2018年7月10日火曜日

古波陀袁登賣=髮長比賣 〔232〕

古波陀袁登賣=髮長比賣


倭建命のシリーズ?が終わって、次に進もうかと思ったところで、応神天皇紀を見直していたら…この応神紀の説話は真に解釈が難しいようで、検索なんかで見当たるものに納得できるような解釈はないようである。ほぼ、放棄の状態かと思われる。そんな訳で既に投稿した内容で大丈夫なのか、どうか繰り返し読み直すしか手がない、と言った状況である。

そんな時、と言っても少し前になるのだが「比比羅木」に関する投稿をお読み頂いて、HorT(読みが二通りあって、かつアカウントからも判別不可で、失礼します)さんから、真に丁寧なメールを本ブログを通して頂戴した。結論は「比比羅木=新羅は正しい」と書いておられたのである。

「比比羅木」の通説の解釈は全くブレることなく「柊」でその他の解釈は見当たらず。些かの不安も手伝って複数投稿する羽目に陥っていたところ、上記のメールの中でHorTさんの持論が展開されており、本ブログ主とは全く異なるアプローチで「比比羅木=新羅」に至られている。異なる手法で一つの結果に導かれるのは、とても勇気付けられることかと思われる。

しかし、世の中狭いもので、応神天皇紀に「比比羅木」に絡む記述があったのである。それが首記の「古波陀袁登賣」の物語である。その前に既報を、図のみだが、再掲してみようかと思う。

「木(山稜)」と解釈して「比比羅木」は…、


一様に並び連なる山(稜)

…と読み、その地形を地図で示したものである。



やや任意に選んで朝鮮半島南部の山稜の状態を表す。同程度の標高で一面に広がった様子が伺える。東高西低の地形だと言われているようである。勿論2,000m弱の山も点在するのであるが。

この地形に大国主命の後裔達が広がって行く系譜を紐解いた結果を示す。「比比羅木之其花麻豆美神」の比賣を娶り、新羅の王の比賣が生んだ布忍富鳥鳴海神まで、それからは再度壱岐(天)に戻ることになる。新羅の登場人物はたった六名に過ぎないが、おそらくは当時の中心であった地を浮かび挙がらせるには十分な配置となったようである。


初見とは異なり、そんな背景が加わった中で「古波陀袁登賣」そこに含まれる「古波陀」の文字の解釈に再挑戦したわけである。

読み返すと「古波陀」=「コハダ」で朝鮮半島南西部を代表する魚であって「百済」を示す最も適切な表現などと述べている。勿論その前後の文言から「古波陀」=「百済」は、ほぼ確定状態で、やや付け足しの感じで書いたように記憶する。が、直截記述をモットーとする安萬侶くんらしくない、と感じるところでもあった。

「古波陀」はどんな地形を象形した表現なのであろうか?…例によって比古、毘古などで使われる場合は「古」=「固(定める、定まった:本来)」の「定める」を選択して来たが…、


古(本来)|波(端)|陀(崖)

…とすると「本来の端が崖」と紐解ける。新羅の表記は「比比羅木」で「一様に並び連なる山稜」の国と解釈した。しかも全土に渡ってその地形だと思われているのである。即ち「本来」=「一様に並び連なる山稜」を意味すると思われる。すると「古波陀」は…、


一様に並び連なる山稜の端が崖のところ

…と紐解ける。韓国地図は国土地理院地図を読むようには行かず、特に標高などの詳細が不明な点も多い。がしかし、間違いなく「比比羅木」の地形が途切れ、その西端は崖で、その先に平野が広がる地形であることが解る。現在の全羅北道庁はその山麓に位置している。



大雀命(後の仁徳天皇)が「古波陀袁登賣」を娶れることに大はしゃぎの様子、応神天皇から譲って貰ったとかいう問題ではなく、隆盛を極めつつあった百済の比賣だからである。

「美都具理能 那迦都延 本都毛理」と応神天皇が詠う。「那迦都延」=「百済」である。古事記は如何に多くのものが百済から入手できたかを詳細に記述する。論語など聞き慣れた具体的な書物まで記してある、しかも先生付きで・・・。

西暦300年前後の激動の東アジア、その極東の地で花開こうとしていた倭国であったと思われる。それを真面目に記録した書が古事記なのである。捻れた表現は、その真面目さに由来する。不真面目な正史日本書紀とは全く別物と受け取るべきであろう。「記紀」の表記、廃棄である

「比比羅木」の解釈、真っ当であったことを再確認できたようである。HorTさんに謝意を表する。