大倭帶日子國押人命(孝安天皇):忍鹿比賣命の御子・大吉備諸進命
神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の後を引き継いだ神沼河耳命(綏靖天皇)が葛城に居を構えて、この干からびた地を豊かな緑の地に変えようと努めた。その努力の結果が漸く稔ろうとした時の天皇と伝えている。大倭帶日子國押人命(孝安天皇)が坐した宮の名称を「秋津嶋宮」と記され、伊邪那岐・伊邪那美が生んだ大倭豐秋津嶋(別称:天御虛空豐秋津根別)を引継ぐものかと思われる。
天神一家が「天」から移住する目的地に子孫が漸く辿り着き、根を生やせる時が訪れたのである。従来では綏靖天皇から開化天皇までを欠史天皇とし、彼らが坐した場所、葛城の地に因んで別の王朝、葛城王朝などと称する説もあるくらい、正統の天皇家とは一線画すような解釈もある。全くの筋違いであろう。大倭帶日子國押人命(孝安天皇)の時こそ見逃してはならない重要な意味を示していると思われる。
古事記原文…、
大倭帶日子國押人命、坐葛城室之秋津嶋宮、治天下也。此天皇、娶姪忍鹿比賣命、生御子、大吉備諸進命、次大倭根子日子賦斗邇命。二柱。故、大倭根子日子賦斗邇命者、治天下也。天皇御年、壹佰貳拾參歲、御陵在玉手岡上也。
大吉備諸進命
鬼ヶ城・竜王山の山塊に囲まれたところと推定される。この地の詳細は後に多くの登場人物によって示されることになる。
かの有名な倭建命(小碓命)は竜王山・鋤先山の麓が出自の場所と比定することになる。
「大吉備諸進命」の名前…諸々取進める…やることが沢山あったであろう、苦労を背負った御子の様子を伺わせる命名か?…である。
それが次に繋がることを心に秘めていたのであろう。祖となる記述はない・・・。
「諸」=「言+者」と分解すれば「言」=「大地を耕地にする」であり、「者」=「山稜が交差する麓」とする。孝元天皇の御子少名日子建猪心命、仲哀天皇紀の伊奢沙和氣大神、更には雄略天皇紀に登場する引田部赤猪子に含まれる「者」に共通する解釈である。
また「進」=「辶(交差する)+隹(鳥)」であるから「山稜の[鳥]の形が交差する」と読取れる。後の大雀命(仁徳天皇)の「雀」に類似する解釈である。「大吉備諸進命」は…、
大(山頂が平らな)|吉備|諸(山稜が交差する麓を耕地にする)
進([鳥]の形が交わる)|命
…「吉備にある山頂が平らな山稜の稜線が交差する麓を耕地にし、[鳥]の形が交わるところに坐した命」と紐解ける。
とすると、出自が大倭帶日子國押人命の姪と記される母親、忍鹿比賣命の居場所が見えて来たのである。御子の場所とは西田川の対岸に当たるところと思われる。
忍(一見では解らない)|鹿([鹿]の形)
…「一見では解り辛いが鹿の角の形をした山麓」と紐解ける。麓の現在の八幡宮辺りではなかろうか。
御子の名前から母親の居場所が求められるのは何度か遭遇する場面と言える。いずれにせよ凄まじいばかりの地形象形である。だが、紐解ければ納得の記述のように思われる。
鉄の産地、鬼ヶ城に限りなく近接する場所である。祖となる記述はあるが、皇統に絡む娶りは出現しない。比賣が御子を育む場所ではなかったのかもしれない。
神倭伊波禮毘古命以来の吉備国への侵出ではあるが、吉備国が言向和されるのは次期孝霊天皇紀であったと伝えている。大事なことは、目が吉備…鉄…に向いていること。その確保が確立するのは仁徳天皇紀まで待たねばならなかったようである。
古事記は唐突に記述しながら、実は着実に物語が進行していることを登場人物の名前で伝えているのである。見逃してはならないところである。
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御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の御陵
一代前の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の御陵について述べる。「博多山」と記されるのであるが、現在では馴染みのある名称なのだが、これの地形象形は如何なるものであろうか?…間違いなく現在の「福智山」かと思われるが、紐解いた結果を以下に記す。