大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の事績
大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の事績は、何と言っても八十人の御子を誕生させたことであろうが、求人高倍率の…産めよ増やせよ何て言う近代の出来事とは些か異なるが…時代を迎えていたと推測される。
それに加えて倭建命に命じて「言向和」だけでは事が済まない国を従えさせ、この天皇の時にほぼ「倭国連邦言向和国」の骨格は出来上がったと伝えている。そんな状況の中で畝火山の周辺をきちんと整理して都らしくしたようである。
さて事績として[武田祐吉訳]…、
此之御世、定田部、又定東之淡水門、又定膳之大伴部、又定倭屯家。又作坂手池、卽竹植其堤也。[この御世に田部をお定めになり、また東國の安房の水門みなとをお定めになり、また膳の大伴部をお定めになり、また大和の役所をお定めになり、また坂手の池を作ってその堤に竹を植えさせなさいました]
「東之淡水門」は神倭伊波礼比古が五瀬命と逃げた紀国男之水門、後の倭建命が立寄った東国とを重ね合わせれば現在の北九州市小倉南区吉田辺り、竹馬川河口付近と推定される。通説では東京湾まで飛ぶようであるが・・・。
「淡水門」は、「淡海」=「淡水の海」ならば同様に「淡水の門」とでも解釈するのが尋常であろうが、そうではないようである。
既に述べたように「淡」=「氵+炎」炎のように水が飛び跳ねる水の状態を表わす。ここは綿津見の場所なのである。現存する神社があっても不思議はない。
「倭屯家」は東京湾まで統治しているのに、何故倭に屯家が要る?…なんてことになりそうである。自ら作った齟齬は矛盾とは言えない。
「夜麻登」はその文字通りに決して豊かな耕作地を提供できる場所ではなかった。漸くにして屯家が作れる時になったと考えるべきであろう。
「屯」=「一ヶ所に集まる」を意味する。既出の「家」=「宀+豕」=「山稜の端」と紐解いた。すると…「屯家」は…、
…「山稜の端が一ヶ所に集まるところ」と読み解ける。
「倭」は本来の「嫋やかに曲がる」を意味を有しているが、畝火山の周辺の地域を示すと思われる。
「屯家」は、神八井耳命が祖となった筑紫三家のように「三家」(三つの山稜の端)とも表記された。
その場合は集まらずに三方に分かれているのである。実に丁寧に表現されていると感心させられる。
畝火之白檮原宮(現田川郡香春町上高野)の近くに「常安」という地名がある。この辺りを指し示しているのではなかろうか。
後に何代もの天皇が宮を構えた「伊波禮」の地、その中心に位置する場所である。国として構える礎を築いたと解釈される。
「坂手池」は纏向日代宮の背後、山麓の斜面に「手」の模様が見出せる(図参照)。現在の水田の場所は下流域に移っているが、当時は谷間を利用したところに限られていたと推測される。現在の鏡ヶ池辺りで池を作り用水としたのではなかろうか。急斜面の池作りは「堤」作成の技術に基づく。
「竹植其堤」は、前記した「竹と池作り」の密接な繋がりを表ていて興味深い。
「膳之大伴部」は、天皇の食膳を司る部署のように解釈されている。
既出の大毘古命の息子、比古伊那許士別命が祖となった膳臣と同じ解釈であろう。
すると「膳」及び「大伴」の地形を表していると思われる。勿論、両意に重ねられているかもしれない。
「膳」=「谷間が広がるところで山稜の端にある三角州の傍らの耕地」から求める地を見出すことができる。
更に「伴」=「二つに分れた」様を象った文字とすれば、図<坂手池・膳之大伴部・田部>に示した山稜の端にある谷間を示していると解る。「田部」には何らの修飾も施されていないことから、纏向日代宮の周辺に田を拡げたところと推測される。
