天照大御神・建速須佐之男命:宇氣比
古事記原文[武田祐吉訳]…、
故於是、速須佐之男命言「然者、請天照大御神、將罷。」乃參上天時、山川悉動、國土皆震。爾天照大御神、聞驚而詔「我那勢命之上來由者、必不善心。欲奪我國耳。」卽解御髮、纒御美豆羅而、乃於左右御美豆羅、亦於御𦆅、亦於左右御手、各纒持八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠而自美至流四字以音、下效此、曾毘良邇者、負千入之靫訓入云能理、下效此。自曾至邇以音、比良邇者、附五百入之靫、亦所取佩伊都此二字以音之竹鞆而、弓腹振立而、堅庭者、於向股蹈那豆美三字以音、如沫雪蹶散而、伊都二字以音之男建訓建云多祁夫蹈建而待問「何故上來。」
爾速須佐之男命答白「僕者無邪心、唯大御神之命以、問賜僕之哭伊佐知流之事。故、白都良久三字以音、僕欲往妣國以哭。爾大御神詔、汝者不可在此國而、神夜良比夜良比賜。故、以爲請將罷往之狀、參上耳。無異心。」爾天照大御神詔「然者、汝心之淸明、何以知。」於是、速須佐之男命答白「各宇氣比而生子。」自宇以下三字以音、下效此。
故爾各中置天安河而、宇氣布時、天照大御神、先乞度建速須佐之男命所佩十拳劒、打折三段而、奴那登母母由良邇、振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、多紀理毘賣命、亦御名、謂奧津嶋比賣命。次市寸嶋上比賣命、亦御名、謂狹依毘賣命。次多岐都比賣命。
須佐之男命、乞度天照大御神所纒左御美豆良八尺勾璁之五百津之美須麻流珠而、奴那登母母由良爾、振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命。亦乞度所纒右御美豆良之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、天之菩卑能命。自菩下三字以音。亦乞度所纒御𦆅之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、天津日子根命。又乞度所纒左御手之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、活津日子根命。亦乞度所纒右御手之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、熊野久須毘命。自久下三字以音。幷五柱。
於是天照大御神、告速須佐之男命「是後所生五柱男子者、物實因我物所成、故、自吾子也。先所生之三柱女子者、物實因汝物所成、故、乃汝子也。」如此詔別也。
故、其先所生之神、多紀理毘賣命者、坐胸形之奧津宮。次市寸嶋比賣命者、坐胸形之中津宮。次田寸津比賣命者、坐胸形之邊津宮。此三柱神者、胸形君等之以伊都久三前大神者也。故、此後所生五柱子之中、天菩比命之子、建比良鳥命此出雲國造・无邪志國造・上菟上國造・下菟上國造・伊自牟國造・津嶋縣直・遠江國造等之祖也、次天津日子根命者。凡川內國造・額田部湯坐連・茨木國造・倭田中直・山代國造・馬來田國造・道尻岐閇國造・周芳國造・倭淹知造・高市縣主・蒲生稻寸・三枝部造等之祖也。
爾速須佐之男命、白于天照大御神「我心淸明、故、我所生子、得手弱女。因此言者、自我勝。」云而、於勝佐備此二字以音、離天照大御神之營田之阿此阿字以音、埋其溝、亦其於聞看大嘗之殿、屎麻理此二字以音散。故、雖然爲、天照大御神者、登賀米受而告「如屎、醉而吐散登許曾此三字以音、我那勢之命爲如此。又離田之阿・埋溝者、地矣阿多良斯登許曾自阿以下七字以音、我那勢之命爲如此。」登此一字以音詔雖直、猶其惡態不止而轉。天照大御神、坐忌服屋而、令織神御衣之時、穿其服屋之頂、逆剥天斑馬剥而、所墮入時、天服織女見驚而、於梭衝陰上而死。訓陰上云富登。
[そこでスサノヲの命が仰せになるには、「それなら天照大神に申しあげて黄泉國に行きましよう」と仰せられて天にお上りになる時に、山や川が悉く鳴り騷ぎ國土が皆振動しました。それですから天照大神が驚かれて、「わたしの弟が天に上つて來られるわけは立派な心で來るのではありますまい。わたしの國を奪おうと思つておられるのかも知れない」と仰せられて、髮をお解きになり、左右に分けて耳のところに輪にお纏きになり、その左右の髮の輪にも、頭に戴かれる鬘にも、左右の御手にも、皆大きな勾玉の澤山ついている玉の緒を纏き持たれて、背には矢が千本も入る靱を負われ、胸にも五百本入りの靱をつけ、また威勢のよい音を立てる鞆をお帶びになり、弓を振り立てて力強く大庭をお踏みつけになり、泡雪のように大地を蹴散らかして勢いよく叫びの聲をお擧げになつて待ち問われるのには、「どういうわけで上つて來られたか」とお尋ねになりました。そこでスサノヲの命の申されるには、「わたくしは穢ない心はございません。ただ父上の仰せでわたくしが哭きわめいていることをお尋ねになりましたから、わたくしは母上の國に行きたいと思つて泣いておりますと申しましたところ、父上はそれではこの國に住んではならないと仰せられて追い拂いましたのでお暇乞いに參りました。變つた心は持つておりません」と申されました。そこで天照らす大神は、「それならあなたの心の正しいことはどうしたらわかるでしよう」と仰せになつたので、スサノヲの命は、「誓約を立てて子を生みましよう」と申されました。
よって天のヤスの河を中に置いておいて誓約を立てる時に、天照大神はまずスサノヲの命の佩いている長い劒をお取りになって三段に打ち折って、音もさらさらと天の眞名井の水で滌そそいで囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神の名はタギリヒメの命またの名はオキツシマ姫の命でした。次にイチキシマヒメの命またの名はサヨリビメの命、次にタギツヒメの命のお三方でした。
