2018年10月3日水曜日

黄泉比良坂・出雲国之伊賦夜坂 〔266〕

黄泉比良坂・出雲国之伊賦夜坂


「黄泉比良坂」ついて最近、と言っても原報は何年か前の報告だが、関連する論考に出会うことができた。一つは、植田麦著『古代日本神話の物語論的研究』(和泉書院 2013年)と題された書物であり、もう一つは、札幌市にあるの西野神社の社務日誌に記載された北大の学生寺本菜摘さんの国文学演習『黄泉の国と黄泉比良坂の位置関係について』と題された論考である。

前者はタイトルが示す通り広範囲の内容であるが、その中に「黄泉比良坂と出雲国之伊賦夜坂」について論じられている。大阪市立大の学位論文を含めて書籍とされたとのことである。「出雲国之伊賦夜坂」についての言及はネット検索程度では殆ど見つからず、漸くこの書籍があることを突き止めて、何とか遠く離れた図書館から借り出すことができた次第である。

後者はネット掲載という簡単な記述と受け取られるようだが、引用文献もあり、なかなかしっかり論述されているように、憚りながら、感じたのであるが、それが今一度「黄泉比良坂」に纏る文字列を再考する契機となった。

最大の成果は、何となくぼんやりとしていた「根之堅洲国」の紐解きに通じたことであろう。また、黄泉国に居た豫母都志許賣」も併せて解読でき、黄泉国に関連する重要なキーワードが納まるべきところに納まる状態になったようである。

上記二つの引用を参考にしながら、纏めて述べてみることにする。既に読み解きが済んでいるところも含めて話を進める。
 
黄泉国

其所神避之伊邪那美神者、葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也」と記述され、伊邪那美が葬られた黄泉国は出雲国と伯伎国との境となる「比婆之山」(並んで端にある山)にあることを告げている。二つの国を求めると図のようになると読み解いて来た。
 
<比婆之山>
伊邪那岐・伊邪那美が生んだ筑紫嶋(現在の企救半島)、そこに「面四」があり、それぞれの配置を求めて辿り着いた結果である。

補足になるが、「伯伎」は…「伯=亻+白」及び「伎=亻+支」として…「支」=「別れる、離れる」だから…、
 
白(太陽)|支(別れ離れる)

…「太陽が別れ離れて行く」国と解釈した。「面四」では「筑紫国」と表現された国である。

「亻」を強いて訳せば、「人がするように」と付加できる。筑紫国の謂れ「白日別」も「支」に「別ける」という意味もあることから「伯伎」=「白日別」の類推も可能であろう。

何故同じ表現を用いなかったのかは憶測でしかないが、後に登場する黄泉比良坂の別名「出雲国之伊賦夜坂」に深く関連する。下記で述べる。

このように出雲国、伯伎国の場所が分かれば、黄泉国の場所は極めては明解に紐解けるのである。「比婆之山」に挟まれた深い谷の形状を示している。上記の二つの引用にも黄泉国の位置、場所ではなく、出雲国との上下関係にさまざま議論がなされて来たことが記載されている。
 
<妣国根之堅洲国>
黄泉国は現世界に対して、上か下か、あるいは同じ面上にあるのか?・・・古事記は死の世界をどのように捉えていたのか?…などと論議するのである。

そのような議論の対象となる書物かどうかの検討が先であろう。一つの側面として試みる価値はあるだろうが・・・。

古事記解釈の古典を著した次田氏には祝詞関連もある。神話の段は、寧ろその世界からの解釈アプローチが主流をなしているのかもしれない。ブログ主には無縁の世界かも?…である。

古事記が「国」と表記すれば地下、地上を含めて空間を意味するであろう。現在までも上か下かの議論がなされていること自体に驚かされる。

この根強い議論の根源はどうやら「根之堅洲国」の表現にあるように思われる。「根」=「地下」の類推である。

古事記では「根」の使い方は多様である。人名にも使われる。例えば神大根命など、「山稜の端」を表すと解釈した。山陵を「木」と見做した端の「根」の部分である。地下に坐す命では決してない。神だから地上か?・・・。
 
