都夫良意富美と目弱王
現職の天皇が刺殺されるという前代未聞の出来事の件である。その事件の場所等は既に紐解いて来たが、詳細を眺めることにする。
前記したところ、この事件についての前書きを再掲すると・・・、
その妹、若日下王を大長谷命に娶らせようと安康天皇が画策したところから説話が始まる。記述された通りにそのまま読めば、悪い奴を使いに出したもので全くの誤解で大日下王は命を落とす羽目になる。裏読みは様々あるが、葛城系の兄弟相続が続いたのは、やはり何らかの歪…皇位継承を主張する諸兄が増える…を生じていたのではなかろうか・・・兎も角も古事記は語らない。
安萬侶くんの論調からすると「言向和」が欠けているのが気に掛かる。実行する前に一言、だったのでは?…これも時代の変化であろうか・・・ここで安康天皇の姉「長田大郎女」が登場する。同母の姉を后にした…彼ら兄弟姉妹、何かおかしい?…ではないであろう。
前記允恭天皇紀で長田大郎女の居場所は恵賀之長枝の近隣、現在の京都郡みやこ町勝山黒田小長田辺りと推定した。安康天皇が后にしたのは大日下王亡き後の地を与えたことを意味すると思われる。即ち彼女の本来の地の「長田」に加えて新たな本拠地を「波多毘」にしたのである。これが悲しい出来事の伏線である。
・・・である。
安康天皇自身が部下の讒言に乗っかってしまった悔いを示すかのようでもある。「部」を設けて食い扶持を保証するだけでは物足りなかった、かもしれない。それを実行できてホッとした気の緩みで発した言葉が命取りになったのであろう。
古事記原文[武田祐吉訳]…、
自此以後、天皇坐神牀而晝寢。爾語其后曰「汝有所思乎。」答曰「被天皇之敦澤、何有所思。」於是、其大后先子・目弱王、是年七歲、是王當于其時而遊其殿下。爾天皇、不知其少王遊殿下、以詔「吾恒有所思。何者、汝之子目弱王、成人之時、知吾殺其父王者、還爲有邪心乎。」於是、所遊其殿下目弱王、聞取此言、便竊伺天皇之御寢、取其傍大刀、乃打斬其天皇之頸、逃入都夫良意富美之家也。天皇御年、伍拾陸歲。御陵在菅原之伏見岡也。
[それから後に、天皇が神を祭って晝お寢みになりました。ここにその皇后に物語をして「あなたは思うことがありますか」と仰せられましたので、「陛下のあついお惠みをいただきまして何の思うことがございましよう」とお答えなさいました。ここにその皇后樣の先の御子のマヨワの王が今年七歳でしたが、この王が、その時にその御殿の下で遊んでおりました。そこで天皇は、その子が御殿の下で遊んでいることを御承知なさらないで、皇后樣に仰せられるには「わたしはいつも思うことがある。それは何かというと、あなたの子のマヨワの王が成長した時に、わたしがその父の王を殺したことを知ったら、わるい心を起すだろう」と仰せられました。そこでその御殿の下で遊んでいたマヨワの王が、このお言葉を聞き取って、ひそかに天皇のお寢みになっているのを伺って、そばにあった大刀を取って、天皇のお頸をお斬り申してツブラオホミの家に逃げてはいりました。天皇は御年五十六歳、御陵は菅原の伏見の岡にあります]
后とその子、目弱王は「波多毘」に住んでいた。安康天皇はその王が勝手知ったる「神牀」で余計な心配事を口にしたと説話は述べる。そして事件が発生し、天皇は命を落とす羽目になる。それどころか身内の連続殺戮事件が勃発するのである。皇位継承者数の激減となる。
父の仇を討った目弱王は、例によって、重臣の家に逃げ込むことになる。「都夫良意富美」が登場する。反正天皇が丸邇之許碁登の比賣を娶って生まれた比賣に「都夫良郎女」がいた。前記は簡略に記したがここで紐解きしてみよう。「都夫良」は…、
后とその子、目弱王は「波多毘」に住んでいた。安康天皇はその王が勝手知ったる「神牀」で余計な心配事を口にしたと説話は述べる。そして事件が発生し、天皇は命を落とす羽目になる。それどころか身内の連続殺戮事件が勃発するのである。皇位継承者数の激減となる。
父の仇を討った目弱王は、例によって、重臣の家に逃げ込むことになる。「都夫良意富美」が登場する。反正天皇が丸邇之許碁登の比賣を娶って生まれた比賣に「都夫良郎女」がいた。前記は簡略に記したがここで紐解きしてみよう。「都夫良」は…、
螺羅(ツブラ)=小さな巻貝が連なった様
この地形に酷似した場所が「波多毘」現在の門司区城山町から今津に抜ける途中にある「鹿喰峠」にある。
採石場に隣接し、地形の変化が大きいが、当時を想起させるには十分である。
余談になるが、東名高速道路都夫良野トンネルが横たわる山の上が「都夫良野」という地名である。丹沢山系大野山から南に延びる稜線を横切る「峠」にある公園からの展望良く、足柄が丸見えである。
巻貝のような小高く盛り上がった地形の象形であろう。ということで、「都夫良野トンネル」の由来は「つぶら(な瞳)のトンネル」とされるのが宜しかろうかと・・・。「意富美」は…、
山麓にある境の坂が谷間に広がっている様なところ