次にスサノヲの命が天照らす大神の左の御髮に纏いておいでになつた大きな勾玉の澤山ついている玉の緒をお請けになつて、音もさらさらと天の眞名井の水に滌いで囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はマサカアカツカチハヤビアメノオシホミミの命、次に右の御髮の輪に纏かれていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はアメノホヒの命、次に鬘に纏いておいでになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はアマツヒコネの命、次に左の御手にお纏きになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はイクツヒコネの命、次に右の御手に纏いておいでになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はクマノクスビの命、合わせて五方の男神が御出現になりました。ここに天照らす大神はスサノヲの命に仰せになつて、「この後から生まれた五人の男神はわたしの身につけた珠によつてあらわれた神ですから自然わたしの子です。先に生まれた三人の姫御子はあなたの身につけたものによつてあらわれたのですから、やはりあなたの子です」と仰せられました。
その先にお生まれになつた神のうちタギリヒメの命は、九州の胸形の沖つ宮においでになります。次にイチキシマヒメの命は胸形の中つ宮においでになります。次にタギツヒメの命は胸形の邊へつ宮においでになります。この三人の神は、胸形の君たちが大切にお祭りする神樣であります。そこでこの後でお生まれになつた五人の子の中に、アメノホヒの命の子のタケヒラドリの命、これは出雲の國の造・ムザシの國の造・カミツウナカミの國の造・シモツウナカミの國の造・イジムの國の造・津島の縣の直・遠江の國の造たちの祖先です。次にアマツヒコネの命は、凡川内の國の造・額田部の湯坐の連・木の國の造・倭の田中の直・山代の國の造・ウマクタの國の造・道ノシリキベの國の造・スハの國の造・倭のアムチの造・高市の縣主・蒲生の稻寸・三枝部の造たちの祖先です
そこでスサノヲの命は、天照大神に申されるには「わたくしの心が清らかだつたので、わたくしの生んだ子が女だつたのです。これに依つて言えば當然わたくしが勝つたのです」といつて、勝つた勢いに任せて亂暴を働きました。天照大神が田を作つておられたその田の畔を毀したり溝を埋めたりし、また食事をなさる御殿に屎をし散らしました。このようなことをなさいましたけれども天照大神はお咎めにならないで、仰せになるには、「屎のようなのは酒に醉つて吐き散らすとてこんなになつたのでしよう。それから田の畔を毀し溝を埋めたのは地面を惜しまれてこのようになされたのです」と善いようにと仰せられましたけれども、その亂暴なしわざは止みませんでした。天照大神が清らかな機織場においでになつて神樣の御衣服を織らせておいでになる時に、その機織場の屋根に穴をあけて斑駒の皮をむいて墮し入れたので、機織女が驚いて機織りに使う板で陰をついて死んでしまいました]
天照大御神:所知高天原 伊邪那岐命に突き放された建速須佐之男命は、「天」に暇乞いに来たのだが、天照大御神は、それは「天」を乗っ取りに来たと思い、完全防衛態勢を敷いたと述べている。天照大御神自身が身に纏ったような記述であるが、國の防衛なら自身一人武装しても致し方ないのではなかろうか・・・「纏」とは、”所知(所領)”の目印を表しているのであろう。
①左右美豆羅:左右にある谷間の広がった(美)地で高台(豆)が連なっている(羅)ところ
②𦆅(縵):山稜が[蔓草]のように延びているところ
③八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠:[く]の字形(勾)に連なった玉のような丸く小高い地(璁)を跨るように延びた山稜がある谷間(八)で丸く小高い地が連なった山稜(百)が交差するように(五)寄り集まって(津)隙間を束ねられた擦り潰されたような(麻)州(須)が流れ出る(流)のを玉が断ち切っている(珠)ところ(詳細は下記参照)。
④曾毘良邇:積み重なった(曾)山稜の麓で窪んだ地がくっ付いて(毘)なだらかに(良)広がっている(邇)ところ・負千入之靫:束ねられた谷間(千)の前にある隙間(負)のような地に筒のような窪んだ(靫)地がすっぽりと納まっている(入)ところ
⑤比良邇:なだらかな(良)山稜がくっ付いて(比)広がっている(邇)ところ・五百入之靫:丸く小高い地が連なって(百)交差するような(五)地に筒のような窪んだ(靫)地がすっぽりと納まっている(入)ところ
⑥伊都之竹鞆:[伊都]の地にある山稜の端が二つに岐れて(鞆)竹のように真っ直ぐ延びているところ(「伊都」はこちら参照。以下同様)
⑦弓腹振立:弓なりに広がる[酒樽]のような(腹)地が貝が舌を出したように山稜が延びている(振)地と並んでいる(立)ところ
⑧堅庭:谷間にある手のような山稜(堅)の麓で広がり延びている(庭)ところ・向股蹈那豆美:北に向かって二つに岐れた(股)山稜の端がゆったりとした(那)高台(豆)の麓の谷間が広がっている(美)窪んだ地に延び出ている(蹈)ところ
⑨伊都之男建:[伊都]の地にある突き出た[筆]のようなところ
各々の地形が示す場所を図に示した。「美豆羅」は天照大御神の坐す神岳を頭と見做した配置となっている。「御𦆅」は、その頭の上にある飾りであり、左右の手と「美須麻流之珠」を共有したようになっている。初見の文字も見られるが、別途に述べることにする。
図から分るように、既に登場した多くの神々の居処を避けたものとなっている。伊邪那岐命から授けられた天照大御神の統治領域を表してることが解る。「伊都」は、勿論、混在となっているが、見事に住み分けられている(こちら参照)。これだけ「纏」を立てられたら、速須佐之男命も、おいそれとは侵出できなかったであろう。
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『那勢』 「那勢命」=「須佐之男命」を示すことは文脈からも明らかであるが、「那勢」はどんな意味であろうか?…「勢」=「男性」を意味するようである。「勢」=「押し上げられて小高くなっている様」と解釈する。「去勢」でも用いられている。女神が男神を親しみを持って呼ぶ時に用いられた、とある。余談だが、男神が女神を呼ぶ時は「那邇」と言うそうである…「邇」=「広がり延びる様」と地形は解釈するのだが・・・。
