阿蘇・蘇賀・蘇邇
主題に共通する「蘇」の文字は、決して多く登場するわけではないが、重要な地に絡むものである。文字の形で地形象形する安萬侶コードとしては、何とも掴み所が難しい例であろう。何となくそれらしき場所を示しているようで、漠然とした感じが抜け切らない、そんな状況で読み解いて来たのが実情である。
今回は、この「蘇」の文字を共通して持つ文字列の紐解きを併記して、より適切な解釈を試みてみようかと思う。
阿蘇
「阿蘇」は神倭伊波禮毘古命の御子、神八井耳命が祖となったとされる「阿蘇君」で登場する。まるであの阿蘇山の麓に住まっていたかのような命名であるが・・・古事記にはこの近隣は登場しない。筑前、筑後と同様に肥前、肥後も律令制後の名付けである。
「蘇」の文字は重要な場所を示す文字であり、後の「蘇賀」などに使われているが、通常の意味は「蘇(ヨミガエ)る」であり、なかなか地形との繋がりを求め難い感じでもある。また「古代の乳製品」を示すとの解説もある。これらを矛盾なく説明できる解釈が必要である。やはり文字の原義に遡って考察を加えるしか方法はないようである。
正に混在している様は「蘇」であろう。また、乳脂が本来の姿を現す、とすれば「蘇る」と理解することもできる。魚と稲のような全く異なるものを合わせて持つ漢字の示すところは上記のような解読で、その意味を読み取ることができるようである。
ではこの漢字が示す本来の意味を地形的に如何に捉えたのであろうか?・・・「異なる山陵が寄り集まっているところ」と置換えることができそうである。複雑に入り組んでいるように見える異なる山稜の両端間に隙間があるように、限りなく接近している状態を表していると解釈される。このように紐解いて来ると、地形象形と雖も漠然とした感じを受けていたことが納得される。
<阿蘇君> |
その地域に目を付けて「蘇」となる地形を求めてみよう。
図に示したように「風師山・矢筈山山塊」と「砂利山・八窪山山塊」の山陵が入り組んだ地域であると見做せる。
その隙間を匠に活用した人々が住まうところであったことを告げている。真に蘇る人々だった、のかもしれない。
更に、伊邪那岐・伊邪那美が生んだ筑紫嶋の四面における出雲国(肥国)と熊曾国との境界に当たる。相容れぬ国が寄り集まった境の場所、これこそ古事記が伝えたかった本当のところではなかろうか。
既出の「阿多」は、出雲の台地にある山又山の地を示しているとした。同じ地形を表していたのである。「多」=「寄り集まる山陵」の地形象形と読み解くこともできる。「多」ではその範囲など全く漠然して、企救半島北部全ての表記となるが「蘇」と表記することによって、この端境の領域を示すことができるのである。後に登場する「多賀神社」=「蘇賀神社」の置換えもそれに類するのではなかろうか。詳細は後述する。
蘇賀
建内宿禰の御子、蘇賀石河宿禰で「蘇」が登場する。彼が祖となった「蘇我臣」は歴史に名を刻む「蘇我氏」発祥の記述であろう。所見では曖昧な「蘇賀」からではなく寧ろ「石河」から彼が坐した地を求めた。「石河」は何を意味するであろうか?…京都郡苅田町に「白川」という「水晶山」から流れる川がある。支流を集めて小波瀬川と合流し周防灘に注ぐ。
この「白川」の名前の由来は定かではないが、有名な鴨川支流の一級河川「白川」の由来に「川が白砂(石英砂)で敷き詰められた状態」と言うのが知られている。
…である。「水晶山」の名前の通り石英砂を含む小石が「石河」に流れ込み、後に「白川」と呼ばれるようになったと推測される。名前に付けるほど美しい川が流れていた、今もそれは変わりがないであろう。
また祖の地にある「小治田」が示す地は後の説話で紐解けるところであるが、「白川」の河口(当時)付近と推定された。ほぼ間違いなくこの入江が「蘇賀」と思われる。実は神倭伊波礼比古が熊野村から八咫烏に道案内されて出てきたところでもある。状況証拠的には十分な有様なのだが、やはり「蘇」の解釈が不可欠であろう。
この「白川」の名前の由来は定かではないが、有名な鴨川支流の一級河川「白川」の由来に「川が白砂(石英砂)で敷き詰められた状態」と言うのが知られている。
石河=白川
…である。「水晶山」の名前の通り石英砂を含む小石が「石河」に流れ込み、後に「白川」と呼ばれるようになったと推測される。名前に付けるほど美しい川が流れていた、今もそれは変わりがないであろう。
また祖の地にある「小治田」が示す地は後の説話で紐解けるところであるが、「白川」の河口(当時)付近と推定された。ほぼ間違いなくこの入江が「蘇賀」と思われる。実は神倭伊波礼比古が熊野村から八咫烏に道案内されて出てきたところでもある。状況証拠的には十分な有様なのだが、やはり「蘇」の解釈が不可欠であろう。
<蘇賀・蘇我> |
この「蘇賀」の地も高城山、水晶山及び平尾台の端、桶ヶ辻からの山陵が寄り集まるところであり、その隙間に田が広がる地と解る。
高城山、平尾台は石灰岩、水晶山は花崗岩の山陵でもある。当然複数の角度から山系の端が寄り集まることを「蘇」として示している。
これらの山陵が端境を作り、入江を形成している地形を「蘇賀」と表記したと解釈される。この地以外に異種のものが寄り集まる場所を求めることは到底不可能であろう。
