2017年12月17日日曜日

平群の志毘と菟田の首等 〔138〕

平群の志毘と菟田の首等


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
怒り狂った大長谷若建命(後の雄略天皇)が惨殺した市邊之忍齒王の二人の御子、意祁命と袁祁命が針間国へ逃げてその国の人、志自牟に匿われた…と言うかしっかりこき使われて苦労をしていた。

ところがある時、志自牟の新居祝の宴に新しく針間国に赴任した小楯長官が訪れ、二人の王子との運命の出会いがあったと告げる。皇位継承者が無く、葛城忍海高木角刺宮で天皇の代行をしていた叔母がそれを知って大喜び、即決で迎え入れた、と一気に次期天皇の話に飛ぶ。

目出度し目出度し、娶りも進めようと歌垣開催、その宴席での出来事が記述される。天皇不在が如何にこの世を混乱させたかを伝えているようである…と言う訳で読み残しのところをあらためて・・・。

古事記原文[武田祐吉訳]

故、將治天下之間、平群臣之祖・名志毘臣、立于歌垣、取其袁祁命將婚之美人手。其孃子者、菟田首等之女・名大魚也。爾袁祁命亦立歌垣。於是志毘臣歌曰、
意富美夜能 袁登都波多傳 須美加多夫祁理
如此歌而、乞其歌末之時、袁祁命歌曰、
意富多久美 袁遲那美許曾 須美加多夫祁禮
爾志毘臣、亦歌曰、
意富岐美能 許許呂袁由良美 淤美能古能 夜幣能斯婆加岐 伊理多多受阿理
於是王子、亦歌曰、
斯本勢能 那袁理袁美禮婆 阿蘇毘久流 志毘賀波多傳爾 都麻多弖理美由
爾志毘臣愈忿、歌曰、
意富岐美能 美古能志婆加岐 夜布士麻理 斯麻理母登本斯 岐禮牟志婆加岐 夜氣牟志婆加岐
爾王子、亦歌曰、
意布袁余志 斯毘都久阿麻余 斯賀阿禮婆 宇良胡本斯祁牟 志毘都久志毘
如此歌而、鬪明各退。明旦之時、意祁命・袁祁命二柱議云「凡朝廷人等者、旦參赴於朝廷、晝集於志毘門。亦今者志毘必寢、亦其門無人。故、非今者難可謀。」卽興軍圍志毘臣之家、乃殺也。
[そこで天下をお治めなされようとしたほどに、平群の臣の祖先のシビの臣が、歌垣の場で、そのヲケの命の結婚なされようとする孃子の手を取りました。その孃子は菟田の長の女のオホヲという者です。そこでヲケの命も歌垣にお立ちになりました。ここにシビが歌いますには、 
御殿のちいさい方の出張りは、隅が曲つている。 
かく歌つて、その歌の末句を乞う時に、ヲケの命のお歌いになりますには、 
大工が下手だつたので隅が曲つているのだ。 
シビがまた歌いますには、 
王子樣の御心がのんびりしていて、臣下の幾重にも圍つた柴垣に入り立たずにおられます。 
ここに王子がまた歌いますには、 
潮の寄る瀬の浪の碎けるところを見れば遊んでいるシビ魚の傍に妻が立つているのが見える。 
シビがいよいよ怒つて歌いますには、
王子樣の作つた柴垣は、節だらけに結びしてあつて、切れる柴垣の燒ける柴垣です。 
ここに王子がまた歌いますには、 
きい魚の鮪を突く海人よ、その魚が荒れたら心戀しいだろう。 鮪を突く鮪の臣よ。 
かように歌つて歌を掛け合い、夜をあかして別れました。翌朝、オケの命・ヲケの命お二方が御相談なさいますには、「すべて朝廷の人たちは、朝は朝廷に參り、晝はシビの家に集まります。そこで今はシビがきつと寢ているでしよう。その門には人もいないでしよう。今でなくては謀り難いでしよう」と相談されて、軍を興してシビの家を圍んでお撃ちになりました]

平群臣之祖となる志毘臣との遣り取りが続くのであるが「凡朝廷人等者、旦參赴於朝廷、晝集於志毘門」の背景が全てであろう。雄略天皇紀に述べられた志幾にあった宮のような立派な鰹木の家、葛城の一言主の出現が意味するところは、倭国の繁栄は各地の豪族の繁栄の上に成り立ち、彼らが天皇家を脅かすほどの力を持ちつつあった、と告げていた。