『曾毘良・比良』 「曾毘良」=「背平」とされ、「比良」=「胸、腹」の反対側、背中を意味するとのことである。「手のひら(平)」「手のこう(甲:背面)」と類似する使い方であろう。黄泉比良坂も「手のひら」の地形象形と思われる。平坦でたいらな形状よりも「花びら」のような内側に凹んだ状態を示していると解釈される。上図に示したように”背中”と”腹”の配置のようである。
『纏』 江戸時代の町火消が用いたものであるが、そもそもは戦国時代の戰さにおいて陣地を示すのに使われた印と解説されている。案外、上記が起源となったのかもしれない。どうみても、大将が身動き取れないくらいに武装することはあり得ないであろう。神話の記述、故にあり得る?・・・。
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天安河・天之眞名井 「宇氣布(比)」が行われた場所である。天照大御神所領の周辺と推測される。「天安河」の「安」、「河」が地形象形表記として用いられた最初の例である。文字解釈を行うと、「安」=「宀+女」と分解される。地形として、「安」=「山稜に挟まれた谷間が嫋やかに曲がって延びている様」と解釈される。
纏めると天安河=頭部のような(天)山稜の麓で嫋やかに曲がる谷間(安)の出口(河)から川が流れ出ているところと紐解ける。
図に示した、現在の後川川を表していることが解る。尚、「天」は、「訓天如天」として、「天」=「頭部」と解釈する。
少し後に「天香山」と記載される。香山之畝尾木本で登場した「香山」のことであろう。この場合もまた「訓天如天」と解釈され、天香山=山稜の頭部が[香]の形になっている山と紐解ける。
「天之眞名井」の「眞」、「名」も地形象形表記として初見である。「眞」=「鼎+匕」と分解される。地形として、「眞」=「窪んだ地に多くの山稜が寄り集まっている様」と解釈される。また、「名」=「夕+囗」と分解される。表す地形は、「名」=「山稜の端が三角州になっている様」と解釈される。
纏めると、天之眞名井=[天]にある山稜の端の三角州(名)が多く寄り集まって四角く(井)窪んでいる(眞)ところと紐解ける。これから流れ出る川と「天安河」が合流地点が「宇氣布」の場所であったと推測される。
宇氣布=谷間にゆらゆらと延び広がった山稜の麓が布を敷いたように平らに広がっているところと紐解ける。「宇氣比」(自宇以下三字以音。武田氏訳「誓約」)とも記載される。宇氣比=谷間にゆらゆらと延び広がった山稜がくっ付いて並んでいるところとなる。共にその場所の地形を表現していることが解る。
胸形三柱神 「宇氣比」のよって建速須佐之男命の十挙劒から三人の女神が誕生したと記載している。少し後に…、故、其先所生之神、多紀理毘賣命者、坐胸形之奧津宮。次市寸嶋比賣命者、坐胸形之中津宮。次田寸津比賣命者、坐胸形之邊津宮。此三柱神者、胸形君等之以伊都久三前大神者也…と追記されて、各々の居処が示されている。即ち、名前が表す地形の場所が示されているのである。
❶多紀理毘賣命(奧津嶋比賣命) 別名が併記されている。「奥津」の文字列は、前出の竺紫日向での伊邪那岐命の禊祓で誕生した神々に含まれていた(こちら参照)。再掲すると「奥津」=「奥深い地の水辺で[筆]のように山稜が延びているところ」であった。
名前の文字列は、既出であり、多紀理毘賣命=山稜の端の三角州(多)が曲がりくねって(紀)区切られている(理)地に坐す毘賣命と紐解ける。
図に示した場所を表していることが解る。現地名は、宗像市曲辺り、釣川と朝町川・高瀬川が合流する地点である。
当時の海水面を推測すると、この辺りは汽水湖のような状態(古事記は”忍海”と表記する)であったのではなかろうか。縄文海進に加えて、沖積の少ない状態によって、現在の海水面とは大きく異なっていたと思われる。別名の奧津嶋比賣命は、”嶋”に坐していたことになる。
坐した奥津宮の場所は定かではないが、現在の高見神社辺りだったのではなかろうか。尚、当時の海水面(推測)や「胸形」の地形象形は、下記に他の二柱神と共に纏めて記載する。蛇足だが、古事記中に「宗像」、「宗形」の表記は登場しない。
❷市寸嶋比賣命(狹依毘賣命) 「市寸嶋」に含まれる「市」及び「寸」は初見のもじである。「市」は文字要素に分解するのが極めて難しい文字のようである。象形として、「集まる様」を表すと解説されている。地形としても、そのまま「市」=「集まっている様」と解釈する。
❷市寸嶋比賣命(狹依毘賣命) 「市寸嶋」に含まれる「市」及び「寸」は初見のもじである。「市」は文字要素に分解するのが極めて難しい文字のようである。象形として、「集まる様」を表すと解説されている。地形としても、そのまま「市」=「集まっている様」と解釈する。
纏めると、市寸嶋比賣命=手を広げたように延びている山稜(寸)が集まっている(市)嶋に坐す比賣命と紐解ける。図に示した、現地名の宗像市河東にある場所を表していると思われる。
謂れは「狹依毘賣命」と記述される。前出の「狹」=「犬+夾」=「平らな頂の山稜に挟まれた様」、「依」=「人+衣」=「谷間にある山稜の端の三角の地が小高く盛り上がっている様」と解釈する。
纏めると、狹依毘賣命=平らな頂の山稜に挟まれた谷間にある山稜の端の三角の地が小高く盛り上がっているところに坐す毘賣命と紐解ける。「市寸嶋」の地形を表していることが解る。また、中津宮に坐したと記載されている。中津宮=真ん中を突き通すように水辺の[筆]のような山稜が延びているところの宮と紐解ける。
邊津=広がり延びている山稜の端(邊)が水辺で[筆]の形をしている(津)ところと解釈した。その地形を現地名の宗像市深田辺りに見出せる。宗像大社辺津宮が鎮座する場所である。
既出の文字列である多岐都比賣命=端にある三角州(多)が岐れている(岐)山稜が交差するように集まっている(都)ところに坐す比賣命と解釈される。その宮の背後の地形を表していることが解る。
