2019年1月8日火曜日

倭建命:白鳥御陵 〔303〕

倭建命:白鳥御陵

 
古代最大の英雄とされる倭建命、悲運であったように記述される。その亡骸を納める御陵に名前が付けられる。古事記では全く稀有なことのようである。その御霊が白鳥となって天高く飛び行くという記述、何とも英雄の最後に相応しいものと思われる。

通説では、亡くなった場所「能煩野」も含めて「白鳥三陵」と呼ばれているようであるが、日本書紀の”攪乱”も併せて、紀伊半島を横断する飛行となっている。

幾度か解読を試みて来たのだが、やはり通説に引き摺られていた感がある。古事記は単純な名付けをすることないのである。この陵の場所を、あからさまにできいないが、きちんと比定できるように記述されていた。

古事記原文…、

故自其國飛翔行、留河內國之志幾、故於其地作御陵鎭坐也、卽號其御陵、謂白鳥御陵也。然亦自其地更翔天以飛行。

能煩野」で最後を迎えた後、白鳥となって「河內國之志幾」に飛び「白鳥御陵」に鎮座した、と記される。英雄らしく雄大な光景が描かれている。


古事記読み解きの当初は、近淡海国の内陸部の「志幾」=「師木」であろうと推測し、倭の師木と同様の地形、小さな凸凹の丘陵地帯である現在の京都郡みやこ町勝山黒田、橘塚古墳や綾塚古墳の辺り…とした。だが、読みは同じでも文字を変えているのは異なるからであろう。
 
志(之:蛇行する川)|幾(近い)

…「蛇行する川が僅かな隙間で近接して流れるところ」であろう。河内の志幾は、下流の河口付近の多くの蛇行する川が所狭しと流れるところであったと推定される。「幾」=「𢆶+人+戈」と分解される。「𢆶」(蛇行する川の象形)に挟まれた地形を表しているのであろう。
 
<白鳥御陵>
そんな背景で探索すると、何と見事な「白鳥」が横たわっていたのである。
この鳥は大きく、現地名では行橋市の下崎、二塚、長木に跨るところと思われる。


鳥井原の地名及び大首池の名称も見られるが、由来は定かではない。

御陵の場所は些か不明…盗掘などから決して明確には記述されないかも?…だが、胴の部分に当たる小高い場所(二塚)と推定される。

図に仁徳天皇(毛受之耳原陵)履中天皇(毛受陵)、反正天皇(毛受野陵)安閑天皇(河內之古市高屋村陵)成務天皇(沙紀之多他那美陵)を併せて示した。

まるで古代史上最大の悲運の英雄を取り囲むように並んでいる。河内国は墓所であった。いや、それは近淡海国全体にも広がっていたところであり、未開の地であったことを伝えているのである。
 
<東方十二道全行程>
「白鳥」は浜に向かって飛び立ち、追いかける御子達は浜辺を彷徨うと述べている。

白鳥が降り立ったのは河内の内陸部ではなく、限りなく浜辺に近いところであったことを示す。

後の仁徳天皇紀に当時の海岸線を推定するが、「白鳥」はその海岸線に横たわっていたことが示される。安萬侶くんの筆さばき、感服である。

倭建命の東征などと言われるが、決して領土拡大の意味は持たず、彼らの祖先が作り上げた東方十二道内における鎮圧であった。

景行天皇の八十人の御子及び倭建命の熊曾・出雲・東方十二道の言向和による「倭国連邦言向和国」(勝手に命名!)の充実に注力した時期であった伝えていると思われる。

この天皇一家は無謀な膨張戦略とは無縁である。ともかくも堅実、着実なのである。そう読み取れば天孫降臨自体が何とも慎重極まりない行動のように映って来るのである。天神達は、そういう一族だったのであろう・・・倭建命の東方十二道全行程の図を再掲した。