2018年8月8日水曜日

吉備之高嶋宮・大年神・伊豫之二名嶋 〔244〕

吉備之高嶋宮・大年神・伊豫之二名嶋


何の脈略もないような・・・事実、ありません。共通するところは、完全には納得できていなかった、要するに紐解き不完全な文字列だったのである。普通の文字、聞き慣れた文字ほどそこに潜められた意味を解読することが難しい、その典型的な例であろうと思われる。

安萬侶コードに含まれるパターンが見られ、それなりに興味深いところでもある。三つ纏めて述べてみることにする。それぞれの登場場所など、少々省略気味であるが、詳細は原報を参照願う。


吉備之高嶋宮

この宮は現在の下関市吉見にある「龍王神社」辺りであると、かなりの確度で比定できてはいるが、何故「高嶋」かと問えば、もっともらしい答えは見つかっていなかった。島のように見えるぐらいなら何とか納まるのであるが、縄文海進の援護をもってしても無理である。


<吉備之高嶋宮>
前記したところを引用しながら述べてみると・・・、

「吉備之高嶋宮」の比定は難しいようで、昭和13~15年にかけて文部省が総力をあげて吉備、すなわち当時の岡山県児島郡に求めたという記録がある。

とある神社が最も確からしいと認定されたが、不確かであった、とのことである。

総力をあげるくらいだからそれなりの自信もあった?…吉備国に関する情報は古事記でさえ、多くある。実際に存在した国としての確度も高い。

加えて「吉備国」の場所の比定は全ての国の配置に決定的な論拠を与えることになろう。試みる価値は十分にあったと伺える。がしかし、上記の調査以後の話しは聞かないから、古代の「実証」は遺跡・遺物の発見に任せることにしたのであろうか・・・。


<龍王山・龍王神社>

第七代孝霊天皇紀の御子、若日子建吉備津日子命が吉備下道臣となり、その後「笠臣」の祖(針間口の説話)となったと記述される。

異母兄弟の大吉備津日子命が吉備上道臣之祖となったと記載されている。現在の吉見上、吉見下の地名に相応しているようである。

「笠(リュウ)」=「龍(リュウ)」と繋がる・・・として来たが、根拠は今一、単なる言葉遊びか?…のようなところであった。

龍王神社の山、龍王山を少し角度を変えて眺めると、一気にその根拠を見出すことができた。吉見から眺める山は「笠」の形をしているのである。

見事な二等辺三角形、人はこの形に自然造形美を感じるようである。これが「笠」の由来であり、読み替えて「龍」となったと推測される。「吉備国」「笠臣」の場所がグンと確からしくなって来たようである。それに後押しされて、龍王神社を調べると、と言ってもネットで検索なのであるが、由緒が出て来た。

「…乳母屋神社は第八代孝元天皇の御代に御鎮座され第二十七代安閑天皇三十二年現在地に社殿を建立し第四十三代元明天皇の御代社殿を再建され長門国第三鎮守の社とも云われた由緒の社…」(玄松子さんのサイト)と記載されている。


<高嶋宮>
若日子建吉備津日子命は孝元天皇の異母兄弟である。変遷は多々あったのであろうが、時代は符合する。

世の中で「欠史」と言われる時に遡るとは、何となく、それらしく感じられる。心証を強くして「高嶋」を紐解くことにする。

「高嶋」は何と紐解くか?…「嶋」=「山+鳥」とされ、渡り鳥が休む海中の「島」を示すのが原義とされているようである。


高嶋=高い山に休む鳥

…と地形象形できるであろう。図に示したところで山麓に休む鳥を見つけることができる。

その裾野にあったのが「高嶋宮」と推定される。この用法は「大雀命(仁徳天皇)・根鳥命」「女鳥命」と同様に麓で山稜が作る地形を表現したのである。

「笠」「嶋」全て龍王山西麓の地形象形から発生したものであると紐解けた。龍王神社の由来も含めて「吉備国」の在処は現在の下関市吉見であると確信するに至ったようである。総力を上げて「吉備之高嶋宮」を求めるならこの地に向かうことであろう・・・いや、その必要はないかもしれないが・・・。


大年神
 
古事記における「出雲神話」と呼ばれる物語は、出雲の地(比定地は島根県出雲)の伝承をそのまま挿入されたような解釈で過ごされて来たのであるが、大変な誤解釈とした。それは現在の下関市門司区大里における壮絶な戦闘物語であると紐解いた。

<大年神と八嶋士奴美神>
速須佐之男が降臨し(戸ノ上山)、八俣之遠呂智を退治して地元に迎え入れられ、娶った二人の比賣から御子が誕生する。

「大年神」(出雲南部)と「八嶋士奴美神」(出雲北部)である。この二神の御子間の騒動が骨肉の争いとして何代もの天皇家に影を落とすことになる。

発端は北部、南部と棲み分けていれば問題がなかったのであろうが、八嶋士奴美神が南部、しかも南部の中心に居た木花知流比賣を娶ったことである。

大年神の兄弟及び御子達が布波能母遲久奴須奴神を包囲する形となり、彼の子孫は止む無く北部へと去ったと伝える。

そして行き場所を亡くしたその子孫は「天」へと逆戻りの運命に晒される。その逆戻りの系列から大国主命が誕生したと記されている。

これは出雲南部奪還の戦闘であり、速須佐之男命本流の引き下がれない思いを込めたものであったろう。がしかし結果的には不成功に終わり、幼い邇邇藝命の降臨へと繋がって行くのである。