別名として「田寸津比賣命」の表記があったようで、田寸津比賣命=山稜の端が手を広げたように延びた(寸)麓にある水辺で[筆]の形をした(津)地の前が平らに整えられている(田)ところに坐す比賣命と紐解ける。現在の辺津宮の西側の山稜の端辺りを示しているのであろう。
書紀では三度、續紀では一度で「宗形」の表記に変わっている。歴史の表舞台から遠ざかった場所だったようである。
それは兎も角として、「胸形」の文字列が表す地形を求めてみよう。「胸」=「月+匈」と分解される。更に「匈」=「凶+勹」から成る文字である。「凶」=「空隙がある様」を表す文字と知られ、「胸」は「包まれた中に隙間がある」状態を表す文字である。正に「胸」の象形であり、そのまま地形として解釈される。
「形」も初見であり、「形」=「井+彡」と分解される。地形象形としては、「形」=「四角く取り囲まれている様」と解釈される。纏めると、胸形=四角く取り囲まれた地に隙間があるところと紐解ける。上図に示したように、当時は、海水が奥深く入り込んだ地形であったと推測される。”胸の形”そのものの地形なのである。
胸形三柱神を纏めて図に示した。「奥津嶋」は、沖ノ島ではなく、更に「中津宮」は、大島にあったのではない。歴史的”不動地点”は、どうやらこの邊津宮だけなのかもしれない。勿論、現在の宗像大社辺津宮の場所は、水面下だったのだが・・・古事記に沖ノ島は登場しない。
天之五柱神 続いて天照大御神の左右御美豆羅・御𦆅・左右御手の珠から五柱神が誕生したと記載されている。また、天照大御神が先の胸形三柱神(女子)は、「汝(建速須佐之男命)子」であり、この五柱神(男子)は「吾子」と告げている。
①正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命 後に「天之忍穗耳命」は、「此御子者、御合高木神之女・萬幡豐秋津師比賣命、生子、天火明命、次日子番能邇邇藝命二柱也」と記載されている。現在の天皇家の祖神の位置付けとなっている。長ったらしい名前は、その正統性を強調していのかもしれないが、それはそれとして、詳細な出自場所を表していると思われる。
「正勝吾勝勝速日」に含まれている初見の文字である「勝」=「朕+力」と分解される。「舟が浮かび上がった様」を示し、際立っている状態を表す文字と解説される。
地形象形的には「勝」=「小高く盛り上がっている様」と解釈される。また、「吾」=「五+囗」と分解される。
「五」の古文字を参照すると、地形として、「吾」=「区切られた地で山稜が交差するように延びている様」と解釈される。「正」=「足を揃えている様」、「速」=「束ねる様」等は既出の文字である。
纏めると、正勝吾勝勝速日=山稜が足を揃えているような(正)小高く盛り上がった(勝)地と交差するように山稜が延びている(吾)小高く盛り上がっている(勝)地と[炎]のように延びている山稜(日)を束ねるような(速)小高く盛り上がった(勝)地が並んでいるところと紐解ける。図に示した場所にその地形を見出せる。現地名の勝本町北触・新城東触に跨る場所と推定される。
「天之忍穗耳命」の「忍」=「奥まった地に多くの山稜が突き出てギザギザとしている様」と解釈した。即ち、天之忍穗耳命=[阿麻](天)の地で[稲穂]のように延びた山稜の前で多くの山稜が突き出てギザギザとした奥まった谷間(忍)にある[耳]の形をしたところに坐す命と紐解ける。現在の新城神社のある高台を表していることが解る。「速日」の「日」と「忍穗」の「忍」が重ねられている。
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『耳』 人名に「耳」が用いられた最初の例である。この後幾人かの皇族名に含まれることになる。橘豐日命(用明天皇)の御子である上宮之厩戸豐聰耳命(聖徳太子)にも用いられ、多くの逸話が残されている。「耳」は、古代の尊称と解説されているようである。耳族なんていう解釈もあるとか。
御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に、まつろ(服)わぬ一族の長の名前として「玖賀耳之御笠」が登場する。賊の人名が記載されるという極めて特異な例なのであるが、果たして「耳」は尊称なのであろうか?・・・。
この「玖賀耳」も含めて、”地域的首長”を表すとして、幾つかの例示があるが、「耳」のつかない場合は…勿論、それが多数である…何と解釈するのであろうか?・・・都合の良い事例のみを並べて論じるのが、歴史学のようである。
地形象形表記として、耳=山稜の端が[耳]の形をしている様と解釈する。多分、耳の窪んだところを居処とした人物だったのであろう。住居の地形として好ましい場所には違いなかろう。
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②天之菩卑能命 初見の文字が用いられた名前である。「菩」は、この命以外には見られず、希少である。文字解析をすると、「菩」=「艸+咅」と分解される。更に「咅」=「不+囗」から成る文字と知られている。地形として、「菩」=「山稜が三つに岐れて並んでいる様」と解釈される。
「卑」の字源は定かでないようだが、文字の上部は「鬼」に類似したものと考えられている。地形的には、「卑」=「丸く平たい様」と解釈される。”卑字”を使うか?…などとしては、意味不明となろう・・・いや、それも込められた表記のようでもある。
纏めると、天之菩卑能命=[阿麻](天)の地で三つに岐れて並んだ山稜(菩)の端が丸く平たくなっている(卑)隅(能)に坐す命と紐解ける。少し後に「天菩比命」と表記される。天菩比命=[菩]の頭部(天)がくっ付いて並んでいる(比)ところに坐す命と紐解ける。三つに岐れた山稜が湾曲して再び寄り集まっている地形を表している。
他の表現では曖昧であり、彼の出自場所を求めることは叶わないと思われる。古事記表記の”正直さ”であろう。
また、「菩」の文字要素は、「倍」に含まれ、後に多くの人材が登場する「阿倍」一族に用いられている。