…と紐解ける。「意(地勢)」、「富(境の坂)」、「美(谷間に広がる地)」の安萬侶コードを使っての解釈である。鹿喰峠に向かう境の坂にある谷間に広がった場所であることを示していると思われる。応神天皇紀に丸邇之比布禮能意富美で出現したが、共に「臣」と記さずに居場所を示す表記としていると思われる。古事記ではこの二人だけである。
「都夫良意富美」の素性は語られない。ネットで検索すると葛城長江曾都毘古の子孫と言われているようである。建内宿禰の長男が「波多八代宿禰」で葛城長江曾都毘古の長兄に当たる。既に紐解いたようにこの長男の居場所は出雲の北部、現在の北九州市門司区を流れる大川の流域近隣と比定した。「波多毘」「都夫良」に関連するなら同じ葛城系でも「都夫良意富美」は「波多八代宿禰」の子孫であったのかもしれない。
前後するが「目弱王」は何処に住んでいたのであろうか?…「目」=「隙間」で、山麓の谷筋を表すと紐解いた。応神天皇の比賣高目郎女などの例がある。「弱」は何を示しているのであろうか?…字形から「二つ並んで曲りくねる」様を象形したのではなかろうか…「目弱」は…、
曲りくねる山麓の谷間が二つ並んでいるところ
…と解釈される。鹿喰峠に向かうところにある戸ノ上山の山麓に急勾配の谷が並んぶ、その間に坐していたと推定される。上図<目弱王・都夫良意富美>に示した通り、現在は大規模な団地に開発されているところであろう。七歳の子供が逃げ込んだ先との位置関係は、真に現実的なものと思われる。
天皇は「菅原之伏見岡」に葬られたとのことであるが、後に述べることとしてこの事件を聞きつけた大長谷王子が凄まじい行動を起こしたと記述される。
亦興軍、圍都夫良意美之家、爾興軍待戰、射出之矢、如葦來散。於是、大長谷王、以矛爲杖、臨其內詔「我所相言之孃子者、若有此家乎。」爾都夫良意美、聞此詔命、自參出、解所佩兵而、八度拜白者「先日所問賜之女子・訶良比賣者侍、亦副五處之屯宅以獻。所謂五村屯宅者、今葛城之五村苑人也。然、其正身、所以不參向者、自往古至今時、聞臣連隱於王宮、未聞王子隱於臣家。是以思、賤奴・意富美者、雖竭力戰、更無可勝。然、恃己入坐于隨家之王子者、死而不棄。」
[また軍を起してツブラオホミの家をお圍みになりました。そこで軍を起して待ち戰って、射出した矢が葦のように飛んで來ました。ここにオホハツセの王は、矛を杖として、その内をのぞいて仰せられますには「わたしが話をした孃子は、もしやこの家にいるか」と仰せられました。そこでツブラオホミが、この仰せを聞いて、自分で出て來て、帶びていた武器を解いて、八度も禮拜して申しましたことは「先にお尋ねにあずかりました女のカラ姫はさしあげましよう。また五か處のお倉をつけて獻りましよう。しかしわたくし自身の參りませんわけは、昔から今まで、臣下が王の御殿に隱れたことは聞きますけれども、王子が臣下の家にお隱れになったことは、まだ聞いたことがありません。そこで思いますに、わたくしオホミは、力を盡して戰っても、決してお勝ち申すことはできますまい。しかしわたくしを頼んで、いやしい家におはいりになった王子は、死んでもお棄て申しません」と、このように申して、またその武器を取って、還りはいって戰いました。そうして力窮まり矢も盡きましたので、その王子に申しますには「わたくしは負傷いたしました。矢も無くなりました。もう戰うことができません。どうしましよう」と申しましたから、その王子が、お答えになって、「それならもう致し方がない。わたしを殺してください」と仰せられました。そこで刀で王子をさし殺して、自分の頸を切って死にました]
大長谷王が言向けても和することはできなかった。自分を頼ってくれた王子を見捨てなかった重臣の物語になっている。献上するものの中に葛城之五村苑人が登場する。葛城との繋がりがあることを示すのである。が、王子を献上しなくては治まらず結果として大長谷王に屈することになる。
<訶良比賣=韓比賣> |
「訶良比賣」は、親切にも、次の雄略天皇紀に「韓比賣」と記述される。決して韓國のお方ではない。既にのべたように「韓」=「井桁」を示す文字である。
大年神の後裔韓神で紐解いた「谷の水源(池)」を示し、その傍らに住まっていたことを表している。
「都夫良」の西側にある池、当時のものかは確証はないが、その近隣であろう。勿論「訶良」=「穏やかな谷間の耕地」である。
「都夫良意富美」の出自は他書に依ると葛城曾都毘古の後裔とある(葦田宿禰ではなく玉田宿禰の御子)。「處」=「虍+処」と分解すると「縞状の山稜があるところ」と紐解ける。
<五處之屯宅> |
玉田宿禰が存在していたとするなら、葦田が北部、玉田が南部ということになるのかもしれないが・・・古事記読み解きから逸脱するので、これまでで…。
長田大郎女は夫を亡くし、次いで息子も失ってしまうという悲劇に見舞われるが、あからさまにはされないようである。
力を得た大長谷王は更に粛清の対象を求めて行くことになる。止まらない、であろうか・・・。
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<都夫良意富美・目弱王>(2019.05.17)
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