2019年2月26日火曜日

大碓命の系譜(再) 〔321〕

大碓命の系譜(再) 


大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の御子の一人、小碓命(倭建命)の兄に当たる大碓命の”事件”が記載される。初見でも・・・極めて難しい解釈が必要となる段である。読み解くことではなくてこの説話の意味である。何を伝えようとしたのか、そんなことを考えながら見てみよう・・・と述べたが、今もってすっきりとした解釈は得られていない。

確かに三野の地の詳細を告げようとしているのであろうが、これがまた難解な表記なのである。大まかには紐解けていたが、再度試みた結果を纏めてみようかと思う。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

於是天皇、聞看定三野國造之祖大根王之女・名兄比賣・弟比賣二孃子其容姿麗美而、遣其御子大碓命以喚上。故其所遣大碓命、勿召上而、卽己自婚其二孃子、更求他女人、詐名其孃女而貢上。於是天皇、知其他女、恒令經長眼、亦勿婚而惚也。故其大碓命、娶兄比賣、生子、押黑之兄日子王。此者三野之宇泥須和氣之祖。亦娶弟比賣、生子、押黑弟日子王。此者牟宜都君等之祖。
[ここに天皇は、三野の國の造の祖先のオホネの王の女の兄姫弟姫の二人の孃子が美しいということをお聞きになって、その御子のオホウスの命を遣わして、お召しになりました。しかるにその遣わされたオホウスの命が召しあげないで、自分がその二人の孃子と結婚して、更に別の女を求めて、その孃子だと僞って獻りました。そこで天皇は、それが別の女であることをお知りになって、いつも見守らせるだけで、結婚をしないで苦しめられました。それでそのオホウスの命が兄姫と結婚して生んだ子がオシクロのエ彦の王で、これは三野の宇泥須の別の祖先です。また弟姫と結婚して生んだ子は、オシクロのオト彦の王で、これは牟宜都の君等の祖先です]

大碓命はこんな事件を引き起こして、天皇と疎遠になり、挙句に小碓命、即ち倭建命によってあっさり抹殺されてしまうという筋書きなのである。天皇が娶ろうとした比賣をこっそり横取り、挙句に代わりの比賣を宛がうなど、血迷ったか!…のような話なのだが、ただでは済まされない事件を起こしたことは誰にでもわかる、敢えて行った理由は?…この二人の比賣が迷わせたか?…難しい。

小碓命の挙動はかなり正当化されるわけだが、それだけのことでもなさそうである。いずれにしろ大碓命はそれまでにしっかり祖となる地を持ち、流石三野国造の祖である大根王の力であろうか、容姿麗美な比賣の子供は三野の地に根を張ることなったと言う。

大碓命が祖となった「守君、大田君、嶋田君之祖」と併せて紐解いてみよう。
 
守・大田・嶋田
 
<大碓命(祖)>
いつものことながら簡単明瞭…いや明瞭でなく簡単なだけ。こんな時は安萬侶くん達にとって説明不要の場所と思うべしである。

「守」=「杜」、「嶋田」=「中州(川中島)の田」として、読んでみると・・・。

大国主神の子、大山咋神が坐した地に近淡海國之日枝山が登場した。

その解釈で「稗(田)」=「日枝(田)」を見つけたところに「宮の杜」がある。

そこは難波津の真中、近淡海国の中央に当たるところ、現在の福岡県行橋市上・下稗田辺りと推定される。

さて、名称の通りの地形が見出せるのか?…州の中に州が入り組む、真に州だらけの地であることが判る。人々が水田を作り住まうには実に適したところ、がしかし氾濫する川の防御が不可欠なところでもあったと思われる。

「嶋田」はその文字通りに中洲にある田を示すのであろうが、「守」、「大田」は何と紐解くか?…「守」は仁徳天皇紀に登場する大山守命と同様に紐解くと…、
 
山麓に蛇行する川があるところ

…となる。標高からして深い谷ではないが、現在の宮の杜の南端の谷の地形を示していると思われる。また「大田」も真にありふれた表記ではあるが…、
 
大(平らな頂きの山陵)|田

…と紐解ける。山稜の端にあってなだらかな頂を示すところの麓を表しているように思われる。三つの君は、現在の行橋市上稗田の場所に坐していたことを伝えているのであろう。

