2018年8月7日火曜日

品陀和氣命:葛城と出雲の比賣 〔243〕

品陀和氣命:葛城と出雲の比賣


品陀和氣命の娶りと御子関連では最後となるが、既に投稿済で加筆・修正のないところは省略して、二人の比賣について述べてみよう。併せて謀反人となる大山守命が祖となった地について見直し結果を付記する。

古事記原文…「又娶迦具漏比賣、生御子、川原田郎女、次玉郎女、次忍坂大中比賣、次登富志郎女、次迦多遲王。五柱。又娶葛城之野伊呂賣此三字以音生御子、伊奢能麻和迦王。一柱」

娶った比賣は「迦具漏比賣」と「葛城之野伊呂賣」と記載される。前記の比賣も併せてみると、倭国内、別け隔てなく、の感じなのであるが、それだけしっかりと言向和されたということを伝えているのであろう。


迦具漏比賣

また倭建命の曾孫?…何の修飾もなく既に登場の比賣の名前だとすると、同一人物と判断せざるを得ない。まさかのことではあるが、御眞津比賣の場合のように別人がその地に入って名前を踏襲した場合も考えられる。何れにせよ別の地に居た人では御子達の居場所も全く不確かなものとなってしまう。


<倭健命:出雲系譜>
ということで、この比賣もしくは名前を引き継いだ比賣が坐したところは変化なし、として紐解くことにする。

結果的に比賣が坐していた出雲北部地に御子達が収まれば、上記の仮定は支持されるであろうし、世代的(倭建命の孫=景行天皇の曾孫)には同一人物である可能性が高まる、と思われる。

既に示した倭建命の出雲における系譜である。迦具漏比賣」は…、


迦(施す)|具(谷の田)|漏(湧水)

…「谷の田に湧水を施す」比賣と紐解き、現地名下関市門司区永黒辺りとした。矢筈山南西麓の急勾配の谷間から湧き出る水を活用した美しき比賣、という表記である。

御子は「川原田郎女、次玉郎女、次忍坂大中比賣、次登富志郎女、次迦多遲王」と記載される。文字列の紐解きが必要なのが「登富志」と「迦多遲」であり、それぞれは…、


登(登る)|富(山麓の坂)|志(蛇行する川)
迦(施す)|多(田)|遲(治水)
 
<迦具漏比賣と御子>
…「山麓の坂にある蛇行する川の傍らを登る」、「田に治水を施す」と紐解ける。これで迦具漏比賣の周辺で可能なところを当て嵌める。図を参照。

忍坂大中比賣は山稜の端が延びた先とした。入江の近いところである。川原田郎女は数少ない平野部、柴野入杵の「柴野」と関連させた。

玉郎女はみたままの比定である。迦多遲王は治水の必要な肥河(大川)辺りであろう。最後の登富志郎女は母親に近接するところで急傾斜の谷川を活用したのではなかろうか。

「富」は詳細には「境の坂」と既に幾度か述べた。矢筈山の尾根は出雲の境であったことを示している。この安萬侶コードは実に使い勝手の良い表記である。だから多用した、のであろう。御子達の配置、どうやら上記の仮定は矛盾のない結果をもたらしたようである。

おそらく若き(未亡人となった?)比賣の救済なのではなかろうか。更には彼女(の地)の系統から出た香坂王・忍熊王は無念にもその血統を途絶えさせてしまった。重要な地点でありながら、出雲の北部はどうも繁栄とは疎遠な傾向にある。

肥河の下流域が活用できるようになるには、まだ多くの時が必要であったと思われる。そんな背景を含んだ娶りの記述ではと推測する。歴史の潮流を変えることほど難しいことはない。押し流されて行ったのであろう


葛城之野伊呂賣

葛城の野伊呂というところに居た比賣と思われる。「野」は稜線の裾で平坦になったところであろう。野伊呂は…、


野(野原)|伊(小ぶりな)|呂(背骨の地形)
 
