大倭日子鉏友命(懿徳天皇)の御子:多藝志比古命
第四代大倭日子鉏友命(懿徳天皇)の娶りが記述される。実に簡単な内容であるが、次期の天皇となる御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)と多藝志比古命の二人が誕生したと伝える。そして、この次男の命の子孫が各地に散らばった様子も併記されている。
簡単な記述であるがゆえに解読は曖昧さを伴うのであるが、後段で記載される情報を併せて紐解くことにする。既に述べたところではあるが、加筆・訂正を行ってみよう。
古事記原文…、
大倭日子鉏友命、坐輕之境岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命・亦名飯日比賣命、生御子、御眞津日子訶惠志泥命、次多藝志比古命。二柱。故、御眞津日子訶惠志泥命者、治天下也。次當藝志比古命者、血沼之別、多遲麻之竹別、葦井之稻置之祖。天皇御年、肆拾伍歲、御陵在畝火山之眞名子谷上也。
大倭日子鉏友命は輕之境岡宮に坐して二人の御子を授ける。その母親の名前、居場所など、当初の紐解きに結構な時間を費やしたことを思い出す。遠い昔のことと流して、先に目をやると、「多藝志」の文字がある。
母親の居場所も含めて再掲すると・・・。
師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命
師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命を娶り二人の御子を儲ける。次男が「多藝志比古命」と言う。珍しく末子相続ではなかったと伝える。「多藝志」は出雲国之多藝志之小濱、多藝志美美で出現したところであろう。すると母親の居場所もその近隣ではなかろうか?…何故、出雲?…唐突な出雲の出現は何を意味するのであろうか。前後の記述には一見して出雲と関連する言葉は見当たらない。
が、母親の名前に隠されていた。少々通説に引き摺られて「賦登(肥or太)|麻和訶(真若)|比賣命」などと紐解き、気にはなったが、これでは地形象形とは無縁の表現となってしまう。しっかり文字解釈をしてみると…、
…「登りがあって狭くしなやかに曲がる谷間の耕地があるところ」に坐した比賣命と読み解ける。
「比賣」=「田畑を並べて生み出す女」の解釈を付加することもできる。
また別名が「飯日比賣命」と記される。「飯」=「食+反(山麓)」更に「食」=「山+良(なだらかな)」として、讚岐國謂飯依比古、飯野眞黑比賣などの「飯」と同様に解釈する。
「日」=「火:三つの火頭」を意味すると思われる。同じような大きさの山が三つ並んでいる様を表している。
神倭伊波禮毘古命の段で登場した畝火山の「火」(現香春一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳)の表現と同じと解釈できる。
「飯日比賣命」は…、
…の傍らに坐した比賣命と紐解ける。最も西側にある山は大国主命が建御雷之男神に「言向和」され、多藝志の宮で大宴会の料理を準備した「櫛八玉神」で登場した山である。
「賦登麻和訶比賣命」は玉の山の麓で輪になったところの近くを登った場所に坐していたと読み解ける。現在の貴布祢神社がある辺りではなかろうか。大国主命が隠居した場所と重なるようでもあるが、定かではない。
「多藝志」は「美美」を付加する場合も含めると、それなりの頻度で登場する地名である。淡海に面して早くに切り開かれた地であったと推測される。
人名に潜められた地形、その捻れた表現に今尚戸惑いは隠せない有様である。
が、これこそ古事記というものであろう。
賦登麻和訶比賣命には「師木縣主之祖」と冠される。その子孫が師木で繁栄したのであろう。出雲の地から広がって行った天皇家の有様を伝えている。
葛城の「軽之境」に居を構えて広大な土地の開墾に手を付けたが御子を養うには、未だ至ってなかった。大規模になればなるほど時間がかかる、手間もかかるリスクとリターンの兼合いである。
土地の開発は先行投資とそれが財源となるまでのタイムラグを如何に埋め合わせるかであろう。思いを込めたビジョンが代々に引き継がれてこそ漸くにして大きな富が生まれるのである。
賦登(登りを与える)|麻(狭い)|和(しなやかに曲がる)|訶(谷間の耕地)
<多藝志比古命・賦登麻和訶比賣命> |
「比賣」=「田畑を並べて生み出す女」の解釈を付加することもできる。
また別名が「飯日比賣命」と記される。「飯」=「食+反(山麓)」更に「食」=「山+良(なだらかな)」として、讚岐國謂飯依比古、飯野眞黑比賣などの「飯」と同様に解釈する。