根之(山稜の端)|堅(堅い)|洲(州)

…「山稜の端が堅い州」の国と解釈される。深い谷を流れる川が合流して集まるところ、即ち「州」の地形なのだが、それが山となっているところを表しているとのである。

「堅」には甲冑の意味もある。高く盛り上がった州を表現していると思われる。黄泉国の別表現であろう。漢語「黄泉(コウセン)=死の世界」の地形を示している。
 
<黄泉国>
ここまで述べて、手が止まる・・・「黄泉」には「ヨミ」の訓はあり得ない。倭語「ヨミ」にその意味するところを当てた文字「黄泉」である。だが、単に強引に当てただけであろうか?…何かを示していないのか?・・・。

一癖も二癖もある古事記編者、やっていました。「黃」「泉」それらの文字は「堅洲」にピッタリ重なるのである。訓としては成り立たないが、字形は地形象形そのものであった。

「比婆之山」が黄泉国であることは既に承知のことではあったが、これほどまでに重ねて表記しているとは、なかなか気付けなかった、それが正直な感想である。

古事記が物語る場面ごとに異なる表記で同一場所を述べる。そしてそれはその場所の異なる視点からの表現を意味している。場所の地形の一側面を示し、空間としての認識を高めようとしているのである。

ついでと言ってはなんだが、もう一つ黄泉国に関わる表現をみておこう。豫母都志許賣」である。伊邪那岐が黄泉国から逃げ帰る時に追いかけられた「黄泉国の魔女(醜女:シコメ)」と従来訳される女人である。詳細はこちらを参照願うが…、
 
<豫母都志許賣>
豫母(伸びやかな両腕で母が抱えるような地形)
都(集まる)|志(蛇行する川)|許(処)|賣(女)

…「伸びやかな両腕で母が抱えるような地形で蛇行する川が集まる処の女」と読み解ける。

孝霊天皇紀に登場する「夜麻登登母母曾毘賣命」に含まれる「母」の文字解釈が有効である。そしてこの文字列こそ黄泉国の全体と川が集まって州となる地形を表現していることが判る。

この地は「豫母(ヨモ)」と言われたことも読み取れる。以上が古事記が告げる「黄泉国」の詳細である。死者の世界であるが、実世界と何ら変わりのない空間を占めている場所なのである。

現実の国の狭間に存在し、日常には足を踏み入れることのない意識的に隔絶された場所と位置付けていると思われる。長くなったが「比良坂」の解釈に移ろう。
 
比良坂

これも既に紐解いて「比良」=「手のひら」とした。今一度その根拠を纏めてみる。「比良」の文字は、古事記中に計8回(毘良を含めると10回)登場する。黄泉比良坂 曾毘良・比良 比良夫貝 建比良鳥命 阿比良比賣がある。

は、荒くれる速須佐之男命に対して天照大御神が武装した時の様子を述べたもので、「曾毘良」=「曾(背)・比良(胸)」で胸の反対側、即ち背中を示すと解釈されている。間違うことない確かなものであろう。

「手のひら」と「手の甲」と表現される。「甲(羅)」は背中を示す。手と身体との形の類似性を見ても背に対してその内側の凹んだ形を表すものと思われる。「平たくて少し凹んだ様」である。「花びら」なども同じ象形かと思われる。
 
<黃泉比良坂・出雲國之伊賦夜坂>

平(ヒラ)と漢字表現されるが、決して平面的な…二次元的な…形状を表すのではない。空間として、三次元的に形を捉えているのである。

この空間としての認識は重要である。上記の黄泉国が上か下かと言う議論と同じく、二次元的な把握を行わないのが古事記であろう。

は、「手のひらを合わせた(夫)ような貝」と解釈できる。「夫」は「二つのものが寄り合わさる」象形と解釈した。

川の合流などで幾度か登場する。これも形として平面ではなく、手のひらの凹みのある形を示していると思われる。

はその応用問題ということになろう。建比良鳥命阿比良比賣については既述の図を参照願う。結論は…「比良坂」…、
 
手のひらの形をした坂

…となる。見る角度では「花びらのような坂」の方が適切かもしれない。山稜として実に特徴ある地形である。特徴ある坂ありきで、これに着目したからか、いや、事実としてこの坂で起こった出来事に基づく物語なのかは知る由もないが、出雲国から黄泉国に入るには最も適した坂には違いない。勿論現在も登山道があると記載されている。

