2018年8月21日火曜日

筒木韓人・名奴理能美 〔249〕

筒木韓人・名奴理能美


大雀命(仁徳天皇)が余りにも浮気をするので「其大后石之日賣命、甚多嫉妬」と記述される。ちょっと留守をしていると何と吉備にまでお出かけ、許せませんと言って実家に遁走したと告げられるが、葛城の気位は軽挙妄動を許さなかった、とも伝えている。その説話に登場するのが「奴理能美」という韓人で、そこではちょっと奇妙なものを飼っているらしい。

既にこの説話が示す重要な出来事について述べたが、登場人物の居場所を詰めてみることにした。その前に大后の遁走の概略ルートを再掲する。

<石之日賣命>

木国からの帰り道で良からぬ噂を小耳に挟んで怒り心頭ながら未練たっぷりに高津宮の背後から葛城に向かう。

山代川を遡り、十市を抜けて彦山川に向かえば、後はその川を下れば懐かしの故郷である。

だが、そこで踏み止まって引き返すことにしたのである。その場所が「奴理能美」の家と記される。

何故その家?…おそらく大后の着衣を作っていたのであろう。顔馴染みの間柄だったのではなかろうか。

「奴理能美」は筒木だからおおよその居場所は判るのだが、この四文字が居場所を示している筈である。初見の頃には紐解けなかった「能」「美」これがポイントである。

奴(野)|理(区分けされた田)|能(熊:隅)|美(谷間が広がる地)


…「能(の)」としては、読めない。「区分けした田がある野の隅で谷間が広がる地」と紐解ける。筒木の角地を示していると思われる。安萬侶コード「能(隅)」「美(谷間が広がる地)」の二つ含んでいると少々紐解きに時間がかかったわけである。

<筒木韓人奴理能美>
この地は高津宮とは御所ヶ岳を挟んで北と南に当たる。宮の背後に潜んだわけである。気持ちは十分に宮、天皇の方に向いているが、素直な態度は示したくない、と言ったところであろうか。

「山代之大筒木」の中心はその東側と求めた。「奴理能美」の場所は納まるべきところにあったと頷ける結果である。

大雀命が丸邇臣口子を使いに出して何とか口説き落とそうとするのだが、物語は急展開となる。「服著紅紐青摺衣」赤い紐を付けた藍染の衣という艶やかさの出で立ちが、雨で藍染のところが赤くなってしまったと言う。

原報を参照願うが、染色は大変難しいものであったろう。とりわけ藍染は難しく、古事記編纂時点ではかなりの進歩があったが、当時は雨で濡れたら脱色してしまう程度、”洗濯堅牢度ゼロ”と告げているのかもしれない。

衣食住、我々の周囲にあるものとは掛け離れているが、やはり全ての原点である。それを読める楽しさも感じられる。古事記編者達の正直さをこんなところにも忍ばせているようである。下らないことではなく、大切なことである。

惨めな姿の口子臣を見て、妹の口比賣(大后の従者か?)が助け舟を出した。大后が奴理能美の家にいるのは「有變三色之奇虫」を見に来たのであって、他意はないのだ、と天皇に伝えることに・・・天皇も見に来ることになって、太后と再会、事なきを得た結末を迎えることになる。

養蚕に関わることが記述される。紀元前五千年ぐらいで既に絹を手にしていたと知られるが、殆どその詳細は解っていないそうである。記録に止めなかったのではなく、止められなかったのであろう。極秘事項、古事記の「鉄」に関することと同じである。

たまたまネットで見つけたのであるが…、

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東京農工大の先生が古事記の記述について「当時の繭が現在の日本種蚕の繭の特徴と同じく、ツヅミと同じように中央部がくびれている形をしていることが書かれていることも興味深い」と記述されている。

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古事記原文には「一度爲匐虫、一度爲鼓、一度爲飛鳥」と記載される。相変わらずの精緻さに驚かされる。自然観察力の確かさであろう。また、「種」が持ち込まれたのではなく、既に倭国にいた蚕を使って養蚕を行っていたことが伺える。現在では殆ど飛ぶことはないが「飛鳥」であったことも知れる。

余談だが、古事記の記述の中では「飛鳥」=「飛ぶ鳥」であることが判る。「飛鳥(アスカ)」ではない。後の人が称しただけである。古事記編者達の自然観察及び表現力の確かさに気付かれた先生がいただけでも、少々心が落ち着ける、ようである。

さて、登場人物「丸邇臣口子」「口日賣」は何処にいたのであろうか?…「口」の意味するところは何であろうか?…「口」=「端」としてみると…、

<口子臣・口比賣>

口(丸邇の端)|子(分れ出る)

…「丸邇の端で山稜が分岐したところ」と紐解ける。現地名原口が一字残しのようにも受け取れる。

丸邇一族は、しっかり大雀命に仕えていたのであろう。どうも葛城系の大后にしては分が悪い、と言うか葛城の人材不足だったのかもしれない。

三色之奇虫」は同じものに三つの姿があることを表している。古事記は上・中・下の三つの有り様を記述する。彼等の自然観に合った変化であることを例示してのであろう。

「遠江と近江」、これは古事記の概念ではない。ならば「中江」を存在させるであろう。彼等が好む「中津」である。勿論全てに関してでは、ないが・・・。

古事記原文には「絹」の話は登場しない。記述することはできなかったであろうし、養蚕を示せば十分と考えたのであろう。言えることは、倭国において「絹」が特別のものから汎用のものに移り変わったことを告げている。遺跡から見出される遺物は、おそらく、特別のものであり、存在したかどうかの判断には適するが、それ以上は推論に逗まる。

仁徳天皇紀の説話の重要性は日常の生活の中での存在を伝えていることにある、と思われる。限られた範囲の人々の生活の中、である。

仁徳紀が長く、種々雑多の説話を記述したのはその実態を示すことが目的であった。朝鮮半島からすると未開の地であり、そこからの渡来人達が作った多元的国家の時代に、追い付け追い越せの国造りに勤しんだ天皇の物語と思われる、と既述したが、その印象に変わりはない。

神功皇后から始まり、応神天皇紀で具体化した朝鮮半島からの大挙の渡来は徐々にその成果を示しつつあった時期なのであろう。国家としての体制基盤が整ったとは言え、まだまだ確立に向けての渡来の受け入れが必要であったものと推測される。