この命は、出雲に降臨したのだが、梨の礫の行動を取り、天照大御神等の天神達は、お気に召されなかった様子である。「卑」は、これも籠めた表記かもしれない。その代りに息子の「建比良鳥命」(後に詳述)の活躍が記載されるが、結局のところ、その息子も同じ運命を辿るのである。天神達の不満が爆発したと述べている。
この命は、極めて広範囲の地域の祖となったと記載されている。後に天神一族が支配した領域を表している。彼の子孫が倭國に蔓延って行ったことを示し、地政学的に興味深い記述と思われる。この段階では、各々の場所を特定することは難しいが、後の記述も併せて読み解いた結果を下記する。
⑤熊野久須毘命 作図の都合上、先に述べる。既出の文字列である熊野久須毘命=[炎]のような山稜が延びている隅(熊)にある野で[く]の字形に曲がる(久)州(須)が窪んだ地にくっ付いている(毘)ところに坐す命と紐解ける。図に示した場所を表し、「毘」は「宇氣比」が行われた場所と思われる。
④活津日子根命 上記と同様に既出の文字列であり、「日子根命」は「天津日子根命」に重なる文字列である。
活津日子根命=水辺で「舌」のように延び出た山稜と[筆]のような山稜が並んでいる[日子根]に坐す命と紐解ける。
その地形を図に示した場所に確認できる。前出の火之迦具土神の北側に当たる場所である。この命もこの場限りの登場であり、詳細は定かではないようである。
後に天手力男神が天石屋事件の際に多くの神々の一人として登場する。天手力男=頭部が[手]の形をした山稜が押し拡げる[男]のように延びているところと紐解ける。図に示した場所の地形を表していることが解る。本命と「天之忍穗耳命」との狭間が出自と推定される。
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建比良鳥命 本来は父親の「天菩比命」が出雲国に遣わされて「祖」となる筈なのだが、少々曰くがあって息子になってしまった。
後日に記述することになろうが、神話なのだが、俗ぽくって面白いところ。いや、神話ではないかもしれない…。因みに本来の名前は、天菩比(全てに秀でた)命と読めそうである。
さて、この命の出自場所は何処であろうか?…前出の文字列である建比良鳥命=[鳥]の形の山稜がある手のひらのような(比良)山麓に[筆]のように山稜が延びている(建)ところに坐す命と紐解ける。「比良」は黃泉比良坂で用いられた文字列である。
図に示した場所、現在の戸ノ上山の北麓に当たる。この地は、肥國謂建日向日豐久士比泥別と記載されたところと推定した。それに含まれる「建」の一部を共有していることが解る。肥國(出雲國)に降臨した父親が現地で儲けた子だったようである。
さて、その子孫が様々な地に蔓延っていったようである。古事記の”祖”の記述の始まりである。天皇家の統治領域を表すのであるが、幾多の変遷を経るようでもある。肥國(出雲國)もその一つの地域だったことが記載されることになる。
古代の「出雲國」に関する認識は、根本から改められるべきであろう。日本書紀の記述に振り回されている、と言える。あらためて、その名称が表す地形を解き明かしていみよう。
「出」は、地名・人名における初見である。「出」=「止+凵」に分解される。「止」は”足”の象形であり、「窪みんだところから足が出て行く様」を表している。
地形としては、「出」=「谷間から山稜が延び出ている様」と解釈される。前出の「雲」と合わせて、出雲=谷間から山稜がゆらゆらと覆い被さるように(雲)延び出て広がっている(出)ところと紐解ける。國造の場所は、現在の柳西中学校辺りだったではなかろうか(「造」に関しては下記を参照)。
即ち、現在の戸ノ上山山塊に取り囲まれた地は、北から肥國(建日向日豐久士比泥別)・「出雲國」・葦原中國の三つに別れていたと記載しているのである。そして、後に大騒乱が勃発し、壊滅的な状態に陥ることになる。その騒乱の主役は、大國主神であるが、彼の子孫は皇統に関わることなく表舞台から引き下がってしまうのである。
②无邪志國造 「无邪志(ムザシ)國」は、後の「武藏國」と表記される場所であることは容易に思い付くことができるが、やはり、名前がその場所の地形を表してるのであろう。
初見の文字である「无」=「尢+一」と分解される。「尢」=「折れ曲がった足の様」を表す文字と知られる。地形象形として、「无」=「折れ曲がった足のような山稜の端が途切れる様」と読み解ける。
また、より詳細な地形としては、「无」=「[尢]の文字形のように折れ曲がった山稜の端が途切れる様」表していると思われる。
この特異な地形を求めると、図に示した場所、現地名の北九州市小倉南区吉田に見出せる。高蔵山東麓の地形を示していると思われる。纏めると、无邪志=[尢]の文字形のように折れ曲がった山稜の端が途切れた(无)麓でギザギザと牙が並ぶように(邪)蛇行した川(志)が流れているところと紐解ける。
尚、前記で「邪」=「折れ曲がって連なる様」としたが、重なった表現を避けた解釈にした。國造の場所は、”足の股”辺りのように思われる。また、後に「天津日子根命」が祖となった馬來田國造が登場する。併せて図に示したが、詳細は下記する。
③上菟上國造・④下菟上國造 見慣れぬ文字「菟上」が現れている。「菟」は初見であり、この後幾度か用いられている。通常は、「菟(ウ)」と読み下すとされるが、漢字には、その読みはない(呉音:ツ(ズ)、漢音:ト)。「菟上」=「海上(ウナカミ)」と解釈されている。
前出の上津綿津見神の「上」は、「訓上云宇閇」と注記されていた。「宇閇」=「谷間に延び出た山稜で閉じ込められたようなところ」と解釈した。
纏めると、菟上=谷間の奥から抜け出た(菟)山稜が閉じ込める(上)ように延びているところと紐解ける。図に示したように、「无邪志國造」の南側の地形を表していることが解る。
もう一つの「上」は「下」に対する「上」を表していると思われる。図に示したような配置に上下並んでいる様子を表記したものであろう。「菟上」の表記は、古事記中、この後に登場することはないようである。
書紀・續紀中では、上總(総)國・下總(総)國と表現される國となる。「國造」の場所は、地形変形が凄まじく、ここでは割愛するが、この地の住人が登場した時にでも追記することになろう(国土地理院航空写真1961~9年参照こちら)。
