『阿倍』は何処に?
「阿倍」は古事記に三度出現するのであるが、唐突な上に祖となる記述であって関連する情報に欠けているように感じられる。継体天皇紀になって漸く紐解きの手掛かりらしきものが登場した。そんなわけで纏めて記してみよう。
1. 建沼河別命、阿倍臣等之祖
故、若倭根子日子大毘毘命者、治天下也。其兄大毘古命之子、建沼河別命者、阿倍臣等之祖。
孝元天皇の御子である大毘毘命(後の開化天皇)の兄である大毘古命とその子の建沼河別命が相津で遭遇するという説話を残す。感動的な場面を蘇らせるところなのであるが、高志と相津の位置関係を示すものとしても重要な記述であった。が、更に「阿倍」の位置にも深く関わっていたのである。詳細は下記する。
阿倍の「阿」=「(奥まったところの)台地」と解釈して来た。雄略天皇の「阿岐豆野」、出雲に隣接するところの「阿多」など「阿」が多用されて地形を表現し、地名としていると紐解けることが判った。おそらく「阿倍」もその特徴を象形したものであろうが、これだけでは一般的過ぎて特定には至らない。
2. 阿倍郎女
弟日賣命之御子、阿倍郎女、次阿具知能三腹郎女、次木之菟野郎女、次三野郎女。
品陀和氣命(応神天皇)が高木之入日賣命の妹、弟日比賣を娶って誕生した御子に阿倍郎女が居た。この記述も場所の特定に関する情報は全く与えられていないようである。どうやら「阿倍」の表記は当時では間違えないようのない場所を示す表記であって過分の説明は不要と考えられていたと推測される。しかし、ここまでの古事記の記述では特定は不可と思わざるを得ない状況である。
3. 阿倍之波延比賣
又娶阿倍之波延比賣、生御子、若屋郎女、次都夫良郎女、次阿豆王。
袁本杼命(継体天皇)の娶りの中に「阿倍之波延比賣」が登場する。本人及び誕生した御子の名前に「阿倍」の場所を探るヒントが潜められていると思われる。
都夫良
「都夫良」は既出で安康天皇を亡き者にした目弱王が逃げ込んだ「都夫良意富美」が居たところと思われる。「都夫良」=「螺良:巻貝のような」と読み解き、現在の北九州市門司区畑、鹿喰峠辺りと推定した。
「阿倍」はその近隣にあると見て調べると、「大里桜ヶ丘」として開発され団地を形成しているところが浮かび上がって来た。
阿倍=阿(台地)|倍(離れて二つになる)
…台地が峠に向かう道によって遮られて二つに分かれた様子を示していると思われる。更に阿豆王の「阿豆」は…
阿豆=阿(台地)|豆(凹凸のある地面)
…とすると、もう一方の団地ではなく、分かれたところの現在地形を表しているようである。下図に関連する場所を示した。
図から分るように建沼河別命の「相津」の説話を載せ「阿倍」との位置関係を示している。東方十二道を経て複数の川で遮られた道奥石城国に達し、更にそれを渡って「相津」に至り、海路で高志国に向かった父親に遭遇する。周到な記述にまたまた驚き、である。
「波延」は美和山(竹和山:現足立山)から戸ノ上山に連なる山稜の端が延びたところであろう。「都久波」(筑波)も「竹(筑)の端」と解釈して間違いないものと思われる。関連する全ての記述が整合する表現である。
その他の史書に依れば阿倍仲麻呂、更には安倍晴明に繋がり、以後はよく知られた陰陽師として活躍するとのことである。出自は出雲の縁に居た一族であったと判った。