2019年1月6日日曜日

神八井耳命 〔302〕

神八井耳命


神倭伊波禮毘古命と富登多多良伊須須岐比賣命(比賣多多良伊須氣余理比賣)との間に日子八井命、次神八井耳命、次神沼河耳命の三人の御子が誕生する。跡目を継ぐのは末子の神沼河耳命(後の綏靖天皇)であるが、長男は出生の地の開拓に精を出し、祖父の三嶋湟咋の技術を発展させた。それが「茨田=松田」(棚田)である。

次男の神八井耳命は、倭国に隈なく子孫を残す役割を担ったと古事記が伝える。独特の記述「祖」が始まるのである。この註記のような記述に、とんでもなく重要な情報が潜められているのだが、未詳とされて来たのが実情である。

解読不能とされる文字列、全て読み解くことができるのか、従来の現存地名に比定する手法では手も足も出ない有様の様相である。既に一部紐解いたが、纏めて見直した結果を述べる。

神沼河耳命に皇位を譲って気儘な自由人、と言う訳ではなく、幾つかの例に違わず大活躍を為さるのである。彼が祖となる記述の引用する。

古事記原文…、

神八井耳命者、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也。
 
意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君

<意富:祖>
安萬侶くんの戯れなのか、それとも出雲国の在処をあからさまに書くな、なんてご指示があったのか、今となっては知る由もないが、全て出雲国関連である。

「意富臣」は、既に紐解いた意富斗の「意富」=「その地の中心にある田と山麓にある境の坂からなるところ」の意味であろう。

しかしながら、意富斗全体ではなく、大国主命が統治した地を表していると思われる。

出雲北部の中心の地である。通説は「意富美」=「臣」とするが、この例からも古事記が伝えるところではないようである。

小子部連」については、些か戸惑うところである。従来では「宮中の雑務を務めた品部」のような解釈であるが、古事記は宮中の有様を伝えるつもりは全くないようである。地形象形しているとすると、戸ノ上山の山稜の形を模していると思われる。

図に示した通り、山腹の稜線が「小」の字形、その山稜が延びて、一度途切れたようになって、先端が小高くなっているところを「子」と表したと思われる。現在の寺内・観音寺山団地が立ち並ぶところである。

「坂合部連」は、幾つかの坂が出合うところであろう。「大分君」の「分」は「刀で[ハ]を切り分ける」象形である。谷を挟んで左右対称の形に切られた場所であろう。かつての櫛名田比賣、その親の足名椎・手名椎が居たところと思われる。


「火君」=「肥君」と駄洒落っぽく紐解けそうだが、そんな生易しいものではなかろう。既出の出雲國伊那佐之小濱で述べたように現在の北九州市門司区大里の当時の海岸線は、大きく内陸側に入り組んだ地形であったと推定した。しかもそれは一様ではなく、入江を作って蛇行した様相を示す。

既に登場した「秋津」と同じく「火」の頭(天)の地形を象形した表現であると解釈される。大国主命の段で記述された少名毘古那神などが上陸した出雲之御大之御前も含まれていると思われる。

出雲北部、矢筈山の麓には、この後も幾度となく、隈なく御子が祖となって出向くことになる。それだけに重要な地点であったことを告げているのであるが、北部に集中するという異常さも感じられるところである。
 
阿蘇君

「阿蘇君」はまるであの「阿蘇」を示しているような命名であるが…違うのでしょう。「蘇」の文字は重要な場所を示す文字であり、後の「蘇賀」などに使われている。


<阿蘇君>
通常の意味は「蘇(ヨミガエ)る」であり、なかなか地形との繋がりを求め難い感じでもある。

また「古代の乳製品」を示すとの解説もある。これらを矛盾なく説明できる解釈が必要である。

「蘇」=「艹+魚+禾(稲)」と分解される。「異なるものが寄り集まり、混じり合っている様」を表し、それを「振り分けて道を通す」というのが原義とある。

「蘇る」の意味はそこから派生すると解説されいている。「蘇」=「乳製品」は、水と乳脂の異なるものが混在するものから水を蒸発させて得られるものと解釈する。

正に「蘇」であろう。また、乳脂が本来の姿を現すとすれば「蘇る」と理解することもできる。

では地形的には如何に表現できるのであろうか?…「阿蘇」は…、
 
様々な台地が寄り集まり入り組んでいるところ

…と読み解くことができる。

図に示したように風師山・矢筈山山塊と砂利山・八窪山山塊の山麓が複雑に入り組んだ地域である。その隙間を匠に活用した人々が住まうところであったことを告げている。真に蘇る人々だった、のかもしれない。更に、出雲国と熊曾国との境界に当たる。相容れぬ国が寄り集まった場所、これこそ古事記が伝える本当のところではなかろうか。

