美和河と引田部
大長谷若建命(雄略天皇)は長谷朝倉宮に坐して天下を統治することになった。大長谷若建王の時代からすると打って変わったような人物像が描かれるのであるが、現職の天皇の暗殺という前代未聞の出来事を背景にした行為と受け止めておこう。従来より台頭する葛城一族の殲滅の側面が語られて来ているが、それも否めない事情であったようにも思われる。二人の比賣を娶るのであるが、誕生したのは男女一人づつの二人のみと記される。その後も少子化が続き、これが皇統維持に極めて大きく影響する。と言うわけで【后・子】と別項を立てる必要がなく、本解釈は進行することとなる。後に、その少ない御子の系譜を述べるが、詳細はこちらを参照願う。
幾つかの説話の解釈、既に概略は述べたが、追記しながらもう少し深めてみようかと思う。どうもこの天皇、女性には淡白だったのかもしれない。手出しをするが、未達が多い、のである。
美和河の引田部赤猪子
古事記原文[武田祐吉訳]…、
亦一時、天皇遊行到於美和河之時、河邊有洗衣童女、其容姿甚麗。天皇問其童女「汝者誰子。」答白「己名謂引田部赤猪子。」爾令詔者「汝、不嫁夫。今將喚。」而、還坐於宮。故其赤猪子、仰待天皇之命、既經八十歲。於是、赤猪子以爲、望命之間已經多年、姿體痩萎、更無所恃、然、非顯待情不忍於悒。而令持百取之机代物、參出貢獻。
[また或る時、三輪河にお遊びにおいでになりました時に、河のほとりに衣を洗う孃子がおりました。美しい人でしたので、天皇がその孃子に「あなたは誰ですか」とお尋ねになりましたから、「わたくしは引田部の赤猪子と申します」と申しました。そこで仰せられますには、「あなたは嫁に行かないでおれ。お召しになるぞ」と仰せられて、宮にお還りになりました。そこでその赤猪子が天皇の仰せをお待ちして八十年經ました。ここに赤猪子が思いますには、「仰せ言を仰ぎ待っていた間に多くの年月を經て容貌もやせ衰えたから、もはや恃むところがありません。しかし待っておりました心を顯しませんでは心憂くていられない」と思って、澤山の獻上物を持たせて參り出て獻りました]
一読惚けた説話には重要な情報が・・・と思われる。登場する地名、それを無視して解釈すれば、単なる惚け話しに過ぎなくなるのであるが・・・。先ずは、記された地名をしっかりと復習しておこうかと思う。
美和河
「美和」の文字は意富多多泥古の出自に登場する大物主大神に由来する。陶津耳命の比賣、活玉依毘賣のところに夜毎通う男に赤い糸を付けてその居場所を求めたという、何とも手のこんだ説話であった。
<三勾の糸・美和山> |
従来は「勾」=「和」=「輪」として奈良大和の三輪山と簡単に比定されて来たようである。
古事記には「耳」が計39回登場する。「倭」が計69回だからそれなりの登場回数であろう。上記の「陶津耳命」「天忍穂耳命」「神八井耳命」など、殆どが紐解けて来なかった。
上記の武田氏もスルーしている。「耳」=「耳の形、縁、端」を意味する。端なのだが、実は重要なのである。
これが紐解けて「御諸山」「美和山」の配置が定まり、大物主大神が幾度か祭祀しろと告げる場所が現実化することになる。
さて、「美和河」は何処を流れる川なのであろうか?…美和山を源流にする川は幾本も流れているようである。その川の中にあることは間違いないであろうが、一に特定するとなれば、更なる情報が必要であろう。
少し「美和山」に関連する過去の記述を述べてみると・・・重要な拠点であったと思われる宮があった。時代が前後するが、仲哀天皇が坐した「筑紫訶志比宮」と神武天皇が一時坐した「筑紫之岡田宮」である。これらは同じか違っても近隣にあったと推定される。
<筑紫訶志比宮> |
訶(谷間の耕地)|志(蛇行する川)|比(並ぶ)
…「蛇行する川が並ぶ谷の奥にある耕地」の傍らの宮と解読した。
国土地理院地図で示される川をなぞった青線の川に挟まれたところである。そのうちの一本の川が「寒竹川」と名付けられているようである。
「寒竹=紫竹」であり、「筑紫」の表現と深く関っているように思われる名称である。上記の説話の中に「筑紫」の文字があれば、即座にこの川と比定されるであろうが、残念ながらその表記はない。確度は高いと言えども確定的ではないのである。
「筑紫之岡田宮」を特定するのは少々手こずり、紐解きは以下のように行った・・・、