この壮絶な戦闘が「大物主大神」を登場させ、初国の天皇崇神天皇、次の垂仁天皇紀まで尾を引くことになる。如何にこの戦闘が双方共に多くの犠牲を生じたか、古事記の記述内では互いに融和することはなかったのである。大年神一族から見た記録があれば、より確からしく草創期の天皇家の有り様が伺えたと思われるが、知るすべがないようである。

そんなこんなで大年神の在処はほぼ確定していたが、彼の命名は何に由来するのか、なかなか思い付かず、今日に至った、という長い前書きである。

「大年神」の名前について少し考察を加えてみよう。彼の名前が意味するところは、従来より解説されているように「穀物」に関わり、出雲では珍しい豊かな地を切り開いた印象を強く示す命名であろう。「大物主大神」に繋がり、出雲の南部の支配者としての位置付けも確かなようである。
 
<大年神①>
概ね間違いないところなのであるが、それだけで済ませないのが古事記、安萬侶くん達の為せるところと思われる。

ところが「年」の一文字で何を表そうとしたのか、短ければ短いほど紐解きは難しくなる。

地図を確認すると、やはり桃山から、微かではあるが、山陵が伸びていることが解った。

国土地理院の陰影起伏図で確認できる。これを閲覧しなければならないほど、微か、である。

更にこの微かな山稜の端が「禾」の象形のように嫋やかに曲がっていることが見出だせる。これを…、


大(平らな頂の山稜)の[禾]の人

…と表記したと紐解ける。ここに至る切っ掛けは、大年神の後裔に「久久年神」が登場する。下記するように桃山と矢筈山(久久)の地形的相似から「年」が山を示すという解釈を行い、大年神の場所はその麓とできるが、「久久年神」の場所は多数の御子が所狭しと併存することから不可である。やはり、「年」は山ではなく麓の地形を示していると気付かされた。

草書体なんていう、古事記中唯一の手法、これも面白いところではあるが、山そのものは住まう所ではないようである。記念に残して置くことにする。


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<大年神②>
頻出の甲骨文字か?…など試すが行き当たらないようである。図に示した通り、草書体を用いていることが判った。「年(楷書体)」の草書体を図に当て嵌めてみると・・・。

大きく膨らんだ線がスッポリと桃山を取り囲む様が見て取れる。右側の蛇行するするところは谷川であり、登山道であり、尾根までしっかりと届いている。

偶然にしては出来過ぎ?…大年神の領域は二つの谷川に挟まれたところと比定したが、彼らの恵まれた環境はこの桃山の二つの谷川に依存するのである。命名に用いるには最も適した位置関係であろう。

「御魂」と呼ばれ、南部出雲のランドマークである。これを外す訳もない。しっかりと刻まれていたのである。それにしても古事記編纂に関わる人達の地形認識のレベルの高さにあらためて感心する。
 
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伊豫之二名嶋
 
さて、最後の「伊豫」に移ろう。この文字も突き詰めれば何かを意味しているようだと思いながら手が付けられなかった文字である。背景など述べながら、紐解いてみよう。

「伊豫之二名嶋」で伊邪那岐・伊邪那美の国生みで登場したのであるが、「伊豫(余)」とは如何なる意味を表しているのであろうか?…また「豫」と「余」の二つの文字を使うのは意味があることなのか?…あらためて考え直してみた。

そもそも「二名嶋」とは如何なる意味を示しているのか…これはこの島が東西で全く異なる地形をしていることに依ると思われた。言わば西が丘陵、東が山岳地帯と言える。実はこのことが上記の名前に深く関連することと気付いたのである。勿論四つの「木」で表記することも重要な意味を持つと思われる。


<伊豫之二名嶋>(拡大)
「余」=「農具で土を押し退けること」であり、「豫」=「向こうに糸を押しやる」ことを意味する文字であると解説される。

前者は押し退けたものが余りの意味に通じ、後者は横糸を通して布(平坦な地形を意味する)を作ることに通じる。

即ち「二名嶋」は西側の山稜を押し退けて東側に集めた、として見た象形と結論付けることができる。

見方は違うが同じ意味を示していることになる。だから両方の文字使いをしたものと思われる。

東側(讃岐・粟、後の若木・高木)の方に「余」を使う方がより適しているように感じられる。他方、西側の伊豫国・土左国(後の五百木・沼名木)に「伊豫」が使われるように押しやられた方は「豫」であろう。

古事記の文字使いは真に正確で、伊余湯の「湯=飛び撥ねる水」が生じる急流の川があるのは「余」の地である。まかり間違っても「伊予湯」はあり得ないことなのである。「湯=温泉」として事なきを得た歴史学、であろうか…罪は重いが・・・。

尚、「伊」=「人+尹」で「尹」=「治める、正す、整える」の意味を持つことから、「伊豫(余)国」は…、


人がしたように一方に寄せて整えられた

…国という解釈になる。

・・・という訳で、喉に刺さった小骨が削げ落ちた感じ、のようである。あらためて申すまでもなく、伊豫之二名嶋は、現在の四国ではない!…と述べているのである。