⑤伊自牟國造 この場限りの登場であり、「伊自牟」の文字列も二度と記載されることはないようである。上記の二國のように別名で記述されることもなく、極めて情報が限られている國のように思われる。
地名・人名における初見の文字である「自」=「鼻の象形」と知られている。地形として、「自」=「端にある様」と解釈する。
また、「牟」=「ム+牛」と分解される。「ム」=「区切られた様」を表す文字要素と知られている。地形として、「牟」=「[牛]の角のような山稜に挟まれた谷間に小高い地がある様」と解釈する。
纏めると、伊自牟=谷間で区切られた(伊)山稜の端(自)に[牛]の角のような山稜に挟まれた谷間に小高い地がある(牟)ところと紐解ける。現地名の北九州市門司区猿喰である。”猿喰”の地はこの山稜に囲まれたところ(入江)に水門を作り、巧みに水田開発を行ったと知られている(猿喰新田参照)。「喰」は「牟」=「貪る」に繋がるのかも入れない。國造の場所は、「牟」の谷間であろう。
余談になるが、後の續紀によると、この地の周辺は一時”蝦夷”に支配され、それを取り戻したことを述べている。即ち、「伊自牟國」は一旦消滅したようである。
”蝦夷”との確執は、極めて長期にわたって天皇家を苦しめていたことを記紀・續紀は伝えているのである。
謂れの「天之狹手依比賣」が表す場所との関係は如何であろうか?…「縣」=「県+系」と分解され、「糸に首をぶら下げた様」を表す文字と解説される。地形象形的には、「縣」=「尾根に山稜がぶら下がったような様」と解釈される。
また、「直」=「|+目」から成る文字である。「目」=「隙間」=「谷間」とすると「真っ直ぐな谷間」を象ったと読み解ける。
即ち、津嶋縣直=津嶋にある尾根からぶら下がったような山稜の麓で谷間が真っ直ぐに延びているところと紐解ける。現地名、対馬市厳原町にある成相山の東麓の谷間である。「狹手依比賣」の南側が津嶋の中心地、現在もそうであるように、であったことが伺える。
⑦遠江國造 古事記には「近江」と言う表記は存在せず、いわゆる”遠・近”を示す文字使いではあり得ない。初見の「遠」の文字は、この後しばしば用いられている。「遠」=「辶+袁」と分解される。訓食云袁須で用いられた「袁」=「山稜の端がゆったりと延びている様」と解釈した。即ち、「遠」=「山稜の端がゆったりと延び広がっている様」と解釈される。
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<遠江國造> |
言い換えると、國造の場所の地形を拡大解釈して國名としたようである。現在はタムに沈んでしまった場所であるが、北九州市八幡西区畑の黒川流域を表していると思われる。
この「遠江(オンガ)」が現在の「遠賀」の由来かもしれないが、定かではない。どう転んでも「トオトオミ」とは読めない。「遠」=「遠い」の意味では記されていないのである。
後の穴穗命(安康天皇)紀に淡海之久多綿之蚊屋野が登場する。尾根がなだらかに広がり延びた場所、現在の北九州市八幡西区と遠賀郡水巻町の境となっているところと推定した。「遠江國」は、この地の周辺を示す地域であったと推測される。
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『造・直』 前記の「連」と同様に古代の姓として解釈されている。そして、元来は文字が表す地形の場所を示していると思われる。文字解釈を行うと、造=辶+牛+囗=山稜が[牛]の角のように延びている様、上記したように直=|+目=谷間が真っ直ぐに延びている様となる。
後の身分制度における名称は、それらの文字を巧みに取り入れて構成されたと考えれる。そう考えると古事記の表記は実に貴重な文字を提供していたと思われる。日本人の几帳面さは、既にこの時にも発揮されていたのであろう。
後の身分制度における名称は、それらの文字を巧みに取り入れて構成されたと考えれる。そう考えると古事記の表記は実に貴重な文字を提供していたと思われる。日本人の几帳面さは、既にこの時にも発揮されていたのであろう。
尚、國造の表記は、この時点、即ち行政区分としての國・郡などが確立していない時代であり、極めて曖昧なものである。律令制後には國守・郡守が行政上の役職となるが、「國造」も用いられている。直轄しきれない地方の統治のために設置されてのであろう。
引き続きもう一人の命、「天津日子根命」について祖となった場所を紐解いてみよう。
天津日子根命 天照大御神の第三子であり、多くの國造等の祖となったと記載されている。前記でわかったことの一つに後に登場する國名とは異なるものが多々あること、また、消滅してしまったと思える地域名があるようで、その変遷も興味深いものがある。
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<凡川內國造> |
地名・人名に関して初見である「凡」は、通常では”およそ・すべて”を意味するのであるが、そんな曖昧な表記ではなかろう。
「凡」=「帆(巾+凡)の象形」と知られている。すると、地形象形的には、「凡」=「谷間が[凡]の形をしている様」と解釈される。
その地形を図に示した場所、現在の勝山浦河内に見出せる。初見の「内(內)」=「冂+入」と分解され、「隙間に入る様」を表している。地形としては、「内」=「山稜に挟まれた隙間の奥にある様」と解釈される。
纏めると、凡川内國=[凡]の形の谷間が山稜に挟まれた隙間を流れ出る川の奥にある(内)ところと紐解ける。國造の場所は図に示した辺りと推定される。川内(河内)國の中で、最初に開かれた地であり、開拓されるに従って國域を拡大させたのであろう。現地名の勝山浦河内は、紛うことなく、残存地名と思われる。
②額田部湯坐連 「額田」は、初見の文字列であり、勿論、固有の地名でもない。「額」=「ヒタイ」を表す文字と知られている。地形としては、そのままで「額」=「山の斜面が額のように突き出ている様」と解釈する。即ち、「額田」=「[額]の麓で平らに整えられている様」と読み解ける。