未開の地、近淡海国の「鎮守の森」である。「大碓命」について古事記の扱いは小碓命の影に隠れてしまうが、地元では開拓者としてそれなりに評価されたのではなかろうか。

「稗田」は「日枝神社」の発祥の地である。この地より「国譲り」で現在比叡山を本山として全国に散らばる神社となっている。侮れない重要な地である。愛知県豊田市(国譲り前は「三川之衣」)にある猿投神社が「大碓命」を祭祀する。近世以降に祭祀されたとしても何らかの「国譲り」の捻りがあるのかもしれない…これも大碓命の謎の一つである。
 
押黑・三野之宇泥須・牟宜都

三野で生まれた御子が「押黑之兄日子王・弟日子王」である。そしてそれぞれが「三野之宇泥須和氣、牟宜都君」と記述される。押黒、三野之宇泥須、牟宜都を紐解いてみよう。
 
「押黒」は何と紐解けるか?…「押」=「手を加えて田にする」、「黑」は、黑田廬戸宮の解釈と同じとして「山稜の端が細かく分かれた傍らにある稲作地」と解釈する。「押黑」は…、
 
手を加えて田にした山稜の端が細かく分かれた傍らにある稲作地

…と読み解ける。現地名は京都郡苅田町提(ヒサゲ)辺りと思われる。この地名が古くからあったものであろうが、由来は不詳。

先に「牟宜都」を紐解くことにする。頻出の「牟」は、やはり[牟]の字形を象った地形を意味するのであろうが、果たして見出せるのか?…「宜」=「山麓の段差がある高台」であろう。伊豫の粟国の謂れ、大宜都比賣と同様に解釈する。「牟宜都」は…、
 
牟([牟]の形)|宜(山麓の段差がある高台)|都(集まる)
 
…「[牟]の形に山麓の段差がある高台が集まっているところ」と紐解ける。現在の京都郡苅田町松山辺りと思われる。
 
<大碓命の御子>
何とも期待を裏切らない配置である。頻出の[牟]の形は、山麓に現れる自然の造形美なのであろうか・・・。

稜線が端が長く伸びて天然の「湾」の地形をしていたものと推察される。洞海湾ほどではないにしても漁獲が豊かだったであろう。

粟国と同様に「魚(宜)が集まる」ところでもあったと思われる。両意に重ねられた表記のように思われるのだが、如何であろう。

さて残った「三野之宇泥須和氣」は何と解釈するか?…ありふれた文字列のようにも感じられるが、「泥」の解釈に一工夫を要すると思われる。

「水田、~ではない(呉音:ナイ)」とすると「宇」「須」が一般的な表記であることから場所が特定されない。何かを告げようとしているのだが・・・。

「泥」=「氵+尼」と分解される。更に「尼」=「尸+匕」と分解されて、それそれが左、右を向いて尻を突き合せた形を象ったものと解説される。水が媒介してところでくっ付き合っている状態を表す文字と読み取れる。当に「泥(ドロ)」なのであるが、これを地形象形に用いると…、
 
宇(山麓)|泥(くっ付いている)|須(州)


<大根王>
…「山麓でくっ付いているの州」と紐解ける。上図に示した通りに山稜の端がくっ付いたように海に突き出ている場所である。「尼」仏教で使われる意味では、勿論、ない。

北九州市小倉南区朽網東(三野国と比定)に「宇土」という地名(実際には交差点名)が残っている。残存地名として見做せるものではなかろうか。

「三野國造之祖大根王」は何処にいたかを推定するのだが、「大根」=「大きな山稜の端」と解釈すると現地名北九州市小倉南区朽網西に広がる地が見出だせる。

残念ながら大規模な団地に開発されており、当時の地形を伺うことは叶わないようであるが、山稜の端が大きく迫り出していたところと伺える。
 
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残存地名、地形象形の確かさから、上記の比定作業の確度はかなり高いものと思われる。いずれにしても三野の地は極めて重要な地点であったことが伺える。これらの御子のお陰で三野の地の詳細が見えてくる。まさかそのために説話を載せた…そんな訳はないであろうが…神武天皇が大倭豊秋津嶋に上陸した「熊野村」はひょっとするとこの「押黒」だったのかも、である。

小碓命は、兄を亡き者にはしなかったのではなかろうか。天皇への報告は兄を庇ったもの、そうとも言わなければ事の決着は見られず、ってところであろう。他の史書などでは生き長らえたとのことであるが、それが真相であろう。それにしても、この大碓命を主祭神にする神社があるとは…謎である。三野から尾張、更には三川まで逃げたのか?・・・直線ルートで10km弱、ではあるが。