既出の「阿多」は、出雲の台地にある山又山の地を示しているとした。同じ地形を表していたのである。「多」=「寄り集まる山麓の三角州」の地形象形と読み解くことができる。後に登場する「多賀神社」=「蘇賀神社」の置換えもそれに類するのではなかろうか。詳細は後述する。

阿蘇=阿多

先ずは「言向和」した出雲に統治の手掛かりをつけ、それを倭国の発展に繋げようとした「神八井耳命」の行動は納得できるものであろう・・・と理解するところであるが、良く見ると出雲の北部と縁である。即ち大国主命が支配した領域と、そして縁は国境を守ると解釈するよりも、むしろその内側を伺う位置を意味していると思われる。

実のところ、出雲はまだまだ手中にしたわけではないことを示している。大年神系列との確執は真に根深いものがあったのであろう。天神達の出雲での躓きは大きな代償を払うことになったのである。と同時に戦略転換の時期でもあった筈であろう。神八井耳命は大物主大神の後裔でもある。彼が出雲に侵出できる領域は大国主命と大物主大神に由来するところに限られたのであろう。


<筑紫三家・雀部>
大年神後裔の名前と同じく、安萬侶くんの「ややこしい」表現は真相を難解な文字使いで包み隠すように…が、決して省略することなく…感じられるが、如何であろうか?・・・。長文の出雲関連の記述の真意を少しは読み取れたように感じられる。


筑紫三家連・雀部臣・雀部造

「筑紫三家連」この地は出雲国の隣、何度も出現した「伯伎国」である。「筑紫国」の地形を既に記述したが、急勾配の山の斜面と淡海に挟まれた平地の少ないところである。

食料の確保が第一の場所であったろう。だが、何と言っても淡海に面した交通の要所である。東西及び南北の十字路として直轄領地「ミヤケ」設置の戦略地点である・・・と通説に引き摺られて読んでしまいそうだが・・・。

「家」の地形象形は何であろうか?…「宀(山麓)+豕」と分解できる。「豕」=「口が出ている猪」の象形とされる。山稜の端に口らしきものが更に延びている様を表すのではなかろうか。

正にその通りの地形が「比婆之山」の山麓、出雲と筑紫の境に、三つの口を出しているのが解る。全く恐れ入った感じである。これが解けると「雀部」がすんなりと読めて来る。図に示したように「比婆之山」の片割れがしなやかに曲がる様を模したと気付かされるのである。通説では「「雀=ササ=酒」と解釈して、酒造及びその管理。宮中儀式(宴開催)」と記される。古事記が伝えるところではないようである。

「三家」の地は後の神功皇后が新羅から帰国して筑紫の中を巡る記述がある。重要な交通の拠点であったことには間違いないところであろう。また近代になるまでそうであったと記録されている。天皇家の直轄領として機能してことも推測されるであろう。それも重ねた表記と思われる。
 
小長谷造・都祁直

倭の中心地に絡むところであろう。「長谷」は雄略天皇紀に紐解いた。現在の福岡県田川郡香春町を流れる金辺川沿いに金辺峠に向かう長い谷である。そうとしたら「小長谷」は何処であろうか?…大きさから言っても呉川が流れ、仲哀峠に向かう長い谷であろう。後に仲哀天皇が「穴門之豊浦宮」に坐するところである。

「都祁」とは?…「都」の解釈に工夫を要する例であろう。既出の伊都之尾羽張神に含まれる「都」=「頂きが燃える山稜」と同じ解釈とする。「祁」=「示+阝」=「高台が集まる地」とすると…、
 
都(頂きが燃える山稜)|祁(高台が集まる地)

…「頂きが燃える山稜(畝火山)の傍らの高台が集まっているところ」と紐解ける。香春岳の麓、伊波禮の地、現地名香春町高野を示していると思われる。倭に入った神武天皇一族を見守る役目を果たそうとしたのだが、結局入り込めたのは畝火山の東~東南の地に止まらざるを得なかったのであろう。

「長谷」「師木」「春日」に達するには多くの時間がかかった。だが彼らは何代もかけてその核心に近付いて行くのである。どの地から手をつけたのか、それがわかるだけでも極めて興味ある記述と思われる。
 