朝廷人達は天皇に対して面と向かっては従っているが影では志毘臣を中心に何やら謀議をしている様子であったと述べている。逃亡の身から政治の表舞台に躍り出た二人の王子は大混乱の兆し…インシデント…を感じたのであろうか。さすが祖父…「弾碁」の履中天皇…の血を引く二人、逆境にめげずに早々に手を打ったのである。

中央集権的な統治体制が未熟な時代におこる歴史的過程であろう。「言向和」戦略の転換期と言える。最も手っ取り早い解決方法はモグラ叩き、出る杭を一つ一つ打つことである。二人の命は早いうちに打て、と判断した。いずれにしても天皇家の歴史は取巻く豪族達の影響を抜きにしては語られないと言われる所以であろう。

話し合いの結果弟の袁祁命が即位する。空位だった皇位が埋まったのである。何とも危いところであった。急激な少子化が招いた皇位継続の危機であったことが伺える。この説話に登場した人物の居所を探ってみよう。


平群の志毘

平群は建内宿禰の子、平群都久宿禰が切り開いた地であり、現在の福岡県田川市~田川郡に横たわる丘陵地帯であると比定した。「志毘」は地形象形として紐解けるであろうか?…「志」=「之」として川が蛇行するところと思われる。

一方「毘」は既出の解釈、波多毘の「臍(ヘソ)」あるいは開化天皇の諡号である毘毘命の「坑道の前に並ぶ人々を助ける(増やす)」では平群の丘陵地帯に合致する場所はなさそうである。

「毘」=「田+比」と分解してみると「田が並んでいる」と読み解ける。これらを組合せた場所は…、
 
志毘=志(蛇行する川)|毘(田を並べる)

…と解釈される。現在の田川郡川崎町田原辺りと推定される。中元寺川と櫛毛川が合流する地点であり、川崎町の中心の地と思われる。山間の場所ではあるが、豊かな川の水源とその流域の開拓によって繁栄してきたものと推察される。

茨田(松田)は谷間を利用した水田である。給水と排水が自然に行われ初期の水田開発には最も適したところであったが、その耕地面積の拡大には限りがある。一方、平地が沖積によって急激に拡大し河川の築堤、排水の手段が講じられるようになると圧倒的に耕地面積が増加していったものと推察される。生産量の増大が生んだ豪族間格差の広がりを示しているようである。

平群は内陸にあり、都から遠く離れたところであり、決して先進の地ではなかったであろう。この地理的条件が天皇不在時に志毘という人物を登場させる要因であったと思われる。結果的には叩き潰されてしまうのであるが、彼以外にも登場して何ら不思議ではない人物も居たことであろう。時の流れ、地形の変化、水田耕作の進化等々、それらを記述していると読み取ることができる説話と思われる。

では娶ろうとした美人の「菟田首等之女・名大魚」は何処に住まっていたのであろうか?・・・。


菟田首等

まかり間違っても「菟田」は「ウダ」ではない。「菟田」=「斗田(トダ)」である。高山の「斗」ではなく丘陵地帯の「斗」で少々判別が難しく感じるが、上記の「志毘」の近隣にあった。「首等」は「斗」が作る「首」の形を捩ったものであろうか。下関市彦島田の首町に類似する。纏めて下図に示す。



「志毘」の出自は語られないが、平群臣の祖となった平群都久宿禰を遠祖に持つのであろう。天皇家の混乱に乗じて新興勢力として力を示していた様子が伺える。彼らは葛城一族なのであるが、時を経るに従って同じ一族間でも主導権争いは生じるものである。その一面を説話が伝えたものと推察される。

…全体を通しては「古事記新釈」清寧天皇・顕宗天皇の項を参照願う。

菟田首等之女・名大魚



<大魚>

美人と聞けば、どうしてもその謂れが知りたくなる…という訳で求めた結果は、やはりそのままズバリの地形象形のようである。

お蔭で、少々「菟=斗」の形が崩れかかっている地ではあったが、比定確度が一気に高まった、と思われる。

それにしても魚の真ん中の「田」と下の「灬」の部分を上手く捉えたものである。(2018.09.13)