2019年2月1日金曜日

曙立王・菟上王 〔312〕

曙立王・菟上王


若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹・意祁都比賣命を娶って日子坐王が誕生する。前記でその出自の場所などを読み解いた。この王の活躍は凄まじく、またその子孫についても多くの文字を使って記述される。

詳細はこちらを参照願うが、その中に山代之荏名津比賣・亦名苅幡戸辨を娶って誕生した大俣王、自身に関しては殆ど語られないが、その御子達の活躍が記される。

古事記原文…、

故、兄大俣王之子、曙立王、次菟上王。二柱。此曙立王者、伊勢之品遲部君、伊勢之佐那造之祖。菟上王者、比賣陀君之祖。次小俣王者、當麻勾君之祖。次志夫美宿禰王者、佐佐君之祖也。

山代の限られた土地から御子達は様々な場所へと移り住んで行ったのであろう。また、それが天皇家の発展に大きく寄与したものと思われる。開化天皇紀以降、その広がりが加速されて行ったことが伺えるのである。
 
曙立王菟上王

曙立王と菟上王の兄弟は、後の垂仁天皇紀に大活躍をして地位と名誉を得ることになる。とりわけ兄の方は宮まで拝領する。


<伊勢之品遅部>
伊勢之品遲部の「品遲部」は天皇家の子代、名代で直轄の領地を意味すると言われているようである。

が、文字そのものは何らかの地形を象形しているのではなかろうか?…、
 
品(段差)|遲(治水した田)|部(地)

…「段差のあるところで田を治水した地」と紐解ける。後の「品陀命」(応神天皇)で詳細に読み解く「品」の解釈である。

蒲生八幡神社の南にある山の急傾斜の東麓と紫川との間にある地を示していると思われる。直轄領とするにも適切な場所であったと思われる。

品遲部の名称は垂仁天皇の御子の品牟都和気命が出雲に向かう時に登場する。「品遅」の名称は吉備品遅君などで出現する。間違いなく地形を表したものと思われる。

伊勢之佐那の「佐那」は手力男神が切り開いたところであるが、再度考察してみると・・・、


<伊勢之佐那>
「佐那(サナ)」は脱穀用に竹を並べて穂を扱くために作られた農具との解説がある。その様子を模したものではなかろうか。

山稜の端が寄り合い狭い谷間となっているところである。図に示したように現在の北九州市小倉南区長行辺りの地形が合致すると思われる。

次期の崇神天皇紀に豐鉏比賣命が伊勢大神之宮を祭祀したと記述される。伊須受能宮から伊勢大神宮へと呼称が変わる。

着々と祭祀の準備が整っている様子が伺える。いつもながらの周到な記述と思われる。

伊須受能宮関連の詳細はこちらを、また後の記述も含めての「伊勢国」全体はこちらを参照。少し遡るが、邇邇藝命に随行した手力男神が坐した「佐那那縣」は…二つ目の「那」=「揃える」として…、
 
佐那(サナ)の形に山稜が揃った縣

…と解釈する。日子坐王の後裔達は、由緒ある地を与えられ、天皇家に貢献した一族であったと伝えている。

菟上王の「菟上(トノカミ)」は後の「高志国」を示すと思われる。現在の北九州市門司区伊川辺りと推定した。天照大御神と速須佐之男命との宇気比で生まれた天菩比命の子、建比良鳥命が祖となった記述で登場した地名である(こちらを参照)。

出雲の大神との折衝役を担うことになる。出雲に隣接する高志国は真に都合の良いところであったろう。安萬侶くん、無駄のない、いや抜け目のないキャスティングをしている…いや事実か・・・。
 
<比賣陀>
この王は比賣陀君之祖となる。「比賣陀」=「日枝」と解釈して現在の行橋市上・下稗田辺りと推定した。

読みの類似から当てた場所ではあるが、「比賣」も地形象形に使っているように感じられる。

「賣」=「出+网(網)+貝」と分解される。「貝」が主体となった文字と見做せる。

すると「比賣陀」は…、
 
比(並べる)|賣([貝]の地形)|陀(崖)

…「並んだ[貝]の地形に崖があるところ」と紐解ける。安萬侶コード「貝(谷間に並ぶ田)」と簡略に解釈しても全く問題なしである。

何とも戯れた表記だが、実に適合した象形のようである。日枝神社、比叡山に繋がるところであるが、日本の歴史は何も語らない。


<曙立王・菟上王>
ところでこの兄弟の出自の場所は何処であろうか?・・・。

弟の菟上王の「菟上(トノカミ)」は後の「高志国」を示すと思われる。現在の北九州市門司区伊川辺りと推定した。

天照大御神と速須佐之男命との宇気比で生まれた天菩比命の子、建比良鳥命が祖となった記述で登場した地名である(こちらを参照)。

母親の名前が記載されないのだが、おそらく兄弟は近隣の地が出自の場所と推定される。

「曙」はそのままでは何とも解釈不能になってしまうことから「曙」=「日+网+者」に分解する。「日(火・炎)」、「网+者」=「山稜が交差する」様を表していると読み解ける。後に登場する伊奢などに類似する解釈である。


図に示したようにそれらの地形を示すところが並んでいることが解る。更に「立」を何と解釈するか…この甲骨文字は人が大地に立っている様を象ったと解説される。その文字通りの山稜が見出せる。なんと曙立王は「火」と「网(者)」と「立」の模様が並んだ山麓が出自の場所であることを表していたのである

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更に追記して・・・後の垂仁天皇紀に曙立王は「師木登美豐朝倉曙立王」という称号を拝領したとあるなんだかゴチャっと地名らしきものが並んだ名称なのであるが…。


<師木登美豐朝倉曙立王>
「登美」は登美能那賀須泥毘古、登美夜毘賣の居たところであろう。「豐」=「段差のある高台」、決して豐国絡みではない。

「朝倉」=「朝が暗い」山稜の西麓、しかも東方に高山がある谷を示すと思われる。

すると図のような現在の田川郡赤村内田にある大祖神社の場所が浮かんで来る。登美の入口にあり、段差のある高台で、真東に戸城山を見るところである。

本牟智和氣の出自の場所でもある。物語を遡れば、沙本一族は謀反を起こして征伐されたり、その他の者は他所に移されたり、既に絶滅しかかっていたと読み取れる。曙立王に御子の養育も含めその地を統治させたことを伝えていると思われる。


この長い名前に冠される「師木」は、正にこの地が「師木玉垣宮」の支配下になったことを述べているのであろう。いつもの如く謀反人一族を殲滅することなく、その地の人々を支える統治を行ったと推測される。