2018年11月4日日曜日

伊豫之二名嶋:伊豫・讃岐・粟・土左 〔277〕

伊豫之二名嶋:伊豫・讃岐・粟・土左


伊邪那岐・伊邪那美の国生み作業の初期に示される島である。それだけに記述された内容は地形象形の手法として、極めて重要な要素を示しているのだが、解読は生易しいものではない。何回か述べて来たのであるが、漸く落ち着いた感じである。纏めて示してみよう。

「伊豫之二名嶋」通説は「四国」とするが若い二柱には荷が重過ぎる(…と初見で戯れた表現にしたが、そのままで)。「二名」とは?…「名」=「呼び名、呼ばれ方」であろう。即ち「二名」=「二つの呼ばれ方」=「二つの異なった呼び名の島が合わさったような島」と解釈される。それは現在の若松半島(北九州市若松区)にある。


<伊豫之二名嶋>
陸続きとなり、洞海湾が内海となった今は島の形状から程遠いものであるが、縄文海進、沖積が少ない時代は、大きく異なっていたことが知られている。

遠賀川河口付近についての報告例を参照すると東部は山岳、西部は台地形状で、見事に区切られている。四つの面も併せて、地図参照。

島の西北部から時計回りで、伊豫国、讃岐国、粟国、土左国であろう。東西で男女の組合せ。西方は伊予が「愛媛」で土左は「建」が付く。

一方の東方は食い物に密着、豊かであったろう。「粟」=「淡(泡)」かも、洞海湾の出入口に当たる。この四つの国、農耕地の面積からしてもかなりのギャップがあることは容易に推測されるところではある。


<愛>
・伊豫國

「伊豫國謂愛比賣」と記される。場所は上図に示した通りであろうが、文字列からの根拠に乏しい表記である。「愛」を何と解釈するか?…、
 
愛=心にいっぱい思いが詰まっている状態

…これを頂戴すると、凹凸のある丘陵地帯が一面に広がった地形を示していると解釈される。

とは言うものの古事記は、もっと直截的に「愛」の文字を使っているのではなかろうか。

甲骨文字を地図に重ねてみると、標高差が少なく些か判別し辛いところもあるが、「愛」の文字が地形に重なることが判る。

突出した頭、両脇のなだらかな湾曲部など、そして、よく見ると中央の「心」のところは想定外によく一致している。「愛」を地形象形に用いるならばこの地以外に求めることは極めて困難であろう。謂れと地形との繋がりができたようである。「伊豫」の解釈については下記<伊『豫』国・伊『余』国>を参照願う。

後にこの地は「五百木」と記述されるようになる。おそらくは「伊豫之二名嶋」が島とは見做せなくなって来たのであろう(縄文海進の後退及び沖積の進行)。「五百木」=「多くの木(山稜)」とすると類似する表現と思われる。
 
・讚岐國
<飯依比古>
「讃岐」の「讃」=「佐(タスクル)」と解説される。「岐」=「二つに分れる」とすると…、
 
二つに分かれるのを助ける

…となる。地図から明らかなように響灘と洞海湾との水路分岐に面する位置にある。

響灘と異なり洞海湾は潮位によって大きく流れの方向が変わり、水深が浅くて変化が大きいことが知られている。重要な分岐点、それを表す命名であろう。高塔山公園となっている小高い場所は分岐点を示す格好の地形である。

讃岐国の謂れ「飯依比古」を紐解いてみよう。「飯」の文字解釈を以下のように行ってみる。「飯」=「食+反(麓)」、更に「食」=「山+良(なだらかな)」と分解すると…、
 
飯(なだらかな山麓)|依(従う)|比(並べる)|古(定める)

…「なだらかな山麓に従って田畑を並べ定める」と紐解ける。後に登場する「飯日比賣命」「飯野眞黑比賣など類似する地形を示していることが判る。図に示したように南の「粟国」に比して穏やかに山稜が延びて広々とした山麓を持つ地形であることが判る。この謂れは「なだらかな山麓を利用して田畑を並べ定めた」と解釈できる。

・粟國

粟国は「泡」=「淡海」となって、内海の洞海湾とは、その入口は別として、些か違和感があろう。上図<飯依比古>に示したように「粟」の古文字、穀物がたわわにぶら下がる様子を模したのではなかろうか。大きく曲がる尾根と枝稜線が作る山稜が「粟」の象形と思われる(上図参照)。