<葛城之野伊呂賣>
…「野原で小ぶりな背骨の地形をしたところ」と紐解ける。稜線に挟まれた平地の縁が「呂」になっているところであろう。

現在の田川郡福智町弁城の「野地」が候補として浮かび上がって来る。「玉手」縁に当たるところである。

また、前記で求めた二人の比賣の近隣でもある。葛城は比賣の供給、御子の受け入れの双方が行える地に発展して来たことが述べられている。

第二代綏靖天皇以降の努力が漸く実って来たのである。葛城は財源として、更に人材源としても立派に繁栄する地となったと思われる。建内宿禰一族の果たした役割は大きなっものであったろう。後の蘇賀(宗賀)一族に繋がる系譜である。

御子が「伊奢能麻和迦王」と記される。上記で求めた高木の伊奢に居た真若命の「眞若(マワカ)」は読みが同じである。と言って同一ではない。「麻和迦」の文字を紐解くと…「麻=摩」として…、
 
<伊奢能麻和迦王>
麻(削られた)|和(輪の地形)|迦(出会う)

…「削られた輪のような地形が出会う」ところの王と解読される。

欠けて不完全ではあるが輪の形のところが重なり合った」ところと思われる。何と何と伊奢の地の詳細である。

比賣の場所は「伊(小ぶり)」だったのであろう。また高木の「伊奢」の補強であったのかもしれない。高木はすっかり天皇家の統治する土地に変貌したようである。

これで全ての后と御子の記述が終わる。旦波、山代、葛城が中心だった娶りの国が一挙に多彩になってきている。各地がそれなりの発展をして比賣を供給できる状態になって来たことを示しているのであろう。時代の変わり目に差し掛かった倭国である。

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最後に高木之入日賣が産んだ大山守命が祖となった地名を紐解いておこう。後の説話に登場するが弟達との争いに敗れてしまう兄である。彼は上図に示すように急勾配の谷川の地を担うと命名されている。そこに住まう「技術」を保有していたと伝えているのである。

大山守命

「是大山守命者、土形君、弊岐君、榛原君等之祖」と記述される。「土形」には既に様々な解釈がなされて、むしろ混迷の状態であるが、単純に考えると、銅の鋳型のような見方が成り立つであろう。これも意味しているのではあるが、やはり地形象形が施されている筈である。

「形」=「幵(木で組合せた枠)+彡(模様)」と解説されている。「木(山稜)」とする地形象形では…、


土形=土(大地)|形(山稜で作る型)

…と解釈できるであろう。安萬侶くん達の地形観察力には頭が下がる思いである。下図を参照。香春町採銅所の谷口辺りである。初見では鍛冶屋敷辺りかと思われたが、地名のみに依存する解釈は危険であることを再確認する有り様であった。

弊岐」は…「弊」=「尽きる」の意味とし、「岐」=「山+支(二つに分かれた)」と分解すると…、


弊(尽きる)|岐(山の谷間)

…と紐解ける。谷が山を分かれさせたと見做した表現であろう。峠でそれが尽きると読み取れる。上記の採銅所がある「長谷」の谷間を行くと金辺峠である。住所表示は変わらず同町採銅所(谷口)の北側と思われる。
 
<大山守命(祖)>
最後の「榛原」も一般的な名前であり、「原」の地形を持つとして同町採銅所(道原)辺りではなかろうか。

「榛」=「木+秦」としてみると…、

木(山稜)|秦(秦の字形)

…と紐解ける。延びた山稜が横に幾つも枝稜線を持つ地形を示したものと思われる。道原はその麓にあることが判る。

こうしてみると大山守命は銅産出の山に深く関わっていたことを示している。

また、かなり近接する地を別けていることが、当時多くの人々が住まっていたことを示していると推察される。

古事記は銅と鉄については完璧に無口である。垂仁天皇を亡き者にしようとする事件を起こした「沙本毘古」も採銅所に関係する。

大山守命よりも少し南側に当たるが、この命は正に採銅の中心に居たようである。それはまた、応神天皇紀にはすっかりその地の統治へ進捗していたことも伝えているのである・・・どうやら銅に絡むと気持ちが大きくなるものかも・・・。

少々余談だが・・・弊岐(ヘキ)」と読むと「日置(ヘキ)」と繋がって来る。他の史書では日置氏は大山守命の末裔とされているが、ここが本貫の地ではなかろうか。

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全体を通しては古事記新釈応神天皇【后・子】を参照願う。