古事記の『勢』:
須勢理毘賣・勢夜陀多良比賣・許勢小柄宿禰・伊勢
須勢理毘賣
八十神に痛め付けられ大国主命のために母親の刺国若比賣が神産巣日之命に助けを求めて、結局は須佐能男命が坐す根之堅州国(黄泉国)に向かい、そこで登場する比賣が「須勢理毘賣」となっている。そこでも試練を受けてほうほうの体で逃げ出すのであるが、その名前の通りに大国主、葦原色許男になるんだ、と叱咤激励される。
さて、この黄泉国に居た「須勢理毘賣」の文字列は何を意味しているのであろうか?…「須」「理」は地形象形した表記であることは容易に気付く。すると「勢」の何らかの地形を表していると思われる。「勢」=「いきおい、ありさま、なりゆき」の意味では通じないようである。
<須勢理毘賣> |
「坴」=「土+ハ+土」=「「積み重なって高く広がる様」及び「𠃨」=「人が両手を伸ばす様」の略字形と解説される。「力(力強い腕)」の象形である。
併せて「人が木を土に植え整えること。外から力を加え、形を整える。形を整えるために加えられた力」を意味する文字とされている。
混み入ってはいるが文字の示す意味は通じているように伺える。
それを地形象形的には如何に採用したのであろうか?…「埶」=「丸く高いところ」、「力(腕)」=「二つの山稜」とすると…「勢」は…、
二つの山稜に挟まれた丸く高いところ
…と紐解ける。「須勢理毘賣」は…、
須(州)|勢(丸く高いところ)|理(区分けされた田)
…「二つの稜線に挟まれた丸く高くなった州が区分けされて田となったところ」の毘賣と紐解ける。「須勢」は「堅洲」の別表記と言えるものであろう。
上記で「須世理毘賣」とも記される。「世」は常世国に含まれる。同様の解釈とすると「挟まれて縊れたところ」鞍部になっている地形を表すものであろう。州だけをみれば「勢」だが実際には比婆之山に囲まれた凹んだところでもある。それを伝えるための併記であろう。
黄泉国、豫母都志許賣、根之堅洲国そして須勢(世)理毘賣が示す地形は、全て同一である。これだけ異なる表記を用いたのは、やはり古事記の中で黄泉国の場所が如何に重要であるかを示しているのであろう。加えて、黄泉国の存在する意味をも表しているようである。
尚、邇邇藝命と木花之佐久夜毘賣との間に生まれた「火須勢理命」も同様の解釈となるが、詳細は後日に述べることにする。
勢夜陀多良比賣
上記と同じく紐解いてみると…「勢夜陀多良比賣」は…、
勢(丸く高いところ)|夜(谷)|陀(崖)|多(田)|良(なだらか)
<勢夜陀多良比賣・神八井耳命> |
「勢」の地形象形として上記の須勢理毘賣と極めて類似していることが解る。そして「勢」が示す場所の特定の確度が大きく高まったと思われる。
比賣が坐したところの現地名は、京都郡みやこ町勝山松田上野辺りであろう。
三嶋湟咋は山麓の谷川を利用して豊かな田にしていたと伝えているのである。茨田の文字が出現する。日本の水田の原風景、棚田である。
神倭伊波禮毘古命と富登多多良伊須須岐比賣命との間に「日子八井命、次神八井耳命、次神沼河耳命」の三人の御子が誕生する。
「神八井耳命」が坐した場所は、祖母の近隣と推定した。「耳」の地形が明瞭である。天皇家はこの地を基に葛城へと侵出することになる。
許勢小柄宿禰
<許勢小柄宿禰> |
「勢」は上記と同様として読めるが、難解なのが「小柄」であろう。困った時には、文字合わせ、勿論地形(山稜)である。
期待通りに安萬侶くん達は埋め込んであったようである。「柄」=「木(山稜)+丙」である。
尺岳、金剛山(佐佐紀山)及び雲取山が作る山陵に見事に当て嵌ることが判る。
ドンピシャリ過ぎて日本書紀はこの宿禰をスルーした、のであろう。追い打ちをかけるように「小」の地形を示す台地となった山稜の端が、これもピッタリ収まるのである。
遠賀川及び彦山川が合流する、その最下流域に属する。重要な地点であり、佐佐紀山は幾度となく登場するランドマークである。「許勢小柄」は…、
[丙]形の山稜の麓が丸く高くなって
[小]形に延びた山稜があるところ
[小]形に延びた山稜があるところ
…と紐解ける。「小柄」…決して小柄な人ではないような・・・。祖となった臣名も併せて図に示した。
全て直方市の地名である。
「軽」の地の近傍、実に大きな「斗=柄杓」金剛山と雲取山の山稜がつくる特徴的な地形である。
その大きな柄杓に対して小さな柄となっている山稜が延びた丘陵を「許勢」と名付けたのであろう。
現在地名は直方市上頓野であり、直方市頓野と合せるとこの辺一帯を大きく占める住所表示となっている。許勢臣の中心であったと思われる。
図からは少々分かり辛いが(画像クリックで拡大)、この一帯に池が集中していることが伺える。現在からの推定にはなるが、池を作り、その周辺に耕地を集約して開墾して行ったのではなかろうか。また特徴的なのが川の激しい蛇行である。稜線の丘の上に寄せ集めて耕地を作らざるを得なかったことの一つの要因であったと推察される。
