2018年8月3日金曜日

品陀和氣命:丸邇之比布禮能意富美之女 〔241〕

品陀和氣命:丸邇之比布禮能意富美之女


引き続いて品陀和氣命(応神天皇)の娶りと御子の物語であるが、「丸邇」の所在地は現在の福岡県田川郡香春町柿下と比定した。古事記では若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の段で登場する「丸邇臣之祖日子國意祁都命」が初出となる。「丸邇」=「丸に近い」壹比韋の近隣にあるところと紐解いた。

垂仁天皇紀から始まった「丹」に関する記述は、丸邇一族がしっかり「独占生産販売」していたと伝えている。天皇家に対して丸邇一族の立ち位置は極めて特異であり、多くの人材を輩出して貢献した一族と言える。勿論、諸行無常、時と共に移り変わって行くのであるが…。

古事記原文…、

娶丸邇之比布禮能意富美之女名宮主矢河枝比賣、生御子、宇遲能和紀郎子、次妹八田若郎女、次女鳥王。三柱。又娶其矢河枝比賣之弟・袁那辨郎女、生御子、宇遲之若郎女。一柱。又娶咋俣長日子王之女・息長眞若中比賣、生御子、若沼毛二俣王。一柱。

丸邇の中心の地に居たと思われる登場人物の名前、既に一部は紐解いて来たが、ここで纏めて見直してみよう。また、幾度か述べた息長一族の比賣についても併せて見直すことにする。


丸邇之比布禮能意富美

「丸邇」の本拠地を「柿本」、現在の香春町柿下として紐解いて来たのだが、今一度その由来を述べてみると、御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の御子、天押帶日子命が祖となった地の一つに「柿本」と記される。その「柿本」の地名由来は…、


(愛宕山)山稜が作る[市]の字形の麓


<柿本=柿下>
…と紐解いた。「柿」=「木+市」=「山稜が市」尾根と山稜が作る地形が「市」(平坦な山頂)を模していると推測される。

大坂山ではなく愛宕山の麓なのである。そこが「丸邇」の本貫の地とも言える。

上記したように本来は「日子国」どっぷり大坂山の麓から出て愛宕山の麓に移ったのである。古事記は語らないが、この変遷は真に興味深いところでもある。

「丸邇」の天皇家に対する位置付けと共に変遷したようであり、そして現在の行政区分は、勿論日子国までが香春町柿下(大坂)となっている。1,300年という時が流れた現在、人為的もしくは地殻変動のような大規模な地形変化が無い限り、人々の佇まいは地形に依存していることが伺える。感動、である。

さて本題に入ると、「丸邇之比布禮能意富美」しっかり地名が絡む表記が詰め込まれている名前であろう。「柿本」中の「比布禮」は何処だろうか?…、


比(並べる)|布(布を敷いたような)|禮(山裾の高台)

…「並べて布を敷いたような山裾の高台」と解釈される。当時も今も柿本(下)の中心地と思われる。「禮」は「伊波禮」「牟禮」などで出現し、神(=山)を祭祀する山裾の高台と紐解いた。香春一ノ岳、英彦山が対象である。

「柿本」が祭祀する対象は「柿(市)」の形をした山、大坂山の少し西北にある三つの平坦な頂を持つ山(愛宕山)と思われる。この地の由来を知るすべを持たないが、修験の場であったのではなかろうか。比賣の名前に関連しているようである。

更に「能」が続いて「意富美」となる。この表記は後の「都夫良意富美」の二つである。「臣」のように捉えたくなるが、やはりこれは地形を表していると思われる。既に紐解いたように「意富」=「山麓の坂の地勢」、「美」=「谷間に広がる」すると…「意富美」は…、


山麓の坂が谷間に広がっているような地
 
<丸邇之比布禮と比賣>
…と読み解ける。

「丸邇にある並べて布を敷いたような山裾の高台で山麓の坂が谷間に広がっているように見える」ところに居たことを表しているのである。

更に「富」を詳しく解くと、山麓にある「境」の坂である。愛宕山の向こうは別の地と伝えている。比賣の居場所と併せて図に示す。

比布禮の中央部、並んだ台地の間である谷になったところが意富美の居た場所と推定される。実にきめ細やかな表記と思われる。

地形的な鮮やかさに欠けるが、場所としての重要性からしても古事記中のランドマークの一つとして数えられるであろう。その意図あっての念入りの命名かと思われる。


宮主矢河枝比賣・袁那辨郎女

その近隣で「矢河枝」が意味するところは何処であろうか?…「枝」=「木(山稜)+支(分ける)」として…、

矢(楔のように)|河(川)|枝(山稜を分ける)

…「楔のように川が山稜を分ける」ところと読み解ける。大坂山から延びた大きな山稜を分断しているように見える川がある。妹の名前が「袁那辨郎女」である…、


袁(ゆったり)|那(大きな)|辨(花弁のような)