実は後に名を馳せる「蘇我一族」であるが、この「蘇我臣」との繋がりは定かでないようである。ほぼそうらしい、というのが現状である。
本ブログでは後に登場する「宗賀稲目」の居場所は上記の「蘇我」(ギザギザの矛先の地)と比定し、蘇賀石河宿禰との繋がりを明らかにするが、通説ではそれが難しいようである。
古事記が読めず、怪しげな日本書紀に拘っているのが現状であろう。古代史における確かなところは皆無と言って言い過ぎではないように思われる。「近淡海国」に蘇我氏が居た、間違いなく・・・。
本ブログでは後に登場する「宗賀稲目」の居場所は上記の「蘇我」(ギザギザの矛先の地)と比定し、蘇賀石河宿禰との繋がりを明らかにするが、通説ではそれが難しいようである。
古事記が読めず、怪しげな日本書紀に拘っているのが現状であろう。古代史における確かなところは皆無と言って言い過ぎではないように思われる。「近淡海国」に蘇我氏が居た、間違いなく・・・。
蘇邇
仁徳天皇紀、娶りを望んだ仁徳さんを振って、雀より隼が好きと宣わった才色兼備な女人、それが故に道が外れると事件になる。「女鳥王」の駆落ちである。最後は「宇陀之蘇邇」で捕捉されてしまう。「蘇」の登場である。
初見の逃避ルートの改訂を込めて述べてみようかと思う。丸邇(現地名香春町柿下の迫谷辺り)に住まうこの王と速總別王が逃げる場面である。取るものも取り敢えず逃げた彼女達は「倉椅山」を登る。
詠われる歌の内容に「梯子を懸けたような急斜面」とあり、また行き着くところが「宇陀」(北九州市小倉南区呼野~新道寺)と記述される。通常ならば丸邇(福岡県田川郡香春町柿下)から長谷(金辺川沿いに採銅所経由で金辺峠越え)を通るのであろうが、別のルートで逃げたと思われる。
「倉椅山」はどの山のことを指し示しているのであろうか?…、
「谷がイスのような地形をしている山」と解釈される。両脇に付いた肘掛けが特徴的である。
既出の「阿多之小椅」谷間と肘掛けの様相を表現したと解釈したことに類似する。地図には山名は記載されていないが山頂の表示がある。これが「倉椅山」と推定される。
その急斜面を登り切り、しばらく尾根伝いに登ると牛斬山頂上に達し、更に「宇陀」の方に向かうことができるルートが考えられそうである。
大坂山を駆け上るルートは宇陀に至るには竜ヶ鼻を登ることになり、これは絶壁で不可である。迂回して吉野を経由する道もあるが、長谷経由と同様、人目について逃避行に合わない。結局思ったより選択肢のないものとわかる。
「倉椅山」はどの山のことを指し示しているのであろうか?…、
倉(谷)|椅(椅子:イス)|山
<倉椅山> |
既出の「阿多之小椅」谷間と肘掛けの様相を表現したと解釈したことに類似する。地図には山名は記載されていないが山頂の表示がある。これが「倉椅山」と推定される。
その急斜面を登り切り、しばらく尾根伝いに登ると牛斬山頂上に達し、更に「宇陀」の方に向かうことができるルートが考えられそうである。
大坂山を駆け上るルートは宇陀に至るには竜ヶ鼻を登ることになり、これは絶壁で不可である。迂回して吉野を経由する道もあるが、長谷経由と同様、人目について逃避行に合わない。結局思ったより選択肢のないものとわかる。
また仁徳天皇の宮に方に近付くことも気持ち的にも避けたいところであった思われる。簡単な記述であるが、これだけの情報で概略のルートは確定できる。流石の安萬侶くんである。
<宇陀之蘇邇> |
「蘇邇」は何処を示すのであろうか?…通説は奈良県宇陀郡曽爾村、程よい高さの山に囲まれて高原の楽しさを味わうことのできる景勝地である…いや、トレッキングブログではない。
「蘇」は「阿蘇」、「蘇賀」に含まれた「蘇」=「異なるものが寄り集まっている様」を表し、地形象形的には「異なる山陵が寄り集まっているところ」を示すと解釈した。
「宇陀」の地で「蘇」となる場所は、福智山山塊の東端、頂吉から北に伸びる山陵と貫山山塊の平尾台から西に伸びる山陵とが近接するところと思われる。現地名は北九州市小倉南区木下辺りである。
蘇(山陵が寄り集まるところ)|邇(近い)
…「蘇邇」は隣接する現地名の同区市丸辺りと推定される。
<逃避行程> |
現在も巨大な石灰岩採掘の現場が地図に記載されている。その麓の地である。重ねられた意味と思われるが、この解釈では場所の特定には至らない。
あらためてルートを思い浮かべると福智山山塊に入り込んで宇陀に抜けるには現在でも極めて数少ない道しか存在しない。
勿論当時は道なき道を駆け抜けようとしたのであろうが・・・この地で敢無く逃げた二人は命を落とすことになる。
実行した将軍の後日談も古事記が語る。丸邇氏と葛城氏という氏族間の抗争を臭わせながら、これらの両氏族に敬意を払い、それらが保有する情報を大切にするという流れである…上手くできた記述と素直に受け止めておこう…。
この説話は畝火山の西方の情報を提供している。この地に関連する記述は少なく、貴重である。現在の北九州市南区頂吉地域についても不詳である。金辺峠という交通の要所に近い位置にあるのだが・・・。