品陀和氣命:高木之日賣の御子
高木を言向和した天皇、先ずは娶りである。適齢の比賣三人、纏めて…十三人の御子が誕生したと伝えている。勿論全て高木に坐することになる。角鹿での和平交渉の成果であったと記されているようである。御子達の居場所は既に紐解いたが、品陀=伊奢という視点から改めて調べ直してみよう。
古事記原文…、
品陀和氣命、坐輕嶋之明宮、治天下也。此天皇、娶品陀眞若王之女三柱女王、一名高木之入日賣命、次中日賣命、次弟日賣命。(此女王等之父・品陀眞若王者、五百木之入日子命、娶尾張連之祖建伊那陀宿禰之女・志理都紀斗賣、生子者也。) 故、高木之入日賣之子、額田大中日子命、次大山守命、次伊奢之眞若命、次妹大原郎女、次高目郎女。五柱。中日賣命之御子、木之荒田郎女、次大雀命、次根鳥命。三柱。弟日賣命之御子、阿倍郎女、次阿具知能三腹郎女、次木之菟野郎女、次三野郎女。五柱。
品陀眞若王之女三柱女王
品陀眞若王の三姉妹を娶ったと記される。この王の出自が記載されていなかったと見え、注釈付きである。景行天皇の太子であった五百木之入日子命(母親は八坂之入日賣命)が尾張連之祖建伊那陀宿禰之女・志理都紀斗賣を娶って誕生したのが「品陀眞若王」と明かされる。
景行天皇には三人の太子が居て、その内一人、残りの二人は倭建命と若帶日子命(後の成務天皇)である。
倭建命が熊曾、出雲そして東方十二道へと自ら出向いて言向和したのだが、五百木之入日子命は高木に向かおうとしたのであろう。
その努力が報われる時が訪れたのである。品陀和氣命が一気に侵出することが可能となった。これが応神天皇紀の最初に記述される娶りの背景である。
では、早速に誕生した御子達の居場所を求めるのであるが、前記と少々ダブルのを恐れずに書き下してみよう。尚、五百木之入日子命が坐した場所等については<景行天皇>を参照願う。「品陀」と「伊奢」の紐解きを再掲する。
品陀=品(段差)|陀(崖)
…「段差のある崖」があるのは「高木」のみである。とりわけ石峰山からの大きな崖が目に止まる。ここが品陀と言われる由来であろう。「伊奢」は下記のように解釈した。
「奢」=「大+者」と分解できる。「大」=「大の形」=「平らな山頂の山」、「者」=「交差させ集めた木の枝+台」が字源とある。地形象形的には「者」=「稜線が交差したような麓の台地」と紐解ける。
伊(僅かに)|奢(稜線が交差する麓の台地)
…「僅かに平らな山頂からの稜線が交差したように見える麓の台地」と読み解ける。石峰山山頂の様子とその麓にある台地を示していると解読される。上図に示されている通りに山頂を含む尾根は半円を描くように曲がっており、稜線の交差を生み出している。実に「交差させて集めた」図柄であろう。
山頂が平坦で弓なりに曲がり、海に面する断崖のような地形、おそらくこの地以外の場所を求めることは困難であろう。これが「伊奢」の地である。明らかに「品陀」と「伊奢」は同じ場所を示していると判る。気持ち、品陀が山側で広い範囲を表しているような感じではあるが・・・。
もう少し踏み込むと、品陀眞若王は「伊奢」…とりわけ「伊奢沙」が海辺の豊かな地を意味する…の中心ではなく、山腹の辺鄙なところを意味しているようである。辛うじて入り込めた地だったのではなかろうか。品陀和氣命はその田舎を貰い受けたと推測される。だからこそ、下記するような凄まじいばかりの御子の誕生だったと伝えているのではなかろうか。
考えればこの戦略は見事であろう。「言向和」を基本として、先・住人と融和しながら統治へと向かうならば、いきなり首都は頂けない、ものであろう。未開の地(民意の高低も)に侵出する場合とそうでない場合、それを述べていると思われる。古事記編者達の表現能力と努力に敬意を評したい。
もう少し踏み込むと、品陀眞若王は「伊奢」…とりわけ「伊奢沙」が海辺の豊かな地を意味する…の中心ではなく、山腹の辺鄙なところを意味しているようである。辛うじて入り込めた地だったのではなかろうか。品陀和氣命はその田舎を貰い受けたと推測される。だからこそ、下記するような凄まじいばかりの御子の誕生だったと伝えているのではなかろうか。
考えればこの戦略は見事であろう。「言向和」を基本として、先・住人と融和しながら統治へと向かうならば、いきなり首都は頂けない、ものであろう。未開の地(民意の高低も)に侵出する場合とそうでない場合、それを述べていると思われる。古事記編者達の表現能力と努力に敬意を評したい。
伊奢之眞若命
上記で述べた場所「伊奢」が指し示すところであるが、前記の「伊奢沙和氣大神」との名前の交換の説話と関連しているのである。その神は「食」の神、気比神宮の主祭神である。「高木」は洞海湾の漁場に面した貴重なところであり、「伊奢」はその中央部である現在の北九州市若松区今光辺りを指していると思われる。
大山守命
