2018年11月6日火曜日

筑紫嶋:筑紫・豐・熊曾・肥 〔278〕

筑紫嶋:筑紫・豐・熊曾・肥


筑紫嶋にも前記の伊豫之二名嶋に続いて「面四」があると言う。既にこの島を現在の企救半島に比定し、面四も概ね解釈して来たが、加筆・訂正を含めて再度纏め直してみた。古事記原文は次のように極めて簡略である。

次生筑紫嶋、此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、故、筑紫國謂白日別、豐國謂豐日別、肥國謂建日向日豐久士比泥別自久至泥、以音、熊曾國謂建日別。曾字以音。

従来より筑紫嶋は現在の九州とされる。全くと言ってよいほど解読されていないが、異説は少ないようである。そもそも「筑紫」=「福岡」(博多湾岸)の等式を疑われずに過ごされて来たのだから異説も出る余地がない、感じである。

本ブログは「筑紫」≠「福岡」であること、律令制後の「筑前」=「福岡」であることを述べてきた。古事記の記述に「筑前」はない。不詳で曖昧なことを丸ごと置き去りにして過ごす、日本人の特性の一つとなっているようである。

さて、本論に入るが、過去の記述も含めて整理し直してみた。伊豫之二名嶋と同様、一字一句を解読する。先ずは「別」から・・・。

・筑紫國謂白日別
「白日」の方向を示す。「白日」は「西方」である。「西」=「籠の中から太陽、白日が頭を出しているさま」、西方に沈む太陽の象形文字である。「別」=「(土)地」とすると…、
 
白日別=西方の地
 
・豐國謂豐日別
「豐日」が示す方向を示す。「豐」は「南方」である。「南」=「草木の発芽を促す南からの風」を意味する。「豐」=「草木が茂る」の象形文字である。
 
豊日別=南方の地
 
・熊曾國謂建日別
「建日」が示す方向を示す。「建」は「北方」である。「建」=「たてる、くつがえす」、また「さす」(日没後に北斗七星の柄が十二支を指すこと)とも解説される。即ち日を避けて起こることである。「北」=「南を避ける、背く」、人が背中合わせに立っていることからの会意文字とされる。余談だが、古事記中で多用される「斗」=「柄杓」である。

建日別=北方の地
 
・肥国謂建日向日豐久士比泥別
上記のように東西南北の方向の地を記述して来て残りは「東」かと思いきや、何とも複雑な名称となる。だがしかし、これが最も重要なヒントを提供するものと思われる。では、この長たらしい謂れを何と紐解くか?…従来には全く解読されて来なかったようである。
 
建日(建日)|向日(向かう日)|豐(豐日)|久士比(櫛:横並び)|泥(ね:~ではない)

…「建日に向かい豊日とは横並びでない」地と紐解ける。これに該当するのは、東がないとすると唯一「北西」方向に限られるのである。
 
建日向日豐久士比泥別=北西方の地

<筑紫嶋模式図>
これらの日別を纏めた図を示す。筑紫嶋を中心として北~西~南の方向(面)が古事記が伝える地であることを告げている。

「東」の方向には彼らが語るところは無いのである。即ちこの島は東の端に位置していることが判る。

仮に筑紫嶋を九州に当てたとしたら、本州・四国などの地は古事記の「日別」に含まれない。また「豐国」は薩南諸島・琉球諸島になるかもしれない。

では、何処に求められるであろうか?…地図を頼りにこの模式図に合う地形を探すと…現在の企救半島、当時の海面位置から半島ではなく島であったと推測される。

九州北部の推定された海面について、詳しくは原著を参照願うが、取り纏めたものを参考資料とした。

<筑紫嶋>
この半島の周辺に残る「筑(竹)」「紫」の文字は夥しいものがある。

足立山(旧名竹和山)、その麓を流れる竹馬川、寒竹川((現神嶽川))、現在も大河の様子の紫川、下関市門司区吉志にある「寒竹城(吉志城)」などなど。

「寒竹」=「紫竹」紫色の小形の竹である。「寒竹」=「紫竹」=「筑紫」と繋がる。そのものズバリではなかろうか。

後に熊曾国、肥国、豊国が登場する。全てこの模式図に則った位置関係であり、その詳細を記述することになる。
 
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筑紫國、豐國、肥國、熊曾國のそれぞれの国名は如何なる地形象形をしているのであろうか?…文字そのものから紐解いてみよう。

