の別称として「櫛玉命(クシタマノミコト)」と呼ばれる。これで解けた。「日下(ヒノモト)」=「ク(シタマノミコト)・サ(佐)・カ(処)」=「櫛玉命が佐(タスク)る処」=「櫛玉命のご加護があるところ」となる。

五瀬命の遺言の解釈通り、「日」を背にした戦い、即ち「太陽」と「邇藝速日命」でキャンセルするために東からの侵攻に切り替えた。後の人々が初戦の勝利は「(饒速)日」の加護があったと言う、「クサカ」の蓼津になる。ことの真偽は別として理に適った言草かと思われる。

2017.09.01
「青雲」=「日没後に僅かな時間見える青い空に浮かぶ雲」と解釈する。「逢魔時」とも呼ばれ、「魑魅魍魎に出会う禍々しい時」を意味するとのこと。

日暮れて白肩津に停泊しなければならない状況であったことと、「那賀須泥毘古」との遭遇の予感を示す表現であった。文学的言い回し、万葉集と見間違えるではないか、安萬侶くん…。


2017年5月21日日曜日

神倭伊波禮毘古命の東行:その壱〔037〕

神倭伊波禮毘古命の東行:その壱

本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う
邇邇芸命一家が天降り、我らが「葦原中国」その記念すべき第一歩をしるした、所謂「神武東征」の経緯に、愈々突入である。この初代天皇以後の天皇達の活躍を紐解いてきた。福岡県田川郡香春町の香春岳麓に天皇家の拠点があり、近淡海国を支配し、遠飛鳥で統御しながら、東方十二道、高志道、西方の国々等々を「言向和平」したと、古事記が記述する国々の所在を示すことができた。

現在の九州東北部に収まるこれらの国々の「国譲り」が、今の日本列島各地の地名となっていることもわかった。それをこのブログで「拡大解釈」と表現した。それら全ての起点である「神武東征」を、今までと同様原文に忠実に解釈してみよう。古事記原文[武田祐吉訳]

神倭伊波禮毘古命自伊下五字以音與其伊呂兄五瀬命伊呂二字以音二柱、坐高千穗宮而議云「坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。」卽自日向發、幸行筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古・宇沙都比賣此十字以音二人、作足一騰宮而、獻大御饗。自其地遷移而、於筑紫之岡田宮一年坐。
亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐。自多下三字以音。亦從其國遷上幸而、於吉備之高嶋宮八年坐。故從其國上幸之時、乘龜甲爲釣乍、打羽擧來人、遇于速吸門。爾喚歸、問之「汝者誰也。」答曰「僕者國神。」又問「汝者知海道乎。」答曰「能知。」又問「從而仕奉乎。」答曰「仕奉。」故爾指渡槁機、引入其御船、卽賜名號槁根津日子。此者倭國造等之祖。[カムヤマトイハレ彦の命(神武天皇)、兄君のイツセの命とお二方、筑紫の高千穗の宮においでになって御相談なさいますには、「何處の地におったならば天下を泰平にすることができるであろうか。やはりもっと東に行こうと思う」と仰せられて、日向の國からお出になって九州の北方においでになりました。そこで豐後のウサにおいでになりました時に、その國の人のウサツ彦・ウサツ姫という二人が足一つ騰りの宮を作って、御馳走を致しました。其處からお遷りになって、筑前の岡田の宮に一年おいでになり、また其處からお上りになって安藝のタケリの宮に七年おいでになりました。またその國からお遷りになって、備後の高島の宮に八年おいでになりました。
その國から上っておいでになる時に、龜の甲に乘って釣をしながら勢いよく身體を振って來る人に速吸の海峽で遇いました。そこで呼び寄せて、「お前は誰か」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神です」と申しました。また「お前は海の道を知っているか」とお尋ねになりますと「よく知っております」と申しました。また「供をして來るか」と問いましたところ、「お仕え致しましよう」と申しました。そこで棹をさし渡して御船に引き入れて、サヲネツ彦という名を下さいました]

伊波禮毘古命天下を統治するには、やはり東行しかない、と兄の五瀬命と相談したことから説話が始まる。彼らの相談場所は「高千穂宮」そして出発するところは「日向」原文はその場所を特定しない。それぞれの文字は一般的である。これが様々な場所が比定されるという混乱の原因。

日向・筑紫・豊國宇沙<追記>


古事記原文に「日向」は11回出現する。だが、場所に関連する記述は1回。応神天皇紀の「美知能斯理 古波陀袁登賣」=「道の尻 コハダ乙女」、髮長比賣の説話である。従来この説話は全く解読されずに来た。いや、したのであるが、思いに合わないから無視した、かもである

「道の尻」は道の後方、即ち彼らの出発点「日向」を示し、邇邇芸命が降臨した「竺紫の日向の高千穂」であるとした。現在の福岡市と糸島市の境にある高祖山近辺[追記(b)]である。彼らは西から東へと向かうのである。古事記を読む連中にとって、あたり前過ぎる事柄、安萬侶くんは簡略にしか記述しない。唐突な宮崎県、鹿児島県はその連中にとって不可解であろう。

