古事記の『大坂』
御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)が娶った尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命が生んだ御子に「天押帶日子命」がいた。なかなかの活躍ぶりでもあるし、名前にもそれを滲ませてある。天押帶日子命の「天押帶」とは何を意味するのであろうか?…「帯=多羅斯(タラシ)」と読むと古事記序文にある。元々は「結び垂らす」なのか、垂れるのは余ったところで「足らす」から来るのか、と言った解釈と思われる。
弟の大倭帶日子國押人命(後の孝安天皇)の「國押人」の解釈を「押」=「手+甲(甲羅の象形:田)」=「手を加えて田にする」として…、
國押人=大地に手を加えて田にする人
…と紐解いた。「押」を同様に読み解くと…勿論「天=阿麻(アマ:すり減った台地)」ではなく…「天押帶」は…、
天(あまねく)|押(手を加えて田にする)|帯(足らす)
<天押帶日子命(祖)全> |
事実、彼は、本当かい?、と思われるほど各地の祖(計16の臣・君・国造)となるのである。詳細はこちら。
初期の天皇家の末子相続における理想的なパターンであって、兄が各地に飛んで(実際はその後裔達も含めてかと…)、「倭国連邦言向和国」の拡大膨張戦略を成し遂げたと告げられる。
後の垂仁天皇紀の大中津日子命など、幾度となくこのパターンが繰り返されて行くのである。
春日と尾張の隅々に侵出であるが、その途中、道すがらの地にも…愛しき比賣を求めて彷徨ったか?…真偽ほどは定かでないようだが・・・。
その中に⑤柿本と⑦大坂と記される。詳細な地図は以下のように比定した。⑤柿本は現存する地名「柿下」と同義の名前と思われる。「柿の麓」であろう。
<春日・柿本> |
根拠も様々であろうが、その土地への愛着、とりわけ地名の由来が周囲の環境、地形などに依存する場合はより強くなったのではなかろうか。
それを背景にして、既に⑤柿本の由来を紐解いた。「柿」は消すに消せない重要なキーワードなのであろう。
「柿」=「木(山稜)+市」と分解されるが「市」(売り買いするところ:いちば、種々寄り集まる)の字源は、思ったより難しく諸説があると言われる。
先ずは字源に関係なく、尾根と山稜が作る地形が「市」の字形を表していると見做したとすると、「柿本(下)」は、山稜が作る[市]の字形の麓と紐解ける。がしかし山稜が描く模様と「市」の字形との一致は明瞭さに欠けるようでもある。
また一方「市」=「種々寄り集まる」とすると「柿」=「山稜が寄り集まったところ」と読み解ける。山稜が示す鮮明な地形ではないが、愛宕山と大坂山からの山稜が交差するように麓に伸びる場所を表しているのではなかろうか。
<柿本臣・小野臣> |
大坂山から愛宕山に延びる尾根が緩やかに曲がっている。その尾根から延びる山稜が作る地形を象った表記である。
大坂山~愛宕山~伊波禮の山容に関わる表記がこの後幾度となく登場する。神倭伊波禮毘古命の命名由来でもあり、やはり極めて重要な地であったことが伺える。
元をただせば邇藝速日命が降臨して、宇摩志麻遲命が生まれ、彼が祖となった「穂積」一族が誕生、そして「丸邇」一族へと拡散した地と推定した。
先住した邇藝速日命一家と神倭伊波禮毘古命一家の融和と確執を繰り返し、繁栄したところと推察される。
皇統に絡む多くの人材を輩出した地でもある。その経緯を思い出せば残存地名として残すだけの矜持を持合せていたのではなかろうか。
さて、⑦大坂については、隣にあることからも「大きな坂」からだけでの命名でもなかろう・・・では何を模したのか?・・・。
<大坂山> |
間延びの稜線が「坂」を示す。「大坂山」は…、
[大]の字の地形が坂になった山
…と紐解ける。ありふれた文字の地形象形ほど難しいものはない、であろう。
「大きな坂」何処にでも転がっているような解釈では一に特定は不可であったが、古事記中最も重要なランドマークの一つである「大坂」は極めて高い確度で、田川郡香春町柿下(大坂)と京都郡みやこ町犀川大坂の間に横たわる山稜を示していることが解る。
今、マスコミに『大坂』の文字が溢れている。真に快挙!!。一方でアマスポーツが揺れている現状もある。一途に挑む若者の姿に感動を覚える日々なのだが・・・。
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全くの余談だが、今若者の間で「帯垂らし」が流行っているとのこと。全てに足りてしまうのだけは止めて…若者のファッションから世相を云々するほど、世間を知っているわけではないが、何処かに通じるところがありそう・・・足らそうとする努力は貴重と思うのだが・・・。