後に跡目相続争いに登場する命である。何とも平凡な命名と読み飛ばされるところであるが、こんな時は結構な意味が含まれている。少々古事記を紐解いて来ると気付かされることではあるが、それが分かっても解読は一層難しいのも常である。
<大山守命>(拡大) |
難解なのが「守」で、「毛理」と置き換えて「区分けされた田の稲穂」のような意味と解釈できそうであるが、この地にはそんな場所はあり得ないであろう。
致し方なく「守」=「宀(山麓)+寸」に分解する。「寸」の解釈は既出の「寸」=「時の略字」と気付くと、「寸」=「蛇行する川」と紐解ける。
伊邪那岐の禊祓から生まれた神の名前(時量師神)の解釈に準じる。時は一様に進むのではなく、昼と夜とを繰り返す様と推測した。すると…「大山守命」は…、
大山(平坦な頂上を持つ山)|守(山麓の蛇行する川)|命
阿具知能三腹郎女
「阿具知能三腹」これは難解。頻出の「具」=「谷間の田」、「知」=「矢+口」と分解して「鏃」とすると「阿具知」は…、
阿(台地)|具(谷間の田)|知(鏃の地形)
<阿具知能三腹郎女> |
…「谷間に田がある鏃の形をした台地」と紐解ける。洞海湾の入口にある高台を表したものであろう。現在の同区古前辺り、岬ノ山と名付けられたところである。
初見では「具知」=「口」として同一の場所としたが、今思えば重ねた表現であるように思われる。「知」を使って地形象形しているのである。
更に「三腹」いろいろ思い巡って…「腹」の解釈がポイントとなろう。
地図をよく見ると、この台地は小さくはあるが、ふっくらと盛り上がった(凸状の)台地であり、三つの部分から成り立っているように見える。「三腹」は…、
三(三つの)|腹(ふっくらとした凸状の地形)
…と紐解ける。現在の北九州市若松区は住宅地としての開発が随分と進んでおり、地形を読み取るのに一苦労する場所である。微妙なことになると些か確定し辛くなるのも致し方ないようである。また様々な角度から紐解きを継続する必要性があるところと思われる。
額田大中日子命
額田とはどこかで目にしたような文字であるが…「額田」…、
額(尾根からの稜線が突き出たところ)|田
<阿倍郎女> |
…現在の同区宮丸辺りではなかろうか。場所は下図を参照願う。
阿倍郎女
「阿倍」の文字は大毘古命の息子、建沼河別命が祖となった地名で出現する。文字解釈は…、
阿(台地)|倍(離れて二つになる)
…「離れて二つになった台地」となって所々にある地形であろう。やはり「高木」に求めてみることにすると、同区和田町辺りの山稜が示す場所と推定される。
大原郎女
<高木の御子⑴>(拡大) |
原は腹でも上記とは些か異なる…、
大原=大|原(山腹)
…とすると、同区大池辺りと思われる。
現在の行政区分も「山腹」のみに位置しており、不思議な感じもするが見事に合致しているのである。現地名の由来など知るすべなしだが…。
高目郎女
「目」の解釈が全てであるが…、
高目=高(高い)|目(隙間)
狭い谷筋の高いところを示すのであろう。現在の同区百合野町辺り。正一位稲荷大明神の近隣である。上記四人の比賣の居場所を纏めて図<高木の御子①>に示した。
木之荒田郎女・木之菟野郎女
<高木の御子⑵>(拡大) |
「木国」とは記述しないことから、「木」が示すところは、この四つの木…五百木、高木、若木、沼名木…に囲まれた、四つの木に属さない場所と考える。頓田貯水池東側の地域ではなかろうか。
「菟野」の「菟」=「斗(柄杓)」として弥勒山の南西麓の窪んだところ、現地名の若松区畠田、また「荒田」=「起伏のある田」と読んで、同区頓田辺りと思われる。
この「◯◯木」に挟まれた地に、見事にスッポリと収まる命名なのである。
通説は、「木」を解釈しない、できない、である。日本書紀は「紀」、これでは「木国」になりそうである。「木」が山稜の形を表すことが読めなかった古事記解釈、それが全てである。幾度か断じて来たことではあるが・・・そうしない方が無難と考えた、悲しく情けない日本の歴史学であろう。
三野郎女
「三野」=「箕の地形」であろう。「三野国」類似するとして、現在の同区童子丸辺りと思われる。山稜の形、少々稜線の明確さに欠けるが、谷が浅いのは高木、若木の特徴でもある。
大雀命・根鳥命
「飛鳥」「鳥髪」は何とかその素性を突き止められたが、山容を模した表現とは、どうやら異なるパターンを用いているようである。
そこで・・・山容ではなく山麓を探すことにしたら・・・一応提案できそうな場所が見出だせたと思われる。
図を参照しながら眺めると、現在は多くの団地開発の対象となっているが、辛うじて元の地形、山稜が延びた高台であったことが伺える。現地名は北九州市若松区二島・東二島辺りである。
大雀命(後の仁徳天皇)の「雀」=「小+隹(鳥の象形)」とある。頭(図の白破線)が小さく、翼を広げた鳥の形と見做せるであろう。根鳥命も同様で、「根」=「山稜の端(根っ子)」が…かなり傷んでいるが…鳥の形を確認できる。二羽の鳥はこんなところに隠れていたようである。