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<額田部湯坐連> |
「湯坐」の「湯」は既出、地名・人名に用いられた「坐」は初見である。「坐」=「人+人+土」と分解される。地形として、「坐」=「二つの谷間に挟まれて盛り上がっている様」と解釈される。
纏めると、額田部湯坐連=[額]のように突き出た山稜の麓にある平らに整えられている(田)地の近隣(部)で水が飛び散るような川が流れる(湯)谷間に挟まれて盛り上がって(坐)連なる延びている(連)ところと紐解ける。
大坂山~愛宕山から延びる山稜にある椿台と呼ばれるところ、それを「額」と見做したのであろう。現在の田川郡香春町高野である。「(字)湯山」という地名が残っている。「国譲り」されずに残っている地名ではなかろうか。と言うか、”温泉”を譲る場所は奈良大和には存在しない、であろう。
「湯坐」は、通常「貴人の産児に湯をつかわせる役の女性。また、皇子・皇女の養育者をもいう。湯殿に奉仕する人の意ともいう」と解説される。後の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に記載されている・・・命詔「何爲日足奉。」答白「取御母、定大湯坐・若湯坐、宜日足奉。」故、隨其后白以日足奉也・・・に基づく解釈であろう。
③茨木國造・④道尻岐閇國造 「茨木」に含まれる「茨」は初見である。この文字が表す地形は、古事記において極めて明快かつ重要と思われるが、通説は曖昧なままである。
それは兎も角として、「茨」=「艸+次(二+欠)」と分解される。即ち、「茨」=「揃って並ぶ様」と解釈される。地形としても同様である。纏めると、茨木=[木]のように延びた山稜が揃って並んでいる(茨)ところと紐解ける。
「道尻岐閇國造」の「尻」は初見である。「尻」=「尸+九」と分解される。「九」=「[く]に曲がる様」と解説されている。即ち。「尻」=「山稜の尾根が[く]の形に曲がっている様」と解釈される。
纏めると、道尻岐閇=[首]の付け根のように窪んだ(道)地の背後ある[く]の形に曲がって(尻)岐れた山稜が閉じるように延びているところと紐解ける。
現地名の北九州市門司区吉志にそれらの地形を見出すことができる。それぞれの國造の場所も併せて示した。土地開発によって大きく変形している場所もあり、国土地理院航空写真(1945~50年)を参照(こちら)して特定した。
⑤倭田中直 「倭」の文字は大倭豐秋津嶋に用いられていた。全体としてみれば「大(平らな頂の山稜)」なのであるが、局所的には平らではない、のであろう。
いずれにせよ、「豐秋津嶋」の地で「田中」の文字列が表す地形を求めてみよう。
勿論、各文字は既出だが、初見の文字列である。田中=平らに整えられた地(田)の真ん中を突き通すように山稜が延びている(中)ところと紐解ける。
若干特定し辛い地形ではあるが、図に示した場所を表しているように思われる。「國造」ではなく、「直」と記載されている。即ち、「國」として領域が定められていない場所だったのであろう。
現地名の田川郡香春町五徳、曲がりくねる五徳川に沿った谷間である。「中」は単に中ほどを示すのではなく、突き通して半分に切り分けられたような状態を表していると思われる。一見ありふれた名称「田中」も丁寧に地形象形された表記である。「中」と「直」それらの地形条件を満たすところは、図に示した場所であることが解る。
⑥山代國造 「山代」の文字列の初見である。この後に幾度も登場する主要な國である。また、上記の川内國と比肩するほどの広域の地でもある。それ故に「山代」表記のみから場所を求めることは不可である。
ずっと後代になるが、續日本紀で文武天皇の難波行幸の際に山背國造外從八位上山背忌寸品遲等の位階を進めたと記載されている(こちら参照)。「山代」=「山背」であり、「國造」の居処を表すものとして貴重な記述と思われる。
文字解釈を行うと、山代の「代」=「人+弋」と分解される。地形象形として、「代」=「谷間に[杙]のような山稜が延びている様」と解釈する。「山」=「[山]の文字形に山稜が延びている様」である。
纏めると、山代=谷間で[杙]のような山稜が延びている前が[山]の文字形になっているところと紐解ける。因みに山背=[山]の形の山稜が延びた地が背になっているところと簡明に読める表記である。図に示した場所、現地名は京都郡みやこ町犀川大坂である。
⑦馬來田國造 「馬來田」の文字列は、勿論、初見であるが、更に後代に引き継がれた名称でもないようである。
調べると、續紀の聖武天皇紀に登場している上総國望陀郡の領域がこの國を含んでいたと解説されている。
文字列が表す地形は、馬來田=[馬]の古文字形の地で山稜が延び広がった(來)麓に平らに整えられた(田)ところと紐解ける。
図に示した場所、現在の小倉池及びその東側の山稜を表していることが解る(地形図は上記の无邪志國造を参照)。
この地形は、「望陀郡」の地形ではなく、その北側の「朝夷郡」(一時安房國として分離)に合致する場所を示しているのである(こちら参照)。朝夷=山稜の端に囲まれた丸く小高い地(朝)の麓で平らな頂の山稜が弓なりに曲がっている(夷)ところと解釈され、正に”馬の古文字形”の別表記である。
⑧周芳國造 調べると、上記の「馬來田國造」と同様に「茨木國造」系列であったようである。と言うことで、その近辺の地が居処だったのであろう。
「周」、「芳」の文字は初見である。「周」=「取り囲まれている様」と解説されている。「芳」=「艸+方」と分解され、前出の「方」として、「芳」=山稜が[耜]のように岐れて並んでいる様」と解釈される。
纏めると、周芳=[耜]のように岐れて並んでいる山稜が取り囲まれているところと読み解ける。読みは、「スワ(ハ)」であろう。現地名の北九州市小倉南区葛原の地形を表していることが解る。
陰影起伏図で強調した図を併せると見事に耜(鋤)の形が浮かび上がって来る。國造は、その耜の歯の隙間を表していると思われる。