謂れは「大宜都比賣」と記される。「大」は、大きいと解釈しても良いのであろうが、地形象形的には「平らな頂の山稜」を示していると思われる。「宜」=「宀(山麓)+且(段差がある高台)」とすると…、
 
大(平らな頂の山稜)|宜(山麓に段差がある高台)|都(集まる)
 
<大宜都比賣>
…「平坦な山稜の麓に段差がある高台が集まる」ところに座す比賣と紐解ける。

石峰山南麓の崖のような急斜面の麓に段差がある台地が寄り集まっている様子を表記したものと思われる。

通常は「宜」=「台の上に積まれた肉片」と解説される。国生みに続いて誕生する「大宜都比賣神」は、まさにそれに該当するようである。

粟国の場所は遠浅の洞海湾に面した優れた漁場であったろう。また内海としての穏やかさが漁獲量を増やすことにもなったと推測される。

讃岐国とは全く異なり海の幸が豊かな国であったと思われる。両意を重ねた表現と気付かされる。実に巧みな漢字表記を用いていることが判る。

・土左國

「土左國謂建依別」と記述される。簡単なようで一番難しい地形象形である。
 
土左=土(地面)|左(下がる)

…と紐解く。海側(伊豫國側)が高くなっている地形であり、海進によって現在よりも流れる川幅(江川)もずっと広いものであったろう。他の三国に比べて古事記での登場は少なく、海進の後退などで地形が大きく変化するところであったろう。後に山佐知毘古が通った「味御路」と推定した場所であるが、重要な海路だったのである。


謂れ「建依別」の「建」は「倭建命」「熊曾建」の「建」が類推されるのであるが、地形象形で進めてきている記述の中では整合しない。後に登場する筑紫嶋の「建(日別)」を使っているのではなかろうか…「依」=「頼る」として…、
 
建依別=建(北方)|依(頼る)|別(地)

…「北部を頼りにする地」と解釈できる。内海に面し豊かではあるが北の丘陵地帯がなくては住まうことができない地であったと告げている。


通説に拘ることはないが、この「伊豫之二名嶋」の記述は四国の地形で説明することは困難であろう。正に拡大解釈しては古事記の伝えるところが暈けてしまうのである。

 
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<伊『豫』国・伊『余』国>

古事記全体からの解釈である。ここでも一応記載して置くことにする。

「豫」=「向こうに糸を押しやること」であり、「余」=「農具で土を押し退けること」を意味する文字であると解説される。後者は押し退けたものが余り『凸になった地』の意味に通じ、前者は押しやって布『平坦な地形』を作ることに通じる。
 
<伊豫・伊余>
即ち「二名嶋」は西側の山稜を押し退けて東側に集めた、として見た象形と結論付けることができる。


見方は違うが同じ意味を示していることになる。だから両方の文字使いをしたものと思われる。

東側(讃岐・粟、後の若木・高木)の方に「余」を使う方が適しているように感じられる。他方、西側の伊豫国・土左国(後の五百木・沼名木)に「伊豫」が使われるように押しやられた方は「豫」であろう。

古事記の文字使いは真に正確で、後に登場する伊余湯の「湯=飛び撥ねる水」が生じる急流の川があるのは「余」の地である。まかり間違っても「伊予湯」はあり得ないことなのである。「湯=温泉」として事なきを得た歴史学、であろうか…罪は重い(近年ではこの説も下火に?)、いずれにしても解は見当たっていないようである。

「伊」=「人+尹」と分解される。更に「尹」=「|+又(手)」から成る文字と知られる。これを地形象形表記とすると、「伊」=「谷間(人)で区切られた(|)山稜(手)」を表すと紐解ける。即ち中央にある谷間で…、
 
「豫」と「余」の地形に区切られた嶋

…だと述べている。また「尹」=「治める、正す、整える」の意味を持つことから、「伊豫()国」は…、
 
人がしたように一方に寄せて整えられた国

…の解釈も有効のようでもある。いずれにせよ「伊豫」と「伊余」、これが「二名嶋」の謂れと紐解ける。下記の伊伎嶋と同様に読み解くことができると思われる。
 
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伊豫之二名嶋の面四について、八つの名称が紐解けたと思われる。この地は、間違いなく現在の北九州市若松区(若松半島)と比定される。通説の四国では、全くちんぷんかんぷんの表現となろう。後の登場する「伊余湯」の解釈も含めて、当時の海面水位を考慮した結果である。