仁徳天皇の出生の地が見つかったことで、彼が何故難波之高津宮に坐したのかを推測することができるようになった。更にその意味も含めて倭国成立の根幹に関わることに気付かされた。後日に述べる。
<高木と木>(拡大) |
纏めて地図上に示した…何と三姉妹が産みに産んだもので、高木はすっかり埋め尽くされた、ようである。
比賣が多いのだが、しっかりと養っていくだけの豊かな土地であったと伝えている。粟国、即ち高木の地名とも言える、その詳細である。
豊富な漁獲量、急勾配の斜面の開拓などを経て人々が寄集り繁栄する。
この流れは後代まで続いたであろう。そんな推移も知りたいところであるが…。古事記は登場人物の名前を通して天皇家の歴史を伝えようとしていることが明らかである。
通説に言及することは極力差し控えているが、古事記がそういう書物であることを読み解けていないこと、説話が無いと欠史とするのは実に勿体無いことである。繰り返しになるが、上記の「木之」は省略される。「木」の意味が解読されなければ、有っても無くてもどうでもいいことなのであろう。
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余談だが・・・倭健命が熊曾、出雲でその地の「建」から名前を受け取ったと同じく、「倭国連邦言向和国」への参加を意味していると思われる。ただ、上辺だけのこともあれば、時が経って変化することもあったのであろう。何と言っても決して武力での侵略・征服型の和平ではなく、極めて緩やかである。その緩やかさが自他国の人材、資源の消耗に至らなかったことが大切であろう
伊豫之二名嶋の四国では、五百木、若木、沼名木の三国への侵出は早期に行われたが高木は最も遅くになった。これも高木の豊かさに基づく結果であろう。その国にすれば「倭国連邦言向和国」への参加のメリットが感じられなかった…現在も未来も含めて変わらぬ祭り事なのではなかろうか。
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応神天皇紀最後の段で「根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王。二柱。又堅石王之子者、久奴王也」と記述される。
<伊和嶋王> |
伊和嶋は現在の道伯山(当時は島と推定、世界でも珍しい小ぶりな火山と言われる)と思われる。
伊(小ぶりな)|和(輪のような)|嶋
…後に黒崎城が置かれたり、当時も洞海湾を眺望する島であったろう。現地名は北九州市八幡西区屋敷である。
景行天皇の后、八坂之入日賣命の御子が高木を除く三つの「木」に散らばった。その内の一人である太子の五百木入日子命の後裔に当たることになる。洞海湾沿岸諸国への侵出を告げている。そしてこの湾を見渡せる地に子孫が入ったことはそれら諸国が天皇家に寄り添う体制が整ったと述べているのである。
付け足しのような記載であるが、言ってることは極めて重要なことである。いや、重要だからこそ蛇足のような記述をしたのではなかろうか。忖度、そのものであろう。
次の堅石王の出自は全く不詳である。根鳥命と併記されるのだから、応神天皇の御子の一人なのであろうが、唐突の登場である。と言うことで、上記の弟日賣の記述に欠落していた御子なのであろう。それを前提にこの親子の居場所を紐解いてみよう。が、何故欠落させたのか?…意味があるようにも思われるが・・・。
「堅石」の文字は「天之堅石」で登場する。これは文脈からしても間違いなく「石」と解釈できるものであった。では、高木にそんな場所があるのか?・・・これでは袋小路に入ってしまうだけであろう。
<堅石王・久奴王> |
とても歯が立ちそうにない「堅石」を紐解く…「堅」=「引き締まって形が変わらない」という意味と解説される。
「石」=「厂(崖下)+口(高台)」としてみると…「堅石」は…、
堅(引き締まって形が変わらない)|石(崖下の高台)
…と紐解ける。それらしきところを探すと、北九州市若松区二島・片山辺り、岩尾山の急斜面の山麓に延びた台地である。
現在は宅地開発が進んで地表の形態が大きく変わっている。古事記命名の「堅」ではないのだが・・・。
そこは根鳥命と木之菟野郎女に挟まれたところである。まだ残っていた。いや、凄まじいくらいの配置である。
その子に「久奴王」が居たと告げる。
久([く]の地形)|奴(野)|王
…「[く]の地形をした野」と読み解けるが、これは容易に見つけることができる。親の近隣、だが広い…現在は…海沿いの場所である。この地も開発が盛んであり、広大な団地が形成されている。辛うじて、実に際どく地形を見積もることができるようである。ともあれ、高木は埋まったのである。