倭国が大国へと歩み始めた時の天皇として、旧来の「師木」を離れ、自らの都を作り上げようとした事例が記載されているようである。
「虚空見日本国」即ち未開の地に侵出し、それを着実に繁栄の地に変えていった天皇家の戦略に深く感動する。彼らは一歩一歩、だが時を惜しまず果敢に開拓する意志は、古事記が伝えたかった最も重要な事柄であったと思われる。
此之御世、定田部、又定東之淡水門、又定膳之大伴部、又定倭屯家。又作坂手池、卽竹植其堤也。[この御世に田部をお定めになり、また東國の安房の水門みなとをお定めになり、また膳の大伴部をお定めになり、また大和の役所をお定めになり、また坂手の池を作ってその堤に竹を植えさせなさいました]
東之淡水門
「東之淡水門」は神倭伊波礼比古が五瀬命と逃げた紀国男之水門、後の倭建命が立寄った東国とを重ね合わせれば現在の北九州市小倉南区吉田辺り、竹馬川河口付近と推定される。通説では東京湾まで飛ぶようであるが・・・。
<東之淡水門> |
既に述べたように「淡」=「氵+炎」炎のように水が飛び跳ねる水の状態を表わす。ここは綿津見の場所なのである。現存する神社があっても不思議はない。
倭屯家
「倭屯家」は東京湾まで統治しているのに、何故倭に屯家が要る?…なんてことになりそうである。自ら作った齟齬は矛盾とは言えない。
「夜麻登」はその文字通りに決して豊かな耕作地を提供できる場所ではなかった。漸くにして屯家が作れる時になったと考えるべきであろう。
「屯」=「一ヶ所に集まる」を意味する。既出の「家」=「宀+豕」=「山稜の端」と紐解いた。すると…「屯家」は…、
屯(一ヶ所に集まる)|家(山稜の端)
<倭屯家> |
「倭」は本来の「嫋やかに曲がる」を意味を有しているが、畝火山の周辺の地域を示すと思われる。
「屯家」は、神八井耳命が祖となった筑紫三家のように「三家」(三つの山稜の端)とも表記された。
その場合は集まらずに三方に分かれているのである。実に丁寧に表現されていると感心させられる。
畝火之白檮原宮(現田川郡香春町上高野)の近くに「常安」という地名がある。この辺りを指し示しているのではなかろうか。
後に何代もの天皇が宮を構えた「伊波禮」の地、その中心に位置する場所である。国として構える礎を築いたと解釈される。
坂手池・膳之大伴部・田部
「坂手池」は纏向日代宮の背後、山麓の斜面に「手」の模様が見出せる(図参照)。現在の水田の場所は下流域に移っているが、当時は谷間を利用したところに限られていたと推測される。現在の鏡ヶ池辺りで池を作り用水としたのではなかろうか。急斜面の池作りは「堤」作成の技術に基づく。
<坂手池・膳之大伴部・田部> |
「膳之大伴部」は、天皇の食膳を司る部署のように解釈されている。
既出の大毘古命の息子、比古伊那許士別命が祖となった膳臣と同じ解釈であろう。
すると「膳」及び「大伴」の地形を表していると思われる。勿論、両意に重ねられているかもしれない。
「膳」=「谷間が広がるところで山稜の端にある三角州の傍らの耕地」から求める地を見出すことができる。
更に「伴」=「二つに分れた」様を象った文字とすれば、図<坂手池・膳之大伴部・田部>に示した山稜の端にある谷間を示していると解る。「田部」には何らの修飾も施されていないことから、纏向日代宮の周辺に田を拡げたところと推測される。
倭国が大国へと歩み始めた時の天皇として、旧来の「師木」を離れ、自らの都を作り上げようとした事例が記載されているようである。
「虚空見日本国」即ち未開の地に侵出し、それを着実に繁栄の地に変えていった天皇家の戦略に深く感動する。彼らは一歩一歩、だが時を惜しまず果敢に開拓する意志は、古事記が伝えたかった最も重要な事柄であったと思われる。