2019年3月18日月曜日

山代國之相樂・懸木・弟國 〔329〕

山代國之相樂・懸木・弟國


伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の娶りに関連するところの説話である。どうも天皇は「醜女」がお気にめさないようで・・・邇邇芸命にもそんな話があって、天皇に寿命ができた、と言う件が記載されている・・・何かと事件が発生する。

読み解きに苦労はさせられるのであるが、実は重要な意味を示している。いずれにしても未読のところを述べてみよう。争乱の後、后(沙本毘賣)の言に従って、旦波に后を求める時である。尚前後の読み解きはこちらを参照願う。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

又隨其后之白、喚上美知能宇斯王之女等、比婆須比賣命・次弟比賣命・次歌凝比賣命・次圓野比賣命、幷四柱。然、留比婆須比賣命・弟比賣命二柱而、其弟王二柱者、因甚凶醜、返送本土。於是、圓野比賣慚言「同兄弟之中、以姿醜被還之事、聞於隣里、是甚慚。」而、到山代國之相樂時、取懸樹枝而欲死、故號其地謂懸木、今云相樂。又到弟國之時、遂墮峻淵而死、故號其地謂墮國、今云弟國也。
[天皇はまたその皇后サホ姫の申し上げたままに、ミチノウシの王の娘たちのヒバス姫の命・弟姫の命・ウタコリ姫の命・マトノ姫の命の四人をお召しになりました。しかるにヒバス姫の命・弟姫の命のお二方はお留めになりましたが、妹のお二方は醜かったので、故郷に返し送られました。そこでマトノ姫が耻じて、「同じ姉妹の中で顏が醜いによって返されることは、近所に聞えても耻かしい」と言って、山城の國の相樂に行きました時に木の枝に懸かって死のうとなさいました。そこで其處の名を懸木(さがりき)と言いましたのを今は相樂と言うのです。また弟國に行きました時に遂に峻しい淵に墮ちて死にました。そこでその地の名を墮國と言いましたが、今では弟國と言うのです]

要するに旦波国の比賣を娶った時の裏話、という感じなのだが、何とも悲しい出来事なのである。何故こんな説話を…天皇は冷たい、美醜で決めるとはなんと理不尽な…色々お説が出てきそうな場面である。四人の比賣の内二人を不合格にしてしまったのである。

しかしどうやらこれは地名のヒントであったようである。「相樂」「懸木」「墮國」「弟國」など地名及びご登場の不合格となった比賣の居場所を求めよう。

余談ぽくなるが、この「弟比賣」は、次女の眞砥野比賣命(沼羽田之入毘賣命とも記される)のことで、三女は、まだ適齢に達してなかったのではなかろうか…後に三女も娶ることになる。

武田氏は「圓野(マトノ)比賣」と訳しているが、おそらく、異なるのであろう。「美知能宇斯王之女等」と記述されるが、後者の二人は登場していない。やや不祥なところが見えるようである。

<山代之相樂/懸木>
そんな背景で、その内の一人の比賣が悲嘆にくれて死を選んだ行程が事細かに記述されている。こんな時は場所を示そうと、安萬侶くんが努めていると思うべし、である。

師木玉垣宮から山代国方面に帰る道には、幾度か登場した現在の山浦大祖神社の近隣を通るルートがある。

現在でも村らしい村はこの神社を中心とした地域しかないが、「相樂」を紐解いてみよう。「相(佐:助ける)・樂(農作物の出来が良い、豊か)」となる。

鳥取之河上宮に坐した印色入日子命(長女の御子)が耕作地(茨田)に開拓した場所に一致する。文字の印象からするとそうであるが、地形象形をしている筈である。

「相」=「木+目」と分解して「山稜の隙間」と紐解いた。大毘古命が息子の建沼河別命と高志で再会した場所、相津があった。また垂仁天皇紀の説話に登場する尾張之相津の記述も同様に読み解いた。

見慣れないのが「樂」であるが「樂」=「糸+糸+白+木」にバラバラに分解してみると、意外や地形絡みの文字が並ぶことになる。「糸」=「山稜」、「白」=「団栗の様な小高いところ」(青雲之白肩津参照)、「木(山稜)」とすると、図に示したように「相」の両側を山稜が走っている様を、更にその「相」の中に小高いところが点在している地形を表していると紐解ける。

全体を文字に訳しても意味が通じかねるような長い解釈となる。図に示した通りの地形を「相樂」で表記したと解る。いや、実に見事なものである。そして現在も地図に記載されている道は、些か異なるではあろうが、古代から通じていた道であることが伺える。正に古代が息づく土地と言えるであろう。

「相樂(サガラ)」⇄「懸木(サガリキ)」は全くの駄洒落であろう。いや、遊び心は大切である、と思う・・・「懸」=「木+目+糸+心」と分解すると、「懸木」は「木+目+糸+心+木」となって、何と!…「相樂」と同じに・・・その地の中心の場所を表している。
 
<弟國・墮國>

その場所では目的を果たせず「堕國」に向かう。大祖神社傍の道を通り抜けると、そこは「淵」山代大国之淵が居するところに近付く。

そしてその淵から堕ちて亡くなったのである。駄洒落の流れで「弟國」とが付く。

「弟」は何と解釈するか?…兄弟姉妹の記述の中で用いられていない場合は、何らかの地形象形を行っていると考える。

図に示した山稜の端に「弟」の甲骨文字が当て嵌めることができそうである。

登場する機会は少ないが後の応神天皇の御子、若野毛二俣王が百師木伊呂辨・亦名弟日賣眞若比賣命を娶る記述がある。亦名を見ると、一見ではサラリと読み飛ばしてしまいそうなのだが、前半の「弟日賣」の部分が「弟」が示す地形象形表記と気付かされた。山稜の端にある細かく分かれた稜線を示していると解釈できる。

現在の犀川(今川)は治水された後であり、当時はより広い川幅を有していたと推測される。そしてこの辺りは大きな淵を形成したいたのではなかろうか。それを示すように「山代大国之淵」と命名された人物を登場させるのである。

二人の比賣の悲しい出来事のお陰で山代の南(西)部の詳細が見えて来る。そうするために挿入された説話、と思っておこう。ここも駄洒落で落が付く。少しあやかって・・・「落別」を「弟國」に隣接する地と読み解いた。共に「淵」を共有するところである。
 
<歌凝比賣命・圓野比賣命>
現在の福岡県京都郡みやこ町犀川柳瀬辺りと思われる(<(弟)苅羽田刀辨の御子>参照)。

古事記の一文字を読み解くには一体幾つの文字を読み解かねばならないか…と憤懣さえ感じながら益々多くの文字解きが必要になるのである。

さて、悲運な比賣二人は何処に坐していたか?…と求めようとするが、これがまた難題である。

比婆須比賣命・弟比賣命の出自は記されているが、この比賣達は不詳。美知能宇斯王の比賣であったと記されていることから、一応、旦波国内として、探すことにする。

また、地形がかなり「麻」な状態であって判別も容易ではない。言い訳はそれくらいにして、図に示したように「歌凝比賣命」の「歌」=「可+可+欠」と分解し、「凝」=「一つに集まる」様を象った文字として…、
 
二つの谷間の出口が広がり一つに集まったところ

…と紐解ける。「訶」=「谷間の耕地」の谷間に相当する。「欠」=「口を広げた」様である。何とか収まったようである。また「圓野比賣命」の「圓」=「丸い、つぶらな」と解釈して、上図の場所を推定した。ご冥福を祈る次第である。