御眞木入日子印惠命(崇神天皇):初國之御眞木天皇
実在が確からしいとされる天皇…その根拠は?…日本の歴史学の論述である。多様な解釈が入り混じっている状態で良しとする、何とも万葉な世界を好む人々の集まりであろうか・・・感想を述べても先には進めず、である。
この天皇には幾つもの名前が記される。やはりそれだけ画期の時代を迎えたのであろう。既に述べたように葛城での雌伏の時を脱したことは、間違いないのである。
古事記原文…、
御眞木入日子印惠命、坐師木水垣宮、治天下也。
師木と言っても些か広うござんす、でその何処に坐したというのであろうか?…少々思い付くのに時間を要した紐解きであったが、意外な関連する言葉から浮き上がって来たのである。やはり、先ずは文字の解釈である。御眞木入日子印惠命の「印惠」これは何を意味するのか?・・・。
「印」の通常に用いられる意味では到底解釈できず、やはりこれは地形象形していると思われる。
「印」=「爪+卩」と分解される。「卩」=「跪く様」を表し、「手で人を跪かせる」意味を示すと解説される。
山稜の端になり凹凸が見分けにくくなってはいるが、「爪」を象形した場所が見出せる。その場所が山稜が屈折する隅にあることも併せて判る。この地形を「印」と表記したと思われる。
文字形から読み解くと上記のような解釈となろうが、今一つ地形とあっていないようにも思われる。「印」の意味を調べると、「印(しるし)」=「首級(敵の首)」を表すと解説されている。
すると「首」の地形を表していると解釈される。山稜の末端で、決して明確な凹凸として見分け辛いが、現在の中津原小学校のある台地の東側が崖であり、「首の付け根の様」を表していることが解る。その地形は忌部首、吉野首等などで出現した。
「惠」=「叀(糸巻き)+心(心臓)」の象形した文字とされる。「糸」=「細い山稜」とすると、「山稜に囲まれた中心にある小高いところ」を表していると紐解ける。
後の仲哀天皇紀に河内惠賀之長江陵が登場する。これに含まれる「惠」と同じ解釈となる。「印惠」は…、
初登場の「入日子」については、既に述べたが、再掲して置く。
万葉集などに「苗代・田植の語が見え、5-6世紀にはすでに行われていた」との解説もあり、ひょっとしたら、である。その時期が分かれば初国の時期も分かる、のであろうか。
第十代から第十五代の天皇間(50~100年間?)に「苗代・田植」が浸透したのであろうか…実に興味深いところではあるが、これ以上の推論はお手上げである。参考資料は世界大百科事典、百科事典マイペディアなど。
「御眞木入日子印惠命」真に盛りだくさんの情報を含んでいた。そして嘗てには想像もできなかった繁栄の道を歩んで行くことになるのである(次期垂仁天皇紀に師木玉垣宮の在処と併せて紐解いた結果も参照)。
師木と言っても些か広うござんす、でその何処に坐したというのであろうか?…少々思い付くのに時間を要した紐解きであったが、意外な関連する言葉から浮き上がって来たのである。やはり、先ずは文字の解釈である。御眞木入日子印惠命の「印惠」これは何を意味するのか?・・・。
<御眞木入日子印惠命・師木水垣宮> |
「印」=「爪+卩」と分解される。「卩」=「跪く様」を表し、「手で人を跪かせる」意味を示すと解説される。
山稜の端になり凹凸が見分けにくくなってはいるが、「爪」を象形した場所が見出せる。その場所が山稜が屈折する隅にあることも併せて判る。この地形を「印」と表記したと思われる。
文字形から読み解くと上記のような解釈となろうが、今一つ地形とあっていないようにも思われる。「印」の意味を調べると、「印(しるし)」=「首級(敵の首)」を表すと解説されている。
すると「首」の地形を表していると解釈される。山稜の末端で、決して明確な凹凸として見分け辛いが、現在の中津原小学校のある台地の東側が崖であり、「首の付け根の様」を表していることが解る。その地形は忌部首、吉野首等などで出現した。
