若倭根子日子大毘毘命(開化天皇):春日之伊邪河宮
葛城の地を出て、春日に向かった天皇、いよいよ師木に辿り着く一歩手前までになったと伝える。既に紐解いたところではあるが、詳細を述べてみよう。
古事記原文…、
若倭根子日子大毘毘命、坐春日之伊邪河宮、治天下也。
「大毘」は、長兄の「大毘古命」に含まれていた。前記で「[大]の地形で田を並べ定める命」と紐解いた。大坂山山麓、その中腹にある地に基く命名である。もう一つの「毘」を何と解釈するか?…重ねて「田を並べる」、より田を拡げて行ったように受け取ることもできるようである。
「毘毘」=「田田+比比(至るところ)」とすると、「田を至るところに並べる」という解釈も成り立つかもしれない。比比羅木の解釈に類似する。「日子大毘毘命」=「稲がある田を[大]の地形の至るところに並べる命」…どうやらこのイメージを伝えているように思われるが、更に別解釈を行うと・・・。
「毘」の原義に立ち戻ると「毘」=「田+比」として…、
…様を象形した文字と解説される。続けて解釈すると…「大毘毘」は…、
…命と読み解ける。後者の「毘」が示す意味は極めて重要である。開化天皇紀以降、辰砂(丹)の話題が頻出する。天皇が坐した場所は、正にその産出場所であったと解読されることになる。古代、と言うか近代に至るまで重要な資源であった水銀の採取に関わるのである。詳細は後段に述べるとして、大毘毘命の名前に潜められていたことが解る。
「若倭根子」は何を意味しているのであろうか?…、
…「少しばかり曲がっている根のように分かれた山稜の端」と紐解ける。
坐したところは「春日之伊邪河宮」と記される。
孝昭天皇の御子、天押帶日子命が祖となった「春日」の中心の地、現在の大祖神社辺りと推定される。
丹の産出場所の眼前である。それに相応しい命名ではなかろうか。
また御子の日子坐王の娶りに春日建國勝戸賣之女・名沙本之大闇見戸賣が居る。
「沙本=辰砂の麓」と紐解くことになる。葛城の「米」に加えて新しい力を示すものを手に入れたと推定される。「開化」の文字が示す大きな変化である。いよいよ辰砂=丹の時代が到来する。即ち外戚としての丸邇氏の台頭となる。
若倭根子日子大毘毘命の時代から天皇家の様相が一変する、その兆しを示しているのであろう。「春日之伊邪河宮」を求めてみよう…、
若倭根子日子大毘毘命、坐春日之伊邪河宮、治天下也。
若倭根子日子大毘毘命の「大毘毘」である。奇妙な名前なのであるが、一見では何とも言えない…が、これは重要な意味を含んでいたようである。
「大毘」は、長兄の「大毘古命」に含まれていた。前記で「[大]の地形で田を並べ定める命」と紐解いた。大坂山山麓、その中腹にある地に基く命名である。もう一つの「毘」を何と解釈するか?…重ねて「田を並べる」、より田を拡げて行ったように受け取ることもできるようである。
「毘毘」=「田田+比比(至るところ)」とすると、「田を至るところに並べる」という解釈も成り立つかもしれない。比比羅木の解釈に類似する。「日子大毘毘命」=「稲がある田を[大]の地形の至るところに並べる命」…どうやらこのイメージを伝えているように思われるが、更に別解釈を行うと・・・。
「毘」の原義に立ち戻ると「毘」=「田+比」として…、
田(通気口)+比(人が並ぶ)
…様を象形した文字と解説される。続けて解釈すると…「大毘毘」は…、
[大]の地形で田を並べ定め通気口の前に人を並べる
…命と読み解ける。後者の「毘」が示す意味は極めて重要である。開化天皇紀以降、辰砂(丹)の話題が頻出する。天皇が坐した場所は、正にその産出場所であったと解読されることになる。古代、と言うか近代に至るまで重要な資源であった水銀の採取に関わるのである。詳細は後段に述べるとして、大毘毘命の名前に潜められていたことが解る。
若(少しばかり)|倭(曲がる)|根(分れた山稜)|子(山稜の端)
<若倭根子日子大毘毘命> |
坐したところは「春日之伊邪河宮」と記される。
孝昭天皇の御子、天押帶日子命が祖となった「春日」の中心の地、現在の大祖神社辺りと推定される。
丹の産出場所の眼前である。それに相応しい命名ではなかろうか。
また御子の日子坐王の娶りに春日建國勝戸賣之女・名沙本之大闇見戸賣が居る。
「沙本=辰砂の麓」と紐解くことになる。葛城の「米」に加えて新しい力を示すものを手に入れたと推定される。「開化」の文字が示す大きな変化である。いよいよ辰砂=丹の時代が到来する。即ち外戚としての丸邇氏の台頭となる。
若倭根子日子大毘毘命の時代から天皇家の様相が一変する、その兆しを示しているのであろう。「春日之伊邪河宮」を求めてみよう…、
伊(小ぶり)|邪(曲がりくねる)|河(川)
<春日之伊邪河宮> |
漸くにして邇藝速日命が切り開いた春日の地に至った、一回りも二回りも大きくなって。彼らはここで更なる発展を願ったのである。
その通りに娶りも誕生した御子達の数も増え、精力的に各地に飛ぶことになる。
そして地元の豪族達を「言向和」していったと伝えるのである。
「天皇御年、陸拾參歲。御陵在伊邪河之坂上也」と記される。図中の正一位稲荷大明神辺りの小高いところではなかろうか。