2018年8月19日日曜日

吉備国に関った人々 〔248〕

吉備国に関った人々


古事記に「吉備」の文字が初登場するのは、伊邪那岐・伊邪那美の国生み「吉備兒島」である。六嶋に含まれる。古事記の舞台となる場所及びその周辺を示している。後に吉備国となり、多くの人々が関わり、物語が伝えられることになる。

倭国への侵攻を目指した神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が八年坐したところであり、吉備近隣からは大碓命・小碓命(倭建命)が誕生する(父親は景行天皇、母親は吉備:当時はこの地も含まれていたのかもしれない)。息長帶比賣命も深く関わるようである。末弟の息長日子王が祖となる。

<吉備国>
古代の歴史の節目、そこに英雄、女傑が登場するのであるが、彼・彼女等が何かを求めて赴いた地であろう。

一度は纏めてみようかと思いつつ、仁徳天皇紀に差し掛かって漸く踏ん切りが付いたという訳である。

最初に登場人物及び祖となった地名も含めて図に示した。少々大きめのものとなって見辛いかと思われるので、画像クリック(別表示)で拡大願う。

「吉備兒島」は図の左端に当たる。現在の網代ノ鼻がある半島と推定した。

通説の岡山吉備との地形類似性は申し分なし、本物らしくみえる・・・勿論本物はこちら、の筈。

図には①~⑲の関った人名及び居場所を示した。当時は海面下であったと予測される地を除いて、現在の居住区の大半を占める配置となっていることが判る。

JR山陰本線で言えば、福江駅から梅ヶ峠駅の南北に亘る。山塊の谷間に広がった地域である。現在の吉見本町、永田本町、福江駅周辺も当時は海面下と推測され、陸地は随分と後退した地形であっただろう。

そんな状況を鑑みて比定された人々の居場所である。既に述べてところではあるが、あらためて概略を整理してみよう。

①神倭伊波禮毘古命(神武天皇)

倭国への侵攻が始まる直前まで坐していたのが「吉備之高嶋宮」である。「嶋」=「山+鳥」渡り鳥が山に逗まる様子に基づくと解説され、その地形象形の表現は「山に佇む鳥(山稜が描く姿)」であると紐解いた。

<吉備之高嶋宮>
勿論ここに滞在した理由は記述されないが、倭国侵攻の準備と考えれば「鉄」の調達であろうと推測した。

大倭帶日子國押人命(第六代孝安天皇)の御子に「大吉備諸進命」が登場するが、早期に吉備を手中に収めることは重要な課題であったと思われる。葛城での財源確保に目処が立って本格的な取り込みが行われたのであろう。

神倭伊波禮毘古命が如何にして吉備の情報を得たのかは不詳であるが、吉備国に向かう前に滞在した阿岐国で侵攻ための財源確保と共に「鉄」の情報入手にも有効だったのではなかろうか。天神族、胸形(宗像)は玄界灘・響灘を支配する海洋民族という認識に繋がるところと思われる。

前記したように天照大御神の「照」=「昭+灬」であって「火で国を統治する」ことを示すと紐解いた。それは当時では「鉄」による国家支配を意味すると思われた。銅も含めこれらの金属を自在に操る力を持つことが全てに勝る時代であったと思われる。となると、吉備はなくてはならない最重要の地と見做していたと推測される。

大吉備諸進命の命名も、なかなか味のあるものではなかろうか。単刀直入に「鉄」に踏み込めず、そのための段取りを行ったと受け取れる。また、彼を省略しないところも古事記らしいものである。大義を為すには、やはりその準備が必要である。

神倭伊波禮毘古命がしっかりと準備に時間を掛けたように、それは決して無駄ではなく、大切なことだと伝えていると思われる。第二代綏靖天皇から第九大開化天皇まで、師木に侵出するまでの天皇達と同様なのである。一見異質に見えてしまうのであるが、それは事を為すために欠かせない行いと読み取ることが重要であろう。

③大吉備津日子命→吉備上道臣の祖
④若日子建吉備津日子命→吉備下道臣及び笠臣の祖
 
<龍王山・龍王神社>

現在の吉見上・下に対応する祖の名称と思われる。若日子建吉備津日子命は「笠臣」の祖となるが、この「笠」↔「龍」との関連が極めて重要と思われる。

既に述べたところではあるが、「笠」は竜王山山麓の形状を模したものと思われ、下関市吉見の地に吉備国を比定する上において根拠となる記述であると判断される。

古事記の記述から彼等が漸くにして吉備国に入り、統治の基盤を作り上げたと推定される。吉備下道臣となり、後裔を次代の天皇が娶る繋がりが発生し、吉備国内外へと広がって行くことになる。

一方、吉備上道臣からはその広がりは述べられず、現在の吉見上地域への進展が滞ったのではなかろうか。「鉄」の採掘場所近傍、そこへの侵出は決して生易しいことではなかったと推測される。

⑤大中津日子命

伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の御子の一人である。大活躍の命で、倭国最南端の英彦山の麓から葛野、倭国中心(飛鳥)、尾張国そして最北端の吉備国、更にそこの北端の吉備之石无別の祖となった記述される。詳細はこちら

