2019年2月8日金曜日

丹波比古多多須美知能宇志(斯)王 〔315〕

丹波比古多多須美知能宇志(斯)王


若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が日子国の意祁都比賣を娶って誕生した日子坐王、その多くの子孫の記述がある。中でも「息長」一族との関わりが古事記で初めて記載される。この息長一族の居場所をあからさまにするのが、丹波比古多多須美知能宇斯王という段取りであったと思われる。

しかしながら、この長い名前の一部から紐解いた場所に間違いはないのであるが、やはり詳細に求めるとなると些か不十分な読み解きであったと思われる。再度、この名前の全文を解釈してみようかと思う。

古事記原文…、

次日子坐王、娶山代之荏名津比賣・亦名苅幡戸辨生子、大俣王、次小俣王、次志夫美宿禰王。三柱。又娶春日建國勝戸賣之女・名沙本之大闇見戸賣、生子、沙本毘古王、次袁邪本王、次沙本毘賣命・亦名佐波遲比賣此沙本毘賣命者、爲伊久米天皇之后。次室毘古王。四柱。又娶近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女・息長水依比賣、生子、丹波比古多多須美知能宇斯王、次水之穗眞若王、次神大根王・亦名八瓜入日子王、次水穗五百依比賣、次御井津比賣。五柱又娶其母弟・袁祁都比賣命、生子、山代之大筒木眞若王、次比古意須王、次伊理泥王。三柱。凡日子坐王之子、幷十一王。

娶近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女・息長水依比賣、生子、丹波比古多多須美知能宇斯王、次水之穗眞若王、次神大根王・亦名八瓜入日子王、次水穗五百依比賣、次御井津比賣。五柱」と記される。比賣の名前、息長水依比賣の「息長」が古事記で初登場の文字である。

ところで「多多須美知」の意味は何であろう?・・・初見では「多多須」=「数多くの州」から「多多須美知」=「数多くの州がある道=所」として「宇志」=「大人(土地を領有する人)」と解釈した。ほぼ通説に基づく読み解きである。

所謂、無難な解釈=特定不可であった。しかしながら、これだけ長い名前を使っている以上一に特定させることを目論んでいた筈であろう。改めてブロックに区切って、解釈すると…、
 
多多須=直(真っすぐ)な州

…と読み解ける。安萬侶コード「多多」=「直」である。崇神天皇紀に登場する意富多多泥古などの例がある。すると現在の行橋市長井にある特徴的な「州」のような地形に目が止まる。当時は海に突出た半島のような地形であったと推定される。

即ち、今は「州」ではなく、広々とした水田に囲まれているように伺える。標高からして水田の大半は、海面下にあったと推定される場所である。正に天然の良港を形成していたと思われる。

 
<丹波比古多多須美知能宇志(斯)王>
実は「多多須」これが「息長」を表すのであるが、更にまた、この「半島」の先には阿加流比賣が辿り着いた日女嶋がある。

また玖賀耳之御笠と呼ばれたところも、そこに隣接する。阿加流比賣の説話の意味はこの地が渡来の地であったことを告げている。

天皇家の草創期、いやそれ以前に多くの渡来した人々が居た場所と推察される。後に詳しく述べることにする。

「多多須」の解釈は、既に述べた通りであるが、問題はこの文字列の後であった。

「美知(ミチ)」だから「道」と解釈されて来た。だが、当てられた文字は「美知」である。そして「美」、「知」共に地形象形した文字であったことを思い出す必要がある。

「美」=「谷間が広がる地」、「知」=「矢+口」=「鏃」である。多くの神の名前に使用される「美」、神様は、谷間が広がるところがお好みであった。いや、神様だけではなく、多くの命もそうである。
 
美知=美(谷間が広がる地)|知(鏃)

さて、そんな地形が「多多須」の近傍に存在するのであろうか?…驚くなかれ、見事に合致した場所が見出せる。図に示した「多多須」の付け根辺りである。

そこは山麓に広がる谷間であり、「斯」=「之(蛇行する川)」も流れていることが判る。そして鏃の三角形には…、
 
能=熊=隅

…が存在する。「多多須美知能宇志王」を纏めて述べると…、


真っすぐな州にある谷間が鏃の形に広がってその隅に坐す山麓の蛇行する川の畔の王


…の丹波比古と読み解ける。これでもか、と言う命名であろう。王が坐した場所の特徴を全て論っているのである。

また「宇斯王」とも表記される。「斯」=「其(箕)+斤(斧)」=「切り分ける」と読み解いた。凹んでいる「知(鏃)」のところで山麓が切り分けられた地形を表している。実に自在な文字使い、であろうか・・・。上図に併せて示した。

丹波国の中の曖昧な解釈から極めて意味のある場所に比定することができる。また、この王が居た場所が紐解けて母親の「息長水依比賣」の居場所も確定したようである。母親と御子の居場所が近接するのは古事記の「ルール」である。時には裏切られることも…母親不詳の記述だけは避けて欲しいのだが・・・「息長水依比賣」池の近隣とした。

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それにしても後代に作られたような整った三角形の地なのだが、そうではなかったようである。大規模な開発が行われない限り地形は保たれていることが判る。どうやら古事記の主な舞台は、河口付近の扇状地ではなく、やはり山間の地であったことを示しているのであろう。海辺の息長の地、稀有な例と思われる。それにしても、際どいところではある。

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丹波比古多多須美知能宇志王の子孫についても記述される。

古事記原文…、

其美知能宇志王、娶丹波之河上之摩須郎女、生子、比婆須比賣命、次眞砥野比賣命、次弟比賣命、次朝廷別王。四柱。此朝廷別王者、三川之穗別之祖。此美知能宇斯王之弟、水穗眞若王者、近淡海之安直之祖。次神大根王者、三野國之本巢國造、長幡部連之祖。

何代かに渡って栄えた一族であろう。丹波だけに止まらず、周防灘沿岸地域に広がって行ったと伝える。そして皇統に絡む人材を輩出するのである。息長一族の血統が深く浸透している様が読取れる。

別途のところで述べたように、この息長一族は深く関わりながら、決して深入りはしなったのである。故に、その名前が示すように、息長く、草創期の天皇家を支えた一族であった、と古事記は記している。