神倭伊波禮毘古命の段で登場した畝火山の「火」(現香春一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳)の表現と同じと解釈できる。
「飯日比賣命」は…、
飯(なだらかな山稜の麓)|日(三つ並ぶ山)
<俯瞰図> |
人名に潜められた地形、その捻れた表現に今尚戸惑いは隠せない有様である。
が、これこそ古事記というものであろう。
賦登麻和訶比賣命には「師木縣主之祖」と冠される。その子孫が師木で繁栄したのであろう。出雲の地から広がって行った天皇家の有様を伝えている。
葛城の「軽之境」に居を構えて広大な土地の開墾に手を付けたが御子を養うには、未だ至ってなかった。大規模になればなるほど時間がかかる、手間もかかるリスクとリターンの兼合いである。
土地の開発は先行投資とそれが財源となるまでのタイムラグを如何に埋め合わせるかであろう。思いを込めたビジョンが代々に引き継がれてこそ漸くにして大きな富が生まれるのである。
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常根津日子伊呂泥命
少し話が遡るが、前記の安寧天皇には長男の「常根津日子伊呂泥命」が居た。たった一度だけ登場するだけで何らの記述もないが、文脈を辿れば、彼こそ、その後裔も含め、天皇の地に居付き、その亡き後もその地を開拓していったと推測されるのである。常世国の「常」=「大地」として…、
常(大地)|根(山稜の端の[根]の形)|津(集まる)
<常根津日子伊呂泥命> |
伊(僅かに)|呂(背骨の形)|泥(水田)
彦山川、弁城川、中元寺川が合流する近傍であって、肥沃な泥に恵まれた場所であることを示している。福智町弁城の迫という地名である。
父親である天皇の思いを遂げるために土地を耕し切り開いていく役割を担った、表の歴史に埋もれた人材であったと思われる。
上記の川縁を如何に活用するかが葛城の命運を大きく左右したであろうし、また、それには多くの時間と労力を要したのであろう。各天皇は臣下の者にその役割を与えたのであろうが、息子に託せればそれに越したことは無い。ポツンと現れた歴史の雲間の太陽である。
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多藝志比古命
「多藝志比古命」の活躍の場所を見てみよう・・・「當藝志比古命者、血沼之別、多遲麻之竹別、葦井之稻置之祖」と記述される。
どうやら「多藝志」出雲の北端から一直線に南下である。「血沼」「多遅麻」「葦井」共に初出である。前二者は後に関連する地名として記述される。それを引用する。
❶血沼之別
既報の血原・血沼・血浦で解読したが再掲すると・・・。
「血沼」は現在の福岡県北九州市小倉南区沼辺り、倭建命の東方十二道遠征で出現した「相武国」に当たるところと思われる。
倭建命が「言向和」では効かず血祭りにして名付けた沼の名称である。
この地は船で南下する時には重要な拠点となる。現在の焼津も主要漁港の一つである。良くできた繋がり、錯覚が生じる筈であろう。
左図に示した通り、高蔵山の山麓に血が吹き出し流れているように見える諸々とした稜線がある。
後に登場する「血原」も全く同様の地形を示している。全て主役が歯向かう者共を血祭りに上げる場面で登場である。急峻な崖にできる特異な地形でもある。それを捉えて用いたのであろう。
❷多遲麻之竹別
「多遲麻之竹」の「多遅麻」は垂仁天皇紀の「鵠」の探索で出現する木国から高志国まで一連の国に含まれる。
稲羽国と旦波国の間にある地と推定した。音無川と城井川に挟まれたところ、現在の築上郡築上町の一部に当たる。
英彦山山系の枝稜線が大きく延びた、その先端に当たるところである。山稜と言うより既に丘陵の様相を示し、長く連なる地形である。
この細長く延びたところが無数に並ぶ姿を細く真直ぐに生える「竹」(林)に模したと推測される。同じ地形が「旦波国」にも見られるが、後に旦波の竹野として登場する。
更に後の宗賀一族にも小貝王(別名竹田王)が現れる。山稜の端が細長く真っすぐに延びた谷間を切り開いた地形を示すと思われる。「多遲麻之竹別」も同様の地形を表していると読み解ける。安萬侶コードは「竹=細長い地形」である。
少し内陸部に入り込んだところに、現在の地名「弓の師」(築上郡築上町)と記載されている。現在も大きな面積を占める地名であり、その由来を知りたいところであるが、不詳である。「弓=竹」と置換えられそうではあるが・・・。
初登場であり、この後頻出する「多遲麻」を紐解いておこう…、
…「山麓の三角州が治水されて擦り潰された地」と紐解ける。