道奧石城國造・常道仲國造・長狹國造

これらは全てこの記述以外には古事記に出現しない。そもそもそれで十分な位置付けであったのだろう。「茨木国」また別名として倭建命の歌の中に登場する「邇比婆理=新治」「都久波=筑波」に近接するところと思われる。企救半島南東部の地は全て網羅されたようである。

<道奧石城國造・常道仲國造・長狹國造>
個々に特定した場所を示すと「道奧石城國」は現在の北九州市門司区畑、戸ノ上山東麓を流れる「谷川」「井手谷川」の南側に位置する。

当時はこれらの川によって東方に向かう陸路は行止まり「道奥」という表現が使われたのであろう。その先は「高志国」となる。

これも一つの解釈と思われるが、古事記は「道(ミチ)」と使わずを表す場合が多い。伊邪那岐が禊祓で生んだ神しかり、である。

「常道仲國造」は現在の同区恒見であろう。詳細には鳶ヶ巣山の北及び東麓に限られた場所と思われる。

これらに共通して「道」が登場する。図に示したように首の付け根の地形をした窪んだところが見出せる。

それぞれ「奥」「仲」と記載される。古事記記述に従えば、概略の場所は特定できるが、この紐解きによって初めて確度の高い比定とすることができたと思われる。


道([首]の形)|奥(奥の方)|石(崖下の地)|城(整地された高台)
常(床:大地)|道([首]の形)|仲(真ん中)

…「[首]の形の奥の方に崖下の地が整地された高台となっている」および「大地が[首]の形になっているところの真ん中にある」国と紐解ける。

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少々余談だが・・・「常道仲」と記して「中」の文字を使っていないのは、やはり「首」に関係するように思われる。首=人の首だから「中」に「人」を付けた、のではなかろうか。どうも、文字遊びをしているように感じられるが、如何であろうか?・・・。

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現在の茨城県にある「いわき市」「ひたちなか市」「つくば市」「かすみがうら市(旧新治郡)」など、ほぼ全ての主要な地名は古事記に出現していたことになる。

極めて几帳面な「国譲り」が行われた様子、ある意味見事である。それにしても全てひらがな表示…カタカナ表示も含めて流行?…古事記は遠くなりにけり…漢字の持つ意味、その象形が表す画像情報、記号文化とは異なる世界観を失くすことに忸怩たる思いである。

と同時に古事記をAIで紐解かせてみたい・・・。

「長狹國」その表現通り、長い峡谷の国であろう。現在の県道71号線、井手谷川沿いの場所ではなかろうか。現地名は「道奧石城國」と同じく同市門司区畑であるが、東方にある同区今津までを含めた範囲であったと思われる。

天照大神と須佐之男命の誓約によって誕生した「天津日子根命」が「茨木国造」の祖であり、この近隣の地はかなり初期の段階で「言向和」されていたことが伺える。「出雲国」からその東側にある国々へ着実に彼らは進出していったと古事記が伝えている。その仕上げが「倭建命」なのである。
 
伊勢船木直・尾張丹羽臣・嶋田臣

「伊勢国」は現在の紫川の中流~下流の地域である。また「伊勢神宮」はその内宮として現在の蒲生八幡宮辺り(同市小倉南区蒲生)と紐解いた。外宮は対岸の同区守恒辺りにあったと思われた。上記の「天津日子根命」が「蒲生稻寸」の祖となる記述もあり、この地も早くから開けた場所であったと思われる。


船木の「船」をその意味通りに解釈してみると・・・、

「船木直」は文字通り、造船に係ることを示すものと思われる。その場所の立地の要件は、背後に豊かな森林地帯を持ち、山奥深くから河口近くにまで伐採した木材を運ぶことができる大河が流れていることであろうと思われる。

紫川の上流は現在の福智山山塊にあり、「頂吉」に流れる支流を集めて紫川となり「淡海」に注ぐ。縄文海進及び沖積度から現在の同区北方辺りが河口であったと推測された。合馬川、紫川との合流地点、現在の同区長尾、東・西長行辺りが「伊勢船木」と言われた場所ではなかろうか。

<伊勢船木直>
紫川の上流に「船木橋」という名称の橋が架かっている。鱒渕貯水池の少し北方に当たる場所である。

伐採された木材が集められ下流に運ばれて行ったのではなかろうか。「船木直」はこの地域までの統轄管理を行っていたのであろう。古代には必要不可欠の船、その建造の場所を示してくれた初めての記述である。