少し先の段で建御雷男神に追い詰められて建御名方神が命乞いをしたところが「科野國之州羽海」と記載される。「州羽」(川に挟まれた羽のように平坦な地)は、「周芳」の東隣に位置する。「スワ」を二種類の文字列で表し、より精緻に場所を表したものであろう。長野県、山口県に跨る地名では、決してないであろう。
⑨倭淹知造 上記の倭田中直の近辺の地と思われるが、「淹知」の「知」=「矢+口」=「鏃の形」は既出、初見の「淹」が表す地形を求めてみよう。
「淹」=「氵+奄」と分解される。更に「奄」=「大+申」から成る文字である。地形としては、「淹」=「水辺で平らな頂の山稜が引き延ばされて広がっている様」と解釈される。
纏めると、倭淹知=谷間で嫋やかに曲がって延びる山稜の先が水辺で平らに引き延ばされて広がって[鏃]のようになっているところと紐解ける。
その地形を金辺川・御禊川・彦山川に挟まれた英彦山山系の山稜の端に見出せる。現在の田川市夏吉辺りである。造の場所は、図に示した谷間辺りと思われる。上記の額田部湯坐連の近縁であったようである。
⑩高市縣主 古事記中「高市」の出現はこれのみだが、書紀・續紀中ではかなりの頻度で登場する。書紀では高市縣主許梅(高市皇子に併記)なる人物も登場している。そのものズバリの名称であるが、あらためて「高市縣主」が表す地形を述べてみよう。
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<高市縣主> |
全て既出の文字列であり、高市縣主=皺が寄ったような山稜(高)が尾根にぶら下がって(縣)寄り集まった(市)地に真っ直ぐに延びた(主)山稜があるところと紐解ける。現地名は田川郡香春町鏡山である。
大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の「纏向日代宮」のあった場所とも推定され、古事記が記す古代の中心地であったと思われる。
「主」は「高市」の山稜が立ち上がって様を表していると推定される。大長谷若建命(雄略天皇)紀に宴席で三重の采女の歌に対する后の返歌に「淤斯呂和氣命」の宮の場所を「多氣知(高市)」と表現している。
⑪蒲生稻寸 「蒲生」は初見の文字列であり、また、古事記中ではこの場限りである。一方、書紀の天智天皇紀に帰化した百濟人達を「遷居近江國蒲生郡」と記載されている。「近江國」の郡の一つなのであるが、古事記に”近江國”の表記は存在しない。
後に詳細を述べるとして、古事記の「近淡海國」及びその周辺の地域を表すと解釈される。その地で「蒲生」が表す地形を求めてみよう。
初見の「蒲」=「艸+氵+甫」と分解される。「甫」=「平らに広がる様」を表す文字と知られている。地形として、「蒲」=「水辺で山稜が並んで平らに広がっている様」と解釈される。
纏めると、蒲生=生え出た(生)山稜が水辺で並んで平らに広がっている(蒲)ところと紐解ける。現地名の京都郡苅田町新津辺りに、その地形を見出せる。
「稻寸」の「稻」は初見である。「稻」=「禾+爪+臼」と分解される。「爪」=「下向きの手」を表す文字要素である。即ち、地形として「稻」=「稲穂のような山稜の端が三つに岐れて窪んだ地に延びている様」と解釈される。
⑫三枝部造 古事記中に「三枝」の文字列として、伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀の「大中津日子命」が祖となった「三枝之別」及び天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)紀の「三枝部穴太部王」が記載されている。
これらから三枝=山稜の端が三つに岐れて並んでいるところの地形は、現地名は京都郡みやこ町犀川喜多良にある特徴的な山稜の麓と推定された。
犀川(現今川)を遡って、飛鳥・師木などに向かうバイパスルート上にあり、その中間点として重要な位置にあったと思われる。犀川沿いの陸上ルートは極めて困難で、むしろ本ルートがメインだったように思われる。
また英彦山信仰が盛んになるに従ってこの地を経由する人々の往来も盛んであったろう。現在はのどかな農村風情を醸し出しているように感じられるが、時のベールに包まれた地としてみるべきであろう。
三枝部=[三枝]の近隣を表している。図に示した場所が造の居処だったと思われる。「三枝」=「三つの枝」=「三叉路」を示すと推察される。師木方面と英彦山方面の追分である。上記したように後の垂仁天皇紀に大中津日子命の祖の記述に再登場する。
前記の「建比良鳥命」が祖となった場所を併せて示すと、左図のようになる。
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<建比良鳥命(祖)・天津日子根命(祖)> |
即ち、未開の地であった。その地に二人の命の多くの子孫が蔓延ったと述べていることが解る。
後に倭建命が「言向和平東方十二道之荒夫琉神及摩都樓波奴人等」と記載され、天皇家の統治領域となるまで多くの時間を要したことを告げている。更に、その後も幾多の変遷を経ることになるのだが・・・。
「天津日子根命」は、天御虛空豐秋津根別(大倭豐秋津嶋)の地に子孫を残したと記載されている。後の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が新天地を求めて辿り着いた場所(”夜麻登”周辺)であり、倭國の中心地となる。天神一族が支配、統治する國々の「古代」である。
まだまだその体制は脆弱であり、欠けているところを埋めながら大長谷若建命(雄略天皇)の雄叫びに達するまで更に多くの時間を要したのである。その経緯を述べるのが古事記である。
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判ったような判らないような判定で「速須佐之男命」が勝って宇氣比の決着がついたようである。「速須佐之男命」が生ませたのが男子だったということであろうか・・・。調子に乗って(これもやや調子外れ?)暴れて事件が起きるという筋書きである。そして業を煮やした「天照大御神」が天石屋に雲隠れするという有名な件に移る。