谷川に挟まれて長く延びた山稜の端に治水され、整地された田がある場所を表していると解釈される。
当時の水田稲作に最も適した地形ではなかろうか。草創期に開発された地(国)であったと古事記が伝えている。
❶血沼之別
<血沼之別> |
「血沼」は現在の福岡県北九州市小倉南区沼辺り、倭建命の東方十二道遠征で出現した「相武国」に当たるところと思われる。
倭建命が「言向和」では効かず血祭りにして名付けた沼の名称である。
この地は船で南下する時には重要な拠点となる。現在の焼津も主要漁港の一つである。良くできた繋がり、錯覚が生じる筈であろう。
左図に示した通り、高蔵山の山麓に血が吹き出し流れているように見える諸々とした稜線がある。
後に登場する「血原」も全く同様の地形を示している。全て主役が歯向かう者共を血祭りに上げる場面で登場である。急峻な崖にできる特異な地形でもある。それを捉えて用いたのであろう。
❷多遲麻之竹別
<多遲麻之竹別> |
稲羽国と旦波国の間にある地と推定した。音無川と城井川に挟まれたところ、現在の築上郡築上町の一部に当たる。
英彦山山系の枝稜線が大きく延びた、その先端に当たるところである。山稜と言うより既に丘陵の様相を示し、長く連なる地形である。
この細長く延びたところが無数に並ぶ姿を細く真直ぐに生える「竹」(林)に模したと推測される。同じ地形が「旦波国」にも見られるが、後に旦波の竹野として登場する。
少し内陸部に入り込んだところに、現在の地名「弓の師」(築上郡築上町)と記載されている。現在も大きな面積を占める地名であり、その由来を知りたいところであるが、不詳である。「弓=竹」と置換えられそうではあるが・・・。
多遲麻
<葦井之稻置> |
多(山麓の三角州)|遲(治水された)|麻(擦り潰された)
…「山麓の三角州が治水されて擦り潰された地」と紐解ける。
谷川に挟まれて長く延びた山稜の端に治水され、整地された田がある場所を表していると解釈される。
当時の水田稲作に最も適した地形ではなかろうか。草創期に開発された地(国)であったと古事記が伝えている。
❸葦井之稻置
「葦井」葦(ヨシ)と読む。たった一度の登場で、しかも国名らしきものも付加されていない。困ったものだが、古事記読者にとっては周知の地名なのかもしれない。これまでの記述で登場し、「多遅麻」の南方にあるのは「木国」である。
その地の範囲も決して明確ではないが、地図を探索すると・・・山国川と佐井川に挟まれたところに大ノ瀬大池がある。小高い山稜に囲まれた池のように見受けられる。
<多藝志比古命(祖)> |
「葦」=「艹+韋」と分解される。「韋」=「圍=囲」の意味とすると…「葦井」は…、
…と読み解ける。葦原中国、葦原色許男の「葦」であろう。
木国に関する記述例は少ないが節目節目に登場する主要地点である。建内宿禰の出自に関連するが、もう少し後に記述することになろう。
祖の地を纏めた図を眺めると海路を使った盛んな交流を示しているようである。また「祖」となった記述も違和感なく受け入れることができると思われる。通説は出雲(島根)から相武国(神奈川)辺りに広がるが、神話の世界で片付けるにも、やはり無理であろう。
「當藝志比古命」の名前が表すように蛇行する川(志)を活用した治水の技術を保有していたと思われる。その先進技術を持ってこの地の祖となったのであろう。出雲の血が拡散し繋がりが増えていく。出雲が主役の場面は無くなって行くが、古事記の中で常に根底に流れる国という扱いである。神様も含めて・・・。
囲われた水源(池)
木国に関する記述例は少ないが節目節目に登場する主要地点である。建内宿禰の出自に関連するが、もう少し後に記述することになろう。
「當藝志比古命」の名前が表すように蛇行する川(志)を活用した治水の技術を保有していたと思われる。その先進技術を持ってこの地の祖となったのであろう。出雲の血が拡散し繋がりが増えていく。出雲が主役の場面は無くなって行くが、古事記の中で常に根底に流れる国という扱いである。神様も含めて・・・。
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がしかし、それは多くの時間と労力が注ぎ込まれた後であって当時はほんの少しばかり手が付いた状態であったろう。若くして世を去った天皇、日嗣の御子はどんな決断をするのであろうか・・・欠史から読み取る歴史、なかなか興味深い、ホンマに欠史か?・・・。
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・・・立派な天皇家の歴史が語られているようである。