古事記の『恵賀』
古事記に「恵賀」が登場するのは、仲哀天皇紀に「御陵在河內惠賀之長江也」と記載されたところである。その後も必ず「河(川)内」と冠されている。とういうわけでこの「恵賀」は河内にあった場所であることは自明なのであるが、広い河内の何処であるかは詳らかではない。「長江」など更なる文字が付加されていることを頼りに何とかそれらしき場所は突止められる。陵墓の通説は、全く当てにならず、ほぼ日本書紀の記述に拠っているようである。繰返し登場する「恵賀」は歴としてある特定の場所を示していると思われるが、お構いなしである。
そんな背景で、やはり「恵賀」の文字解釈をきちんと行ってみようかと思う・・・と講釈が長くなっているが、何を隠そう「恵」の文字について、漸く納得いく解が得られたことに依存する。前記の崇神天皇紀の和風諡号「御眞木入日子印惠命」に含まれているからである。
1.河內惠賀之長江
<河内惠賀之長江> |
「糸」=「細い山稜」とすると…「恵」は…、
山稜に囲まれた中心にある小高いところ
…を表していると紐解ける。
「賀」は、既出の速須佐之男命の須賀宮、内色許賣命の比賣・伊賀迦色許賣命の解釈と同じく、「賀」=「挟まれた(囲まれた)地が押し拡げられた様」とすると・・・「惠賀」は…、
山稜に囲まれた中心の小高い地が谷間を押し拡げたようなところ
…と読み解ける。当時の海岸線(推定:図中水色の破線)は大きく内陸部に入り込んでいて谷間に沿って細く長い入江が形成されていたと推測される。海岸線の全体図はこちら。
<狹城楯列陵> |
御陵の場所を特定するのは難しいようで、入江の中央にある小高いところではなかろうか(図中黄色の破線円)。
后の御陵が記載されるのは数少ないが、その内の一つである。ついでと言っては語弊があるが・・・。
「城」=「土+成」=「整地された高台」と読む。戦国時代の城のイメージではないが、外れているわけではない、城は高台にあったようである。
「城」=「土+成」=「整地された高台」と読む。戦国時代の城のイメージではないが、外れているわけではない、城は高台にあったようである。
狹(狭い)|城(整地された高台)
楯(切り取られたような隙間がある地)|列(連なり並ぶ)
楯(切り取られたような隙間がある地)|列(連なり並ぶ)
…「狭いが整地された高台が切り取られたような隙間が連なり並ぶところ」にある稜と紐解ける。御陵の位置は定かではないが、現在も広い墓所になっている様子である。
2.川內惠賀之裳伏岡
品陀和氣命(応神天皇)の御陵である。「凡此品陀天皇御年、壹佰參拾歲。甲午年九月九日崩。御陵在川內惠賀之裳伏岡也」と記載される。
<川內惠賀之裳伏岡陵> |
「裳」=「ゆったりとした衣」の意味とあるが、「衣」=「山麓の三角州」と紐解いた(「許呂母」とも表記される)。すると…、
裳(ゆったりとした山麓の三角州)|伏(平たく延びる)
…「ゆったりとした山麓の三角州が平たく延びる」ところと読み解ける。
<八雷古墳・八雷神社> |
いつものことながら御陵の場所を特定することは難しいが、この岡に八雷古墳が現存している。詳細は行橋市のサイトを参照願う。現地名は、長江陵と同じく行橋市長木とある。古墳の画像を拝借。
少し変形の前方後円墳だとか、埋葬された人物は不明だが「ヤマト政権と強いつながりを持っていたことがわかります」と結ばれている。
3.河內之惠賀長枝
男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)、仁徳天皇の四男である。墓所がある兄弟は全て父親の「毛受」に絡んだところであるが、些か離れた、と言って近隣の地に葬られたのであろう。何だかこの兄弟は仲の良い感じである。
<河內之惠賀長枝陵> |
河內惠賀之長江陵の更に下流域(北方)に山稜が延びて、その先が分かれているところが見出せる。
現地名は行橋市吉国だが、二塚との境辺りである。陵の場所は、現在の八社大明神社辺りかと思われる。
全体の位置関係は、図<長田大郎女・河内之惠賀長枝陵>参照。
少し北側、「恵」を取巻く北側の山稜の一部は毛受である。上図<河内惠賀之長江>を参照願う。この近隣に…凄まじいくらいに…陵墓が多く集まっていたと伝えている。
<長田大郎女・河内之惠賀長枝陵> |
本ブログも何とかそれを解き明かそうと試みて現在に至る。かなりの墓所を求められた思うが、まだ道半ばのようにも感じられる。
いつの日か、宮の一覧を作成したように御陵の一覧も作成してみようかと思う。
最後に墓所ではないが建小廣國押楯命(宣化天皇)紀に恵波王が登場する。
川內之若子比賣を生んだ御子の一人である。この王の在処は…、
恵波=[恵]の端
…と読める。現在の二塚辺りと推定される。白鳥御陵の白鳥の尾、である。この時代になってようやく河内(川内)は墓所から脱却できた、のであろう。近淡海国の宗賀一族の勃興と時を同じくしている。