・・・ように考えることができそうであるが、古事記はそんな回りくどい記述をしているとは思えない。

単刀直入に表現しているのではなかろうか…と言ってもその文字使いは決して「直截」ではないのだが・・・。


「船」=「舟(渡し舟)+㕣(エン)」から成り立っている。「㕣」=「水が口に向かって流れる様」を表すとされる。地形象形とすると…「船木」は…、
 
船(谷の入口が二つに分かれる)|木(山稜)

…「谷が二つに分かれる山稜(谷筋)」と解読される。上流からみれば二つの谷間が出合い、流れる川が合流する場所を示している。紫川と合馬川の合流するところと推定される。上記の推論から求めたところの、残念ながら、少し南の小倉南区徳吉南・山本辺りとなる。

後の倭健命の段に登場する「三重村」及び「采女」も併せて図に示した。その南側で隣接する場所である。広大な福智山山系を背後に控え、大河の源流がある場所、間違いなく「船木」の産地であったろう。いつものことながら二重に意味を込めた表記と思われる。


<尾張丹羽臣・嶋田臣>
「尾張国」は貫山北方の尾根の稜線が広がる地域と紐解いた。現在の同区長野・横代に跨る地域である。

その中の「丹羽」は何処であろうか?…「丹(赤い)・羽(羽毛=稲のヒゲ)」と読み解いてみる。古代の「赤米」と言われるものを示しているようである。

「尾張国」の穀倉地帯は横代を流れる「稗田川」流域であったと推測される。尾張も現在の平地の大部分は海面下にあり、耕地を確保するには限られたところしかなかったと思われる。

その数少ない場所であり「赤米」に加えて「稗」の栽培も盛んに行われたのであろう。そんな背景の中で「丹羽」の地は何処に求められるであろうか?…「丹」=「赤」と読んでも何も得られない。その甲骨文字を図に示したが、川及び海に囲まれた地形を示しているようである。

すると、「羽」の地形が見えて来る。当時は山稜の端で繋がってはいるが、ほぼ河口付近の干潟に囲まれたところと推定される。神倭伊波禮毘古命が立寄った「楯津」のあった場所と思われる。「嶋田」の近隣、何となく鳥の形に見えるところ、当時のこの地は島となっていたと推定される。

いつものことながら複数の意味に取れるように重ねられた表記を行っているようである。尾張の地は、早くに切り開かれた場所であったことを伝えている。
 
伊余國造・科野國造

「伊豫之二名嶋」で伊邪那岐・伊邪那美の国生みで登場したのであるが、「伊豫(余)」とは如何なる意味を表しているのであろうか?…また「豫」と「余」の二つの文字を使うのは意味があることなのか?…あらためて考え直してみた。

そもそも「二名嶋」とは如何なる意味を示しているのか…これはこの島が東西で全く異なる地形をしていることに依ると思われた。言わば西が丘陵、東が山岳地帯と言える。実はこのことが上記の名前に深く関連することと気付いたのである。


<伊豫・伊余>
「余」=「農具で土を押し退けること」であり、「豫」=「向こうに糸を押しやる」ことを意味する文字であると解説される。

前者は押し退けたものが余りの意味に通じ、後者は横糸を通して布を作ることに通じる。

即ち「二名嶋」は西側の山稜を押し退けて東側に集めた、として見た象形と結論付けることができる。見方は違うが同じ意味を示していることになる。だから両方の文字使いをしたものと思われる。

ただ、東側(讃岐・粟、後の若木・高木)の方に「伊余」を使う方が文字の印象としてより適しているように感じられが、ほぼその表記になっているようである。西側の伊豫国・土左国(後の五百木・沼名木)に「伊豫」が使われるように押しやる方は「豫」であろう。

喉に刺さった小骨が削げ落ちた感じ、のようでもある。ということで、伊余国造の位置を少々東にずらして図示することにした。

大国主命の国譲りと言われる段で登場した最強の戦士「建御雷之男神」が大国主命の御子「建御名方神」(母親不詳)を追い詰めたのが科野國之州羽海とあった。科野国は、この地以外に該当する場所はないであろう。

「神八井耳命」が祖となった地名を纏めて図示した。

<神八井耳命:祖の地>

末子相続を続けた古代、皇位を譲った兄達の働きが国を大きくした。彼らが各地に入り込み、その地の豪族となったと伝える古事記である。勿論彼自身と言うより後裔達の活躍がそうしたのであろう。

が、詳細は語らない。各地に伝わる伝承などと併せて読み解くことができれば更なる理解が得られるのかもしれない。