「惠」=「叀(糸巻き)+心(心臓)」の象形した文字とされる。「糸」=「細い山稜」とすると、「山稜に囲まれた中心にある小高いところ」を表していると紐解ける。
印([印]の地形)|惠(山稜に囲まれた小高いところ)
…と読み解ける。現地名は田川郡香春町中津原であって、中津原小学校がある丘と推定される。御禊川の畔、川が垣根となった場所である。そこに初国の崇神天皇の坐した師木水垣宮があった、と記載されている。
神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が師木に侵出した後、その地に根を下ろすには、綏靖天皇から開化天皇までの雌伏を経て、漸く御眞木入日子印惠命が宮を構えることができた。
天皇家の粘り強さ、辛抱強さ、実に驚嘆に値するものであろう・・・と古事記が伝えている。
「御眞木」は何を意味しているのであろうか?…「御」=「統べる、束ねる、臨む」、「眞」=「一杯に満ちた」、「木」=「山稜」とすると…「御眞木」は…、
…「一杯に満ちた山稜の端を束ねたところ」と読み解ける。三つの山稜を一つに束ねたところと解釈される。英彦山、大坂山~愛宕山山稜から長く延びた枝稜線が集まってように見えることを表している。既出の御眞津に類似した表現と思われる。
「師木」の地に侵出したことを述べているのであろう。引き継いだのではなく、新しく作った国の如くに・・・。この天皇は初国を意味する名前を授けられていたのである。
<御眞木・入日子> |
天皇家の粘り強さ、辛抱強さ、実に驚嘆に値するものであろう・・・と古事記が伝えている。
「御眞木」は何を意味しているのであろうか?…「御」=「統べる、束ねる、臨む」、「眞」=「一杯に満ちた」、「木」=「山稜」とすると…「御眞木」は…、
御(束ねる)|眞(一杯に満ちた)|木(山稜)
…「一杯に満ちた山稜の端を束ねたところ」と読み解ける。三つの山稜を一つに束ねたところと解釈される。英彦山、大坂山~愛宕山山稜から長く延びた枝稜線が集まってように見えることを表している。既出の御眞津に類似した表現と思われる。
「師木」の地に侵出したことを述べているのであろう。引き継いだのではなく、新しく作った国の如くに・・・。この天皇は初国を意味する名前を授けられていたのである。
初登場の「入日子」については、既に述べたが、再掲して置く。
入日子
古事記中に初出である。調べると御眞木入日子印惠命が最初で暫く続いて応神天皇紀辺りで終わりとなる。前記では「日高日子」が連続したが・・・何かを伝えようとしているのか・・・崇神天皇紀以降暫く頻出する(計16回)。一方「日子」の表現は遥かに多い(計38回)。少々考えて…、
入日子=入(移し入れる)|日子(日の子:稲)
…と紐解く。水田(本田:ホンデン)に苗を移し替えることを表していると思われる(現在もこの方法が主流である)。水稲として初めから水を張った水田に入れるのではなく、移し替えという作業を加えることによって、以下の利点があるとのこと。
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(1)本田での生育期間が短縮され、土地の利用度を高めるとともに春先の不安定な気象条件から幼苗を保護することができる (2)発芽したばかりの幼植物に比べて大きな苗を植えることにより、雑草に対する競争力が大きい (3)苗を狭い苗代,育苗箱で育てることにより、苗の保護管理(保温するなど)が行きとどき、良い苗を選びそろえて移植することができるなどによるものである。
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第十代から第十五代の天皇間(50~100年間?)に「苗代・田植」が浸透したのであろうか…実に興味深いところではあるが、これ以上の推論はお手上げである。参考資料は世界大百科事典、百科事典マイペディアなど。