北大の寺本さんは、「比良(傾斜)+坂(傾斜)」は重なり被る表現だから、「坂=境」の意味を示すと解釈されている。この着目は大変重要である。「坂」の中には、国(村)境に向かう坂がある。和語「峠」はその重要性から誕生したものであろう。


<阿難坂>
二次元的に捉えるのではなく上記のように三次元的に捉えると「傾斜+傾斜」のような重なった表現とはならない。「手のひら」が傾いている坂である。的に述べれば、そんな地形の坂と述べている。

この坂が黄泉国との「境」であることは、下記する別名「出雲国之伊賦夜坂」を記すことに依るのである。これは明解である。何故なら明解にすることが必要な坂だから、である。

では、黄泉比良坂ほどでなくても「境」を表す「坂」は古事記で何と記述されているのであろうか?…「酒」と「富」である。後日詳細を述べようと思うので、概略のみに留めるが、何故この文字が「境の坂」を表すのか?・・・。

当時、いや近世になるまで、旅人を迎える儀式(風習?)として「坂迎え・境迎え・酒迎え」があったと知られている。国(村)境の峠で外遊した旅人を迎える、「酒」が不可欠の儀式であったとのことである。「酒(サカ)」=「坂(サカ)」の洒落もあるかも、である。

この「酒」で出迎えることは、幼い応神天皇が謀反人忍熊王を征伐した後、角鹿で禊祓をして帰った時に神功皇后が盛大に酒宴を開いて出迎えたという説話で示されている。この説話も唐突に挿入された感じなのであるが、実は極めて重要な意味を示していたのである。

「富」=「宀+畐(酒樽)」である。家の中に酒樽がある裕福な状態を表す文字である。既に紐解いたように「宀(山麓)」とすると「富」=「山麓の境の坂」と読み取れる。「富」が古事記で多用される所以である。「境の坂」は重要なキーワードであろう。谷筋に沿う山麓の坂は、境(峠)を越えて向かい、戻るためには避けられない道であったと思われる。

黄泉比良坂は明らかに境を示す。ならば「酒」「富」を用いた方が適切?…これはあり得ない。この坂を越えた人々を迎えることはないからである。伊邪那岐命も速須佐之男命も黄泉国からの逃亡である。言い換えれば、迎える人は居なかった、とも言える。古事記は明解に物理的に「坂」と表記していると思われる。
 
出雲國之伊賦夜坂

伊邪那岐の出雲国脱出の際に告げられる「其所謂黃泉比良坂者、今謂出雲國之伊賦夜坂也」で出現する。「出雲國之伊賦夜坂」の解釈は上記したように殆ど見出だせない。植田さんの記述は真に貴重であろう。何故これほどまでに沈黙が続いているのか?・・・。

理由は明らかであろう。この「賦夜」の文字が現在の出雲、黄泉国の比定地では、全く矛盾の塊だからである。この「賦夜」と上記で述べた「伯伎」は異なる文字で同じ意味を表していると思われる。

この比定地をひっくり返して論文を書いても受理されることは皆無となる。論文は受理されなければ成果に繋がらず、そんな研究は何の役にも立たないと、されるからである。昨今海賊サイトで論文投稿、実績にすることがあるそうだが、殆ど無審査、いやぁ、便利なサイトである。研究者の倫理も地に落ちた、と言うべきか・・・。
 
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全くの余談だが、京大特別教授の本庶さん(山口宇部高出身)がノーベル賞を授与されたニュースがあった。遅すぎるくらいの授与だが、iPS細胞の山中さんが・・・私は一発で当てた感じだが、先生は膨大な基礎研究に基づく・・・らしきことを述べてられた。人(何とか委員会)が評価することだから様々であろうが、上記のことと重ねると、そんな悠長な研究は現在の日本の中で可能なのか?…と思う。上位者に媚び諂う風潮は単にスポーツ界だけではなかろう。いや、もっと凄まじい媚の世界が蔓延っているのでは?・・・教科書を信用するな!…本庶さんの言葉である。
 
