胸形奧津宮神:多紀理毘賣命(阿遲鉏高日子根神・高比賣命)
ともあれ、一息ついた大国主命の娶りの記述が始まる。この一連の系譜については、従来より全く解読されて来なかったところである。手も足も出ない有様であろう。所詮は出雲のローカルな伝承を埋め込んだ、と言う解釈に止まっているのである。
多数の神々が登場することもあって一度に述べずに幾度かに分けることにして、先ずは胸形の比賣から・・・それは胸形の地の詳細を語っていることを気付かされるのである。
古事記原文…、
故、此大國主神、娶坐胸形奧津宮神・多紀理毘賣命、生子、阿遲二字以音鉏高日子根神、次妹高比賣命、亦名・下光比賣命、此之阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也。
天照大御神と須佐之男命の宇気比で誕生した比賣に胸形之奥津宮に坐す多紀理毘賣命が登場した。最初に生まれた比賣であり、まさに天照大御神直系の後裔であろう。代々世襲されて「多紀理」に居た由緒ある毘賣が大国主命の后となったと思われる。
<胸形三柱神> |
奥津宮(西)があったと推定した場所はJR赤間駅(東)と直線距離2km弱、現在まで宗像の中心地である。宗像は赤間の山間を開拓し栄えて来た場所である。
宗像は日本の歴史上唯一の不動点と見做したが、真のそれは「邊津宮」辺りのみと言うことになろう。
異なる表現をすれば宗像(胸形)を信仰の地として海辺の狭い土地に閉じ込めた策略であったとも言える。
安萬侶くんもさることながら日本書紀の編纂に携わった連中も並々ならぬ頭脳の持主だった思われる。
JR赤間駅から東に4km強のところに八所宮がある。神倭伊波禮毘古命が幾年か坐した「阿岐国之多祁理宮」があったとした宮である。宗像の主要な地に、周到に配置された場所を伝えていると思われる。
さて、御子に阿遲鉏高日子根神、妹高比賣命(下光比賣命)の兄妹が誕生する。
阿遲鉏高日子根神(迦毛大御神)
<多紀理毘賣命の御子> |
釣川の下流域であり、その川面は山麓の際にまで達していたと推測される。この神の居場所は想定以上に狭い場所であっただろう。
「迦毛大御神」とも言われたと記される。今に繋がる神でもある。「大御神」が付くのは天照大御神と二人だけのようである。
鋤いて離れた島(当時)にある天満宮から見ると「鱗」が出会ったような位置になる。
迦(出会う)|毛(鱗)
元来「胸形君等之以伊都久三前大神」と記されたところであり、奥・中・邊津宮の三つ揃えの一つに坐す多紀理毘賣命の御子として納得される場所であろう。そして天照大御神の奔流であることを示す「大御神」の命名、かもしれない。
高比賣命(下光比賣命)
下(麓)に[ー]がある火
…の比賣命と読める。[ー]は山稜を横切る谷間を模したのであろう。「火」(秋津)の下側に括れた場所に座していたと思われる(図を参照)。宗像市田島の「宿の谷」と呼ばれるところである。高比賣命に含まれる「高」から坐していたのは、現在の上高宮がある小高いところではなかろうか。
この兄妹は後の説話に登場する。天神が葦原中国に送り込んだ天菩比神が音信不通となり、更に送り込んだ天菩比神も同じく連絡がない。これに怒った高木神が放った矢が天若日子に当たって亡くなってしまうという話である。
その天若日子の妻となっていたのが高比賣命で、葬儀に出席した阿遲鉏高日子根神が些細なことながら一悶着起こしたと言う。葦原中国(出雲)の統治が難航している状況を伝えている段である。邇邇藝命の降臨前夜である。