・筑紫國
<筑紫>
「筑紫」の名称は如何なる地形象形から生じているのであろうか?…「筑」=「竹+巩」であり、「竹」=「山稜」を表す。

「巩」は何と解釈するか?…これが筑紫の地形を示している。また「紫」=「此(並ぶ)+糸(連なる山稜)」とできる。

着目すべきは「巩」=「工+凡」に含まれる「凡」の文字が表す山頂が平らな地形であろう。図を参照すると、足立山の平らな頂上をそれに見立てた文字の姿が浮かんで来る。

更に「紫」の「此(並ぶ)」は、二つの長く延びた山稜を示していることが判る。「筑紫」は足立山(古事記では美和山)を中心とした山稜が描く地形を象形した表現と紐解ける。

「此(並ぶ)」は、反正天皇の「多治比之柴垣宮」や「淡海之柴野入杵」の解釈に類似する。「柴」=「此(並ぶ)+木(山稜)」(山稜に沿って並ぶ)と解釈した。
 
紫=此(並ぶ)+糸(連なる山稜)

ここに示された深い谷は「黄泉国」であり、「紫」=「比婆之山」に該当する。幾度となく古事記に登場する重要な地点、そしてその地の全体の地形を表していたのが「筑紫」の表記であることが解る。

「筑紫」が地形象形の表記なら、この地以外の場所はあり得ないと言える。「筑」もさることながら「紫」は、この文字が示す地形の特異性から揺るぎないものと思われる。

・豐國
<豐國>
筑紫嶋の「豐国」は何と紐解けるか?…「豐」の一文字に依存する。

「豐」=「丰+丰+豆」で、高坏の上に収穫した穀物の穂が一杯になっている様を表していると解説される。

地形を象形する表記としては、「丰」=「山稜の段差」とする。山稜を横切る様を模したものと考えられる。

山稜を横切る象形は「味」「竺」など幾つかの例が見受けられる。

また「豆」=「高台」と読み解くと…「豐國」は…、
 
多くの段差がある高台の国

…と解釈される。代用字「豊」とは異なる解釈となる。筑紫嶋の「面」の一つ「豐国」は段差のある国を表していると紐解ける。勿論、「豐日別」が付加され、南の方位を示すと述べられているのである。

<肥國>
・肥國
後に「肥河」が流れる地として登場する。「肥」=「月(三角州)+巴(渦巻く)」と分解すると…、
 
渦巻くように流れる川が作る三角州の国

…と解釈される。現在の大川は当時とは大きく異なる流域を示し、複数の川が合流し、大河となって大きな入江を形成していたものと推測される。

多くの「州」、それを束ねて支配する命を「速須佐之男命」と名付けたのであろう。「肥国」の中心であったことを告げている。この肥河を「八俣遠呂智」と名付けているのである。

・熊曾國
<熊曾国>
熊曾の文字解釈は容易に可能であるが、場所を突き止めようとすると情報が少ない。

これも後の記述によって明確に場所が特定されるが、「熊曾」は…、
 
()|(積重なる)

…国の隅が高くなった、山があるところと紐解ける。図に示した古城山など、特徴的な地形を示している。

上記した如く四つの面の国名は明瞭に地形象形の表現であった。これら筑紫嶋にある国とそれぞれが示す方位(日別)とで登場する地名(人名)を表そうとされている。それが古事記の表記である。

それにしても、筑紫→博多湾岸に国譲りされたことに気付かれずに今日に至ったいる。国家ぐるみで捻った歴史を戻すには膨大な努力と時間が必要なのであろう。挫けずに前に進むことであろう。
 
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少々余談になるが、魏志倭人伝の解釈に画期をもたらした故古田武彦氏、今も古田史学として集ってられているようでるあるが、晩年に著された、特に古事記との関連については、やはり「筑紫」=「福岡」(博多湾岸)から抜け切ることはできていなかったと思われる。

「失われた九州王朝」など倭人伝に記された舞台が九州北部であることを示した解読手法を称賛することに変わりはないが、惜しむらくは、その手法を古事記に適用されなかった。いや、むしろ本居宣長の解釈の域を脱せず、御本人の混乱、更には倭人伝の成果に引き寄せられた人々の混乱をも招いてしまったようである。

「筑紫日向」は古事記には登場しない。するのは「竺紫日向」である。「竺紫」は「筑紫」でもなければ、勿論「筑前」でもない。「竺紫」というところ、宗像市の東、遠賀郡岡垣町との端境である。この明確に使い分けられた文字をなおざりにして古代の復元は不可能であろう。