…「ゆったりと大きく花弁のような地」の郎女と解釈される。分断された山稜の端の地形を示していると思われる。

「宮主」と付記されるのは「比布禮」に示されたように神(=山)を祭祀する場所でもあったことを示すものであろう。この地は愛宕信仰(後の命名になるが…)の中心の場所であったことを伝えていると推察される。全くの憶測になるが、全国に多数ある愛宕山、ひょっとするとこの地が本貫かもしれない。

「矢河枝比賣」は後の説話にも登場する。品陀和氣命との木幡村での出会いの場面であり、勿論后になる。木幡村は、上図の最下部にその一部が載っているところである。全て繋がるシナリオとなっていることに注目あれ・・・。

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ところで、この地は成務天皇紀で記載された「穗積臣等之祖建忍山垂根之女・名弟財郎女、生御子、和訶奴氣王」の弟財郎女と和訶奴氣王の居場所だったところである。本来ならこの和訶奴氣王が皇位を継承するのが自然なのであろうが、何故か、倭建命の御子、帶中日子命(仲哀天皇)が相続する。

忍山垂根の子孫については全く語られることはなく闇の中であるが、捻れた出来事があったのではなかろうか。「穂積」の文字もこれが最後で古事記の世界からは消滅する。応神天皇紀で既に置き換えられた状況にあったのではなかろうか・・・また、いつの日か考察を加えてみよう。

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誕生したのが「宇遲能和紀郎子、次妹八田若郎女、次女鳥王」妹の方は「宇遲之若郎女」とある。後の説話に登場する面々である。


宇遲能和紀郎子・宇遲之若郎女

「宇遲」が古事記に登場するのは初めてである。現存する地名との関連も含めて重要な文字であろう。

宇(山麓)|遲(治水する)

…「治水された山麓」示している。がしかし、上図を参照すると、かなり広範囲な場所を表す表現であり、何故今になって?…と思う節もある。おそらく「丸邇」の勢力範囲が大きくなったことを示すためであろう。上記したような母親の居場所の呼び名の変遷も深く関わっているようである。日子国という狭い範囲から出た「意祁都命」が丸邇臣之祖となって広げたところが「宇遲」となったと思われる。


<宇遲>
一方で、丸邇の中心地は現在の田川郡香春町である。「丸」=「内」は「壹比韋」を示すとして来た。現在の田川郡赤村内田山の内に属する場所である。

「丸に近い」が由来では到底済まないくらいに領域が広がったのである。日子→丸邇→宇遲の変化は、出世魚の表現であろう。

上記したごとく国・村境は歴史的変遷を経ていると思われるが、一時期この地に多くの人々参集していたことは間違いないところであろうか・・・。


和(丸い地形)|紀(畝ったところ)

…「丸い地形が畝ったところ」の郎子と読める。白の破線が谷の西側に該当する。この小高いところは後の説話にも登場する重要な地点でもある。

残りの御子についても求めた結果を図に示した。「八田」=「谷田」と読める。「女鳥」は鳥の象形として見做したものである。彼女たちも後の説話に登場する。居場所もそれなりに重要な意味を持つことになるようである。


咋俣長日子王之女・息長眞若中比賣

既に倭建命の娶り関連で述べたところである。「一妻」と不詳ながら息長の地に比定された御子から、実は極めて重要な系統が発生して行くのである。それに品陀和氣命が絡む。絡むどころか後に皇統が切れかかった時にこの系譜から天皇を迎えることになる。既出の図を再掲しながら述べてみる。


<倭健命:息長系譜>



倭建命が「一妻」を娶って誕生したのが息長田別王で、その子が杙俣長日子王である。杙=咋とされている。

その王の子等に「飯野眞黑比賣命、次息長眞若中比賣、次弟比賣」とあった。妻の出自は不詳であるが、御子達の居場所は見事に収まって行くのである。

そして「息長眞若中比賣」を品陀和氣命が娶ったと告げている。この天皇、倭国内の手薄なところに足を運んだ、ある意味全方位のお出向きである。大国倭国、ほぼ完了の時を迎えたと言えるであろう。

一人息子の「若沼毛二俣王」の在処は母親の近隣と思われるが、息長の地は決して広くはない。「沼」を頼りに旦波の中を巡ることにする。


若沼毛二俣王
 
<若沼毛二俣王>

「沼毛二俣」は何と解釈するか?…「毛」=「鱗のような」として…、


沼にある鱗のような地が二つに分かれている

…と読み取れる。当時地形との差異は知るすべもないが、山稜の末端を示すところが鱗のような平たくこんもりとした形で二つ並んでいるところが見出だせる。この特徴ある沼の形を表現したものと推測される。

息長の血統が拡散する切っ掛けとなる出来事であって天皇家の皇統維持に深く関わることになる。

それにしても、そんな重要な血筋が<一妻>からとは、些か引っ掛かるところではある。が、これ以上は闇の中で、致し方なし。

この御子から実は多数の祖が発生するのである。古事記原文では応神天皇紀の最後段に記載される。そこでは「若野毛二俣王」と記載される。また、後日に纏めて述べてみよう。