<筑紫之岡田宮> |
ましてや現存地名で比定することなどもっと危険である。
では何を示そうとしたのか?…、
「岡」の文字が表す地形…文字そのものが表す地形と考えてみると…西側からの俯瞰図に示したように…、
二つの山稜に囲まれた間にもう一つの山稜がある地形
…であることが判る。これを「岡」と表現したと思われる。
・・・であった。
赤猪子
残された情報源は「引田部赤猪子」だけになる。その「赤猪子」人名としては、古事記らしいと言えばそれまでなのだが、何とも違和感のある名前であろう。やはりこれの紐解きが必須と気付かされた。何と、上図の<筑紫之岡田宮>がヒントになったのである。
<引田部赤猪子>
|
「血原」「血浦」「血沼」の例がある。美和山(足立山)を頂点とする尾根、稜線が作る山容が示す地形を「赤」の文字に模したものと解った。「血」と「赤」その色が同じである…蛇足であろうか・・・。
「猪」=「犭+者」と分解すると、「犭」=「口が突き出ている」、「者」=「台上に木を寄せ集めて火を点ける」と解釈されている。
既に紐解いた「奢」に通じる。「尾根が弧を描いてそこから延びる稜線が寄せ集まった台地」を表すと解読した。応神天皇紀に登場した高木の「伊奢」の地形であった。これらを纏めると…「赤猪子」は…、
[赤]の字の山陵で稜線が寄せ集まる台地の登り口にいる人
…と紐解ける。美和山の山麓で稜線が集まるような場所は唯一である。「猪」の文字を使って場所を特定したのである。恐るべし、古事記、と言っておこう・・・。
引田部
「引田部」は田を拡げるのであるが、文字通りで「田を張って拡げた」と解釈されるが、それは結果論で、寧ろ張って広げられる根拠が求められる。
おそらくは干潟に水門を作って田にしたのであろう。高志国の「和那美之水門」を連想させる。縄文海進の退行と沖積の進行によって跡形もなく消滅した場所かと思われる。
この地の当時の海面を推定した図を示す(白破線)。黒住町辺りは大きく入り込んだ入江となっていたと判る。
その入江の美和河(現寒竹川、下流は神嶽川)が注ぐ地形であったと推測される。
図に示したように、この入江と南の現地名北九州市小倉南区湯川新町(当時は入江であったと推定)とが川…現在では何とも細々とはしているが…で繋がっていることが伺える。
即ち、現在の企救半島は、「半島」ではなく「嶋」であったことを示している。「筑紫嶋」=「企救半島」として矛盾のないことの再確認である。筑紫にあった宮の位置に関して、この説話は決定的な情報を提供していると思われる。
当時の海面水位を想定しなければ到底行き着くところではなかったと思われる。難しいことではるが、古事記の世界を再現するためには欠かせない研究かと思われるが、果たして今後に期待しよう・・・。
少々余談だが、「三郎丸」という地名が見える。当時の海面から図のように湾に丸く突き出た地形であったようである。由来かも?…全く不詳。
説話は、美しい乙女に出会って娶ると言ったことを忘れてしまったという何とも惚けた話の内容で天皇は謝罪の為にと「多祿給」して返したと言う。赤猪子との歌のやり取りなど興味深い内容である。こちらを参照願う。
<引田部> |
この地の当時の海面を推定した図を示す(白破線)。黒住町辺りは大きく入り込んだ入江となっていたと判る。
その入江の美和河(現寒竹川、下流は神嶽川)が注ぐ地形であったと推測される。
図に示したように、この入江と南の現地名北九州市小倉南区湯川新町(当時は入江であったと推定)とが川…現在では何とも細々とはしているが…で繋がっていることが伺える。
即ち、現在の企救半島は、「半島」ではなく「嶋」であったことを示している。「筑紫嶋」=「企救半島」として矛盾のないことの再確認である。筑紫にあった宮の位置に関して、この説話は決定的な情報を提供していると思われる。
当時の海面水位を想定しなければ到底行き着くところではなかったと思われる。難しいことではるが、古事記の世界を再現するためには欠かせない研究かと思われるが、果たして今後に期待しよう・・・。
説話は、美しい乙女に出会って娶ると言ったことを忘れてしまったという何とも惚けた話の内容で天皇は謝罪の為にと「多祿給」して返したと言う。赤猪子との歌のやり取りなど興味深い内容である。こちらを参照願う。