「雀部」は「笹田」であろう。「軽部」は現在の行政区分「感田」であろうか。既にここは「淡海」であったが既に支配下にあったことも示されている。「劒池」の西岸に当たる。この宿禰の地は極めて特徴的なため完全な文字解釈がなされなくても凡その見当がつくところでもある。また、解れば確定的な結果を生じる。それが日本書紀が省略した理由の一つであろう。古事記は禁断の書であったことは疑えないようである。
古事記の「勢」を語るなら「伊勢」を外すことはあり得ない・・・がしかし、これは場所を特定する上に於いて極めて難問なのである。
「伊」=「小ぶりな」と解釈すると…、
「軽」の地の近傍、実に大きな「斗=柄杓」金剛山と雲取山の山稜がつくる特徴的な地形である。
その大きな柄杓に対して小さな柄となっている山稜が延びた丘陵を「許勢」と名付けたのであろう。
現在地名は直方市上頓野であり、直方市頓野と合せるとこの辺一帯を大きく占める住所表示となっている。許勢臣の中心であったと思われる。
図からは少々分かり辛いが(画像クリックで拡大)、この一帯に池が集中していることが伺える。現在からの推定にはなるが、池を作り、その周辺に耕地を集約して開墾して行ったのではなかろうか。また特徴的なのが川の激しい蛇行である。稜線の丘の上に寄せ集めて耕地を作らざるを得なかったことの一つの要因であったと推察される。
「雀部」は「笹田」であろう。「軽部」は現在の行政区分「感田」であろうか。既にここは「淡海」であったが既に支配下にあったことも示されている。「劒池」の西岸に当たる。この宿禰の地は極めて特徴的なため完全な文字解釈がなされなくても凡その見当がつくところでもある。また、解れば確定的な結果を生じる。それが日本書紀が省略した理由の一つであろう。古事記は禁断の書であったことは疑えないようである。
伊勢
<伊勢大神之宮> |
「伊」=「小ぶりな」と解釈すると…、
小ぶりな二つの山稜に挟まれた丸く高いところ
①伊勢能宇美
神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が師木で最終決戦を行う時に詠った歌の中、古事記全体でも最初の出現である。
<伊勢國> |
②伊勢大神(之)宮
崇神天皇紀に豐鉏比賣命が伊勢大神之宮を祭祀したと記述される。これが伊勢大神宮の最初の出現である。
その後も垂仁天皇紀の倭比賣命、そして倭建命の段でも登場する。この神宮こそ佐久久斯侶伊須受能宮である。現在の北九州市小倉南区蒲生に蒲生八幡神社辺りと比定した。
その他古事記に登場する地名絡みを纏めて図に示した。各地の由来は省略するが、伊勢國は紫川の西岸、合間川の北岸の地であることが解る。
二つの川と福智山山塊の山稜に囲まれた場所全体を「伊勢國」と名付けたと思われる。「勢」の現在の名称は「虹山」と記載されている。入江の奥にあって極めて目立つ山容であろう。「伊勢」は、それに関わる名称であったと思われる。
上記のような状況証拠からして間違いない場所と思われるが、やはり「伊」の文字解釈、その地形象形表記としての紐解きが不十分であったようである。実に多くの例で用いられている「伊」を如何に解釈するか?…古事記は”大きい・小さい”、”遠い・近い”などの相対的な表現はしていないのである。
「伊」=「人+尹」と分解する。更に「尹」=「|+又(手)」と分解される。人が手に棒(杖)を持っている様を象った文字と知られる。「整える、支配する」などの意味を表すとも解説されている。地形象形的には、伊=谷間(人)が山稜(手)を切り分ける(|)様と読み解く。纏めると「伊勢」は…、
二つの山稜が谷間で切り分けられた傍にある丸く小高いところ
…と紐解ける。山稜を谷間が横切るのは、決してありふれた地形ではなく、また峠の道として重要な交通路でもあったと思われる。正にランドマークしての表現であろう。
更に追加。応神天皇紀に登場する「大郎子・亦名意富富杼王」が祖となった記述に「布勢君」があった。
古事記原文…、
此品陀天皇之御子、若野毛二俣王、娶其母弟・百師木伊呂辨・亦名弟日賣眞若比賣命、生子、大郎子・亦名意富富杼王、次忍坂之大中津比賣命、次田井之中比賣、次田宮之中比賣、次藤原之琴節郎女、次取賣王、次沙禰王。七王。故、意富富杼王者、三國君、波多君、息長坂君、酒人君、山道君、筑紫之末多君、布勢君等之祖也。
布勢君
<布勢君・息長坂君・酒人君> |
布(布のような)|勢(丸く小高いところ)
…「布を広げたような丸く小高いところ」と紐解ける。
「大郎子・亦名意富富杼王」から出雲に関連する地で探すと谷の入口にあるところがその地形を示していることが見出せる。
この地は何度か古事記に登場する主要な地点である。速須佐之男命の須賀宮があったと推定した地でもある。
「勢」の形も様々、頂が平らな状態を表しているのであろう。現在は団地に開発されて当時をどれだけ再現してるかは些か不明であるが・・・。後の垂仁天皇紀に無口な御子がこの地を見て、「山のようで山ではない」と言葉を発している。深く関連する記述であろう。
息長坂君・酒人君などの祖となった記述はこちらを参照願う。