吉備国統治を目指した侵出ではなく、目的は「石」にあったのではなかろうか。初見で現地名の下関市永田郷石王田からの比定であるが、その後も残念ながら他の情報なく現在に至っている。縄文ガラス…何とか繋がるのではと期待するのだが・・・。

⑥~⑯景行天皇及び倭建命に関わる登場人物

上記の吉備下道臣の比賣、吉備之伊那毘能大郎女を大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)が娶って一気に子孫が広がっていくことになる。吉備国の中心地を抑えたことになったと思われる。と言っても現在の吉見本町周辺は海面下であり、当時の吉備下(吉見下)は大きな入江の周辺に限られた地域であったと推測される。

<大碓命・小碓命>
現在の永田郷の地域も同様に大半が海面下で、その北部、上記大中津日子命の石无の地を含めたところに限られていたと思われる。

南部の伊那毘からは若干広がり、現在の下関市福江辺りまで延びる。そこで小碓命(後の倭建命)が誕生する。また彼には故郷からの娶り、御子の誕生もある。

誕生した御子達は各地に散らばることになる。やはり狭い土地に求めることはできず、櫛角別王神櫛王、建貝兒王(祖の一例)など広い範囲の祖となったと記されている。

八十名の御子を誕生させた景行天皇の最大の事績は人材供給であったと既に述べたが、倭建命、五百木入日子命(太子)を含めた御子の数は凄まじいものがある。その中でも吉備国及び周辺の地の貢献は特筆すべきところであろう。

父親の活躍に伴って子供達の行く末が広がるのであるが、一方で足元近接の吉備上道(吉見上)には全く届かず、別の地の様相である。明らかにこの地への侵出に手間取っていることが伺える。「鉄」の採掘は国家機密に属するゆえに全く古事記は語らないが、いや、語るべき事件が生じなかったのであろう。手も足も出なかった?…かもしれない。

⑰息長日子王

息長宿禰王と葛城之高額比賣との間に誕生する息長帶比賣(神功皇后)、虚空津比賣の弟である。仲哀天皇亡き後、建内宿禰を従えて国を統治していた皇后の弟である。その彼が「針間阿宗君」「吉備品遲君」の祖となったと記される。これは恣意的に付けらた地名のように思われる。上図に示したようにこれらの地は「吉備上道」即ち鬼ヶ城の麓に当たる場所である。

<針間阿宗・吉備品遲>

「針間」は多用される。固有名詞ではない。「品遲」は品遲部(天皇家の名代)と錯覚してしまうような名称である。

本ブログもそれに準じた解釈であった。がしかし、そうではなく立派な地形象形による地名と読み解いた。

阿宗=阿(台地)|宗(山麓の高台)
品遲=品(段差)|遲(治水された田)

これで全てが繋がった。神功皇后の時代に吉備の「鉄」を支配する目処が立ったのである。息長一族の天皇家への貢献は頂点に達したと言うべきかもしれない。また新羅等、朝鮮半島との交流も対等とまでに及ばなくても、十分に行える国になったことが伺える。

朧気ながらそのような感じで読み取って来たのであるが、この吉備への侵出の経時的な流れを知ることによって大いなる論拠が得られたものと信じる。仁徳天皇紀に倭国は大国としての基盤を作りあげたと既に述べたが、神功皇后の時代にその布石が着実に実り始めていたと判る。

⑱吉備海部直・⑲黒比賣

大雀命(仁徳天皇)が娶った比賣の一人である。そして自ら吉備国に出向くである。石之比賣命の嫉妬をものともせずにいそいそと・・・そんな安萬侶くんの戯れに惑わされては・・・。現地で詠われる歌は、アライアンス事業の成功を謳っているのである。特に人材を供給したことが決め手となっている。当時の投資としては至極当たり前のことかもしれないが…。

吉備を完全に手中に収めたと告げている。それが仁徳天皇紀に載せられた説話の主目的である。また、吉備を記述する必要も消滅することになる。「吉備」の文字はこの紀を最後に二度と古事記に登場することはない。

古事記の歴史の表舞台から去った「吉備」、それは現在の下関市吉見と比定した。昭和十年代に大々的に「高嶋宮」を求めて調査が行われたという。勿論結果はあやふやである。また現在の岡山県以外にそれがあったということはあり得ないところでもある。

国譲りで古代をぐちゃぐちゃにした歴史を持つ日本、だが、譲った場所はひっそりと現在に繋がっているのである。現在は現在として、長い歴史の中で役割を果たし、国の発展に寄与したことを誇りに思うこと、それは明日に繋がることと信じる。

現在の日本は、誰がどう見ても行き先不明の状態であろう。民主主義という理念の下に、国会という最も論理を大切にしなければならない場所での有り様は、憤りを越えて悲しみの感情を湧き上がらせるものがある。

古事記を読んで、如何なる圧力下にあろうが、真実を語り伝えることの大切さをあらためて感じた。だからこそ、難解な表現を採らざるを得なかったとも言える。古事記編者達の自然観察力、それを表現する力、古代の日本にこれだけの知性があったことに驚かされた。いや、古代はこんなものという教育、情報に惑わされていただけなのであろう。