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横道はそれくらいで・・・「賦夜」=「夜を与える」以外の解釈はあり得ない。ならば黄泉国は出雲の西にあることを示す。そもそも出雲国と伯伎国が東西逆の位置にあるのだから、出雲から見ればその二国の境は東にあることになる。「朝を与える」位置関係となろう。

だから「出雲國之伊賦夜坂」の位置には触れず、また文字解釈もせず、論考を加えると言う作業になってしまう。上図<黃泉比良坂・出雲國之伊賦夜坂>を参照願えば一目である。だが、これは到底受け入れられる配置ではない、のである。要するに論文にはならない結果が生じる。

さて、この問題は植田さん一人を掴まえて論じても始まらない。彼が行った論述に種々教えられたところを述べてみよう。

一つ目は、「其所謂黃泉比良坂者、今謂出雲國之伊賦夜坂也」に含まれる「今」の文字に注目されている。これから「物語」の部分と「語り」の部分に区別できるとして、「今」は「語り」に属する。時間軸としての区別である。確かにこの用法は多く古事記中に見られるし、「物語」の時と異なる時における表現と解釈されそうである。

ブログ主は既に論じたように時間軸とは捉えない。「今」の示すところは「古事記」を読む人々への投げかけと思われる。その目的は読者への理解を深めるためであり、読者達で共有された知識を用いる表記と考える。即ち、「黄泉比良坂」は今でも「黄泉比良坂」という実体を有しているが、側面として「出雲國之伊賦夜坂」と述べ、読者達にとって理解できる、それが何処の坂であるかを思い描けることなのである。
 
<黃泉比良坂・出雲國之伊賦夜坂の俯瞰図>
伊邪那岐が逃亡する際に坂に石を置いて道を塞ぐ行為が記述される。その時をもって黄泉比良坂から出雲国之伊賦夜坂に変わる、と論述される。

後に速須佐之男命が黄泉国から脱出する際にも「黄泉比良坂」が登場する。名前は変わっていないのである。それに関する論述は少々無理なようであるが・・・。

実に丁寧に古事記中の文字を扱われている。この伊邪那岐の逃亡中の表現「行」「来」「至」「到」「追到」の文字解釈はなるほどと思われる。

また引用された垂仁天皇紀の鵠を追いかける際の同様の表記にも着目されている。木国から高志国の和那美之水門までの行程であるが、ここでも鵠の追跡劇の舞台についての言及はない。

その中に「自尾張國傳以追科野國」の一文がある。尾張国から科野国へは「傳以追」と表現される。「伝って追う」何を伝って行くのであろうか?…通説の場所には伝って行くものが無い。従来の解釈で古事記の一文字一文字を解釈しようとすれば、様々な矛盾を感じる筈であろう。

基本的な論述の有り様、着目点等、若い頭脳で古事記を読む、そのことに大いに期待させられる。古事記学会から賞も貰っているとか、がしかし、勇気を持って前に進むことが重要であろう。教科書を信用しないで・・・。

古事記は「上・中・下」の記述を好む。引用書の参考文献ではあるが、それを三層構造と記述されるそうである。残念ながら、これを三層と見るようでは古事記の伝えるところは読めない。「上」と「下」を「中」が媒介していると述べているのである。古事記の本当の凄さかもしれない。

「上:出雲」、「下:黄泉国」とすれば「中:黄泉比良坂と出雲国之伊賦夜坂」となろう。「中」には「上」と「下」の二つの側面が潜んでいる。この構造を理解しろと告げているのである。古事記を読んで最も感動させられた思考である。「蘇」=「古代の乳製品」・「蘇(ヨミガエ)る」である。既にブログの何処かで述べたが、これが意味するところは理解されるであろうか?・・・。

久々に関連する論考を引用させて頂いた。暇が取り柄の老いぼれのボケた頭で読み間違いなどあるかもしれないが、ご容赦を・・・。