2019年4月5日金曜日

青雲之白肩津・楯津・日下之蓼津 〔334〕

青雲之白肩津・楯津・日下之蓼津


神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の東行の情報は、すっかり漏洩していたのであろうか、出立して早々に登美能那賀須泥毘古との初戦対峙となる。睨み合いで済めば良かったのだが、兄の五瀬命が致命傷を負ってしまう、というシナリオである。

その場所については、既に求めて来たが、何とも解釈し辛い表記であった。しかも異なる三つの名前で記され、安萬侶くんが何とか伝えたい気持ちが表れているのだが、簡単ではなかった。今回、纏めて紐解き結果を述べてみようかと思う。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

故、從其國上行之時、經浪速之渡而、泊青雲之白肩津。此時、登美能那賀須泥毘古自登下九字以音興軍待向以戰、爾取所入御船之楯而下立、故號其地謂楯津、於今者云日下之蓼津也。於是、與登美毘古戰之時、五瀬命、於御手負登美毘古之痛矢串。故爾詔「吾者爲日神之御子、向日而戰不良。故、負賤奴之痛手。自今者行廻而、背負日以擊。」期而、自南方廻幸之時、到血沼海、洗其御手之血、故謂血沼海也。從其地廻幸、到紀國男之水門而詔「負賤奴之手乎死。」男建而崩、故號其水門謂男水門也、陵卽在紀國之竈山也。
[その國から上っておいでになる時に、難波の灣を經て河内の白肩の津に船をお泊めになりました。この時に、大和の國のトミに住んでいるナガスネ彦が軍を起して待ち向って戰いましたから、御船に入れてある楯を取って下り立たれました。そこでその土地を名づけて楯津と言います。今でも日下の蓼津と言っております。かくてナガスネ彦と戰われた時に、イツセの命が御手にナガスネ彦の矢の傷をお負いになりました。そこで仰せられるのには「自分は日の神の御子として、日に向って戰うのはよろしくない。そこで賤しい奴の傷を負つたのだ。今から廻って行って日を背中にして撃とう」と仰せられて、南の方から廻っておいでになる時に、和泉の國のチヌの海に至ってその御手の血をお洗いになりました。そこでチヌの海とは言うのです。其處からつておいでになって、紀伊の國のヲの水門においでになって仰せられるには、「賤しい奴のために手傷を負って死ぬのは殘念である」と叫ばれてお隱れになりました。それで其處をヲの水門と言います。御陵は紀伊の國の竈山にあります]

この辺り!…と言えるところに辿り着いた経緯を初見のままで再掲する・・・、

一語一語を調べて見よう。「浪速之渡」の「渡(ワタリ)」=「川などの渡る場所」これ以外の解釈はない。通説は困って「湾」とする。岡山吉備国から難波へ、地名のみの比定の破綻である。

筑紫国から南に行くと竹馬川にぶつかる。当時は紫川河口と現在の曽根・新門司平は竹馬川及びその支流にによって繋がっていたことを示している。なんどか記述した縄文海進による海水面の上昇である。またこのことは現在の企救半島が「島=筑紫嶋」であったことを示している。

当時のルートは決して企救半島の北端を回るのではなく、竹馬川河口から紫川河口へと抜けたのである。というよりも企救半島の北側をまれなかった「宍戸」は通れなかったのであろう。後の垂仁天皇紀の説話に出て来るのであるが、北端を回るくらいなら船を滑らせて県道262号線を「船越」した。
 
「浪速之渡」を渡ると「尾張国」、まだ国として成り立っていなかったようである。そこは「青雲之白肩津」と表現される。「肩津」=「潟津」であろう。曽根・新門司平地が干潟を形成していたことは明らかである。なんとも光景的に美しい命名である。青雲のごとくの大志を抱く、真白き潟…真意は解り兼ねるが…。

・・・のように読み解いて来た。

さて、今回は一文字一文字を漏れなく調べてみることにした。
 

楯津・蓼津

<楯津・日下之蓼津>
「楯津」の「楯」は大国主命が娶った神屋楯比賣命に含まれていた。「楯」=「木+盾」更に「盾」=「斤(斧)+目(隙間)」と分解される。

古事記を徘徊して漸く辿り着いた解釈である。「楯」の文字は決して多くはないが、要所に登場する。

「夜麻登」の枕詞とされる「小楯」などがある。また、別稿で纏めてみようかと思う。

「楯」=「切り取った隙間」を表すと紐解けた。その地にあった「津」と解釈すると、現在の小倉南区長野・横代東町辺りと推定される。地形的にその辺りと推定した場所そのものを示していることが解る。

