2019年1月24日木曜日

建内宿禰:若子宿禰・久米能摩伊刀比賣・怒能伊呂比賣 〔309〕

建内宿禰:若子宿禰・久米能摩伊刀比賣・怒能伊呂比賣

大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の御子、建内宿禰に子孫に関する記述があった。全体の内容はこちらを参照願うとして、幾つかの加筆・訂正を行ってみようかと思う。

なかなか古事記の読み時に納得行くところまで達せないが、飽くなき追及あるのみと割り切って述べることにする。

最後に登場の「若子宿禰」、その居場所は求められるのだが、そもそも「若子」とは?…簡単な文字列だけに難度が上がるようである。

若子宿禰

江野財(臣):喜多久(北九州市門司区)

「江野財臣」を…「財」=「貝+才」=「子安貝の形をした山稜」とすると…、


<江野財臣>

 (入江の)|(野原の)|([貝]の形)

と紐解いてみる。子安貝を象形した文字を山稜の地形に用いていると解釈される。

古事記中に「財」の使用は幾度か登場するが全て同じ解釈と思われる。

大きな入江とそこに広がる野を有し、良質の木から布を紡織するところは角鹿現在の「喜多久」と読み解いた。

角鹿」の別称表現であろう。解けてみれば更なる情報と地名特定の確度が高まるのであるが・・・容易ではない・・・とここまでは既に紐解いたところなのであるが、やはり「若子」の意味が今一つピンと来なかったのが実情である。


<若子宿禰>
年月が過ぎて・・・漸くにして「若子」が見えて来た。「貝」は内に孕む様を象形した文字である。比賣の「賣」=「子を孕む」ことに繋がるのであろう。

即ちこの貝の形を示す山稜の中に、もう一つ小さい山稜が鎮座していたことに気付いた。

図を参照願うと・・・、
 
若(なりかけ)|子(子)

…「子になりかけ」のところと読み解ける。正に自由自在の文字使い、古事記の真骨頂とでも言うべき表記である。

貝が子を孕んでいたのである。だから、簡明に「若子」とだけの表記にしたのであろう。前記の「若櫻宮」の「若」も同じ意味と解る。「なりかけ」という解釈である。

さて、木角宿禰者と葛城長江曾都との間に二人の比賣が挿入されている。「久米能摩伊刀比賣」と「怒能伊呂比賣」である。危なく、例によって読み飛ばしそうな記述であるが、気付いたなら居場所を紐解かねばならない…という訳で・・・。かなりの部分を書き換えたので、この段、全文を掲載することにした。
 
久米能摩伊刀比賣

何せ建内宿禰の比賣ともなれば、なんて余計なことは抜きにして早速に・・・。実のところは、なんの事はない前記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)」の名前を紐解いた時に気付いたのである。古事記検索で「久米」を掛けると出て来る。その中にあったという訳である。
 
<師木玉垣宮・水垣宮>

そんな事情で時代は前後するが、「伊久米天皇」の紐解き概略を述べながら比賣の住まった場所を求めてみよう。

「伊久米」の探策結果は図に示すように現在の田川市伊田、鎮西公園付近とした。

図の右側から左側にかけて、すなわち東から西に向けて標高差20mに満たないが、なだらかな谷筋が見て取れる。

またそれらの谷筋が合流し「津」を形成していることも判る。真に天津久米類似の地形を示しているのである。

この「津」近隣の高台に垂仁天皇の師木玉垣宮があったと推定される。「伊」の文字を三つも含む名前、ひょっとすると伊田の「伊」は残存地名かもしれない。
 
伊(僅かに)|久([く]の形)|米(川の合流点)

<久米能摩伊刀比賣>
…「僅かに[く]の形に曲がった川が合流するところ」と紐解ける。

見落としてはならないのは、久米に「伊」が付かない。僅かに[く]の字に曲がるのではないことを示している。

更に「能=熊=隅」が付加される。曲がったところの隅に位置することを述べていると思われる。図に示したように「伊久米」の北にある「久米」となろう。

「摩伊刀」はそのまま読めば「刀を擦って磨く」のような意味になる。

神倭伊波礼比古に随行した武将「大久米命」を連想させ、勇猛な久米一族の住処であったことを暗示しているように受け取れる。

勿論天皇の近くに居ること、彼らの主要な役目であったろう。だがしかし、間違いなく地形象形していると思われる。「摩伊刀」は何と紐解くか?…、
 
摩(消えかかったような)|伊(小ぶりな)|刀(斗:柄杓の地)

…と読み解く。安萬侶コードの「刀」=「斗」=「戸」は全て凹んだ地形を示し、場合によって使い分けられている。「摩」は「近い」とも訳せるが、ここは「當岐麻道(消えかかった分岐の道)」の時と類似したものと思われる。

標高差が少なく、地図は国土地理院陰影起伏図を使用すると、浮かび上がって来た柄杓の地が見出だせる。ついでながら「伊久米」の谷(川)も一層明確に示されている。

「伊久米」に導かれて漸くのことこの地の詳細が見えて来たようである。垂仁天皇が近隣に鎮座するずっと以前に建内宿禰の手が伸びていたということであろう。師木侵出は着実に準備されていたことを告げている。

怒能伊呂比賣

怒能伊呂比賣、一体何と読む?…やはり「ノノイロヒメ」と通訳されているようである。だが、これでは埒が明かない、と言ってみても、そもそも建内宿禰の子供達の居場所を求めた例が極めて少ないのだから、そのうちの一人の比賣など誰も追及なんかしていない…そうなんでしょうか?

そんな怒りが…ちょっと安萬侶くん風になってきた…「怒」=「イカリ」と読む。師木辺りで関係ありそうな場所を探すと・・・ズバリの名前が登場する。「伊加利」である。師木玉垣宮のほぼ真南に当たる彦山川の対岸にある。現地名は…田川市…、
 
伊加利

かなり広い面積をしめる地名であり、古くからの呼び名ではなかろうか。



実際には「ノorド」と言われたところであったのかもしれない。変遷があって読み替えたものが残ったようにも思われる。それにしても「伊久米」から始まった地名探索は見事なまでに収束してきたようである。師木の詳細地図が見えて来たと思われる。
 
<怒能伊呂比賣>
ここで終わってしまっては残存地名に合わせただけになってしまう・・・「イカリ」の地形を求めてみると・・・見事な地形象形であった。

「錨(碇)」の歴史は古く、舟を多用していれば当然かも知れないが、とは言っても古事記の時代に如何なるものが使用されていたかは不詳である。

怒能伊呂比賣」は…、
 
怒(錨の地形)|能(隅)|伊(小ぶり)|呂(背骨)

…「錨の地形で小ぶりな背骨ようなところ」の比賣と紐解ける。

上図を参照願うと、背骨の凹凸があり、現在に知られる鉄製の錨の形を示していることが判る。この形状は石を用いた碇ではなく、既に鉄を用いていたのではなかろうか…興味深いところだが、これ以上の推論は難しいようである。
 
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伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の坐したところも含め、確度の高い比定場所かと思われる。現在の田川市、田川郡香春町そして赤村、この地から日本が始まったことには間違いないと確信するところである。