の「日向」から東行して「筑紫」に行く、既に比定した「筑紫国」現在の足立山西麓である。が、ここは「淡海」に面する交通の要所ではあるが、「統治」するところではない。縄文海進で推測されるように山裾の、決して豊かな場所ではあり得ない。更に東行して「豐國宇沙」に至るが、土人達の集まりであった。歓待されるが、「天下」には程遠い。

伊波禮毘古命と五瀬命の苦闘が始まる。豐國宇沙までの東行は彼らが認識する世界の東西両端であったろう。これを冒頭に記述している。また邇藝速日命の情報の確認、即ち「虚空見日本国」を船の上から眺めたことになる。むしろそれが目的で行った東行と思われる。彼らの行動は全て命懸けである。事を起こすための準備に時を惜しむことはない。古事記が記す一言に命が含まれていることも、同じである。

吉備國・阿岐國*


二人は一旦筑紫に引き上げる。その場所が「筑紫之岡田宮」である。現在の足立山西麓の妙見宮辺り、後の「筑紫訶志比宮」であろう。共に小高い所にあるという地形象形である。その場所で戦闘準備に入るが、不可欠なのが「ヒト、モノ、(カネ)」、中でも重要なので先進の鉄器であろう。鉄の生産地、鬼ヶ城のある「吉備国」が記述される。既に仁徳天皇紀で述べた現在の下関市吉見である。

八年、二倍歴としても、四年、長いと思われるが十分な量の武器製造には必要な時間であったのであろう。ひょっとすると採鉱からの技術開発が求められたのかもしれない。吉見に住む人口の問題も大きな障害であったろう

「阿岐國之多祁理宮」とは? 通説は「安芸=広島県西部」とする。前記した日本書紀中に出現する「安芸」は現在の宗像市辺り(赤間)とした。その赤間にある八所宮(吉武地区吉留)由来記に神武東征に関連する記述があるという。確証はないが深く関連するものであろう、比定できる「宮」である

宗像氏、響灘西部から玄界灘全域に渉って支配した海洋豪族と知られる。前記の「国生み」の中心をなす重要な氏族である。伊波禮毘古命は何をするためにここに七年(三年半)も居たのか? 目的は渡航技術であり、海上戦闘技術、それに関る人材確保ではなかろうか。

ただ、伊波禮毘古命にとっては後に向かう吉備国での鉄製造要員、及び想定される地上戦要員の確保が重要であり、これらに時間を要したきらいがある。いずれにしても宗像氏族の伊波禮毘古命への協力がなくしては実現不可能な事態であったろう。

原文中の「亦」の表記、通説は大和に向かう逐次連続的な「上幸」とするが、並列的な行動を示すと解釈される。上記のごとく、「筑紫之岡田宮」を中心として、「阿岐国」「吉備国」に向かい戦闘準備に没頭したのである。当然、「葦原中国」の情報収集も合せ戦略計画を立てたであろう。初戦敗退という事態を生むが…

「上幸」=「上(アガ)り幸(ユ)く」と解釈される。問題は何処へ? 通説は「大和(奈良)」へ、である。何故この安易な解釈が許されてきたのであろうか? 「大和」には「宮」はない。それどころか場所も定かでない。これから始まる苦闘を経て初めて「畝火之白檮原宮」ができるのである。上記の個別の「宮」に、個別に「上幸」することである。言い換えると「宮」は常に「上がり行く」ところ、地形的にも意識的にも、であろう

「吉備之高嶋宮」の比定は難しい。昭和13~15年にかけて文部省が総力をあげて吉備、すなわち当時の岡山県児島郡に求めたという記録がある。とある神社が最も確からしいと認定された。本ブログの吉備は下関市吉見、その大字吉見下吉見尾袋町にある龍王神社[追記(a)]を認定する、ものである…まぁ、情報少なくて…。

そこから島伝いに彦島辺りに来る。「速吸門」で出会った「槁根津日子」を海の道案内人に引き立てた、という件である。その地の情報を得るには現地採用する、納得である。倭国造になるなんて運が良い、かも。

本日のところを地図に纏めると以下のよう…


こうして眺めてみると「筑紫国」は古代から近代に至るまで交通の要所として歴史的な役割を果たしてきたことが伺える。古代人達の地理的認識の確かさと命懸けの戦いとは表裏一体である。これを受け止めることが古事記の伝えんとするところを理解する礎であろう。同時に、現在とは異なる彼らの精神的豊かさを感じる。

また、古事記序文で安萬侶くんが記述するように、「近淡海国」と「遠飛鳥」を支配統御した報告書であることと矛盾しない。極めて明快な論旨に上に立つ書であることを確認できる。


…と、まぁ、今日はここまでで…次回は苦闘の連続・・・。