更に「今者云日下之蓼津也」と記され「蓼津」とも表記される。「蓼がいっぱい生えている津」ではなかろう・・・。

例によって「蓼」=「艹+羽+羽+㐱(人+彡)」とバラバラにしてみる。すると、地形象形の文字が見えて来る。二つの羽の様な台地に挟まれた「髪の毛のようにしなった入江(人)」を表していると読み解ける。何とも言えないくらいに見事な地形象形である。「日下」については下記で述べる。


青雲之白肩津

「青雲」については初見の通りであるが、なかなか奇麗な表現が並ぶところ、再掲した。・・・「青雲」とは?…「青雲」=「日没後に僅かな時間見える青い空に浮かぶ雲」と解釈する。「逢魔時」とも呼ばれ、「魑魅魍魎に出会う禍々しい時」を意味するとのこと。


<青雲之白肩津>
日暮れて白肩津に停泊しなければならない状況であったことと、「那賀須泥毘古」との遭遇の予感を示す表現であった。文学的言い回し、万葉集と見間違えるではないか、安萬侶くん…。

・・・確かに良くできているシナリオである。

さて「白肩津」は上記の「潟津」ではなかろうか?…と読み解いたが、やはり万葉集風に記されたとは思い難い。では何と地形象形しているのでろうか?…。

「白」=「団栗もしくは頭蓋骨」を象ったものと言われる。多様な意味が派生する文字であり、「白い、薄(淡)い、狭い、くっ付いた」などがある。図に示したように小高い形状よりも「薄く(低く)くっ付いた地形」と解釈する。

「肩」=「戸(Γ)+月(山稜の端の三角州)」とすると(通常は月=肉)、「直角に曲がる三角州」と紐解ける。すると「白肩津」は…、
 
低くてくっ付いて並ぶ三角州が直角に曲がった地形の入江

…と紐解ける。上図は通常の地図では判別が難しいため陰影起伏図で示したものである。実に形の揃った山稜の端の三角州が並んで「肩」を形成していることが解る。併せて入江の状態もより鮮明に判別できる。なんと、この入江の説明に三つの表記を用いていたのである。

現在の標高からして、間違いなく「潟津」であっただろう。待ち伏せて両岸から舟を攻めるには好適の場所(津の幅は100m弱)であり、「日下」でなくとも那賀須泥毘古には有利な地形での戦勝であったと推測される。

邇藝速日命一族は、穂積、物部等へと派生して大倭豐秋津嶋の北から南までを統治できていたと思われる(詳細はこちら)。だが、彼らの総大将は、邇藝速日命が娶った登美夜毘賣の兄、登美能那賀須泥毘古なのである。実権は「登美」にあったことが伺える。これが、邇邇藝命が降臨する要因であったことを伝えているのであろう。

古事記が記す天皇家の戦略は「言向和」であった。時間を掛けてじっくりと侵出して行った。もう暫くで「令和」の時代になるそうである。ほんの一時期を除いて、少々似つかわしくない元号に読めてならない。現憲法下、天皇は象徴、である。

「令」に「良い、目出度い」の意味はあり得ない。「整った、奇麗な」ぐらいは許せるが…これも「縮こまり、畏まっている」様からの転化のようである・・・。要するに、後の輩が訳した、大間違いであろう。「令月」は「冷たい月」、だから二月を示す。初春の旧正月で目出度い…お目出度い話である。古事記が読めて来なかったことと、間違いなく、関連することと思われてならない・・・。

ともかくも、国書が注目されて、通説に捉われることなく読み解かれることを期待したい・・・日本書紀も記念すべき1,300年を迎える時期が近付いている・・・。

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日下

日下之蓼津」には如何なる意味が秘められているのであろうか?…「日下」=「邇藝速日命の下」と読む。「蓼」には困難、苦しみの意味もある。五瀬命が深手を負い、逃げのびるも結局は命を落としてしまう。まさに危機的状況に陥った場所を表すのであろう。

邇藝速日命の別称として「櫛玉命(クシタマノミコト)」と呼ばれる。別書では「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」と記さている。「日下(クサカ)」とは…、
 
ク(櫛玉命)|サ(佐:助くる)|カ(処)

…「櫛玉命のご加護があるところ」となる。古事記序文に「玖沙訶(クサカ)」と読むことが述べられている。

五瀬命の遺言の解釈通り、「日」を背にした戦い、即ち、邇藝速日命の「日」を太陽の「日」でキャンセルするために東からの侵攻に切り替えた。後の人々が初戦の勝利は「(邇藝速)日」の加護があったと言う、「クサカ」の蓼津になる。ことの真偽は別として理に適った言草かと思われる。